当時、いわゆる怪文書が「永田は財閥と結託していた証拠に、自邸の豪壮さ……」などと書いていたが、デマも愛嬌というべきだが、多数の知らぬ者は、やはりそうかと考えた。
前述の在郷軍人会の班旗の揮毫について、元来永田鉄山は、揮毫を嫌っていて、地位の向上とともに、各所から揮毫を依頼されることが多くなったが、常に「揮毫の依頼があったら、万年筆なら書きますと言ってくれ、それなら大概退却するだろう」と部下に言って笑っていた。
ところが、旅団長時代に快諾して書いたという事実があり、これが永田少将の揮毫の唯一のものと言われている。それは郷里、長野県諏訪郡の在郷軍人会玉川村分会第三班の班旗に、班名を書いたものである。
第三班では、今名声の高い永田少将に班名を書いてもらおうと、村長と在郷軍人会分会長の紹介状をもらって、班長、田中今朝次氏が昭和九年一月十四日、班旗を携えて永田少将の自邸を訪ねた。
永田少将が揮毫をしないという事を聞いていた、田中氏は必死にお願いした。田中の熱情溢れる口上に耳をじっと傾けていた永田少将は、広げた旗を見ながら、次のように言った。
「これは立派な旗だ……わしは今日満五十歳になるが、人から揮毫を頼まれても絶対に書かない決心で来ました、ちょうど今満五十歳になったから今までの決心は取り消してもよい。その第一号に軍人の旗を持って来られたことを非常に喜ぶ。がしかし僕の筆は一流あるからこのまま将来まで残るものを染めてよろしいかどうか自信がないから、今年一年だけ手習いする期間を猶予してもらいたい」。
その後、一年も待たずに、その年の五月十七日、早くも書けたとの通知を受け取った田中氏は、十八日、永田少将の自邸を訪れた。
永田少将は「十四日に明治神宮に遥拝して筆をとりました。お受け取り下さい」と言って、「帝国在郷軍人会玉川村分会第三班 永田鉄山書」と書いた旗を出し、「何事も国家のためだ、国家のためにいよいよ御健闘下さるようにお伝えください」と付け加えて、田中氏に渡した。
田中氏は、感激の極みだった。これが永田鉄山の唯一の揮毫のいきさつである。
ところで、永田鉄山の趣味は、多忙な職務で、没頭する事は無かったが、社会学の研究に興味があり、書物も読み、研鑽し、各専門家の意見も聴いたりした。
また、幼少の頃から禅門を叩いてその道に精進した。そのほか、囲碁は、最も好んだ趣味で、若年の頃から暇な時に碁を打った。陸軍大学校在学中に、そのために処分を受けたほどだった。
さらに、謡曲という古典的な趣味もあり、多忙の最中にも、公務の余暇に、その会に出席していた。謡は上手とは言えなかったが、永田独特の特徴を持った謡い振りだった。節廻しが誠に確実で、謡曲本に記されている符号の形そのままの謡い方で、それが永田鉄山の性格をそっくり現していた。
永田鉄山は、頼まれても揮毫を断り、筆を持つことを嫌ったが、その字は、全く、実印不要の字だと冷やかされる程、明瞭で、あいまいな字は無く、真似のできないものだった。
酒と煙草は、何といっても永田鉄山の嗜好の第一番であった。若い時から大の煙草好きで、指先を黄色にして、絶え間なく煙を吹かしていた。友人たちはニコチン中毒にかからねばいいがと心配したほどだった。
酒も大好きで、青年の頃から相当飲んだ。だが、どれ程飲んでも、飲まれることは絶対になかったという。酔うと、「鴨緑江節」を歌ったが、恐らく、唄はこれよりほかは知らなかったと思われる。普通は酔えば気が大きくなり、大声になるのだが、永田鉄山は酔うに従って、ますます小声になったという。
また若い頃から、永田鉄山は植木に興味があり、寸暇を得ては、庭に出て植木いじりに余念がなかった。永田が中、少尉の頃、私宅を訪ねた友人が、あまりにも庭の植木がキレイなのに驚いて、「庭木屋でも出入りさしているのかね」と尋ねたところ、永田は「植木屋さんは、ここにいるよ」と自らを指して笑ったという。
植木が好きという事から、永田鉄山の性格は、自然を愛し、凡帳面であったということが言えるが、それにしても、幅の広い多趣味には驚かされる。
さて、昭和九年一月荒木陸軍大臣が病気を理由に辞任し、教育総監・林銑十郎大将が陸軍大臣に就任した。また、教育総監には、軍事参議官・真崎甚三郎大将が就任した。
「二・二六事件・第一巻」(松本清張・文藝春秋)によると、荒木陸軍大臣は、自分の後任として、真崎大将を陸軍大臣に推薦したが、閑院宮参謀総長が反対した。それで、荒木大将と林大将の間で取り決め、真崎大将を教育総監に推薦し、閑院宮参謀総長もこれは了承した。
この当時、真崎大将と永田少将は個人的には依然親交があった。永田少将が軍務局長になる昭和九年三月頃まで、教育総監・真崎大将は永田少将を中核にした陸軍部内の結束を考えていた。
二月になり、林陸軍大臣は永田少将を軍務局長にする事に決めた。この案に、荒木貞夫大将は猛反対したが、林陸軍大臣と協調していた教育総監・真崎大将は、永田少将の軍務局長登用に同意した。
前述の在郷軍人会の班旗の揮毫について、元来永田鉄山は、揮毫を嫌っていて、地位の向上とともに、各所から揮毫を依頼されることが多くなったが、常に「揮毫の依頼があったら、万年筆なら書きますと言ってくれ、それなら大概退却するだろう」と部下に言って笑っていた。
ところが、旅団長時代に快諾して書いたという事実があり、これが永田少将の揮毫の唯一のものと言われている。それは郷里、長野県諏訪郡の在郷軍人会玉川村分会第三班の班旗に、班名を書いたものである。
第三班では、今名声の高い永田少将に班名を書いてもらおうと、村長と在郷軍人会分会長の紹介状をもらって、班長、田中今朝次氏が昭和九年一月十四日、班旗を携えて永田少将の自邸を訪ねた。
永田少将が揮毫をしないという事を聞いていた、田中氏は必死にお願いした。田中の熱情溢れる口上に耳をじっと傾けていた永田少将は、広げた旗を見ながら、次のように言った。
「これは立派な旗だ……わしは今日満五十歳になるが、人から揮毫を頼まれても絶対に書かない決心で来ました、ちょうど今満五十歳になったから今までの決心は取り消してもよい。その第一号に軍人の旗を持って来られたことを非常に喜ぶ。がしかし僕の筆は一流あるからこのまま将来まで残るものを染めてよろしいかどうか自信がないから、今年一年だけ手習いする期間を猶予してもらいたい」。
その後、一年も待たずに、その年の五月十七日、早くも書けたとの通知を受け取った田中氏は、十八日、永田少将の自邸を訪れた。
永田少将は「十四日に明治神宮に遥拝して筆をとりました。お受け取り下さい」と言って、「帝国在郷軍人会玉川村分会第三班 永田鉄山書」と書いた旗を出し、「何事も国家のためだ、国家のためにいよいよ御健闘下さるようにお伝えください」と付け加えて、田中氏に渡した。
田中氏は、感激の極みだった。これが永田鉄山の唯一の揮毫のいきさつである。
ところで、永田鉄山の趣味は、多忙な職務で、没頭する事は無かったが、社会学の研究に興味があり、書物も読み、研鑽し、各専門家の意見も聴いたりした。
また、幼少の頃から禅門を叩いてその道に精進した。そのほか、囲碁は、最も好んだ趣味で、若年の頃から暇な時に碁を打った。陸軍大学校在学中に、そのために処分を受けたほどだった。
さらに、謡曲という古典的な趣味もあり、多忙の最中にも、公務の余暇に、その会に出席していた。謡は上手とは言えなかったが、永田独特の特徴を持った謡い振りだった。節廻しが誠に確実で、謡曲本に記されている符号の形そのままの謡い方で、それが永田鉄山の性格をそっくり現していた。
永田鉄山は、頼まれても揮毫を断り、筆を持つことを嫌ったが、その字は、全く、実印不要の字だと冷やかされる程、明瞭で、あいまいな字は無く、真似のできないものだった。
酒と煙草は、何といっても永田鉄山の嗜好の第一番であった。若い時から大の煙草好きで、指先を黄色にして、絶え間なく煙を吹かしていた。友人たちはニコチン中毒にかからねばいいがと心配したほどだった。
酒も大好きで、青年の頃から相当飲んだ。だが、どれ程飲んでも、飲まれることは絶対になかったという。酔うと、「鴨緑江節」を歌ったが、恐らく、唄はこれよりほかは知らなかったと思われる。普通は酔えば気が大きくなり、大声になるのだが、永田鉄山は酔うに従って、ますます小声になったという。
また若い頃から、永田鉄山は植木に興味があり、寸暇を得ては、庭に出て植木いじりに余念がなかった。永田が中、少尉の頃、私宅を訪ねた友人が、あまりにも庭の植木がキレイなのに驚いて、「庭木屋でも出入りさしているのかね」と尋ねたところ、永田は「植木屋さんは、ここにいるよ」と自らを指して笑ったという。
植木が好きという事から、永田鉄山の性格は、自然を愛し、凡帳面であったということが言えるが、それにしても、幅の広い多趣味には驚かされる。
さて、昭和九年一月荒木陸軍大臣が病気を理由に辞任し、教育総監・林銑十郎大将が陸軍大臣に就任した。また、教育総監には、軍事参議官・真崎甚三郎大将が就任した。
「二・二六事件・第一巻」(松本清張・文藝春秋)によると、荒木陸軍大臣は、自分の後任として、真崎大将を陸軍大臣に推薦したが、閑院宮参謀総長が反対した。それで、荒木大将と林大将の間で取り決め、真崎大将を教育総監に推薦し、閑院宮参謀総長もこれは了承した。
この当時、真崎大将と永田少将は個人的には依然親交があった。永田少将が軍務局長になる昭和九年三月頃まで、教育総監・真崎大将は永田少将を中核にした陸軍部内の結束を考えていた。
二月になり、林陸軍大臣は永田少将を軍務局長にする事に決めた。この案に、荒木貞夫大将は猛反対したが、林陸軍大臣と協調していた教育総監・真崎大将は、永田少将の軍務局長登用に同意した。