陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

531.永田鉄山陸軍中将(31)当時、真崎大将と永田少将は個人的には依然親交があった

2016年05月27日 | 永田鉄山陸軍中将
 当時、いわゆる怪文書が「永田は財閥と結託していた証拠に、自邸の豪壮さ……」などと書いていたが、デマも愛嬌というべきだが、多数の知らぬ者は、やはりそうかと考えた。

 前述の在郷軍人会の班旗の揮毫について、元来永田鉄山は、揮毫を嫌っていて、地位の向上とともに、各所から揮毫を依頼されることが多くなったが、常に「揮毫の依頼があったら、万年筆なら書きますと言ってくれ、それなら大概退却するだろう」と部下に言って笑っていた。

 ところが、旅団長時代に快諾して書いたという事実があり、これが永田少将の揮毫の唯一のものと言われている。それは郷里、長野県諏訪郡の在郷軍人会玉川村分会第三班の班旗に、班名を書いたものである。

 第三班では、今名声の高い永田少将に班名を書いてもらおうと、村長と在郷軍人会分会長の紹介状をもらって、班長、田中今朝次氏が昭和九年一月十四日、班旗を携えて永田少将の自邸を訪ねた。

 永田少将が揮毫をしないという事を聞いていた、田中氏は必死にお願いした。田中の熱情溢れる口上に耳をじっと傾けていた永田少将は、広げた旗を見ながら、次のように言った。

 「これは立派な旗だ……わしは今日満五十歳になるが、人から揮毫を頼まれても絶対に書かない決心で来ました、ちょうど今満五十歳になったから今までの決心は取り消してもよい。その第一号に軍人の旗を持って来られたことを非常に喜ぶ。がしかし僕の筆は一流あるからこのまま将来まで残るものを染めてよろしいかどうか自信がないから、今年一年だけ手習いする期間を猶予してもらいたい」。

 その後、一年も待たずに、その年の五月十七日、早くも書けたとの通知を受け取った田中氏は、十八日、永田少将の自邸を訪れた。

 永田少将は「十四日に明治神宮に遥拝して筆をとりました。お受け取り下さい」と言って、「帝国在郷軍人会玉川村分会第三班 永田鉄山書」と書いた旗を出し、「何事も国家のためだ、国家のためにいよいよ御健闘下さるようにお伝えください」と付け加えて、田中氏に渡した。

 田中氏は、感激の極みだった。これが永田鉄山の唯一の揮毫のいきさつである。

 ところで、永田鉄山の趣味は、多忙な職務で、没頭する事は無かったが、社会学の研究に興味があり、書物も読み、研鑽し、各専門家の意見も聴いたりした。

 また、幼少の頃から禅門を叩いてその道に精進した。そのほか、囲碁は、最も好んだ趣味で、若年の頃から暇な時に碁を打った。陸軍大学校在学中に、そのために処分を受けたほどだった。

 さらに、謡曲という古典的な趣味もあり、多忙の最中にも、公務の余暇に、その会に出席していた。謡は上手とは言えなかったが、永田独特の特徴を持った謡い振りだった。節廻しが誠に確実で、謡曲本に記されている符号の形そのままの謡い方で、それが永田鉄山の性格をそっくり現していた。

 永田鉄山は、頼まれても揮毫を断り、筆を持つことを嫌ったが、その字は、全く、実印不要の字だと冷やかされる程、明瞭で、あいまいな字は無く、真似のできないものだった。

 酒と煙草は、何といっても永田鉄山の嗜好の第一番であった。若い時から大の煙草好きで、指先を黄色にして、絶え間なく煙を吹かしていた。友人たちはニコチン中毒にかからねばいいがと心配したほどだった。

 酒も大好きで、青年の頃から相当飲んだ。だが、どれ程飲んでも、飲まれることは絶対になかったという。酔うと、「鴨緑江節」を歌ったが、恐らく、唄はこれよりほかは知らなかったと思われる。普通は酔えば気が大きくなり、大声になるのだが、永田鉄山は酔うに従って、ますます小声になったという。

 また若い頃から、永田鉄山は植木に興味があり、寸暇を得ては、庭に出て植木いじりに余念がなかった。永田が中、少尉の頃、私宅を訪ねた友人が、あまりにも庭の植木がキレイなのに驚いて、「庭木屋でも出入りさしているのかね」と尋ねたところ、永田は「植木屋さんは、ここにいるよ」と自らを指して笑ったという。

 植木が好きという事から、永田鉄山の性格は、自然を愛し、凡帳面であったということが言えるが、それにしても、幅の広い多趣味には驚かされる。

さて、昭和九年一月荒木陸軍大臣が病気を理由に辞任し、教育総監・林銑十郎大将が陸軍大臣に就任した。また、教育総監には、軍事参議官・真崎甚三郎大将が就任した。

 「二・二六事件・第一巻」(松本清張・文藝春秋)によると、荒木陸軍大臣は、自分の後任として、真崎大将を陸軍大臣に推薦したが、閑院宮参謀総長が反対した。それで、荒木大将と林大将の間で取り決め、真崎大将を教育総監に推薦し、閑院宮参謀総長もこれは了承した。

 この当時、真崎大将と永田少将は個人的には依然親交があった。永田少将が軍務局長になる昭和九年三月頃まで、教育総監・真崎大将は永田少将を中核にした陸軍部内の結束を考えていた。
 
 二月になり、林陸軍大臣は永田少将を軍務局長にする事に決めた。この案に、荒木貞夫大将は猛反対したが、林陸軍大臣と協調していた教育総監・真崎大将は、永田少将の軍務局長登用に同意した。





530.永田鉄山陸軍中将(30)次官がそんなに気に入らないのなら、代わられたらいいでしょう

2016年05月20日 | 永田鉄山陸軍中将
 永田さんが柳川次官のところへ行って話をしていると、なかなか通りにくそうで、とにかく柳川次官の方でも理屈が多く、屁理屈を言っている。永田さんも負けずに屁理屈を言っている。

 山下軍事課長が柳川次官のところへ行くと、すぐ通る。また、新聞班長・鈴木貞一大佐が行くとすぐ通ってしまう。実際、そうだった。

 私(有末少佐)は、永田さんと柳川さんとのこういう関係を見ていると、ああこれはなかなか難しいなと感じた。柳川さんは永田さんにはそういう状況であるし、林陸軍大臣に対してもしっくりしていなかった。

 私は柳川次官に、「本気で大臣閣下を御補佐下さい」と訴えた。すると柳川次官は「俺だってやっているぞ。荒木大臣の時とちっとも違わない」と言われた。

 そこで私は「荒木さんの時には、蚊が喰うのを、ウチワでパタパタやりながら、もういいじゃないかと思うまでお話になっておられた。その姿は見ていて楽しかったのです。しかし、林さんの時には、不動の姿勢でちょっと話をしてすぐ帰られる。次官、もう少し努めてやってください」とお話しした。

 すると柳川次官は「実は私は林大臣を人格的に承服、尊敬できないので、荒木閣下の時のようにいきかねるよ」と率直に言われた。

 それで私は柳川さんに「次官がそんなに気に入らないのなら、代わられたらいいでしょう」と言った。すると柳川さんが「いや、しかしね、真崎さんが、おれ、と言うからな」と言われた。それで結局八月まで次官をしていることになった。

 以上が、永田鉄山少将が軍務局長になった頃までの陸軍中央内部の実態について、当時、陸軍大臣秘書官だった有末精三少佐が証言した内容である。

 「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)によると、歩兵第一旅団長時代、永田少将は、一人で群馬県の川原温泉に滞在したことがあった。宿泊していた「敬業館」の主人の話では、次の様なエピソードがあった(要約・抜粋)。

 朝食が済むと永田鉄山少将は、毎日決まって、カンカン帽に浴衣がけ、懐に本を入れて、下の河原に出掛けた。河原の入り口に「河原公園」というのがあり、そこの親父が一風変わっており、河原へ下る入り口に柵を作っており、その柵を開けて下りる人に幾分かの茶代をもらうことにしていた。

 ところが永田少将は、その茶店の前を通っても、一言の挨拶も無く素通りしていた。ある日、その親父が、どうも怪しからぬ人だ、一つ今日は文句を言ってやろうと思った。

 この親父は多少洒落っ気のある男だったので、半紙を短冊型にして歌を書き、それを永田少将に、「お客様!御返歌を」と差し出した。その歌は次の通り。

 「日々にわが園見舞う君こそは 神と思ひて末頼むらん」。

 すると永田少将は、「俺はこういうことは余りうまくない。今日は駄目だから、明日まで待ってくれ」と言った。

 その翌日、やって来た永田少将は、茶店に腰をかけ、「親爺さん、紙を貸してくれ」と言って次のような歌を書き、「ほい来た」と親爺に差し出した。

 「非常時を乗り切らむ糧の魂と身を 鍛へまほしと君が園訪ひぬ 昭和八年菊月上浣 鉄山」。

 この歌を見た親父は、「どうせ大した人でもない、歌も、俺位なものだ」と思って木箱の引き出しにしまっておいた。

 ところが、後に、軍務局長惨殺事件が新聞で報道され、大見出しで「永田鉄山」とあるのを見て、どうも聞いたことのある名だと、そこで木箱の引出しを開けて、短冊の歌を見た。

 すると、「鉄山」と同じ字だった。それで、そんな偉い人だったのか、失礼な事をして申し訳なかったと思った。それからその親爺は、その永田少将の歌を台紙に貼り付けて、壁に掛け、朝夕冥福を祈った。

 また、当時永田少将の私宅に公用で出入りしていた人の話では、地位権勢名望飛ぶ鳥を落とすほどの境遇にありながら、客間の飾り付けがいかにも質素だった。床の間には年中変わらぬ一軸が掛けられており、身分相応な四季それぞれの軸物位は揃えたらいいのにと思われた。

 また、永田少将が唯一揮毫したという、在郷軍人会の班旗の揮毫を願いに永田邸を訪ねたという田中氏は、次のように述べている。

 「今をときめく将軍の御屋敷には、あまりにも質素だ、二階に座敷が三つ、階下に室が三つか、四つらしい、庭も狭くて往来に添っている、御屋敷を出て振り返れば、非常時の日本の今、傑材と讃えられる名将軍の邸とも思われぬ」

529.永田鉄山陸軍中将(29)あんな奴、大臣になっちゃって、俺は、もう知らん!

2016年05月13日 | 永田鉄山陸軍中将
 山岡さんは誠に立派な武人ではあるが、政治的なこの職務の任用については、一部部内では意外とされていた。この時、永田さんを軍務局長にしたら良かったのじゃないかという噂を耳にした。

 おそらく、小畑さんが山岡さんを推されたのではないかと思うのだが、山岡さんは直情怪行な立派な人だから、きれいな性格の荒木さんと、よく合う。

 しかも山下奉文大佐が軍事課長に出てきたのは、同県の高知県出身で山岡さんが使いやすいということもあったし、部内ではすこぶる好評だった。

 一番大きな問題は、荒木さんの一の乾分(こぶん)の小畑さんが軍務局長にならずに第三部長になり、山岡さんが軍務局長になった。

 それで実際は非常に大事な時ではあるし、いろいろ大きな手を打たねばならぬ時であるから、逸材の小畑さんが軍務局長になればよかった。

 しかし、小畑さんは荒木さんの真のブレーントラストとして、参謀本部から直接陸軍大臣官邸へ出入りして補佐していた。

 閑院宮が参謀総長になられたのは、荒木さんが陸軍大臣になられた後、満州事変勃発の後で、真崎甚三郎中将を台湾軍司令官から参謀次長に持って来た。

 荒木さんは、ああゆう人であるから、若い者とどんどん鷹揚に話をされる。真崎さんは真崎さんで西郷隆盛みたいな恰好をして、含蓄あるものの言い方をされるから若い者は親分のように慕う。

 真崎さんは若い者の意見を直ちに取り入れて、人事とか何とかにある程度動かれた。そのために、永田さんが出てくるまで、人事が偏っているという空気があったのは事実だが。

 むしろ、かつて参謀本部での永田第二部長と小畑第三部長の対立の方が問題だったが、これを真崎参謀次長は押さえてまとめきれず、結局、喧嘩両成敗で二人とも旅団長に出したのじゃないかと、穿った噂が飛んでいた。

 昭和七年八月、陸軍次官・小磯国昭中将が関東軍参謀長に転出、騎兵監・柳川平助中将が陸軍次官に抜擢された。

 九月五日に私(有末少佐)は陸軍大臣秘書官に任命された。当時憲兵司令官は秦真次中将で、憲兵情報というのが毎日秘書官室に届けられた。その中に宇垣一成大将攻撃に関するものが相当にあった。

 昭和九年一月二日に荒木陸軍大臣が御病気(急性肺炎)で、一月十九日大臣更迭で、林銑十郎教育総監と柳川陸軍次官と私は、小田急線で小田原の閑院宮邸へ向かった。

 小田急線は満員ではなかったが、近くの客に気兼ねしたのか、林大将と柳川中将はほとんど一言も話をされず、私は実に重苦しい気分でお伴した。

 閑院宮に会われると、林大将は真崎参謀次長を陸軍大臣の後任に推薦された。ところが、閑院宮は、突然大声で「君たちは私に真崎を押し付けるのか。私は真崎を次長に使ってよく知っている。林君、君やりたまえ」と言われた。

 林大将は「それでは真崎君を教育総監にお願いします」と返事をして、柳川中将も同意見で、閑院宮もそれには同意した。

 この十九日の閑院宮邸における会議の時の空気を、柳川中将から後で聞いた話によると、林さんのあの言い方には、どうも伏線があるような風であったらしいとのことだった。だが、私が隣の部屋で聞いたところでは、林さんは真崎さんを執拗に押しておられた。だが、柳川さんとしては、そういう風に感じたのだろう。

 このいきさつが一番、林さんと真崎さんの仲が悪くなってきた始まりじゃないかと思う。つまり事前に閑院宮の方に裏から根回しが行われたとの憶測があった。ライバルとして権力闘争の兆しがあったのではないか。

 こういう形で大臣が決まった時に、私は、私の前任の、荒木陸相専任秘書官・前田正実中佐と二人で寿司を食ったことがあった。その時、前田さんは一口も食べず、ハシで寿司を混ぜくり返して怒っていた。そして言った。「あんな奴、大臣になっちゃって、俺は、もう知らん!」。

 その頃は、陸軍大臣は代わっても、秘書官は代わらないのが通常だった。ところが、林さんが陸軍大臣になった時に、前田さんは代わってしまった。

 昭和九年三月に林陸軍大臣は永田さんを軍務局長に呼んだわけです。山岡さんは整備局長になった。柳川次官は真崎教育総監の要望もあり、留任となった。山下軍事課長も留任だった。
 
 永田さんが軍務局長になった時、永田軍務局長と柳川次官のとの間は、なんだかうまくいっていないと心配され、その片鱗が出ていた。







528.永田鉄山陸軍中将(28)陸軍省が横暴で、参謀本部は押さえつけられている感じがあった

2016年05月06日 | 永田鉄山陸軍中将
 その当時(昭和二年初頭)、参謀本部第一部(作戦)では、次の三人の課長が、荒木貞夫部長の隣の部屋に、三人とも同室の配置だった。

 作戦課(第二課)課長・小畑敏四郎(おばた・としろう)中佐(高知・陸士一六・陸大二三恩賜・ロシア大使館附武官・歩兵中佐・陸軍大学校兵学教官・参謀本部作戦課長・歩兵大佐・歩兵第一〇連隊長・陸軍大学校兵学教官・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第三部長・近衛歩兵第一旅団長・陸軍大学校幹事兼兵学教官・陸軍大学校長・中将・予備役・留守第一四師団長・国務大臣・従三位・勲一等瑞宝章)。

 要塞課(第三課)課長・河村恭輔(かわむら・きょうすけ)大佐(山口・陸士一五・砲工高一五・陸大二七・陸軍大学校兵学教官・砲兵中佐・参謀本部要塞課長・砲兵大佐・野戦砲第二二連隊長・少将・津軽要塞司令官・野戦重砲兵第四旅団長・陸軍重砲学校長・中将・第一六師団留守師団長・第一師団長・従三位・勲一等旭日大綬章)。

 演習課(第四課)課長・柳川平助(やながわ・へいすけ)大佐(佐賀・陸士一二・陸大二四恩賜・陸軍大学校兵学教官・北京陸軍大学教官・騎兵中佐・陸軍大学校兵学教官・騎兵大佐・騎兵第二〇連隊長・参謀本部演習課長・少将・騎兵第一旅団長・陸軍騎兵学校長・騎兵監・中将・陸軍次官・第一師団長・台湾軍司令官・予備役・第一〇軍司令官・興亜院総務長官・司法大臣・国務大臣・従二位・勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章)。

 陸士卒業の期と陸大卒業の期は、おおよそ、十期の差があるといわれている。河村大佐は陸士一五期、陸大二七期で、十二期の差である。柳川大佐も陸士一二期、陸大二四期恩賜で、十二期の差だ。

 だが、小畑中佐は陸士一六期、陸大二三期恩賜で七期の差でしかない。しかも陸大は恩賜である。小畑中佐は、陸士は河村大佐より一期、柳川大佐より四期も後輩だが、陸大は河村大佐より四期、柳川大佐より一期早く卒業している。若くして難関の陸大に合格しているのだ。

 なお、当時陸軍省整備局動員課長・永田鉄山中佐は、陸士一六期、陸大二三期次席で、小畑中佐と同じ七期の差である。ちなみに、陸大二三期の首席は、当時、参謀本部編制動員課長・梅津美治郎大佐(陸士一五期)だった。

 陸士一六期の同期生で最初に陸大二三期に合格し入学したのは、この永田中将、小畑中将と、藤岡萬蔵少将、谷実夫少将の四人である。なお、陸大二三期には、陸士一八期の酒井鎬次中将(恩賜)と稲葉四郎中将がいる。

 当時私(有末少佐)は第四課の庶務将校であった。柳川課長は、何とかして作戦課長だけには一室を与えたいといって、私に第四課の室割を考えて無理をして(四期も)後輩の小畑さんの為に独立した室を準備させた。

 御自分の課はしのんでも、作戦課長の小畑さんの仕事(構想)をしやすく、考えられていた程であった。しかも、一番古参の御自分と十五期の河村大佐と二人は同室にして、中佐の小畑さんを一人の単独の室で執務させられた。こんな美しい話があった。

 当時(大正末期)は、いわゆる太平時代であり、金を持っている陸軍省が横暴で、参謀本部は押さえつけられている感じがあった。

 永田さんが動員課長になって、東條さんが陸大教官から軍事課の高級課員になられた時、何かの話の折りに栄転だといって羨ましがった人がいた時、柳川課長は「統帥の大学教官から軍政の仕事に就くのを栄転というそういう時代になったことは誠に嘆かわしい」と嘆息された。

 柳川さんという人はこのように、よく筋を通す人だった。こういう人柄を買って荒木さんは、柳川さんを同期の小磯さんに代えて次官にされたのだろう。

 これは永田さんの関係ではないが、陸軍省と参謀本部の間にはいろいろと軋轢や不満もあり、それが後の派閥(?)の関係にも影響したのではなかろうか。

 例えば皇太子殿下に対する軍事の御前進講という軍事学に関する御教育、御養育係りというのは参謀本部の仕事だった。

 それを阿部信行少将(後の大将・首相)が総務部長から軍務局長に代わった時に一緒に持っていかれた。そういう問題が参謀本部、特に作戦系統で問題になって喧しいことがあった。阿部さん(陸士九・陸大一九恩賜)と、荒木さん(陸士九・陸大一九首席)は同期で、ライバル意識が相当にあった。

 当時荒木さんが第一部長、小畑さんが第二課長の時でも、いろいろな要求を出すが陸軍省がなかなか承知しない。山東出兵をやるにしても、陸軍省と参謀本部では出兵理論が違うのではないが、いわゆる統帥と政治の関係、政府の予算がものを言うので、参謀本部が圧迫されがちだった。

 私(有末少佐)は昭和七年九月十八日、満州の大隊長から陸軍大臣秘書官に転任した。満州事変後の昭和六年、十月事件の後に荒木貞夫中将が陸軍大臣になり、軍務局長には教育畑の山岡重厚少将を抜擢された。