陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

41.石川信吾海軍少将(1) 追いつめられてゆく政府首脳のあがきをつぶさに見てきた

2006年12月29日 | 石川信吾海軍少将
 戦時中、石川信吾は部下に「太平洋戦争は俺が始めたんだ」と驚くべき発言を自ら口にしたが、これが石川の生き方を象徴したものであった。

 石川信吾海軍少将は、自他共に認める、いわゆる政治将校であった。上司や陸軍にも思い切った直言をし、敵も多くつくった。だが、それらは石川の信念に基づいた発言であるから自ら修正をすることは生涯なかった。

 石川は岡敬純海軍中将を尊敬し、岡も石川の面倒を良くみたことは良く知られている。

 だが、半藤一利はその著書で太平洋戦争を開戦に導いたのは石川信吾海軍少将と岡敬純海軍中将であると主張している。

 石川は昭和35年に「真珠湾までの経緯~開戦の真相」(時事通信社)を著しているが、この本は石川の信念を現すように、当時の軍、政治の内幕を主観的ではあるが衣を着せることなく書き記している。

 当時の軍人の言動も取り上げているが、差しさわりのある部分は、さすがに軍人などの名前は「A大佐」というように頭文字だけにしている。

 その「まえがき」で石川は次のように述べている。

 「幸いに私は海軍軍人として、ものごこころついて以来、海軍奉職中を通じて日米問題を考えさせられていたし、開戦にいたるまでの日本にとって、最も苦悩に満ちた期間を、海軍省軍務局に勤務して身近にこれを体験するとともに、追いつめられてゆく政府首脳のあがきをつぶさに見てきたので、それらについての貴重な資料を提供する事は、私に残された義務でもあると思う。また、戦後、公にされた太平洋戦争に関する記事や書物には、戦争裁判の影響下にあったせいか、多くの誤りがあるし、当時の顕官、名士の「手記」「日記」と称するものには、時流に迎合したり、責任を転嫁しようとする記事も散見されるので、それらを訂正して、史実に誤りなきを記すのも、私に課せられた仕事の一つであると思う次第である。」

<石川信吾海軍少将プロフィル>

 明治27年1月1日生まれ。山口県出身。大正3年海軍兵学校卒(42期)。砲術学校高等科卒。

 昭和2年海軍大学校(甲種・25期)卒。海軍艦政本部部員。海軍軍令部参謀。

 昭和9年艦隊参謀。昭和11年蘭印、欧米各国視察。11月海軍大佐。昭和12年、特務艦「知床」艦長、戦艦「厳島」艦長。

 昭和13年青島海軍特務部長。昭和14年11月興亜院政務部第一課長。昭和15年海軍省軍務局第二課長。

 昭和17年6月南西方面艦隊参謀副長。昭和17年11月  海軍少将。

 昭和18年 1月第23航空戦隊司令官。昭和18年11月  軍需省総動員局総務部長。

 昭和19年11月運輸本部長兼大本営戦力補給部長。元海軍少将。1964年(昭和39年)死去。


 石川信吾著「真珠湾までの経緯~開戦の真相」(時事通信社)によると、昭和6年の満州事変勃発後、昭和8年1月28日、上海事変が勃発した。

 石川中佐は当時海軍軍令部で軍備担当の主任参謀をつとめていた。戦火が上海まで及んだと言う事は日米関係に容易ならない事態が発生する可能性があると思いこれに備える準備が必要と考えた。

 当時の海軍の焦眉の急と考えられたのは弾丸問題であった。信じられない事だが、当時の主力艦用の弾丸は第一次世界大戦当時の旧式なものであり、これがアメリカの近代艦に命中したとしてもその装甲板には猫が爪でひっかいたていどの傷しかつけられぬしろものであった。

 つまり日本海軍は実戦に役立つ大口径の弾丸は一発もなかったのである。

 もっとも当時は丸一式徹甲弾という強力な弾丸が完成、試射もパスしていた。この弾丸はアメリカのいかなる戦艦の装甲板もらくらくと打ち抜く威力を備えていた。

 しかし、旧式弾丸とこの新式弾丸の入れ替えが予算の関係で出来ていなかった。

 また新たに建造された巡洋艦や駆逐艦は予算不足のため、多くは弾丸なしのままで所属部隊へ配置されていた。これらは士気に響くので当事者以外には極秘にされていた。



40.遠藤三郎陸軍中将(10) 義父は、お酒もタバコもやらず、書くのと読むのが大好きで

2006年12月22日 | 遠藤三郎陸軍中将
 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、昭和20年4月12日、遠藤航空兵器総局長官は航空部隊の沖縄に対する総攻撃の状況を視察するため、発進基地の九州に出掛けた。

 驚いた事は、陸海航空部隊の総指揮官である豊田連合艦隊司令長官が九州に出てきていない事、沖縄作戦に参加している陸軍航空は僅かに菅原道大中将の第六航空軍のみで、あとは本土決戦の準備中である事を知り唖然とした。

 遠藤長官は憤りを感じ、帰路についた。給油のため大阪飛行場に着陸したところ、多数の新聞記者に取り囲まれ沖縄作戦に関し質問を受けた。

 遠藤長官は「一台の戦車でも上陸してしまえば手強い。数百千の戦車でも船の上にある間は無力である。故に上陸した戦車を叩くのは下の下策であり、船上に叩くのは上策である。しかし船はどこに来るか分からないからその船の集まっている基地を叩くのが上の上策である」と暗に敵を沖縄に叩くべきであり、本土で決戦する事の誤りを含んで答えた。

 遠藤長官が東京に帰った時、その日の夕刊に大きな活字で「遠藤長官曰く」と前記の話が掲載されていた。

 遠藤長官は沖縄決戦の必要と本土決戦の不可を参謀総長に具申しようと参謀本部を訪ねたところ、河辺虎四郎参謀次長が「作戦計画を批判するとはひどいじゃないか」と抗議し、梅津参謀長からは「幕僚共がひどく激昂しているから、今後参謀本部に来る時は現住に憲兵の護衛を付けて来い」と注意を受けた。

 昭和20年8月15日、玉音放送があり、終戦となった。遠藤航空兵器総局長官に自決を迫る者もいたが、遠藤のもって生まれた反骨精神が、なにくそと反発し、自決にまでいやらなかった。

 昭和22年2月、遠藤は戦犯容疑で巣鴨拘置所に入所したが不起訴となり23年1月13日出所した。

 昭和22年春、遠藤は東京裁判の証人としてA級戦犯二十数名とともに巣鴨から市ヶ谷の東京裁判法廷まで数回バスに乗って通った。

 A級戦犯はほとんど遠藤と旧知の間柄であり「バスの中で旧知の人々と自由に話し合えたことは、何よりの楽しみでありました」と記している。

 その時の印象として遠藤は「東條大将は私に笑顔を向けられますがあまり話そうとはされず淋しそうであったこと、広田元総理は誰に向かっても笑みを含んでおられ悟り切った聖人か高僧の様に見えた事、重光元外相が控え室で『老子』などを開いて『戦犯われ関せず』といった態度で超然として居られたこと、畑元帥は誠に静かに平素と少しも変わっていなかったことなどが残っております」と記している。

 出所後、遠藤は埼玉県入間川町に入植、農業を始めた。28年追放解除になると片山哲元総理らと平和憲法擁護運動を始める。

 参議院戦にも出馬(落選)。元軍人団を組織して、五回の訪中を行っており、毛沢東首席、周恩来総理らと会見した。

 遠藤は毛沢東首席に愛刀、来国光作の日本刀を贈った。その返礼として毛沢東首席から自筆の書簡とともに斎白石の名画「竹」が遠藤に贈られた。

 「遠藤三郎日記~将軍の遺言」(毎日新聞社)によると、亡くなる前、遠藤は病院のベッドでも日記を書き続けた。二男の十三郎は「親父がんばれ、ギネスブックものだ、と励ました。もう書く事もなく、検温に来る看護婦の名前をつけ始めた。あれには、びっくりした」と記している。

 遠藤にとって日記を書く事は朝、顔を洗うのと同じくらい日常化していた。「これ書いてると、悪い事、できなくてな!」と、よく笑った。

 「義父は、お酒もタバコもやらず、書くのと読むのが大好きで」(長男の妻・ちかゑ)。

 昭和59年10月11日、合理性と反骨の精神を貫いた遠藤三郎はその生涯を閉じた。

(「遠藤三郎陸軍中将」は今回で終りです。次回からは、石川信吾海軍少将が始ります)

39.遠藤三郎陸軍中将(9) 遠藤長官と心中するつもりで大臣を引き受けたのだ

2006年12月15日 | 遠藤三郎陸軍中将
井上成美中将がローマの、遠藤がパリの駐在武官だった昭和3年、遠藤は井上のことを次のように日記に書いている。

「ローマ大使館参事官が『強制される事を嫌うのは人間の自然性なるが故に徴兵制をやめて志願制にしては』といっておった。井上海軍中佐は『金〈給料〉次第で出来ぬ事もなかろう』と返事した。予は大不賛成だ。崇高なる国民の義務を果たすのは、ひとつの名誉である。軍隊を職業化することは精神的な堕落である」

遠藤日記にも時代よりも一歩先を進むリベラリスト、井上の片鱗がのぞく。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、戦雲急を告げ、杉山元帥から「飼い殺しだ」と言われた航空士官学校校長の職も五ヶ月で別れを告げ、昭和18年5月、遠藤中将は陸軍航空本部と陸軍航空総監部の両方の総務部長を兼務し、さらに大本営幕僚も兼務する事になった。

遠藤中将が北海道、千島、樺太方面の視察に出発の挨拶に東條首相のところに出向くと、東條首相は「今君に死なれては困る。目下同方面の気象状況不良故、旅行を中止してはどうか」と注意された。遠藤は「昭和7年初頭上海事件以来遠藤を嫌っていた筈の東條大将の言としてはいがいなことでありました」と記している。

遠藤中将は東條大将の注意を無視して長島少佐を伴い、予定通り旅行を実施したが、8月8日帯広から占守島に向かう途中千島特有のガスに遭遇し八時間雲の中をさまよい危なく海の藻屑となるところであった。

機長が戦隊随一の優秀者平岩大尉であったので適切な操縦で帰還する事ができた。

昭和18年、東條首相は、従来の企画院と商工省を合体し、それに陸海軍航空の生産部門を統合した航空兵器総局を加え、これを軍需省として11月1日正式に発足させた。

軍需大臣は東條首相が兼務し、次官には岸信介、総動員局長に椎名悦三郎、航空兵器総局長官に遠藤三郎中将を発令した。

航空兵器総局長官・遠藤中将の配下で、遠藤長官が最も信頼を寄せていたのは総務局長の大西瀧治郎海軍中将であった。

昭和19年6月、大西中将は、海軍大臣嶋田繁太郎大将に意見具申書を提出した。要旨は人事の刷新により戦勢を挽回しようとするものであった。

嶋田大将は兼任の軍令部総長の職を末次大将に譲って、海軍次官には多田中将、軍令部次長には大西中将自身が就任するというものであった。

遠藤中将はこの血涙を以って綴られた意見書に感激を覚えた。特にこの難局に際し自ら求めて最も困難な職に就こうとするその勇気に打たれた。

だが遠藤が理解に苦しんだのは、その意見書に「遠藤中将を陸軍参謀次長にせよ」との条件がついていることだった。遠藤は自分にはその勇気も自信もなく、第一陸軍当局が承知するはずがなかった。

この意見書を見た当局は相当大きなショックを受けたらしく、遠藤と大西がクーデターでも計画しているのではないかと誤解し、両名を海外に出す事を決めた。

昭和19年7月18日、東条内閣は総辞職、22日には小磯内閣が誕生した。参謀総長は梅津美治郎陸軍大将、軍令部総長は及川古志郎海軍大将が就任した。

だが大西と遠藤の転任問題は消えておらず、遠藤中将は第四航空軍司令官、大西中将は第一航空艦隊司令長官として、共に比島に派遣される話が進められていた。

藤原軍需大臣から同時転任は総局の業務に支障を来たすとの抗議があり、先に大西海軍中将が先に転任し、遠藤中将の代わりに、陸軍次官であった富永恭次中将が第四航空軍司令官として比島に転任した。

富永中将は後に比島作戦がうまく行かず、第四航空軍も壊滅に近づいた時、部下の諸隊を残して軍司令部のみが台湾に退避した。陸軍当局は激怒して即時、富永中将の職を免じ、予備役にした。

そして陸軍当局は富永中将の後任に遠藤中将を充てようとしたが、当時の軍需大臣・吉田茂が「遠藤長官と心中するつもりで大臣を引き受けたのだ。遠藤を転任さすなら大臣を辞任する」と強硬に反対し、転任は中止された。

38.遠藤三郎陸軍中将(8) 内山中将は戦後も遠藤を「命の恩人」と言って感謝していた

2006年12月08日 | 遠藤三郎陸軍中将
 昭和15年、当時長沙付近で戦闘中であった第十一軍の第十三師団が陳誠将軍の指揮する十数個師団に囲まれ、全く孤立、苦戦に陥っているのを視察するため遠藤飛行団長は単身、部下の左高中尉機に搭乗し師団司令部に向かった。

 師団司令部から数百メートル北にある飛行場は、すでに迫撃砲弾が打ち込まれているのが見えたが、強行着陸した。司令部付近にも小銃弾が飛んできていた。

 師団長の内山英太郎中将は遠藤飛行団長の手を取り涙を浮べながら「どうか一兵一銃でもよいから空輸してもらいたい」と切願した。

 内山中将は遠藤少将より五期先輩の砲兵であり、共に仙台幼年学校を母校とする旧知の間柄であった。また遠藤少将がフランス国駐在の時、内山中将は私費留学でフランスに来て遠藤と親しく付き合った。

 内山中将の父は明治天皇の名侍従武官長と唱われた男爵内山大将であり、弟の勇次郎は遠藤少将と幼年学校の同期生であった。

 遠藤は基地に帰り、歩兵部隊と軽機関銃分隊のピストン輸送を行った。また部下の全戦隊に第十三師団周辺の敵を攻撃させた。敵はその後撤退を始めた。

 内山中将は戦後も遠藤を「命の恩人」と言って感謝していたが、昭和49年春に亡くなった。

 第十一軍司令官阿南大将も大変喜んだ。遠藤飛行団長が漢口を離れ南方に転進する時、阿南軍司令官は幕僚を伴い飛行場まで見送りに来て第三飛行団の功績を称えた。

 阿南大将は、遠藤少将に「軍に対し積極果敢と言わんよりは寧ろ軍を指導する気迫を以って協力された」と激賞し、その愛刀を贈った。なかなかの名刀で遠藤は戦後も保存して阿南大将の在りし日を偲んでいた。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、遠藤少将は昭和16年10月18日東條大将組閣の情報を聞いた。その時の感想を次のように述べている。

 「東條大将は能吏型ではありましたが、統帥者としてはとかくの問題が有った人で、旅団長時代には既に影が薄かったようにさえ聞いておりました。それが関東憲兵司令官の時、その能吏ぶりが高く評価され関東軍参謀長となり、さらに陸軍次官、航空本部長兼航空総監を経て陸軍大臣という具合にトントン拍子に栄進しましたが、私はそれさえ不思議に思っておりましたのに今度は総理大臣です。いくら人材払底とはいえ驚かざるを得ませんでした」

 続いて、次のようにも述べている。

 「私は東條大将を近衛首相の後継者に内奏した木戸内府の真意は恐らく当時主戦論の急先鋒と目されておった、武藤章軍務局長、富永恭次人事局長、田中信一作戦部長のいわゆる陸士二十五期(遠藤より一期上)の三羽烏であり、東條大将はこれ等の突き上げで主戦論を唱えているものの、総理になって戦争の全責任を自分の双肩に負わされる様になれば、戦争に踏み切る程太っ腹は持つまいとの判断にあったのではないかと思いました」

 また、遠藤少将は日中戦争が始って、陸軍は参謀総長に閑院元帥の宮を、海軍は軍令部総長に伏見元帥の宮を迎えた事を次のように批判している。

 「その真意は両宮殿下の指導を仰ぐのが目的ではなく、皇族を担いで統帥部の微力、無能をカムフラージュして権威を高めるにあったと思われます」と。

 昭和17年3月21日遠藤飛行団長はシンガポールの第三飛行集団参謀長から「貴官は陸軍航空士官学校幹事に4月1日発令される」と知らされた。

 遠藤少将は戦争の前途を思うとき、部下戦場に残してひとり内地に帰り、直接戦争と関係のない職場に転ずる事に不満があった。

 3月28日、遠藤は視察に来た参謀総長・杉山元元帥に対し、今回の転任に対し率直に苦情を述べた。

 ところが杉山元帥は「航空士官学校は中将若しくは大将の職である。君はそこで飼い殺しだ」と遠藤に言った。

 遠藤は直接戦争に関係ある職をと希望したが「既に上奏して御裁可ずみだから仕方がない」との返答だった。

 航空士官学校幹事を経て遠藤少将は昭和17年12月陸軍中将昇進と同時に陸軍航空士官学校校長を拝命した。

 「遠藤三郎日記~将軍の遺言」(毎日新聞社)によると、昭和18年、陸軍当局は「敵性語廃止」と英語教育禁止を命じる。

 だが校長の遠藤中将はその支持を無視する。「だって教官が失業するもんな」と後年よく周囲を笑わせた。

 遠藤は「時代の狂気」に押し流されない合理主義と反骨を併せ持っていたのだ。

 同じ時期海軍兵学校校長の井上成美中将は「自国語しか話せない海軍士官など、どこへ行っても通用せん」と英語を寧ろ奨励した事はよく知られている。

37.遠藤三郎陸軍中将(7) 杓子定規に規定を守るのと、日本の将軍と皇帝との約束のとどちらが大切か

2006年12月01日 | 遠藤三郎陸軍中将
 「遠藤三郎日記~将軍の遺言」(毎日新聞社)によると、昭和14年5月、日独伊三国軍事同盟締結をめぐる問題で、遠藤大佐は次のように記している。

 「ほとんど全課長が本同盟に賛成している中で参謀本部欧米課長・辰巳栄一大佐のみが『英国は腐っても鯛だ。軽視して敵に回すべきではない』とただ一人反対した。意見の適否は別にして、その勇気には敬意を表したい」。

 戦前、吉田茂大使のもとで2度目の英国駐在武官を務めた辰巳栄一氏(元陸軍中将)は、戦後、日独伊三国軍事同盟締結を振り返って次のように述べている。

 「とにかく陸軍主流はドイツ留学組ばかり。ドイツかぶれが多かった。国際情勢に暗いし、国力判断ができない。私は米国まわりで英国へ赴任した時、フォードの自動車工場を見学して、車がベルトコンベアでどんどんできるのにびっくりした。アレだけでも国力の差が痛いほどわかった」。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、昭和14年9月遠藤少将は関東軍参謀副長として再び満州の地を踏んだ。当時、航空総監であった東條中将が満州を訪れ、満軍に航空部隊の新設を要望した。

 東條中将は「航空の増強は目下の急務であるが日本国内では議会の承認を得ねばならず、それは困難であるから何の制約もない満州国で作ってもらいたい。飛行機も要員も日本から送るから経費だけ満州国で負担し、名目を満州国の航空部隊にして貰えば宜しい」と主張した。

 だが遠藤少将は「満州に軍隊を作る事は建国の理想に反するだけでなく、そんな姑息な手段で作った軍隊は軍隊としての価値がないから、必要ならば正々堂々と議会の協賛を得て皇軍にふさわしい日本軍を作るべきである」と反論した。

 両方とも相譲らず、とうとう物別れになった。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、関東軍参謀副長を半年勤めた後、昭和15年3月、遠藤少将は浜松飛行学校附となる。

 この頃、満州国皇帝(清朝最後の皇帝の薄儀)が日本を訪問した。遠藤少将は関東軍参謀副長の時日本大使館附武官を兼任していたので満州国皇帝とはしばしば面談の機会があった。

 皇帝は近々日本を訪問する予定であったので、遠藤少将は転任で満州を離れる時、日本で皇帝をお迎えする事を約束して別れた。

 ところがいよいよ来日されると、遠藤少将は浜松飛行学校附という身分では公式レセプションに出る資格もなく、お迎えする機会がなかった。

 たまたま皇帝が京都に移られる途中お召列車が沼津駅にも浜松駅にも短時間停車するとの情報を得た。

 遠藤少将は浜松駅のホームでお迎えしようと思ったが、多数の奉迎者の中で一寸敬礼しただけでは余りにもお粗末なので、無断で沼津駅まで先行して沼津駅でお召列車に同乗した。

 随行の御附武官、吉岡安直中将(陸士は遠藤より一期上の旧知)の案内で皇帝のワゴン車に入り、浜松駅まで皇帝とゆっくり話をして、離満の時の約束を果たした。

 ところが後にそれが問題になり、陸軍省と宮内省からクレームがついた。無資格者が許可なくでお召列車に乗ったことであり、それを阻止しなかった憲兵司令官と浜松駅長の責任問題に発展した。

 遠藤少将は「杓子定規に規定を守るのと、日本の将軍が皇帝との約束を守るのとどちらが大切か」と乱暴に似た理屈で申し開きをした。その結果事なきを得て済んだ。

 後に吉岡中将から聞いた話として、皇帝は吉岡中将に「日本を訪問して嬉しかったのは遠藤が約束を守って列車の中まで迎えに来てくれたことと、沿道の農民が田植えの手を休め笠を取り泥の手を振って歓迎してくれたことであった」と話したという。

 戦後、遠藤が昭和35年、四回目の中国訪問をした時、撫順の戦犯収容所慰問した。そこには薄儀氏と弟の薄傑氏が収容されていた。

 遠藤は二人に面会し収容所の配慮で三人で自由に話す事が出来たという。その後二人は釈放され、それぞれ職に就いたという。薄傑氏の夫人は侯爵嵯峨氏の令嬢で戦後夫婦は北京で暮らした。

 「日中十五年戦争と私」(日中書林)によると、昭和15年8月遠藤少将は第三飛行団長を拝命した。

 当時長沙付近で戦闘中であった第十一軍の第十三師団が陳誠将軍の指揮する十数個師団に囲まれ、全く孤立、苦戦に陥った。

 遠藤飛行団長は上京視察のために単身、部下の左高中尉機に搭乗し師団司令部に向かった。