陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

622.山本権兵衛海軍大将(2)加治屋町の貧乏士族の中から人材雲のごとく輩出した

2018年02月23日 | 山本権兵衛海軍大将
 <山本権兵衛(やまもと・ごんべえ/ごんのひょうえ)海軍大将プロフィル・続き>

 明治二十八年(四十三歳)三月少将、海軍省軍務局長。明治二十九年海軍大臣西郷従道大将から将来の海軍の国防方針についての諮問に研究答申。

 明治三十一年(四十六歳)五月中将。十一月第二次山縣有朋内閣の海軍大臣に就任。

 明治三十三年(四十八歳)十月伊藤博文内閣海軍大臣(留任)。明治三十四年六月桂太郎内閣海軍大臣(留任)。十二月勲一等旭日大綬章。明治三十五年一月日英同盟成立。二月男爵。

 明治三十七年(五十二歳)一月日露協商談判が進展せず、御前会議開催。桂太郎首相の急病で、山本権兵衛海相が内閣を代表する。二月十日ロシアに宣戦布告(日露戦争)。仁川、旅順方面でロシア艦隊を撃破。陸軍も鎮南浦に上陸。六月東郷平八郎とともに海軍大将に任ぜられる。

 明治三十八年(五十三歳)一月旅順開城。五月二十七日~二十八日日本海海戦でバルチック艦隊壊滅。八月ウラジオストックの残存ロシア艦隊撃破。アメリカ大統領の講和斡旋。九月講和条件反対の国民大会開催(日比谷公園)・焼打ち事件。九月五日講和条約調印。

 明治三十九年(五十四歳)一月桂太郎内閣総辞職、山本権兵衛大将も海相を免ぜられ軍事参議官に補される。四月日露戦争の功により功一級金鵄勲章、勲一等旭日桐花大綬章。

 明治四十年(五十五歳)三月伏見宮貞愛親王渡英に随行。五月フランス大統領・フェリエールに謁見、イギリス皇帝に拝謁。六月ドイツ皇帝に拝謁。七月再びイギリス皇帝に拝謁。アメリカに渡りニューヨークで記者会見。ルーズ・ベルト大統領と歓談。八月帰国。九月伯爵。

 大正二年(六十一歳)二月二十日第三次桂太郎内閣の後を継いで、内閣総理大臣に就任。山本内閣は行財政の整理を第一に着手。

 大正三年(六十二歳)一月シーメンス事件が起き、山本権兵衛首相と斎藤実海相は引責辞任、予備役。大正三年度の予算が成立せず、三月二十四日山本権兵衛内閣総辞職。第一次欧州大戦勃発、八月日本もドイツに宣戦布告。

 大正十一年(七十歳)十月海軍退役。

 大正十二年(七十一歳)八月加藤友三郎首相死去。山本権兵衛に後継内閣の大命降下。九月一日組閣準備中に関東大震災起こる。九月二日第二次山本権兵衛内閣成立。十二月二十七日第四十八回通常帝国議会開院式に行啓の摂政宮御召車に対し、難波大助の発砲事件(虎の門不敬事件)起こる。山本権兵衛内閣は引責総辞職の辞表提出。留任慰撫されるも重ねて辞表奉呈。

 大正十三年(七十二歳)一月七日付で依願免官となり、前官の礼遇を賜う。大正十五年十二月二十五日大正天皇崩御の時、特に許されて拝訣申し上ぐ。

 昭和三年(七十六歳)十一月大勲位菊花大綬章。昭和六年一月八十歳の高齢に付、特に宮中より御紋付銀盃、酒肴料、宮中杖を下賜さる。

 昭和八年(八十一歳)三月登喜子夫人逝去(七十四歳)。十二月八日山本権兵衛は危篤に陥り天皇から高橋侍医を差向けらる。同日午後十時五十二分死去。享年八十一歳。九日従一位、大勲位菊花章頸飾。二十二日青山斎場で海軍葬。

 「帝国陸海軍の総帥・日本のリーダー3」(ティビーエス・ブリタニカ・1983年7月)所収<山本権兵衛―日本海軍建設の父>(一色次郎)によると、山本権兵衛は、嘉永五年十月十五日(一八五二年十一月二十六日)、薩摩国鹿児島郡鹿児島加治屋町に生まれた。

 島津藩主の城下町鹿児島の一郭である。加治屋町は下級藩士の住居地だった。ところがこの加治屋町の貧乏士族の中から人材雲のごとく輩出した。次のような多士済々である。

 西郷隆盛(さいごう・たかもり・一八二八年生・鹿児島・薩摩藩士・藩主島津斉彬の側近になる・斉彬の急死で失脚・奄美大島に流される<三十歳>・復帰するが島津久光により沖永良部島に再び流罪・大久保利通らの尽力で復帰・禁門の変以降活躍・薩長同盟や王政復古に成功・江戸総攻撃前に勝海舟と交渉し中止<四十歳>・維新後参議・陸軍大将・近衛都督・陸軍元帥<四十四歳>・征韓論で敗れ下野・鹿児島に帰郷<四十五歳>・私学校教育・西南戦争で敗れ自刃<四十九歳>・正三位)。

 牧野信顕(まきの・のぶあき・一八六一年生・鹿児島・渡米・開成学校・東京大学中退・外務省入省・法制局参事官・黒田清隆首相秘書官・福井県知事・文部次官・イタリア公使・オーストリア公使・文部大臣・男爵・農商務大臣・枢密顧問官・外務大臣・貴族院勅選議員・パリ講和会議次席全権大使・子爵・宮内大臣・内大臣・伯爵・日本棋院初代総裁・従一位・旭日桐花大綬章)。

 大久保利通(おおくぼ・としみち・一八三〇年生・鹿児島・藩校造士館・藩記録所役助・徒目付・勘定方小頭格・御小納戸役・御小納戸頭取・久光側近・三藩盟約・明治新政府参議・大蔵卿・初代内務卿・西南戦争で政府軍を指揮・暗殺される・従一位・勲一等旭日大綬章・麻生太郎は玄孫)。




621.山本権兵衛海軍大将(1)権兵衛は少年時代から人一倍負けん気の強い子供であった

2018年02月16日 | 山本権兵衛海軍大将
 「帝国陸海軍の総帥・日本のリーダー3」(ティビーエス・ブリタニカ・1983年7月)所収<山本権兵衛―日本海軍建設の父>(一色次郎)によると、薩摩の士族の風習に生首とりの一番争いがあった。
 
 重罪人の処刑場を取り巻き、首が落ちるか早いか駆け寄って奪い合うのである。目玉をむき出して、まだ血の噴き出している首に手をのばすのは恐ろしいことで、大人でも尻込みする者が多かった。

 だが、権兵衛少年(山本権兵衛・幼名も権兵衛)は、恐れて尻込みすることなく、いつも、一番乗りだった。権兵衛の動きの早さにも、かなう者がいなかった。

 権兵衛は少年時代から人一倍負けん気の強い子供であった。また、何事にも所作が素早く気転が効いたと言われている。

 <山本権兵衛(やまもと・ごんべえ/ごんのひょうえ)海軍大将プロフィル>

 嘉永五年十月十五日(一八五二年十一月二十六日)生まれ。鹿児島県加治屋町出身。薩摩藩士・山本五百助盛眠(いおすけもりたか)の六男。母は常子。

 父の五百助は薩摩藩の右筆(書記)であり、同時槍術の師範役であり、剣道・馬術を極めた文武両道の達人だった。権兵衛が生まれた時、父・五百助は五十歳、後妻の母・常は三十六歳だった。

 権兵衛が生まれたとき、兄が五人(うち先妻の子が一人)、姉が五人(うち先妻の子が一人)だが、早死にした者が多く、兄が二人、姉が三人になっていた。六年後に弟が生まれる。
 
 文久三年(一八六三年)(十一歳)薩英戦争で砲弾運搬などの雑役を行う。藩の造士館や演武間に通う。家庭では読書、習字、武術の練習を行う。

 慶應元年(一八六五年)(十三歳)父・山本山本五百助盛眠が死去。

 慶應三年(一八六七年)(十五歳)薩摩藩の藩兵募集に十八歳と年齢を偽って応募、採用され、薩摩藩兵小銃第八番小隊に編入される。

 慶應四年(明治元年)(十六歳)一月次兄吉蔵とともに藩兵として鳥羽伏見の戦いに従軍。五月越後に転戦。九月奥羽庄内に進む。十一月帰京、その後帰郷。

 明治二年(十七歳)三月薩摩藩から派遣され東京に遊学。西郷隆盛の紹介で勝海舟の食客となり、海軍を志望。勝海舟から指導を受ける。昌平学と開成所で勉学。五月函館戦争に参加。九月海軍操練所(築地)に入所(薩摩藩推薦)。

 明治三年(十八歳)十一月海軍操練所が海軍兵学寮となる。幼年生徒十五名中に選抜された。後に幼年生徒は予科生徒となる。

 明治五年(二十歳)八月兵学寮本科生徒に進学。明治六年十月征韓問題で西郷隆盛ら職を辞して帰郷。山本権兵衛は直接西郷に会って今後の進路を見極めようと決意。

 明治七年(二十二歳)二月同僚の左近充隼人とともに帰郷し西郷に会う。西郷に海軍が重要と説得され、兵学寮に戻る。十一月海軍兵学寮(海兵二期)卒業、コルベット「筑波」乗組。海軍少尉補、コルベット「筑波」で練習航海(台湾~北米)。

 明治九年(二十四歳)九月海軍兵学校入校。十二月航務研究のためドイツ軍艦「ヴィネタ」号に乗組。明治十年六月少尉。十一月ドイツ軍艦「ライプチヒ」号乗組。明治十一年五月帰国。十二月津沢鹿助の三女、登喜子と結婚。海軍中尉。

 明治十三年(二十八歳)十月コルベット「竜驤」乗組。海軍卿・榎本武陽の非難・排斥運動起こる。山本権兵衛はこれに同調しなかった。

 明治十四年(二十九歳)七月コルベット「浅間」乗組。十月海軍兵学校勤務。十二月大尉。明治十五年三月砲術教授。明治十六年一月コルベット「浅間」副長。

 明治十八年(三十三歳)二月士官教育法取調委員。六月少佐。十一月防護巡洋艦「浪速」副長。イギリスに発注した艦で、引き取りに訪英。

 明治十九年(三十四歳)十月スループ「天城」艦長。京城で清国代表・袁世凱と会見。明治二十年七月海軍大臣伝令使。十月海軍次官・樺山資紀の欧米視察に随行。明治二十一年十月帰国。

 明治二十二年(三十七歳)四月中佐、巡洋艦「高雄」艦長心得。八月大佐、巡洋艦「高雄」艦長。明治二十三年二月、巡洋艦「高雄」は朝鮮に向かい撤桟事件で在鮮邦人の保護に当たる、三月帰国、天皇の御前で事件報告。九月防護巡洋艦「高千穂」艦長。

 明治二十四年(三十九歳)六月海軍大臣官房主事。明治二十五年十一月の第四回帝国議会で、人員整理問題で手腕を発揮、山形有朋、井上馨らに力量を認められた。明治二十七年八月一日日清戦争勃発。九月大本営海軍大臣副官を兼務。












620.桂太郎陸軍大将(40)桂首相は当時、純政党内閣主義には反対だった

2018年02月09日 | 桂太郎陸軍大将
 明治四十一年七月十四日第一次西園寺内閣は総辞職し、第二次桂太郎内閣が成立した。桂太郎首相は大蔵大臣も兼務した。

 桂首相が大蔵大臣を兼務したのは、桂首相が自ら戦後経営、特に財政管理には責任があると信じ、その責任を一身に負う覚悟からだった。

 桂首相が当時、緊急と考えたことは、財政の緊縮だった。九月一日、勅令をもって大博覧会を延期した。また、十月七日、馬券発売を禁止した。

 明治四十一年十二月二十二日、第二十五議会が開会された。桂首相は当時、純政党内閣主義には反対だった。不偏不党主義を掲げていたのだ。

 だが、現実には、それを貫くには困難な情勢だった。政友会は衆議院の過半数を占めており、その後も入党者が増して、一大政党となっていた。政友会を無視しては、政策は一つも実現できないことは桂首相も分っていた。

 一方、政友会は、桂内閣には批判的だった。桂首相の財政整理の方針については、政友会の幹部は大体認めてはいたが、党内の強硬反対論者の意見は抑え難かった。

 この情勢を分析した桂首相は、その政友会の勢力を利用して、政局を有利に展開する方法しかなかった。そこで、対政友会工作に取り掛かった。

 明治四十二年一月二十九日、桂首相は、政友会総裁・西園寺公望と会見した。この会見で、両者の意思はかなり疎通したと言われている。

 以後政友会の態度も軟化し、衆議院で予算案は通過し、貴族院でも衆議院の議決をそのまま可決した。第二十五議会は大きな波乱もなく済んだ。

 明治四十二年四月、朝鮮内で独立運動が活発になって来たのを憂慮した、桂太郎首相と小村壽太郎外相は、初代韓国統監・伊藤博文に「韓国併合以外に策はない」と相談した。伊藤博文は、これを了承した。

 桂首相は七月の内閣会議で韓国併合の基本方針を決定、大綱を発表した。

 その後枢密院議長に就任した伊藤博文は、十月二十六日、満州に行く途中、ハルピン駅で、安重根に狙撃され暗殺された。享年六十八歳だった。

 明治四十三年八月二十九日、「韓国併合二関スル条約」に基づいて大日本帝国は大韓帝国を併合した。

 明治四十四年一月十八日、大審院は、大逆事件の幸徳秋水ら二十四人が死刑判決(翌日十二人は無期懲役に減刑)を下した。

 この日、事件発生の責任を負って、桂太郎首相は、平田東助内相、大浦兼武農相と共に、待罪書(処分を待つ辞表)を拝呈した。だが、明治天皇の慰留を受けて、職に留まった。

 四月二十一日、桂太郎首相は、公爵を授けられた。
 
 当時の桂園時代と呼ばれた政権の流れを見てみると、明治三十四年六月第一次桂内閣、明治三十九年一月、第一次西園寺内閣、明治四十一年七月第二次桂内閣、明治四十四年八月第二次西園寺内閣、大正二年二月第三次桂内閣。

 桂園時代とは、官僚派と政友会の裏取引で政権交代がたらい回しに行われてきたことを、皮肉って名付けられた。

 第三次桂内閣は、政友会の尾崎行雄により、内閣弾劾の決議案が提出され、賛成多数により内閣不信任案が可決された。大正二年二月二十日、山本権兵衛内閣に引き継ぎ、六十二日の短命内閣を終えた。当時桂太郎は山縣有朋とも疎遠になっており、その協力も得られなかったのだ。

 退陣後、桂太郎は、病状が悪化したので、九月十二日三田の本邸に帰った。その後、病状はさらに悪化し、脳血栓も起こし、言葉が出なくなり、右半身はマヒしてしまった。

 十月七日には大正天皇侍医頭・西郷吉義が往診に来て、桂太郎は感激した。十月八日、山縣有朋が見舞いに来たが、握手をしただけで、言葉も出なかった。

 その翌日、大正二年十月十日、桂太郎は危篤状態に陥った。大正天皇は侍従・大炊御門家政(おおいのみかどけ・いえまさ)を訪問させ、桂に従一位を陞叙(しょうじょ=位階を授けること)し、菊花頸飾章を授与した。

 その日の午後十一時三十三分、桂太郎は息を引き取った。享年六十七歳だった。桂太郎は相次いだ難しい政局に立ち向かい、その過労で心身ともに衰弱に至った。

 だが、桂太郎は、その頭脳の明晰さと、幅広い人脈により、多大な政治的成果を上げてきた。内閣総理大臣の在職日数は二八八六日で、歴代一位である。

(今回で「桂太郎陸軍大将」は終わりです。次回からは「山本権兵衛海軍大将」が始まります)






619.桂太郎陸軍大将(39)(西園寺首相は)仏(桂太郎大将)を頼んで地獄(総辞職)に落ちた

2018年02月02日 | 桂太郎陸軍大将
 明治三十七年六月、参謀総長・大山巌大将は、満州軍総司令官に、参謀本部次長・児玉源太郎大将は満州軍総参謀長に就任した。

 後任には、枢密顧問官・山縣有朋元帥が参謀総長、大本営附・長岡外史(ながおか・がいし)少将(山口・陸士旧二期・陸大一期・海軍大学校教官・軍務局第二軍事課長・歩兵大佐・軍務局軍事課長・欧州出張・少将・歩兵第九旅団長・参謀本部次長・歩兵第二旅団長・軍務局長・中将・第一三師団長・第一六師団長・予備役・帝国飛行協会副会長・衆議院議員・飛行館長・国民飛行会会長・正三位・勲一等瑞宝章・功二級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィッシェ等)が参謀次長に就任した。

 対ロシア戦が順調に進んでくると、満州軍総司令官・大山大将と満州軍総参謀長・児玉大将は、皇太子(後の大正天皇)を出征、大総督として担ぎ出すことにした。

 その上で、満州軍総司令部ではなく、陸軍大総督府を満州に置き、対ロシア戦の作戦立案・指揮、軍の統括を全て陸軍大総督府で行うというのだ。

 これには、参謀総長・山縣元帥と陸軍大臣・寺内正毅(てらうち・まさたけ)中将(山口・長州藩士・戊辰戦争・五稜郭の戦い・維新後陸軍少尉・大尉・陸軍士官学校生徒指令副官・西南戦争出征・閑院宮載仁親王の随員としてフランス留学・公使館附武官・陸軍大臣官房副長・陸軍大臣秘書官・歩兵大佐・陸軍士官学校長・第一師団参謀長・参謀本部第一局長・大本営運輸通信部長官・少将・参謀本部第一局長事務取扱・男爵・功三級・欧州出張・歩兵第三旅団長・教育総監・中将・参謀本部次長・兼陸軍大学校校長事務取扱・陸軍大臣・大将・子爵・功一級・陸軍大臣兼韓国統監・伯爵・兼朝鮮総督・元帥・内閣総理大臣・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・ロシア帝国聖アレクサンドル・ネフスキー勲章等)が反対した。

 満州軍総司令部と、陸軍省・参謀本部の対立は、対ロシア戦の主導権争いに発展し、大問題となった。山縣元帥も、児玉大将の企てを非難するようになった。児玉大将は将官以下の人事権の掌握まで主張したのだ。

 思い余った山縣元帥は、とうとう桂太郎首相に、児玉大将を説得するように言った。桂首相自身も、山縣元帥や寺内中将の中央主導に同調していた。

 桂首相は児玉大将と会見し、「満州軍総司令官は天皇に直隷し特に指定せられたる数軍を統括し作戦の指揮に任ず」という満州軍総司令部勤務令第一項を示した。また、指揮下には、第一軍、第二軍、第三軍、独立第一〇師団が入ることを明示した。

 第三軍が行う最重要作戦である旅順攻撃も、満州軍総司令部にその作戦・指揮を満州軍総司令部に任すというのである。

 以上が、桂首相が出した妥協案だった。さすがに頑固な児玉大将も、陸軍大総督府構想を引き下げた。

 日露戦争は、旅順要塞攻撃、黄海海戦、遼陽会戦、奉天会戦など、日本軍は連戦連勝であった。さらに明治三十八年五月二十七日の日本海海戦では日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を全滅させた。

 これにより、さすがにロシア国内では国民に動揺が見られ、ヨーロッパ諸国でもロシアは講和すべきだという論調が見られ始めた。日本の桂首相も、適当な時期が来れば、講和に応じても良いと考えていた。

 明治三十八年八月十日、日露両国は、アメリカ大統領ルーズベルトの斡旋によって、アメリカのポーツマスで講和会議を開始した。

 講和会議は、八月二十六日妥結し、九月四日、日本全権・小村壽太郎とロシア全権・セルゲイ・Y・ウィッテの間で調印された。ポーツマス条約である。

 だが、この条約で、日本が賠償金を放棄したことから、日本国内では不満の国民が多く、特に、九月五日には、東京で小村外交を弾劾する国民集会が開かれ、警官と衝突、数万の群衆が首相官邸や政府高官の邸宅、国民新聞社などに押しかけ、交番や電車を焼き討ちする暴動が起きた。

 桂首相は、戒厳令をしき軍隊を出動させた。だが、その後も国民の不満は治まることなく、桂首相は、今後の政権運営は困難と見て、勇退を決意した。

 明治三十九年一月七日、第一次桂内閣は退陣し、第一次西園寺公望内閣が発足した。西園寺首相は、前内閣の方針を受け継いで、特に桂太郎前首相の意見をよく参考にして諸政策を行なった。

 だが、西園寺内閣は、閣僚の辞任が続くなど閣内の不統一、諸問題の不解決、山縣有朋元帥の不支持、桂太郎大将の内閣への不信などにより、困難を極めた。やがて波乱の内閣は幕を閉じることになる。

 明治四十一年一月十五日に桂太郎大将が山縣有朋元帥に宛てて出した書簡には、西園寺内閣について次のように記している。

 「財政ト云ヒ、外交ト内務ト云ヒ、一ツトシテ内閣全体ノ統一トテハ見ルモノ之ナク、此儘押シ移リ候トキハ、国家丸ハ何レ港ニ到着仕ルベキカ、其以テ掛念ノ至ニ御座候、……」。

 この文言は、桂大将の西園寺内閣に対する評価を端的に表現しており、西園寺内閣成立時の親近感は失せて、不信の念を表白させている。

 当時の思想・歴史・評論家である徳富蘇峰は、「(西園寺首相は)仏(桂太郎大将)を頼んで地獄(総辞職)に落ちた」と皮肉っており、「西園寺首相の、桂大将への大きな依存が、かえって政権を崩壊させたのである」と評している。