「フィリピン決戦」(村尾国士・学習研究社)によると、山下奉文(ともゆき)大将は明治十八年十一月十八日、高知県香美郡大杉村に生まれた。吉野川上流の山中の田舎村だった。
父の佐吉は近在で唯一の開業医だったが、初めから医者だったわけではない。高知県の師範学校を出て小学校教師をしていたが、医者のいない村の実情に一念発起し、医師をめざして転身した。
苦学の末検定試験に合格し、奉文が三歳の時、村で開業した。これだけでも意思と努力の人であることがうかがえるが、開業してからは、貧しい村人には治療費や薬代を請求しない「赤ひげ」的医者でもあった。
山下奉文大将の部下や家の下僕に対する人間的な優しさはよく知られているが、その根っこは父親にあるとみてよいだろう。
奉文は次男で、三歳上の兄、奉表(ともよし)がいる。奉表は苦学して、小学校の頃から常に首席を通した。医師の道を進み、海軍軍医学校を卒業し、後に海軍軍医少将になった。
奉文は秀才の兄に比べて、机に向うよりも山野を駆け回ることを好むガキ大将だったが、終生、兄奉表を敬愛してやまなかった。「兄のように学校の成績がよければ、俺も医者になっていた」と山下奉文は後によく話していた。
「昭和の名将と愚将」(半藤一利・保坂正康・文藝春秋)によると、山下奉文将軍(陸士一八・陸大二八恩賜)に人間的な魅力があったことは間違いない。
イギリスの作家で元陸軍大佐、アーサー・ジェイムス・バーガーは連合国軍として第二次世界大戦に従軍して戦ったが、「マレーの虎・山下奉文」(鳥山浩訳・サンケイ新聞社出版局)という本を出版している。
その本の中でアーサー・ジェイムス・バーガーは山下将軍について次のように記している。
「肥満していたが、非常に神経質であり、有能だったが、よく惑わされた。冷酷だったが潔癖なところがあった。多くの点でモダンだったが過去に束縛された。彼の心は偽善と責任回避を一切憎んだ。そして軍人稼業に関する限り、偉大な現実主義と判断を示した」
「時折、山下は政治的冒険に忙殺された。そして、彼の手は決してきれいではなかった。しかし、彼の敵でさえ、彼の理解力と統御力の目立つ特質を認めた。そして、彼の友人、特に彼の幕僚として勤務した将校たちは、彼を全軍におけるもっとも優秀な指揮官だと考えた」
昭和天皇は、二・二六事件で皇道派的な動きを見せた山下将軍を嫌っていたという説がある。ただ、それは東條英機大将(陸士一七・陸大二七)が山下将軍を天皇の前に出さなかったという話もある。
一度、山下将軍が陸軍大臣にという話が持ち上がったが、天皇の意思でつぶれたという噂もある。
「小倉庫次侍従日記」(文藝春秋・2007年4月号)によると、山下奉文と石原莞爾(陸士二一・陸大三〇恩賜)の昇進の推薦に昭和天皇が印を押すのを嫌がったという記述がある。
石原莞爾は浅原事件が原因のようだが、山下将軍については、小倉侍従の推測の域を出ていないが、日記には「二・二六事件か」とだけ書かれている。
昭和天皇にとっては、二・二六事件は、かなりのトラウマになっている。相沢事件や皇道派の青年将校が引き起こしたクーデター、二・二六事件のとき、陸軍省軍事調査部長・山下少将は皇道派的な態度を示している。
二・二六事件以後、皇道派の指導的立場の将軍達はほとんど中央から遠ざけられた。そのとき統制派として浮かび上がってきたのが、梅津美次郎(うめづ・よしじろう)(陸士一五・陸大二三首席)と東條英機だ。
磯部浅一元一等主計(陸士三八)の獄中日記によると、昭和十一年二月二十六日に二・二六事件が起きたが、その前年の十二月に、磯部は陸軍省調査部長・山下奉文少将(陸士一八・陸大二八恩賜)の自宅を訪れた。
そのとき、山下少将は「お前らは(国家)改造改造というが、案があるのか。あるなら持って来い。アカ抜けした案を見せてみろ」と、嘲笑したような態度だった。
磯部が「案よりも何事か起こった時はどうするんですか」と言うと、山下少将は「ああ、何か起こったほうが話が早いよ」と答えた。
「叛乱」(立野信之・ぺりかん社)によると、事件の前、村中孝次元大尉(陸士三七)と磯部浅一元一等主計に扇動されていた安藤輝三大尉(陸士三八)ら第一師団歩兵第三連隊の青年将校、十五、六名は、一月十五日夜、山下奉文少将の自宅を訪れ、意見を聞いた。
山下家の応接間は、青年将校たちで一杯になった。「やあ、お揃いで、何だね?」。山下少将は和服の寛いだ姿で、応接間に入ってきた。
「今夜は、一つ、閣下の縦横談を伺いに参りました」。安藤大尉が、先任者として口火を切った。
安藤は、血盟団事件の際、内大臣・牧野伸顕を暗殺することになっていた東大生の四元義隆を、当時連隊長だった山下の指金で、将校寄宿舎の自分の居室に数日かくまったことなどもあって、山下少将とは特別親しい間柄だった。
父の佐吉は近在で唯一の開業医だったが、初めから医者だったわけではない。高知県の師範学校を出て小学校教師をしていたが、医者のいない村の実情に一念発起し、医師をめざして転身した。
苦学の末検定試験に合格し、奉文が三歳の時、村で開業した。これだけでも意思と努力の人であることがうかがえるが、開業してからは、貧しい村人には治療費や薬代を請求しない「赤ひげ」的医者でもあった。
山下奉文大将の部下や家の下僕に対する人間的な優しさはよく知られているが、その根っこは父親にあるとみてよいだろう。
奉文は次男で、三歳上の兄、奉表(ともよし)がいる。奉表は苦学して、小学校の頃から常に首席を通した。医師の道を進み、海軍軍医学校を卒業し、後に海軍軍医少将になった。
奉文は秀才の兄に比べて、机に向うよりも山野を駆け回ることを好むガキ大将だったが、終生、兄奉表を敬愛してやまなかった。「兄のように学校の成績がよければ、俺も医者になっていた」と山下奉文は後によく話していた。
「昭和の名将と愚将」(半藤一利・保坂正康・文藝春秋)によると、山下奉文将軍(陸士一八・陸大二八恩賜)に人間的な魅力があったことは間違いない。
イギリスの作家で元陸軍大佐、アーサー・ジェイムス・バーガーは連合国軍として第二次世界大戦に従軍して戦ったが、「マレーの虎・山下奉文」(鳥山浩訳・サンケイ新聞社出版局)という本を出版している。
その本の中でアーサー・ジェイムス・バーガーは山下将軍について次のように記している。
「肥満していたが、非常に神経質であり、有能だったが、よく惑わされた。冷酷だったが潔癖なところがあった。多くの点でモダンだったが過去に束縛された。彼の心は偽善と責任回避を一切憎んだ。そして軍人稼業に関する限り、偉大な現実主義と判断を示した」
「時折、山下は政治的冒険に忙殺された。そして、彼の手は決してきれいではなかった。しかし、彼の敵でさえ、彼の理解力と統御力の目立つ特質を認めた。そして、彼の友人、特に彼の幕僚として勤務した将校たちは、彼を全軍におけるもっとも優秀な指揮官だと考えた」
昭和天皇は、二・二六事件で皇道派的な動きを見せた山下将軍を嫌っていたという説がある。ただ、それは東條英機大将(陸士一七・陸大二七)が山下将軍を天皇の前に出さなかったという話もある。
一度、山下将軍が陸軍大臣にという話が持ち上がったが、天皇の意思でつぶれたという噂もある。
「小倉庫次侍従日記」(文藝春秋・2007年4月号)によると、山下奉文と石原莞爾(陸士二一・陸大三〇恩賜)の昇進の推薦に昭和天皇が印を押すのを嫌がったという記述がある。
石原莞爾は浅原事件が原因のようだが、山下将軍については、小倉侍従の推測の域を出ていないが、日記には「二・二六事件か」とだけ書かれている。
昭和天皇にとっては、二・二六事件は、かなりのトラウマになっている。相沢事件や皇道派の青年将校が引き起こしたクーデター、二・二六事件のとき、陸軍省軍事調査部長・山下少将は皇道派的な態度を示している。
二・二六事件以後、皇道派の指導的立場の将軍達はほとんど中央から遠ざけられた。そのとき統制派として浮かび上がってきたのが、梅津美次郎(うめづ・よしじろう)(陸士一五・陸大二三首席)と東條英機だ。
磯部浅一元一等主計(陸士三八)の獄中日記によると、昭和十一年二月二十六日に二・二六事件が起きたが、その前年の十二月に、磯部は陸軍省調査部長・山下奉文少将(陸士一八・陸大二八恩賜)の自宅を訪れた。
そのとき、山下少将は「お前らは(国家)改造改造というが、案があるのか。あるなら持って来い。アカ抜けした案を見せてみろ」と、嘲笑したような態度だった。
磯部が「案よりも何事か起こった時はどうするんですか」と言うと、山下少将は「ああ、何か起こったほうが話が早いよ」と答えた。
「叛乱」(立野信之・ぺりかん社)によると、事件の前、村中孝次元大尉(陸士三七)と磯部浅一元一等主計に扇動されていた安藤輝三大尉(陸士三八)ら第一師団歩兵第三連隊の青年将校、十五、六名は、一月十五日夜、山下奉文少将の自宅を訪れ、意見を聞いた。
山下家の応接間は、青年将校たちで一杯になった。「やあ、お揃いで、何だね?」。山下少将は和服の寛いだ姿で、応接間に入ってきた。
「今夜は、一つ、閣下の縦横談を伺いに参りました」。安藤大尉が、先任者として口火を切った。
安藤は、血盟団事件の際、内大臣・牧野伸顕を暗殺することになっていた東大生の四元義隆を、当時連隊長だった山下の指金で、将校寄宿舎の自分の居室に数日かくまったことなどもあって、山下少将とは特別親しい間柄だった。