陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

50.石川信吾海軍少将(10) 岡軍務局長は、石川大佐を局長室に呼んで、ハル・ノートの訳文を手渡した

2007年03月02日 | 石川信吾海軍少将
 近衛手記には「松岡外相が対ソ開戦を強硬に主張するので、これを押さえるための代償として、外相の素志である南部仏印進駐を認めた」と記されている。

 石川少将は戦後、東京裁判の影響下に出された太平洋戦争に関する文章には、かなり間違いが多いが、これなどはその最たるものであると述べている。

 南部仏印に関する議案が政府大本営会議にかけられた時、これに真っ向から反対したのが松岡外相であると。

 当時、軍務局長から石川大佐は「松岡外相が南部仏印進駐に反対で、会議は停滞した。君が外相を説得してくれ」と命じられた。
 
 石川大佐は軍令部によってT作戦課長に「松岡外相に話しに行くのだが、その前に軍令部の腹を聞きたい」と申し入れた。

 T大佐の答えは「松岡外相が日米間の問題を外交交渉で処理し、開戦に至らしめない事を保証してくれるなら、進駐はしない。しかし、今進駐を止めておいて、後で外交では片付かないから開戦だと言われても、引き受けられない。開戦の危険があるなら、南部仏印進駐は作戦上必要である」ということであった。

 松岡外相を私邸に訪ね、二階に通された石川大佐は、さっそく「あなたは南部仏印進駐に反対しておられるそうですね」と言った。

 すると、松岡外相は「南部仏印に出れば戦争になるから、いかんと言っているのだ」と、いささかご機嫌ななめだった。

 石川大佐が「出なければ戦争にならずに片付きますか」と聞くと「そんなことは分からんよ」と松岡外相は答えた。

 石川大佐は「分からんでは軍令部としても困るでしょう。軍令部は外相が責任を持って、開戦にならぬように始末をつけると言明してくれれば、進駐案は引っ込めても良いと言明していますが、あなたはそれを言明するだけの自信がありますか」と言った。

 ここで松岡外相はかんかんに怒り出して、大声で「いま、そんなバカな言明が出来るか。バカいっちゃいかん」とどなりだした。

 「それじゃ作戦当局としたら、どうしようもないでしょう。今出ちゃいかん、先になったら戦争になるかも知れんが、その時はしっかりやれと言っても、作戦の責任者は今出ておかなければ後になって引き受けられないと考えている。作戦当局からすると、やはりバカいっちゃいかん、ということになる」と石川大佐が言うと、松岡外相は興奮して怒鳴り出したという。

 松岡外相は二階から階段をおりる石川大佐を玄関まで送り出しながら「バカなことを言うやつだ」と怒鳴り散らした。

 だがその後数日して、政府大本営連絡会議で南部仏印進駐が決定した。

 日本政府がこの決定をビシー政府に申し入れたのは、第三次近衛内閣成立後の昭和16年7月19日で、その時松岡氏は外相の職にいなかった。外相は豊田貞次郎であった。

 このような流れで、7月25日、米国は在米日本資産の凍結を命令し、日米間は事実上経済断交と同様になった。イギリス、オランダも同様の処置を取った。

 7月26日、米英蘭の三国間に日本への石油輸出全面的禁止の協定が成立した。

 昭和16年11月26日アメリカのハル国務長官は野村・来栖両大使を招致してアメリカ側新提案を手渡した。これはアメリカの対日最後通牒であった。これが有名なハル・ノートであって、日本に対する手切れの挨拶であった。アメリカは遂に太平洋にサイコロを投じ、日米開戦へと進んでいった。

 11月27日、岡軍務局長は、石川大佐を局長室に呼んで、ハル・ノートの訳文を手渡した。

 岡局長は椅子に深く沈んだように腰をかけ、片手で額を支えたまま「これではいよいよ開戦のほかはない。今日までの苦心も、ついに水の泡である」と言って、ハラハラと落涙した。

 岡局長はしばらく無言でいたが「こうなった以上、開戦の際、手落ちのないように、前例なども調べて、ぬかりなくやってくれ」と石川大佐に言った。

 そしてこのとき、ハワイ急襲部隊は、太平洋上をハワイに向かって東進中だったのである。

 (「石川信吾海軍少将」は官今回で終りです。次回からは「田中隆吉陸軍少将」が始ります)


49.石川信吾海軍少将(9) 石川少将に太平洋開戦の責任がある

2007年02月23日 | 石川信吾海軍少将
昭和15年11月、石川大佐は海軍省軍務局第二課長に発令された。このときから開戦をはさんで17年6月南西方面艦隊参謀副長に就任するまで、軍務局勤務が続いた。

 「日本海軍指揮官総覧」(新人物往来社)によると、石川大佐は第二課長就任後、日独伊三国同盟に伴う政策指導機関の第一委員会の中心メンバーとなった。

 以後主要な海軍政策はすべて同委員会を経由する事になり、石川大佐は海軍の南方政策を実質的にリードし、その方針に従って海軍首脳は南部仏印進駐にも同意したといわれる。

 「日本海軍、錨揚ゲ!」(PHP研究所)によると、阿川弘之と半藤一利の対談で、半藤は石川少将に太平洋開戦の責任があると主張しており、阿川も同意している。

 ところが、半藤が高木惣吉元海軍少将に戦後あって話を聞いたときに、高木は石川少将の役割を頑として認めなかった。「あんた方が思うほどこの第一委員会が力があったわけじゃありません」と、どういう訳か、この一点だけは頑固に認めなかったという。

 昭和15年9月5日、吉田善吾に代わって及川古志郎が海軍大臣に親任された。

 及川大佐は、山本五十六が誠意をもって推薦した井上成美中将の次官起用を排して、自主性のない沢本頼雄中将を次官にし、10月15日海軍省と軍令部のレポーターに適した岡敬純少将を軍務局長に任命した。

 こういう状況下、対米強硬派の軍令部とウマの合う主戦派の中堅が軍務局課長のポストを占めた。第一課長に高田利種、第二課長に石川信吾大佐が11月15日着任した。

 これら強硬派を中心に第一委員会が組織された。メンバーは高田、石川大佐のほかに、軍令部作戦課長・富岡定俊大佐、軍令部作戦部長直属・大野竹二大佐が加わった。

 また幹事として、柴勝男中佐(軍務局)、藤井茂中佐(同)、小野田捨二郎中佐(軍令部作戦課)が就任した。

 この第一委員会は昭和16年6月5日付けで「現情勢下ニ於テ帝国海軍ノ執ルベキ態度」という驚くべき報告書を提出する。

 それは三国同盟の堅持、仏印占領を主張。その結果米英蘭の対日石油禁輸の際には武力行使を決意するというものであった。

 「課長級が一番良く勉強しているから、その意見を採用する」と放言した永野修身軍令部総長、及川海相も、この第一委員会の強硬路線に抵抗をせずに支持した。その責任は免れない。

 「真珠湾までの経緯」(時事通信社)によると、そのころ石川大佐は松岡外相を私邸に訪ねて考えを拝聴していた。石川大佐は松岡が満鉄総裁時代に知り合い、同郷のよしみもあって、よく松岡を訪ねていた。

 石川大佐は松岡をもって日米開戦の首謀者であるかのように言うのは、事実とははなはだしく相違している。松岡の外交理念は「力による平和維持」であり、「国際間の力の働きを巧みに利用する外交」であったと思う、と述べている。

 ドイツがソ連に宣戦布告したとき、海軍でも「ドイツがソ連と開戦したのでは、三国同盟の攻略的意義が失われてしまうから、三国同盟は破棄した方が良い」という意見もあったが、これを海軍首脳部の考えまで盛り上げなかった。

 松岡外相はリッペントロップ・ドイツ外相に独ソ戦を中止するように個人的な勧告を行ったが、同外相からは「対ソ戦は数週間、長くて数ヶ月のうちに、ドイツの完勝で片付くから安心をこう。ドイツとしては対ソ戦に日本の援助を求めるつもりはない」と返事が来た。

 独ソ戦開戦後、軍務局長から石川大佐は「松岡外相が対ソ開戦説を唱えているから、良く話をしてくれ」と言われた。

 松岡外相の私邸を訪れた石川大佐が「ソ連と戦争すれば、アメリカが出てこないと言うわけではないでしょう。支那事変をこのままにして戦争をすれば、アメリカが適当な時期をつかんで攻めてくるのは知れきったことです。海軍はアメリカに備えるだけで精一杯なのに、ソ連を相手にせよと言われてもできるものじゃありません。対ソ開戦などとバカげた話はしないで下さい」と言った。 

 この日の松岡外相は、一つ二つ質問しただけで、大変におとなしかった。

 その後昭和16年7月7日に御前会議が開かれ、日本は独ソ戦に参加しないと決まり、同時に南部仏印進駐が決定された。


48.石川信吾海軍少将(8) 及川大将では駄目だと言ったら、選考しなおすと言う事なのですか

2007年02月16日 | 石川信吾海軍少将
 喜多少将が尋問口調で口を差し挟んできたので、石川大佐は「青島海軍戸特務部は第四艦隊長官の完全な指揮下にあるのだから、ご意見は海軍特務部と第四艦隊長官に言って頂きたい」と答えた。

 そして「ついでながら、ご参考のため意見を申し上げると、支那事変をどう始末するかの根本問題で、国家の腹が本当に決まっていないから、現地で色々ごたつくのだと思う」と言った。

 続いて第二次大戦に進む危険性、陸軍の北支の統治体制への批判などを述べたら、それでその場の話は終わってしまった。

 帰り際に、武藤大佐が今夜一席設けてあるから、是非出てくれと言った。

 石川大佐が「おい、毒殺されるんじゃあるまいね」と冗談を飛ばしたら、武藤大佐も「ばかをいうなよ」ということで、その夜は大いに飲み、歓談した。

 昭和14年9月、石川大佐は東京の興亜院本庁の政務部第一課長に転任になった。

 特務部長は陸軍の鈴木貞一中将で、石川大佐と鈴木中将は満州事変以来の知り合いだった。

 第二次近衛内閣が組閣されて間もない頃、三国同盟に関する海軍の態度がはっきりしないので、政府は当惑していた。

 ある日鈴木特務部長から「海軍大臣の腹はどうなのだろうか」といった打診があった。

 石川大佐は個人的に9月3日、吉田海軍大臣に面会した。

 石川大佐は吉田大臣に「もし大臣の腹が三国同盟に反対と決定しているのなら、陸軍を向こうに回して大喧嘩をやりましょう」と言った。

 吉田大臣は「この際、陸軍と喧嘩をするのはまずい」と洩らした。

 石川大佐は、「それでは三国同盟に同意するのですか」と尋ねた。

 すると吉田大臣は「しかし、対米戦争の準備がないからなあ」と言った。

 石川大佐がさらに「ここまでくれば、理屈ではなくて、いずれをとるかという大臣の腹一つだと思います」と言うと

 吉田大臣は「困ったなあ」と言った。

 たまたま、軍令部第三部長の岡敬純少将が傍にいて、石川大佐にもう帰れと目配せしたので、石川大佐は退出した。

 その夜、吉田大将は疲労も加わって、倒れた。

 その後日、内閣書記官長から石川大佐に「海軍大臣に及川大将という話があるのだが、及川大将で海軍は大丈夫か」と電話があった。

 近衛首相の内意を受けて電話したとのことだった。

 このころ新聞等によく海軍の派閥争いを取材した記事が掲載され、軍政派と艦隊派というように書き分けられ、世間にはやしたてられていた。

 石川大佐も加藤・末次直系の青年将校ということで、何度もリストに載せられた事があった。

 確かに海軍には重要な問題をはさんで、軍政上の立場と、用兵上の立場とがあり、ずい分激烈な議論や、時には闘争的な場面さえ展開したことがあるが、組織的な派閥というものはなかった。

 石川大佐自身そういう雰囲気を感じたことはなかった。石川大佐は米内大将、及川大将とか、世間のリストでは軍政派であるべき先輩のところへも気軽に出入りしていた。

 そういう背景があるから、首相が海軍大臣の後任について、そういう問題に関与すべきでない立場の石川大佐の意見を、書記官長に電話できかせるなどとは、海軍の統制を乱す軽率な振る舞いであると思った。

 そこで石川大佐は「もし、私が、及川大将では駄目だと言ったら、選考しなおすと言う事なのですか。それを先に承りたい」と答えた。

 そしたら「ちょっと待って下さい」と、しばらく待たされてから「それではよろしいですから」と言って電話が切れた。

 石川大佐は及川大将が大臣候補に確定していることを知ったので、横須賀鎮守府に電話した。

 及川大将に「明日近衛総理から呼ばれておいでになるようですが、問題は三国同盟をどうするかにあるので、それについて海軍の腹をお決めになった上でないと、大臣をお引き受けになってもまずい事になると思います」と言った。

 さらに「近衛総理にお会いになる前に、二十分で結構ですから、私の知っている事の限りをお話した方がよいかと思います」と言った。

 及川大将は「それでは明朝東京へ着いたら電話するから、海軍省へ来てくれたまえ」ということであった。

 翌朝興亜院で電話を待っていたが、ようやく正午頃に電話で「海軍省に来てくれ」とのことだった。

 石川大佐は及川大将に会うと「大臣を引き受けておいでになったのでしょう」と言うと、肯定的なジェスチャーであった。

 石川大佐は「それでは別に申し上げる事もございません」と言って引き下がった。

 大臣を引き受けたと言う事は三国同盟に同意したという事に了解すべきであったからである。こうしてその後三国同盟は締結されるに至った。




47.石川信吾海軍少将(7) どちらにも怪我人を出さないよう始末するから、おれにまかせておけ

2007年02月09日 | 石川信吾海軍少将
石川大佐は「あなたは統帥事項だから陸軍大臣の指示は受けないと言うが、陸軍大臣は、大臣の所管事項だと考えているから訓令を出したのだと思う」と伝えた。

さらに「占領地行政が統帥事項か否かについて、陸軍大臣と現地軍とが考えが違うのでは、海軍としてはやりようがないから、海軍大臣から陸軍大臣に話してもらい、本件が統帥事項か否かについて陸軍側の考えを一本にしてもらわなければならない」と言った。

 また、「その上で、もし統帥事項というなら参謀本部と話をしなおすまでだし、また、大臣所管事項だということになれば、陸軍大臣から君が大臣の指図に従うようにしてもらう他はない」と相手に伝えた。

 いよいよ東京へ出発の一時間前、再び石川大佐に電話があって、中央協定に準拠して現地協定が成立して、青島における陸海軍の紛糾も解決した。

 だがこの紛糾の裏にはある状況があった。石川大佐は東京に出発する前に豊田第四艦隊長官から一通の手紙を見せられた。

  その手紙は山本五十六海軍次官から豊田長官宛ての半公半私のものであった。

 その内容は「青島占領に当たっては、同地は海軍として極めて重要だから、海軍の勢力下にこれを収める様努力されたし」というものであった。

 だがその筆跡は、明らかに特徴のある前軍務課長・H大佐のものであった。

 石川大佐は上京した時、海軍部内では青島の陸海軍紛糾は豊田艦隊長官の不手際によるものだという空気が濃厚であった。

 青島に帰る前に石川大佐は、大臣、次官が同席の場で、青島の状況を説明した。

 そのあと、「豊田長官は、私信ではあるが、山本次官のご指示に添って万事を処理してこられたと思いますが、このような問題は中央で大綱を決定され、現地に指示されるのが適当と思われます」と付け加えた。

 すると山本次官は色をなして「そんな指示をした覚えはない」とのことだった。

 石川大佐は首脳部の意向を承って退出したが、すぐに大臣室に引き返し、米内光政大臣に「山本次官の指示について、次官は知らないとの事だったが、これは海軍の統制上遺憾な問題だ」と言った。

 さらに「私は長官から示されてその手紙を見ているし、その筆跡も覚えがあるので、執筆者が誰であるかも分かっている」と述べた。

 そして、「山本次官が執筆者に指示を与えたのか、執筆者の独断であるのか分からないが、豊田長官がこれを尊重して行動された事は当然であるし、今になって青島の陸海軍摩擦が豊田長官の責任であるようにお考えになるのは大変な間違いであると思う」ときっぱり言った。

 続けて石川大佐は「このまま長官に中央の空気を報告するわけにはいかないので、青島に帰る前に黒白を明らかにしていただきたい」と言った。

 米内大臣は「事情はわかった。どちらにも怪我人を出さないよう始末するから、おれにまかせておけ」と言ったので、石川大佐は引き下がった。

 その頃、北支における陸軍の総元締めとして北京に駐在する喜多陸軍少将から、北京駐在の須賀海軍少将を通じて、石川大佐に北京陸軍特務機関に出頭するよう要望してきた。

 石川大佐は艦隊長官指揮下にあるのでその申し入れには応じなかった。

 だが間に立った須賀海軍少将から「北京にいて、陸軍との協調上困るからぜひに」と言ってきたので、石川大佐は艦隊長官の許しを得て、北京の陸軍特務機関長を訪ねた。

 案内された部屋に入ると、なんとなく異様な空気が漂っていた。喜多少将を中心に、少将、大佐など数人が泰然と正面の安楽椅子に構えていて、ほかにも数人の佐官級が両側に立ち並んでいた。

 そして石川大佐に勧められた椅子はその前にポツンと一つ置かれて、取調べを受ける被告席みたいだった。

 石川大佐は窓際に立っている将校の中に北支方面軍参謀副長の武藤章大佐をみつけたので、「武藤さん、これではまるで、被告席みたいだね。今日は儀礼的に訪問したんだが、これでは、ちょっと腰はかけられないじゃないか」と笑ってみせた。

 武藤大佐は「いや、そんなわけじゃなかったんで。失敬、失敬」とさっそく、椅子を円座に並べ替えてくれたので、石川大佐はようやく挨拶して腰を降ろし、北京の感想などを話し始めた。

 そのうち喜多少将が話しの合間をとらえて「ところで君は青島特務部長として、」という尋問口調で口を差し挟んできた。




46.石川信吾海軍少将(6) おれはやるといったことは必ずやるのだからよく覚えておけ

2007年02月02日 | 石川信吾海軍少将
 「厳島」は命令どうり青島港内に進入した。その翌朝、石川大佐は、陸軍のおそらく予備役で召集を受けたらしい、老大佐の訪問を受けた。

 用件は「自分の部隊は済南から強行軍で昨夕青島に到着したが、市内の建物はほとんど海軍が占領していて、部隊を宿舎に入れることも出来ず、野営した。なんとか宿舎を割愛してもらいたい」との申し入れであった。

 石川大佐は「それはご難儀なことでしたでしょう。宿舎の割り当ては艦隊司令部のすることで管轄外ですがとりあえず、どこか休息できるところへご案内します」と答えて、学校建物のあいているところに案内しておいた。石川大佐は艦隊司令部へ連絡し善処を要望した。

 もともと青島市に突入する時期は陸海軍同時にするという協定があった。ところが、海軍陸戦隊が、陸軍より先に青島市を占領し、めぼしい建物はおおむね海軍が占拠してしまったので、陸軍は憤慨していた。

 港湾管理部の石川大佐の部屋に参謀肩章をつけた陸軍少佐ほか二三の陸軍将校がやってきて、石川大佐に詰め寄るように言った。

 「自分は参謀本部の参謀ですが、青島の桟橋、倉庫は陸軍が管理するから、さようご承知願いたい」。

 石川大佐は「陸軍も桟橋、倉庫を使うということは当然だから、その事について陸海軍の使用協定を決めたいと言うなら、今からでもやろうじゃないか。しかし、陸軍で管理するから海軍は退けということでは、私が第四艦隊長官から受けている命令に違反するから応じるわけにはいかない」と答えた。

 彼らは軍刀をがちゃつかせて、一喝するように「同意を得られなければ、軍は実力を持って占領します」と叫んだ。

 ここにいたって石川大佐もかんしゃく玉を破裂させ「俺も陸軍の若い参謀におどかされて、長官の命令に違反するわけにはいかん。実力で占領なら、実力でお相手しよう。無断で桟橋に上陸してみろ。岸壁に繋留してある俺の艦からすぐに大砲をぶっぱなすぞ。おれはやるといったことは必ずやるのだからよく覚えておけ」といって参謀達を帰らせた。

 石川大佐は艦隊司令部を訪ねて事の経過を報告しておいた。だが、このことは、当時誇張して宣伝され、青島で陸海軍が今にも実力を持って衝突する勢いであるかのように伝えられた。

 その後間もなく石川大佐は、突然青島特務部に転任を命じられ、暗礁に乗り上げたような陸海軍間の問題解決の任務を命じられた。

 石川大佐は第五師団のS参謀長と交渉する事になったが、S少将は陸軍でも一徹者で通った人だった。

 当時青島にきていた第五師団長・板垣征四郎中将とは石川大佐は満州事変以来いささか面識があったので、先に板垣中将に石川大佐の考えを話し、S少将への橋渡しをお願いした。

 数日後、板垣中将から「私からも参謀長に話しておいたから、あとは直接話し合えばよかろう」ということで、石川大佐は軍参謀長のS少将を訪ねた。

 ところがS少将は「海軍は海上へ去ってくれ。陸上の事は一切陸軍が処理する。港湾施設は鉄道の末端を構成している施設であって、当然陸軍がこれを管理すべきである」との主張を繰り返すのみで、一歩も譲らぬという構えであった。

 打開の策が見出せないので、石川大佐は交渉を打ち切り、中央で一刀両断の解決をするほかはないと考え、すぐに飛行機で東京へ飛んだ。

 東京では海軍省軍務局第一課長のO大佐と打ち合わせの後、陸軍省軍務局のS軍務課長を訪ね、三人で話し合った結果、海軍と陸軍の管轄線引きを決め陸海軍大臣から現地に電報指令が打たれた。

 石川大佐は青島に帰ったが、現地陸軍部から「陸軍省からの指示は来たが、軍は東京協定には不同意である」とのにべもない返事であった。

 石川大佐は「現地軍としては不同意であっても、中央で成立した協定だから、現地で協定を行うべきである」と主張した。

 だが、S参謀長は「占領行政は統帥事項に属するので、陸軍大臣の指示は受けない」とつっぱねてきた。

 このままではらちのあきようもないので、石川大佐は再び上京する事にした。

 すると翌朝済南にいるS参謀長から電話があり「君はまた東京へ行くそうだが、何をしに行くのか」と言ってきた。


45.石川信吾海軍少将(5) 壮観というより、馬鹿馬鹿しいという方が近かった

2007年01月26日 | 石川信吾海軍少将
 石川中佐はその年(昭和11年)の暮れ、海軍大佐に進級し、特務艦「知床」の艦長として、主に沿岸輸送に従事する事になった。

 石川大佐は何人の作為かは知らず、ただ運命のいたずらに苦笑しながら視察旅行の成果と、これにともなう抱負とをむなしく抱いて東京を去っていった。

 1937年、石川大佐は「知床」特務艦長として沿岸の軍需輸送に従事していたが、7月の某日、山口県徳山に入港し燃料搭載中、至急出港の無電命令を受けた。

 北支の事変勃発に伴い、佐世保に回航し、爆弾、航空燃料を満載して、上海に直行、支那方面艦隊に補給せよというものであった。

 石川大佐は艦橋に上がったが、しばらくもやいをとくのを待たせ、ありあわせの紙に鉛筆の走り書きで、豊田副武軍務局長宛ての手紙を書いた。

 その要旨は「私の海外視察報告を想起していただきたい。海軍としては、たとえ陸軍と争ってでも、この事変を早急に沈静させるべきだ」という意味合いのものであった。これを竹竿の先につけて、桟橋にいる守衛に投函を頼んで出港した。

 上海の埠頭に艦を横付けし、爆弾、燃料の陸揚げ作業をほぼ終えた頃、支那空軍のノースロップ機約50機が大挙来襲して、在泊の日本艦船を爆撃した。

 当時日本の艦船に搭載されている高射砲の有効射程距離は、新式なものでせいぜい7000メートル、旧式のものは3000メートルぐらいがせいいっぱいだった。

 それにもかかわらず、敵機が有効射程外、かなり遠い距離にあるのに、全力をあげて乱射乱撃をやっている有様は、壮観というより、馬鹿馬鹿しいという方が近かった。

 石川大佐は注意を促す意味で、さかんに乱射している某隊の旗艦あてに「その隊の弾着著しく近弾」と手旗信号を送った。

 これは「海戦要務令」という海軍の戦闘法の要綱を定めた本の中に、射撃中の隊の弾着を観測できる位置にある隊は、弾着の状況をその隊に通報するように決められた条項があるので、石川大佐はそれに従った訳である。決してよけいなお節介ではないのである。

 そのうち、石川大佐の艦の近くにいた特務艦「野島」からは「われ全弾撃ち終わり」の手旗信号が送られてくる始末だった。

 このような乱射乱撃は日清・日露戦争をへて築きあげられた、帝国海軍の伝統には明らかに反するものであった。

 この悪習は満州事変に引き続き、上海、揚子江一帯に起こった事変に対する論功行賞が行われた際、某隊(艦)の戦功を検討する時、その隊の射撃弾数の多少を1つの要素としてとりあげたことが、知らず知らずの間に射撃軍紀を弛緩させる原因になったと石川大佐は思った。  

 それが「われ全弾撃ち終わり」などという信号となって現れたのである。

 石川大佐は少なからず憤りを覚えて、無線電信で「中央当局は今事変を本気でやる気なのか。この事変は太平洋までつながってゆくものと覚悟すべきである。それを承知でするなら、まず射撃軍紀から引き締めてかからなければならない」といった、いささか癇癪混じりの暗号電報を打った。

 しかしこの電報について、後日石川大佐は先輩から忠告された。

 それによると「東京では一特務艦長の分際で中央を誹謗するなど、しかも無電で打電するとはけしからんという非難があり、そのためお前の東京払いは、いっそう延長された」ということだった。

 その年の暮れ、石川大佐は軍艦「厳島」の艦長に転任の命を受けた。

 「厳島」は第四艦隊に所属しており、艦隊司令長官は軍務局長から栄転した豊田副武中将だった。

 石川大佐は早速豊田長官のもとに行き、石川大佐の二度にわたる中央への警告について尋ねた。

 すると長官は「手紙は覚えはないが、電報は見た。それで今度の事変では、よけいに弾丸を撃った奴は論功のとき減点しろといいつけておいた」と言った。

 石川大佐は北支事変そのものについての警告だったのに、相手は単なる射撃軍紀の問題としか受け取らず、石川大佐はがっかりした。

 昭和13年1月陸海軍は共同して青島を攻略する事になり、石川は第四艦隊司令長官から「青島を占領して港湾施設を管理すべし」という命令を受けた。

 石川大佐の「厳島」は命令どうり行動し、格別の抵抗も受けずに青島港内に進入し、桟橋、倉庫、その他港湾関係諸施設及び建築物を占領して、管理するため必要な処置をした。



44.石川信吾海軍少将(4) 貴様をくびにするかどうかだいぶ議論があった

2007年01月19日 | 石川信吾海軍少将
石川中佐は駅の近くの食堂で食事をしたが、そこにいあわせたドイツ人たちはいずれも元気一杯の表情をしていて、その雰囲気からドイツはいよいよ再起のスタートを切ったという感じを受けた。

 ベルリンの海軍武官室で石川中佐は重要なヒントを得た。それは「1940年ごろには、ドイツは実力を持って立ち上がるだろう」という観測だった。

 これは当時武官室補佐官であった神重徳中佐の考えだったと石川中佐は記憶していた。

 このころ、ベルリンの街で売っていたシガレットケースには、第一次大戦前のドイツの領土と、大戦で失った土地とを一目で分かるように描いた地図が刻まれているものが多かった。

 石川中佐はもっと具体的な資料をつかみたいと思い、ダンチヒに向かった。

 ダンチヒはベルサイユ条約で自由都市として、ドイツもその港湾を利用する事は出来たが、国際連盟の管理下にあって、連盟の高級委員が常駐していた。関税区域としてはポーランドに属していた。

 ダンチヒに着いてみると、ナチの腕章をつけたドイツ青年達が三々五々腕を組んで闊歩していた。

 彼らの面貌には戦勝国の不当な決定に対する反抗心と、ポーランドなにするものぞという敵愾心と、ダンチヒ奪回の断固たる決意がみなぎっていた。

 石川中佐は一軒のビヤホールに入ってみた。そこにもナチ青年が沢山入っていた。石川中佐が日本人である事に気づくと、二三人が来て乾杯してくれた。

 石川中佐が「ドイツはダンチヒを奪回する決意だろうと思うが、どうだ」ときくと、「もちろん、そうだ」と答えた。

 さらに「ダンチヒの住民の大多数はドイツ人で、五十万を越えている。ダンチヒは現実にわれわれのものだ」と叫んだ。

 8月上旬、石川中佐は帰国し、視察旅行の経過と所信を、永野大臣以下海軍省首脳部に報告した。

 報告の最後に石川中佐は簡単な要図を掲げ、その余白に「ドイツは1940年ごろには、たつ」と書いて説明した。

 これに対して聴衆者ははなはだ冷ややかな態度で、誰一人として質問する者もなかった。

 ただ永野大臣から「君は1940年ごろにドイツはたつと言ったが、軍事的にはそうした見方もあるだろうが、経済的に、果たしてその力ができるか」との質問を受けた。

 石川中佐は「私に経済的な面からこれを立証しろと言われてもできませんが、ヨーロッパ滞在中は各地の大公使館で話を聞き、また主な日本商社の支店長を訪ね、その研究や意見も確かめ、ドイツでは永井商務官の話を聞き、二三の工場も視察しました結果、ドイツが経済面でも1940年ごろには充実してくるだろうということを私は納得しています」と答えた。

 それだけで永野大臣は、その常習である居眠りに入ってしまったという。

 報告を終わって大臣室を出ると、調査課長のO大佐が石川中佐をつついて「視察旅行の報告もずいぶん聞いたが、貴様のような大風呂敷ははじめてだ」と、冷評とも、真面目ともつかないことを言った。

 石川中佐は「大風呂敷だろうと何だろうと、私は私の所信を述べただけですよ」と言って、多くを語らなかった。

 海外視察旅行に出る時は、帰国後、内閣参事官に転任の予定で、そのための視察旅行だということを、直属上司である米内中将から言い渡されていた。

 だが、石川中佐が豊田軍務局長のもとに帰国の挨拶に行くと、豊田局長はろくに挨拶も聞かずに「貴様をくびにするかどうかだいぶ議論があったが、結局O大佐が預かる事になったから、O大佐のところで、おとなしくしておれ」とのご宣託だった。

 石川中佐は何の事か分からず「いったいどういうことなのですか」と反問した。すると豊田軍務局長は「2.26事件だ」とだけ、ぶっきらぼうに答えた。

 「2.26事件の件が、私とどういう関係があるのですか」と石川中佐が言うと、「黙ってOのところで、おとなしくしておれ」とのことだった。

 これではなんのことか見当がつかず、石川中佐は唖然とせざるを得なかった。だが、2.26事件で当局はよほどあわてているらしかった。とんだとばっちりがきたもんだと思いながら石川中佐はO大佐を訪ねた。

 O大佐に「あなたが私を預かる事になったそうですが、よろしく」と挨拶すると、「局長が何か言ったか」「ええ、さっぱり腑に落ちないことですがね」「まあ当分ここで静かにしておれ」といったぐあいだった。

 O大佐は石川中佐の中学の先輩であり、海軍に入ってからはなにかとお世話になっていたので、石川中佐もO大佐に対しては少なからず遠慮がちだったので、それ以上は何も言わなかった。(O大佐は岡敬純大佐)



43.石川信吾海軍少将(3) 勝負は一度で決まるのだから、何を好んでスパイなんかやる必要がある

2007年01月12日 | 石川信吾海軍少将
 石川中佐はこれで引き下がったら犬死になると思った。

 石川中佐「しかしその後、民政党内閣で緊縮財政を強行し、天引き予算でうむを言わせない予算削減を繰り返したことは、あなたも承知のはずだ」と言って、さらに

 石川中佐「それだけ海軍の軍備にも穴があいてきている。このままでは誰だって対米関係は引き受けたなどと言えるはずはない」

 そして、ここで石川中佐は早急の問題として弾丸の充実が先決であると説明した。すると

 森「よしわかった。いくらいるか」

 石川中佐「六十一議会で三千万円、その後は情勢に応じて考えなくてはならない」

 森「引き受けた」

 話は20分ぐらいで、あっさり片付いてしまった。

 石川中佐「あなたは私をだましてか帰すんじゃないでしょうね」

 森「おれは森だよ」(ドンと胸をたたいて笑った)

 石川中佐は高橋三吉軍令部次長に報告し、海軍大臣とも協議し予算要求の提出となった。

 六十一議会では、この海軍の予算要求は、そのまま通過し、海軍は直ちに弾丸の更新、充実にとりかかった。

 昭和10年、石川中佐は第二艦隊司令長官・米内光政中将のもとで参謀として勤務していた。

 同年の終わり頃石川中佐は米内長官から、当時内閣参議官であったA大佐の後任として予定されているから、その含みで世界情勢を視察してこいと命じられた。

 石川中佐は世界情勢を探求してくる事は最も望むところであった。

 石川中佐は昭和11年1月初め日本を出発し、フィリピン、蘭領インド(インドネシア)、方面、欧州、米国を視察した。

 蘭領インド(インドネシア)当局は当時からおかしいほど日本に対して警戒的であった。石川中佐がジョクジャカルタからバンドン行きの汽車に乗った時、たまたまオランダ海軍士官と差し向かいになった。

 彼は石川中佐に「君は支那人か」と聞くので、石川中佐はパスポートを示し「日本の海軍士官で単なる視察旅行である」と言うと

彼はぶしつけに「そうではあるまい。スパイにきたのだろう」と言った。

 石川中佐はおかしくもあるし、腹も立って「君は日本海軍の勢力を知っているか」と反問すると、「そんなことは知らないよ」といった調子だった。

 石川中佐は押し返して「海軍士官として東洋に来ていて、日本海軍の勢力を知らないとは何事だ。日本の海軍はオランダの海軍など問題にはしていないが、私は蘭印の海軍勢力は大体知っている」と話した。続けて

 「巡洋艦二隻、駆逐艦四隻、潜水艦少数だろう。万一日本が蘭印で武力行使に出なければならない状態になれば、勝負は一度で決まるのだから、何を好んでスパイなんかやる必要がある。スパイの対象になるようなものは皆無だ」と断定し

 「第一、日本と蘭印との間に武力衝突を予想しなければならないような問題が私には見当たらないが、それとも君の方でなにかあるのか」と言った。

 それで相手がようやく石川中佐がスパイでないと分かってくれた。

 ところが、シンガポール出航当日になって石川中佐はイギリス高等法務院へ出頭せよという司令を受けた。問答の末、開放されたが、法務院ではイギリス士官とオランダ士官が同席していた。

 このことから、石川中佐はイギリスとオランダの間に、日本に対する秘密協定がすでに結ばれているに違いない事を知った。

 シンガポールのイギリス軍大根拠地を要として、南東から東に伸びる蘭印・フィリピンの線と、北東に向かう仏印・タイ・南支の線とによって、日本の南方をとりまく対日包囲網が結成されつつある事を感じた。

 この包囲網はアメリカが強く推し進めている極東政策と気脈を通ずるものにほかなかった。

 この南方包囲網は政治的軍事的ばかりでなく、経済的にも日本の発展を圧迫するものであった。やがてこの包囲網がABCDラインとして強固に結成されていったのである。

 石川中佐は3月初頭マルセイユに上陸し、いよいよ欧州視察の第一歩を踏み出した。

 石川中佐がマルセイユからベルリンに向かう途中、3月7日、ドイツ国防軍はマインツ、コブレンツ、ケルン、フランクフルトなど、ライン非武装地帯の主要都市に進駐した。

 石川中佐は途中でそれを知ってケルンで途中下車し、市中を回った。市内は意外と静かだったがツェッペリン飛行船が数隻、駅前の寺院の上をかすめて飛んで域ドイツ国民の意気を反映するようで印象的であった。




42.石川信吾海軍少将(2) 東郷元帥がえらいけんまくで谷口大将を叱り、ふるえあがるほどだった

2007年01月05日 | 石川信吾海軍少将
 「真珠湾までの経緯~開戦の真相」(時事通信社)によると、石川中佐は、これら弾丸を充実するように、その問題の審議が軍令部長から海軍大臣宛てに提出されるように、事務を進めた。

 だが、谷口軍令部長はあまり関心を示さず、そのまま事務手続きが停滞した。

 このようなあいまいな状況は明らかに満州事変、上海事変に対する海軍の大方針が明確に決められていないために生ずる混乱であった。

 石川中佐は上司に向かって大方針の明示を要望するとともに、当時、軍事参議官であった、加藤寛治大将を訪ね、海軍として明確な方針決定が急務と意見を述べた。

 当時上海の事態は一層険悪になり、海軍は陸軍に派兵の要請をおこなった。陸軍は出動部隊に動員を命令した。

 その直後、海軍が陸軍の派兵取り消しを申し入れるという混乱が起きたので、陸軍参謀次長が海軍へ怒鳴り込むという一幕があった。

 その原因も谷口軍令部長のはっきりしない態度にあるとされていた。

 このような情勢に刺激されて海軍でも少壮血気な青年将校は、海軍首脳部に対して焦燥の気分が漂い始めた。

 昭和7年1月1月末か2月初めころ、霞ヶ浦航空隊の小園安名大尉以下約十名の若い将校が石川中佐を訪ねてきた。

 彼らは海軍首脳部の煮え切らない態度に憤慨し、谷口軍令部長に対して越軌の行動に出ようとする勢いだった。

 石川中佐は「君らの気持ちは分かるが、その問題は私に預けて、一日も早く立派な飛行将校になるよう、まず、当面の問題に全力を尽くせ」と伝えた。

 さらに「どうしても我慢ができないなら、今日から2週間は黙って静かにしているように」とさとして、帰隊させた。

 その夜、石川中佐は加藤大将を訪ねて、航空隊の若い将校たちの動揺を伝えた。

 ところが、加藤大将によると、軍事参議官会議で谷口大将はやめることに決まり、伏見宮が後任になられるとのことだった。

 そして加藤大将は「今日は東郷元帥がえらいけんまくで谷口大将を叱り、そばにいた私がふるえあがるほどだった。元帥があんなに怒られたのは、私もはじめてみたよ」と石川中佐に告げた。

 その後間もなく、昭和7年2月上旬、軍令部長と次長が更迭になり、伏見宮殿下が着任した。

 石川中佐は即日「弾丸更新ならびに充実」に関する海軍大臣宛商議案を提出し、新軍令部長の決裁を得て海軍省に送付した。

 だが海軍省首脳部は軍令部長の商議による経費3000万円を政府に要求する事は無理であるとの見解で、手続きに踏み切らなかった。今この予算を要求すれば、内閣の命運にまで影響するおそれがあるとのことだった。

 石川中佐は、もしそうであるならば、満州事変、上海事変をすみやかに終局させ、対米関係に紛争を生じないよう処理する事が必須の条件である。ところが事実はその反対の方向に向かっている。海軍は弾丸なしでどうして責任を負えるのかと主張した。

 満州・上海事変に関する臨時軍事費の審議される第61臨時議会は目前に迫っていた。石川中佐は軍備を担当する責任参謀として、このまま放置する事は出来なかった。

 残された手は現政府の中核の森格内閣書記官長と直接談判して善処してもらうより他はないと思った。

 石川中佐は議会開会の前日、官舎に森書記官長を訪ねた。石川中佐と森との一問一答が始った。

 石川中佐「先日、満州事変完遂の決意について政府は声明を発表したが、あれは外務省情報部の考えか、それとも真に政府の考えか」

 森「政府の真剣な決意だ」

 石川中佐「今朝の新聞ではアメリカ政府は満州事変を九カ国条約違反であると主張し、実力行使で変更された一切の事態は容認しないと断言したが、どう考えるか」

 森「政府は九カ国条約に爆弾をたたきつける決意で、あの声明を発表した」

 石川中佐「政府所信は分かったが、日米すでに攻略的には戦端をひらいたことになると思うが、どうか」

 森「そのとおりだ」

 石川中佐「後の始末は誰がする」

 森「そのための海軍じゃないか」(何を言っているかという調子)

 石川中佐「海軍首脳部でだれか後の始末を引き受けるといった人がいるのか」

 森「東方会議を開いて対満蒙政策を決定した時、ときの海軍大臣、岡田啓介が対米関係は引き受けると言った」

 森はどうだ、一本まいったかという顔つきで石川中佐をみつめた。


41.石川信吾海軍少将(1) 追いつめられてゆく政府首脳のあがきをつぶさに見てきた

2006年12月29日 | 石川信吾海軍少将
 戦時中、石川信吾は部下に「太平洋戦争は俺が始めたんだ」と驚くべき発言を自ら口にしたが、これが石川の生き方を象徴したものであった。

 石川信吾海軍少将は、自他共に認める、いわゆる政治将校であった。上司や陸軍にも思い切った直言をし、敵も多くつくった。だが、それらは石川の信念に基づいた発言であるから自ら修正をすることは生涯なかった。

 石川は岡敬純海軍中将を尊敬し、岡も石川の面倒を良くみたことは良く知られている。

 だが、半藤一利はその著書で太平洋戦争を開戦に導いたのは石川信吾海軍少将と岡敬純海軍中将であると主張している。

 石川は昭和35年に「真珠湾までの経緯~開戦の真相」(時事通信社)を著しているが、この本は石川の信念を現すように、当時の軍、政治の内幕を主観的ではあるが衣を着せることなく書き記している。

 当時の軍人の言動も取り上げているが、差しさわりのある部分は、さすがに軍人などの名前は「A大佐」というように頭文字だけにしている。

 その「まえがき」で石川は次のように述べている。

 「幸いに私は海軍軍人として、ものごこころついて以来、海軍奉職中を通じて日米問題を考えさせられていたし、開戦にいたるまでの日本にとって、最も苦悩に満ちた期間を、海軍省軍務局に勤務して身近にこれを体験するとともに、追いつめられてゆく政府首脳のあがきをつぶさに見てきたので、それらについての貴重な資料を提供する事は、私に残された義務でもあると思う。また、戦後、公にされた太平洋戦争に関する記事や書物には、戦争裁判の影響下にあったせいか、多くの誤りがあるし、当時の顕官、名士の「手記」「日記」と称するものには、時流に迎合したり、責任を転嫁しようとする記事も散見されるので、それらを訂正して、史実に誤りなきを記すのも、私に課せられた仕事の一つであると思う次第である。」

<石川信吾海軍少将プロフィル>

 明治27年1月1日生まれ。山口県出身。大正3年海軍兵学校卒(42期)。砲術学校高等科卒。

 昭和2年海軍大学校(甲種・25期)卒。海軍艦政本部部員。海軍軍令部参謀。

 昭和9年艦隊参謀。昭和11年蘭印、欧米各国視察。11月海軍大佐。昭和12年、特務艦「知床」艦長、戦艦「厳島」艦長。

 昭和13年青島海軍特務部長。昭和14年11月興亜院政務部第一課長。昭和15年海軍省軍務局第二課長。

 昭和17年6月南西方面艦隊参謀副長。昭和17年11月  海軍少将。

 昭和18年 1月第23航空戦隊司令官。昭和18年11月  軍需省総動員局総務部長。

 昭和19年11月運輸本部長兼大本営戦力補給部長。元海軍少将。1964年(昭和39年)死去。


 石川信吾著「真珠湾までの経緯~開戦の真相」(時事通信社)によると、昭和6年の満州事変勃発後、昭和8年1月28日、上海事変が勃発した。

 石川中佐は当時海軍軍令部で軍備担当の主任参謀をつとめていた。戦火が上海まで及んだと言う事は日米関係に容易ならない事態が発生する可能性があると思いこれに備える準備が必要と考えた。

 当時の海軍の焦眉の急と考えられたのは弾丸問題であった。信じられない事だが、当時の主力艦用の弾丸は第一次世界大戦当時の旧式なものであり、これがアメリカの近代艦に命中したとしてもその装甲板には猫が爪でひっかいたていどの傷しかつけられぬしろものであった。

 つまり日本海軍は実戦に役立つ大口径の弾丸は一発もなかったのである。

 もっとも当時は丸一式徹甲弾という強力な弾丸が完成、試射もパスしていた。この弾丸はアメリカのいかなる戦艦の装甲板もらくらくと打ち抜く威力を備えていた。

 しかし、旧式弾丸とこの新式弾丸の入れ替えが予算の関係で出来ていなかった。

 また新たに建造された巡洋艦や駆逐艦は予算不足のため、多くは弾丸なしのままで所属部隊へ配置されていた。これらは士気に響くので当事者以外には極秘にされていた。