在アメリカ大使館附武官・永野修身(ながの・おさみ)海軍大佐(高知・海兵二八期・次席・海大八期・人事局局員<第一課>・大佐・人事局第一課長・巡洋艦「平戸」艦長・在米国大使館附武官・ワシントン会議全権随員・少将・軍令部第三班長・第三戦隊司令官・第一遣外艦隊司令官・練習艦隊司令官・中将・海軍兵学校校長・軍令部次長・ジュネーヴ会議全権・横須賀鎮守府司令長官・大将・ロンドン会議全権・連合艦隊司令長官・議定官・高等技術会議議長・軍令部総長・元帥・終戦・A級戦犯・昭和二十二年一月五日急性肺炎で死去・享年六十六歳・従二位・勲一等旭日大綬章)。
軍令部作戦課長・末次信正(すえつぐ・のぶまさ)大佐(山口・海兵二七期・五〇番・海大七期・恩賜・第一艦隊参謀・大佐・巡洋艦「筑摩」艦長・軍令部第一班第一課長・ワシントン会議随員・軍令部第一班長心得・少将・第一戦水戦隊司令官・海軍大学校教官・海軍省教育局長・中将・軍令部次長・舞鶴鎮守府司令長官・第二艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・予備役・内務大臣・内閣参議・昭和十九年十二月二十九日病死・享年六十四歳・従二位・勲一等旭日大綬章)。
海軍省高級副官・野村吉三郎(のむら・きちさぶろう)海軍大佐(和歌山・海兵二六・次席・在米国大使館附武官・大佐・装甲巡洋艦「八雲」艦長・パリ講和会議全権委員随員・海軍省副官・ワシントン会議随員・少将・軍令部第三班長・第一遣外艦隊司令官・海軍省教育局長・軍令部次長・中将・練習艦隊司令官・呉鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・第三艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・学習院長・外務大臣・在米国特命全権大使・枢密顧問官・終戦・日本ビクター社長・参議院議員・昭和三十九年五月八日病死・享年八十六歳・従二位・勲一等旭日桐花大綬章)。
参謀本部第二部長・田中国重(たなか・くにしげ)陸軍少将(鹿児島・陸士四期・陸大一四期・恩賜・満州軍参謀・大佐・後備混成第四旅団参謀長・在米国大使館附武官・騎兵第一六連隊長・侍従武官・在英国大使館附武官・少将・パリ講和会議全権委員随員・参謀本部第二部長・ワシントン会議随員・騎兵第三旅団長・中将・第一五師団長・近衛師団長・台湾軍司令官・大将・軍事参議官・予備役・明倫会主宰・昭和十六年三月九日心臓麻痺で死去・享年七十一歳・正三位・勲一等瑞宝章)。
陸軍大臣秘書官・建川美次(たてかわ・よしつぐ)陸軍中佐(新潟・陸士一三期・陸大二一期・恩賜・ワシントン会議随員・騎兵第五連隊長・・大佐・参謀本部欧米課長・少将・在支那公使館附武官・参謀本部第二部長・参謀本部第一部長・ジュネーヴ会議全権随員・国際連盟常設委員会陸軍代表・中将・第一〇師団長・第四師団長・予備役・駐ソ大使・大政翼賛会総務・大日本翼賛壮年団長・昭和二十年九月九日死去・享年六十四歳・勲一等・功四級)。
日本海海戦に勝った後、当時の日本海軍の軍令部や海軍大学校の教官たちは、次の戦争の仮想敵国はアメリカであると規定していた。
彼らは、アメリカ太平洋横断作戦を、つぎのような輪型陣で進攻してくるものと想定していた。
アメリカ海軍は日本の八八艦隊に対して、十十艦隊を整備して、新型戦艦十隻を中心に単縦陣とし、その周囲に重巡洋艦十隻を護衛に配備、さらにその周囲、及び前方に駆逐艦多数を配置する。
こうしてサンフランシスコ軍港を出発し、太平洋を横断して、フィリピンのキャビテ軍港に向かう。そしてフィリピンを基地にして日本と南方の通商を破壊し、最終的に日本海軍に決戦を挑む。
随って、日米決戦ともなれば、敵の十十艦隊に対して、日本は八八艦隊で応戦しなければならない。
この場合、戦艦の数が十対八ならばどうにかやれる。それは本土に接近する前に、漸滅作戦で敵の戦艦を八隻にまで削っておくことが可能であるからだ。
しかし、初めから敵の十に対して我が方が七か六では、漸滅作戦は成り立たない。
そこで、海軍大学校の校長である加藤寛治中将は海軍大学校の英才を集めて計算をした。
結論は、敵の十に対して、我が方は最初に七は必要である。それならば、漸滅作戦で本土決戦のときは、敵の八に対して七である。また、敵が七でも、我が方が六ならば勝負に勝てる。
しかし、最初から十対六、即ち五対三では、いかに漸滅作戦を活用しても対等の勝負に持ち込むことは難しい。
これが、日本海軍の軍令系統の戦術であり、ワシントン会議首席随員である加藤寛治中将の“信念”だった。
軍令部作戦課長・末次信正(すえつぐ・のぶまさ)大佐(山口・海兵二七期・五〇番・海大七期・恩賜・第一艦隊参謀・大佐・巡洋艦「筑摩」艦長・軍令部第一班第一課長・ワシントン会議随員・軍令部第一班長心得・少将・第一戦水戦隊司令官・海軍大学校教官・海軍省教育局長・中将・軍令部次長・舞鶴鎮守府司令長官・第二艦隊司令長官・連合艦隊司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・予備役・内務大臣・内閣参議・昭和十九年十二月二十九日病死・享年六十四歳・従二位・勲一等旭日大綬章)。
海軍省高級副官・野村吉三郎(のむら・きちさぶろう)海軍大佐(和歌山・海兵二六・次席・在米国大使館附武官・大佐・装甲巡洋艦「八雲」艦長・パリ講和会議全権委員随員・海軍省副官・ワシントン会議随員・少将・軍令部第三班長・第一遣外艦隊司令官・海軍省教育局長・軍令部次長・中将・練習艦隊司令官・呉鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・第三艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・学習院長・外務大臣・在米国特命全権大使・枢密顧問官・終戦・日本ビクター社長・参議院議員・昭和三十九年五月八日病死・享年八十六歳・従二位・勲一等旭日桐花大綬章)。
参謀本部第二部長・田中国重(たなか・くにしげ)陸軍少将(鹿児島・陸士四期・陸大一四期・恩賜・満州軍参謀・大佐・後備混成第四旅団参謀長・在米国大使館附武官・騎兵第一六連隊長・侍従武官・在英国大使館附武官・少将・パリ講和会議全権委員随員・参謀本部第二部長・ワシントン会議随員・騎兵第三旅団長・中将・第一五師団長・近衛師団長・台湾軍司令官・大将・軍事参議官・予備役・明倫会主宰・昭和十六年三月九日心臓麻痺で死去・享年七十一歳・正三位・勲一等瑞宝章)。
陸軍大臣秘書官・建川美次(たてかわ・よしつぐ)陸軍中佐(新潟・陸士一三期・陸大二一期・恩賜・ワシントン会議随員・騎兵第五連隊長・・大佐・参謀本部欧米課長・少将・在支那公使館附武官・参謀本部第二部長・参謀本部第一部長・ジュネーヴ会議全権随員・国際連盟常設委員会陸軍代表・中将・第一〇師団長・第四師団長・予備役・駐ソ大使・大政翼賛会総務・大日本翼賛壮年団長・昭和二十年九月九日死去・享年六十四歳・勲一等・功四級)。
日本海海戦に勝った後、当時の日本海軍の軍令部や海軍大学校の教官たちは、次の戦争の仮想敵国はアメリカであると規定していた。
彼らは、アメリカ太平洋横断作戦を、つぎのような輪型陣で進攻してくるものと想定していた。
アメリカ海軍は日本の八八艦隊に対して、十十艦隊を整備して、新型戦艦十隻を中心に単縦陣とし、その周囲に重巡洋艦十隻を護衛に配備、さらにその周囲、及び前方に駆逐艦多数を配置する。
こうしてサンフランシスコ軍港を出発し、太平洋を横断して、フィリピンのキャビテ軍港に向かう。そしてフィリピンを基地にして日本と南方の通商を破壊し、最終的に日本海軍に決戦を挑む。
随って、日米決戦ともなれば、敵の十十艦隊に対して、日本は八八艦隊で応戦しなければならない。
この場合、戦艦の数が十対八ならばどうにかやれる。それは本土に接近する前に、漸滅作戦で敵の戦艦を八隻にまで削っておくことが可能であるからだ。
しかし、初めから敵の十に対して我が方が七か六では、漸滅作戦は成り立たない。
そこで、海軍大学校の校長である加藤寛治中将は海軍大学校の英才を集めて計算をした。
結論は、敵の十に対して、我が方は最初に七は必要である。それならば、漸滅作戦で本土決戦のときは、敵の八に対して七である。また、敵が七でも、我が方が六ならば勝負に勝てる。
しかし、最初から十対六、即ち五対三では、いかに漸滅作戦を活用しても対等の勝負に持ち込むことは難しい。
これが、日本海軍の軍令系統の戦術であり、ワシントン会議首席随員である加藤寛治中将の“信念”だった。