ところが、明治天皇の条約批准が終わってわずか三日後の四月二十三日、ロシア、ドイツ、フランスの三国政府は、次の様に申し入れてきたのである。
「日本の遼東半島領有はただに清国の首都北京を危うくするばかりか、朝鮮の独立を有名無実に帰することとなるから、永く東洋の平和を保たんとするならば、よろしくその領有を破棄することを勧告する」。
これに対して、驚いた日本政府は、対策を練り、急遽、御前会議を開き、当時の伊藤博文首相は次の三案を提出した。
一、三国との武力衝突を覚悟の上で拒絶すること。
二、列国会議の開催を要請して問題の収拾を同会議に委ねること。
三、三国の勧告を容れ、講和条約の清国批准を待って改めて清国に還付すること。
このうち最も有力視されたのは、第二案の列国会議を開くことであった。
当時の外務大臣は、陸奥宗光(むつ・むねみつ・和歌山・海軍操練所・海援隊・明治維新後外国事務局御用掛・兵庫県知事・神奈川県令・地租改正局長・元老院議官・政府転覆に関与し投獄・伊藤博文により特赦・ヨーロッパ留学・帰国後外務省入省・駐米公使・農商務大臣・衆議院議員・枢密顧問官・外務大臣・子爵・日清戦争・伯爵・明治三十年八月肺結核で死去・享年五十三歳・正二位・旭日大綬章・ロシア帝国白鷲大綬章など)だった。
上記の第二案に対して、病気引きこもりのため、御前会議に列席しなかった陸奥宗光外相が反対の意見を具申してきた。
陸奥宗光外相は、次の様に主張した。
「列国会議を開催した場合、各国は自分勝手の利害を主張した挙句、遼東問題ばかりか、講和条約全般に及んで容喙(ようかい・横から口出しをする)してくることは火を見るよりも明らかである」
「しかも、英・米の両国は不介入の態度をとり、日本の期待する斡旋は到底望めなくなった。一方、ロシアはオデッサ(黒海に面してウクライナにある軍港)に軍用船を集結し、軍隊を極東に送る準備を進め、軍事干渉も辞せずとする情報が入ってきている今日、三国の勧告をそのまま受諾する以外に道はない」。
政府は、諸般の情勢を勘案し、ついに陸奥宗光外相の主張を容れ、清国の講和批准を待って、五月五日、正式に遼東半島還付のことを三国に通告した。
日本政府は、清国から、還付の代償として庫平銀(こへいぎん・清国の銀貨)三千万両(当時の約四五〇〇円=現在の約九〇〇〇億円)を受けて、わずかに面目を保った。
なお、勧告受諾の最終の決定は、陸奥宗光外相の私邸で行われたが、この時、伊藤博文首相と陸奥宗光外相は、あまりの国事の悲痛さに、相抱き合って号泣したと言われている。
明治二十八年五月十日、遼東半島還付の詔勅をもって、国民に告げ、またこの時、明治天皇は「遼東半島還付に際して」と題して、次の様な御製を詠まれた。
とる棹のこころ長くもこぎよせむ 蘆間の小舟さはりありとも
内容は「蘆(あし)が茂っている間を進む小舟は、障害があるが、取る棹のごとくに気を長く持って、漕いで行くのが良い」という意味。
ここにおいて、日本国民は上下を挙げて、心底深く臥薪嘗胆(復讐を成功させるために苦労に耐えること)を誓った。
このような国際・国内情勢の翌年、明治二十九年二月五日、野村吉三郎は海軍兵学校(二六期)に首席の成績で入校した。
当時の海軍兵学校の校長は、日高壮之丞(ひだか・そうのじょう)少将(鹿児島・海兵二期・軍事部二課・少佐・参謀本部海軍部第二局第一課長兼第二課長・欧米各国出張・大佐・海軍参謀部第二課長・装甲艦「金剛」艦長・コルベット「武蔵」艦長・装甲艦「龍驤」艦長・砲術練習所所長・防護巡洋艦「橋立」艦長・防護巡洋艦「松島」艦長・海軍兵学校校長・少将・常備艦隊司令官・中将・竹敷要港部司令官・常備艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・男爵・大将・予備役・昭和七年七月死去・享年八十四歳・正三位・勲一等旭日桐花大綬章・功二級)だった。