陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

705.野村吉三郎海軍大将(5)伊藤博文首相と陸奥宗光外相は、あまりの国事の悲痛さに、相抱き合って号泣した

2019年09月27日 | 野村吉三郎海軍大将

 ところが、明治天皇の条約批准が終わってわずか三日後の四月二十三日、ロシア、ドイツ、フランスの三国政府は、次の様に申し入れてきたのである。

 「日本の遼東半島領有はただに清国の首都北京を危うくするばかりか、朝鮮の独立を有名無実に帰することとなるから、永く東洋の平和を保たんとするならば、よろしくその領有を破棄することを勧告する」。

 これに対して、驚いた日本政府は、対策を練り、急遽、御前会議を開き、当時の伊藤博文首相は次の三案を提出した。

 一、三国との武力衝突を覚悟の上で拒絶すること。
 二、列国会議の開催を要請して問題の収拾を同会議に委ねること。
 三、三国の勧告を容れ、講和条約の清国批准を待って改めて清国に還付すること。

 このうち最も有力視されたのは、第二案の列国会議を開くことであった。

 当時の外務大臣は、陸奥宗光(むつ・むねみつ・和歌山・海軍操練所・海援隊・明治維新後外国事務局御用掛・兵庫県知事・神奈川県令・地租改正局長・元老院議官・政府転覆に関与し投獄・伊藤博文により特赦・ヨーロッパ留学・帰国後外務省入省・駐米公使・農商務大臣・衆議院議員・枢密顧問官・外務大臣・子爵・日清戦争・伯爵・明治三十年八月肺結核で死去・享年五十三歳・正二位・旭日大綬章・ロシア帝国白鷲大綬章など)だった。

 上記の第二案に対して、病気引きこもりのため、御前会議に列席しなかった陸奥宗光外相が反対の意見を具申してきた。

 陸奥宗光外相は、次の様に主張した。

 「列国会議を開催した場合、各国は自分勝手の利害を主張した挙句、遼東問題ばかりか、講和条約全般に及んで容喙(ようかい・横から口出しをする)してくることは火を見るよりも明らかである」

 「しかも、英・米の両国は不介入の態度をとり、日本の期待する斡旋は到底望めなくなった。一方、ロシアはオデッサ(黒海に面してウクライナにある軍港)に軍用船を集結し、軍隊を極東に送る準備を進め、軍事干渉も辞せずとする情報が入ってきている今日、三国の勧告をそのまま受諾する以外に道はない」。

 政府は、諸般の情勢を勘案し、ついに陸奥宗光外相の主張を容れ、清国の講和批准を待って、五月五日、正式に遼東半島還付のことを三国に通告した。

 日本政府は、清国から、還付の代償として庫平銀(こへいぎん・清国の銀貨)三千万両(当時の約四五〇〇円=現在の約九〇〇〇億円)を受けて、わずかに面目を保った。

 なお、勧告受諾の最終の決定は、陸奥宗光外相の私邸で行われたが、この時、伊藤博文首相と陸奥宗光外相は、あまりの国事の悲痛さに、相抱き合って号泣したと言われている。

 明治二十八年五月十日、遼東半島還付の詔勅をもって、国民に告げ、またこの時、明治天皇は「遼東半島還付に際して」と題して、次の様な御製を詠まれた。

 とる棹のこころ長くもこぎよせむ   蘆間の小舟さはりありとも

 内容は「蘆(あし)が茂っている間を進む小舟は、障害があるが、取る棹のごとくに気を長く持って、漕いで行くのが良い」という意味。

 ここにおいて、日本国民は上下を挙げて、心底深く臥薪嘗胆(復讐を成功させるために苦労に耐えること)を誓った。

 このような国際・国内情勢の翌年、明治二十九年二月五日、野村吉三郎は海軍兵学校(二六期)に首席の成績で入校した。

 当時の海軍兵学校の校長は、日高壮之丞(ひだか・そうのじょう)少将(鹿児島・海兵二期・軍事部二課・少佐・参謀本部海軍部第二局第一課長兼第二課長・欧米各国出張・大佐・海軍参謀部第二課長・装甲艦「金剛」艦長・コルベット「武蔵」艦長・装甲艦「龍驤」艦長・砲術練習所所長・防護巡洋艦「橋立」艦長・防護巡洋艦「松島」艦長・海軍兵学校校長・少将・常備艦隊司令官・中将・竹敷要港部司令官・常備艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・男爵・大将・予備役・昭和七年七月死去・享年八十四歳・正三位・勲一等旭日桐花大綬章・功二級)だった。


704.野村吉三郎海軍大将(4)要職に就いた野村吉三郎は身長一七八センチ、体重九〇キロで、当時としては巨漢だった

2019年09月20日 | 野村吉三郎海軍大将
 「悲運の大使 野村吉三郎」(豊田穣・講談社・409頁・1992年)によると、野村吉三郎は、明治十年(一八七七年)十二月十六日、和歌山城近くの、和歌山県和歌山市西釘貫町の益田喜三郎の三男として生まれた。

 父の益田喜三郎は、旧紀州藩士で、明治維新までは、大御番という戦闘部隊の小隊長に相当する武士で、二十五石をいただいていた。

 だが、明治維新後は、ご多分にもれず、生活が困窮した。益田喜三郎は時代の変化についていけず、半ば、虚脱状態だった。

 ところが、母の旦都(そと)は儒学者の家の出身で、学問があり、子供達の教育にも厳しかった。益田吉三郎(後に養子となり野村吉三郎)が、日本の運命を担う海軍大将、外交官、政治家に成長したのは、この母、旦都の薫陶の賜物と言われている。

 益田吉三郎は、他の兄と共に漢学の塾に通わされた。だが、他の組が論語などの素読をしているのに、吉三郎は、庭に出て、仲間と木刀を振り回し、大騒ぎをしていた。

 このような益田吉三郎に対して、耳の遠い老いた先生は、馬耳東風で叱ることはしなかったという。だが、後に野村吉三郎は後に、「この塾で学んだことは、後に大いに役に立った」と回想している。

 後に“和歌山の大西郷”と呼ばれるほどの人材になり、海軍軍人、政治家として要職に就いた野村吉三郎は身長一七八センチ、体重九〇キロで、当時としては巨漢だった。

 子供の教育に熱心であった、母の旦都であったが、長男・網之助は、頭は良かったが、和歌山市立始成尋常小学校卒業後、建具屋に見習いに出された。

 頭の良かった網之助は、試験を受けて、警察に入り、警備係の任務に就いていた。警察の中でも好人物で知られていたが、大酒豪で、大正三年に丹毒で病死した。

 次男・亀次郎も、高等小学校卒業後、上京して日本橋の書店に奉公していたが、世に出ず、早世した。

 妹のせいは、吉三郎より十歳年少だったが、その後、陸軍少佐・保田芳雄に嫁いだ。

 だが、和歌山市立始成尋常小学校、和歌山高等小学校でも常に首席を争った三男・吉三郎だけは、上級の教育を受けさせたいと思った旦都は、吉三郎を和歌山中学校に入学させた。

 明治二十九年二月、益田吉三郎は海軍兵学校(二六期)に首席で入学した。この年、益田吉三郎は、叔母の嫁ぎ先の野村正胤の養子となり、野村吉三郎となった。

 当時、海軍兵学校は四年制で、一年生は「四号生徒」、二年生は「三号生徒」、三年生は「二号生徒」、四年生は「一号生徒」と呼ばれていた。

 “一号生徒は鬼より怖い”と言われ、新入りの四号生徒は一号生徒に殴られ、しごかれた。日清戦争直後の鼻息荒い海軍兵学校に入校した野村吉三郎達の二六期生は、この一号生徒(二三期生)から鍛えられた。

 明治二十九年に野村吉三郎が兵学校に入校した当時の、日本帝国を取り巻く国際情勢は次のようなものであった。

 明治二十七年八月一日、日本は清国に宣戦布告。九月十七日、日本海軍は黄海の海戦で清国の北洋艦隊を破り、北洋艦隊は旅順に逃げ、さらに威海衛軍港に閉じこもった。

 日本艦隊はこれを封鎖、水雷艇隊の夜襲などで、敵の旗艦「定遠」を擱座せしめ、他の軍艦にも大損害を与えた。

 明治二十八年二月十二日、北洋艦隊の丁汝昌(ていじょしょう)提督は自決、北洋艦隊は降伏し、日本の勝利が確定した。

 世界各国は、“眠れる獅子”と恐れられた清国を破った、小さな島国、日本帝国の軍事力と、その闘志に注目するようになった。

 明治二十八年四月十七日、日清講和会議が開かれ、講和条約が調印され、日本は清国から遼東半島、台湾等を割譲されることになった。

 日本国内では、戦勝のちょうちん行列、凱旋将軍、提督を迎える万歳の声、帝都は勝利の感激に沸き返っており、国を挙げて喜びに浸っていた。

703.野村吉三郎海軍大将(3)野村大将の予備役編入は、昭和十二年四月六日。その後、学習院長、外務大臣、在米国特命全権大使、枢密顧問官を歴任

2019年09月13日 | 野村吉三郎海軍大将
 少佐進級は、七人とも揃って、明治四十一年九月二十五日。

 中佐進級は、首席の木原静輔少佐を除いた六人全員が、大正二年十二月一日。木原静輔少佐は大正三年、少佐で予備役に編入され、大正六年に死去。病死と思われる。

 大佐進級は、野村中佐と小林中佐が、大正六年四月一日。清河中佐と長沢中佐が大正六年十二月一日。吉武中佐と鈴木中佐が、大正七年十二月一日。

 少将進級は、小林大佐が、大正十一年四月一日。野村大佐が、大正十一年六月一日。清河大佐と長沢大佐が、大正十一年十二月一日。吉武大佐が、大正十二年十二月一日。鈴木大佐は、大正十二年四月一日予備役編入。

 中将進級は、野村少将と小林少将、清河少将、長沢少将が、大正十五年十二月一日。吉武少将は、大正十三年二月二十五日予備役編入。

 大将進級は、小林中将と野村中将が、昭和八年三月一日。清河中将は、昭和六年三月三十一日予備役編入。長沢中将は、昭和三年三月二十五日予備役編入。

 小林大将の予備役編入は、昭和十一年三月三十日。その後、台湾総督、貴族院議員、国務大臣を歴任。

 野村大将の予備役編入は、昭和十二年四月六日。その後、学習院長、外務大臣、在米国特命全権大使、枢密顧問官を歴任。

<野村吉三郎(のむら・きちさぶろう)海軍大将プロフィル>

明治十年(一八七七年)十二月十六日生まれ。和歌山県和歌山市出身。旧紀州藩士・増田喜三郎の三男。
明治二十五年(十五歳)四月和歌山中学校入校。
明治二十七年(十七歳)七月、日清戦争勃発。九月、和歌山中学校三年生の時、海軍兵学校を受験するも英語の点数不足で不合格。
明治二十八年(十八歳)和歌山中学校修了。上京後、私立海城中学校(海軍予備校)に入学。
明治二十九年(十九歳)二月海軍兵学校入校(首席)。叔母が嫁いだ、野村正胤の養子となる。
明治三十一年(二十一歳)十二月海軍兵学校卒業(二六期・次席)、少尉候補生。
明治三十三年(二十三歳)一月少尉。
明治三十四年(二十四歳)五月一等戦艦「三笠」(一五一四〇トン)乗組(英国出張・回航委員)。十月中尉。
明治三十五年(二十五歳)九月砲艦「摩耶」(六〇二トン)分隊長心得。
明治三十六年(二十六歳)一月装甲艦「金剛」(二二〇〇トン)航海長心得兼分隊長心得。七月装甲巡洋艦「常磐」(九七〇〇トン)分隊長心得。九月大尉。
明治三十七年(二十七歳)十月巡洋艦「済遠」(二四四〇トン)航海長。十二月佐世保鎮守府附。
明治三十八年(二十八歳)一月仮装砲艦「京城丸」航海長。六月防護巡洋艦「高千穂」(三六五〇トン)航海長。十一月海軍兵学校教官(航海術)兼監事。
明治三十九年(二十九歳)十月防護巡洋艦「橋立」(四二一七トン)航海長。
明治四十年(三十歳)八月横須賀鎮守府参謀。十二月防護巡洋艦「千歳」(四七六〇トン)航海長。
明治四十一年(三十一歳)三月オーストリア駐在。九月少佐。
明治四十三年(三十三歳)五月ドイツ駐在。
明治四十四年(三十四歳)五月命帰朝。九月防護巡洋艦「音羽」(三〇〇〇トン)副長。
明治四十五年(三十五歳)六月海軍省軍務局局員。
大正二年(三十六歳)二月軍務局局員兼大臣秘書官。十二月中佐。
大正三年(三十七歳)十二月在米国大使館附武官。
大正六年(四十歳)四月大佐。
大正七年(四十一歳)十月装甲巡洋艦「八雲」(九六四六トン)艦長。十一月軍令部出仕兼参謀。十二月ヨーロッパ出張。
大正八年(四十二歳)二月講和全権委員随員。
大正九年(四十三歳)四月海軍省副官。
大正十年(四十四歳)八月ワシントン会議随員。
大正十一年(四十五歳)六月少将。
大正十二年(四十六歳)九月第一遣外艦隊司令官。
大正十四年(四十八歳)四月軍令部出仕兼海軍省出仕。九月海軍省教育局長。
大正十五年(四十九歳)七月海軍軍令部次長。十二月中将。
昭和三年(五十一歳)十二月軍令部出仕。
昭和四年(五十二歳)二月練習艦隊司令官。
昭和五年(五十三歳)一月軍令部出仕兼海軍省出仕。六月呉鎮守府司令長官。
昭和六年(五十四歳)十二月横須賀鎮守府司令長官。
昭和七年(五十五歳)二月第三艦隊司令長官。六月軍事参議官。十月横須賀鎮守府司令長官。
昭和八年(五十六歳)三月大将。十一月軍事参議官。
昭和九年(五十七歳)四月功二級。
昭和十二年(六十歳)四月予備役。学習院長。
昭和十四年(六十二歳)九月安倍信行内閣外務大臣。
昭和十五年(六十三歳)一月辞職。十一月在米国特命全権大使。
昭和十七年(六十五歳)八月帰朝。
昭和十九年(六十七歳)五月枢密顧問官。
昭和二十一年(六十九歳)六月辞職。八月公職追放。
昭和二十八年(七十六歳)三月日本ビクター社長。
昭和二十九年(七十七歳)六月第三回参議院議員補欠選挙当選、参議院議員。
昭和三十四年(八十二歳)六月第五回参議院議員補欠選挙当選、参議院議員。自由民主党で防衛政策担当。外交調査会会長、自由民主党参議院議員会長。
昭和三十九年五月八日、国立東京第一病院で死去。享年八十六歳。従二位、旭日桐花大綬章、功二級。







702.野村吉三郎海軍大将(2)三番の小林躋造大尉と一〇番の清河純一大尉は、海軍大学校甲種学生の六期と五期を、それぞれ首席で卒業

2019年09月06日 | 野村吉三郎海軍大将
 明治四十一年三月三日付で、野村吉三郎大尉は、オーストリア駐在を仰せ付けられたのだが、この当時の、野村喜三郎大尉の海軍兵学校の主要な同期生を列挙してみる。

 野村吉三郎大尉は、明治三十一年十二月に卒業した海軍兵学校二六期(五十九名)の次席(卒業成績)だった。

 二六期の首席は、当時(明治四十一年九月)、海軍大学校(七期)学生だった木原静輔(きはら・しずほ)大尉(山口・海兵二六・首席・海大七・一等巡洋艦「日進」砲術長・装甲巡洋艦「吾妻」砲術長心得・装甲巡洋艦「生駒」砲術長心得・海軍大学校甲種学生・少佐・一等戦艦「敷島」砲術長・軍令部参謀兼教育本部員・予備役・大正六年四月死去・享年四十歳・中佐進級)。

 二六期の次席は、当時、オーストリア駐在員だった野村吉三郎(のむら・きちさぶろう)大尉(和歌山・海兵二六・次席・横須賀鎮守府参謀・防護巡洋艦「千歳」航海長・オーストリア駐在・少佐・ドイツ駐在・防護巡洋艦「音羽」副長・軍務局局員・大臣秘書官・中佐・在米国大使館附武官・大佐・装甲巡洋艦「八雲」艦長・ヨーロッパ出張・講和全権委員随員・海軍省副官・ワシントン会議随員・少将・軍令部第三班長・第一遣外艦隊司令官・海軍省教育局長・軍令部次長・中将・練習艦隊司令官・呉鎮守府司令長官・第三艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・軍事参議官・予備役・学習院長・外務大臣・在米国特命全権大使・太平洋戦争開戦・枢密顧問官・終戦・日本ビクター社長・参議院議員・自由民主党参議院議員会長・昭和三十九年五月死去・享年八十六歳・従二位・旭日桐花大綬章・功二級)。

 二六期の三席は、当時、海軍大学校(六期)学生だった小林躋造(こばやし・せいぞう)大尉(海兵二六・三席・海大六・首席・防護巡洋艦「厳島」砲術長・佐世保鎮守府参謀・海軍大学校甲種学生・少佐・戦艦「石見」砲術長・軍務局局員・大臣秘書官・英国駐在・米国駐在・中佐・装甲巡洋艦「磐手」副長・海軍大学校教官・大佐・巡洋艦「平戸」艦長・海軍省副官・在英国大使館附武官・少将・第三戦隊司令官・海軍省軍務局長・中将・ジュネーヴ会議全権随員・練習艦隊司令官・艦政本部長・海軍次官・第一艦隊司令長官・大将・連合艦隊司令長官・軍事参議官・予備役・台湾総督・貴族院議員・国務大臣・終戦・昭和三十七年七月死去・享年八十四歳・勲一等旭日大綬章)。

 二六期の四席は、当時、軍大学校(六期)学生だった吉武貞輔(よしたけ・さだすけ)大尉(山口・海兵二六・四席・海大六・防護巡洋艦「浪速」航海長・駆逐艦「春雨」艦長・海軍大学校甲種学生・少佐・装甲巡洋艦「浅間」航海長・佐世保予備艦隊参謀心得・呉鎮守府参謀・防護巡洋艦「矢矧」副長・中佐・装甲巡洋艦「八雲」副長・軍務局局員・大佐・軍令部参謀・海軍省軍需局第三課長・少将・予備役・昭和二十年二月死去・享年六十五歳)。

 二六期の五席は、当時、軍令部員だった鈴木乙免(すずき・おつめん)大尉(福島・海兵二六・五席・一等戦艦「三笠」分隊長・軍令部部員・少佐・中佐・駐ロシア大使館附武官・防護巡洋艦「音羽」艦長・防護巡洋艦「音羽」<座礁・全損>・軍令部第五課長・大佐・予備役・昭和二十年十月死去・享年六十八歳)。

 二六期の一〇席は、当時、伏見宮博恭王(中佐)附武官だった清河純一(きよかわ・じゅんいち)大尉(鹿児島・海兵二六・一〇席・海大五・首席・海軍大学校甲種学生・伏見宮博恭王(中佐)附武官・少佐・防護巡洋艦「音羽」副長・東伏見宮依仁親王(大佐)附武官・横須賀予備艦隊中佐参謀心得・軍令部参謀兼陸軍大学校兵学教官・中佐・海軍大学校教官・第二艦隊参謀・海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官・大佐・軍令部第一班第一課長・兼海軍大学校教官・欧米各国出張・国連海軍代表随員・少将・国連海軍代表・軍令部参謀兼海軍大学校教官・中将・第五戦隊司令官・鎮海警備府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・予備役・昭和十年三月死去・享年五十七歳・正四位・功四級)。

 二六期の三五席は、当時、佐世保鎮守府附の長沢直太郎(ながさわ・なおたろう)大尉(岩手・海兵二六・三五席・三等駆逐艦「響」艦長・佐世保鎮守府附・少佐・装甲巡洋艦「磐手」分隊長・一等戦艦「霧島」水雷長・佐世保予備艦隊副官・佐世保鎮守府副官・中佐・巡洋艦「筑摩」副長・第一駆逐隊司令・第一四駆逐隊司令・海軍水雷学校教官・大佐・装甲巡洋艦「日進」艦長・海軍兵学校教頭兼監事長・戦艦「伊勢」艦長・少将・第一水雷戦隊司令官・呉鎮守府参謀長・第二水雷戦隊司令官・海軍水雷学校校長・中将・鎮海警備府司令官・予備役・後備役・予備役・退役・終戦・昭和四十二年十二月死去・享年九十歳・功四級)。

 以上、海軍兵学校二六期の主要人物七人の、進級状況を比較してみる。

 六人のうち、二番の野村吉三郎大尉と、五番の鈴木乙免大尉、三五番の長沢直太郎大尉は、海軍大学校を卒業していない。

 ちなみに、三番の小林躋造大尉と一〇番の清河純一大尉は、海軍大学校甲種学生の六期と五期を、それぞれ首席で卒業している。