陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

435.乃木希典陸軍大将(15)児玉中佐は、「乃木はいくさが下手だ」と、大笑いした

2014年07月25日 | 乃木希典陸軍大将
明治十三年四月、第一連隊長・乃木希典中佐は歩兵大佐に昇進した。三十二歳だった。

同時に、二十八歳の児玉源太郎少佐が歩兵中佐に昇進し、東京鎮台歩兵第二連隊長(下総佐倉)を命ぜられた。

「殉死」(司馬遼太郎・文春文庫)によると、児玉源太郎は長州毛利家の分家である徳山毛利藩の旧藩士であり、乃木希典と同じ長州人だったが、藩閥の恩恵をあまり受けなかった。

児玉は戊辰の役で秋田、函館で転戦し、東京に帰りフランス式の教練を受けた。そのあと、正式に陸軍の辞令を受けたが、乃木が少佐だったのに比べて、児玉は下士官の最下級の伍長に任命された。

だが児玉は頑張り、伍長から四年後には曹長になった。そして、乃木が少佐になった明治四年八月に、児玉はやっと陸軍少尉に任官した。

だが、その後、児玉は、その偉大な才幹を認められ、少尉になって一か月後の明治四年九月に中尉、明治五年七月に大尉、明治七年十月には少佐に昇進した。

この稀代の戦術家と言われた児玉源太郎は、明治十年の西南の役では熊本鎮台の参謀として、作戦のほとんどを立案している。性格は快活で機敏、しかも二六時中しゃべり続けている饒舌家だった。

児玉は、背は五尺(約一五二センチ)ほどしかなく、真夏に裸で縁台に涼んでいる姿は、どうみても俥引き程度にしか見えなかったという。その後、明治十六年二月には、三十一歳で歩兵大佐に昇進している。

明治十三年四月児玉源太郎が第二連隊長になってから、東京鎮台の第一連隊と第二連隊の対抗演習が習志野で行われた。第一連隊長は乃木大佐、第二連隊長は児玉中佐だった。

ドイツ帝国のモルトケ参謀総長から派遣されたメッケル少佐が、明治十八年に、日本帝国の陸軍大学校の兵学教官として着任し、ドイツ式軍制を日本陸軍に制定した。

それ以前は、日本陸軍の軍制・戦術はフランス式だった。フランス式戦術はナポレオン戦術で、ナポレオンの十八番である中央突破を特に重視した戦術だった。

東京鎮台の第一連隊と第二連隊の対抗演習が始まると、第二連隊長・児玉源太郎中佐は、乃木希典大佐の指揮する第一連隊の展開の様子から見て、両翼攻撃の意図があるのを察知した。

そこで児玉大佐は第二連隊を軽快に運動させて、隊形を縦隊に変え、縦隊のまま、今まさに両手を広げたように展開を完了した第一連隊の中央に突進し、突破して分断し、その後包囲して、勝利した。

馬を進めつつ、首筋の蚊をたたきながら、児玉中佐は、「乃木はいくさが下手だ」と、大笑いした。確かに乃木の戦歴は、演習も含めて勝利が少なかったという。

当時軍人の間では、その乃木と児玉の対抗演習が話題になり、それで、「気転利かしたあの乃狐を、六分の小玉にしてやられ」という都々逸までできた。

気転は「希典」で乃木の名前、乃狐(野ギツネ)は「乃木」のことで、六分は一寸に満たない、つまり「小さな」。小玉は「児玉」のことだった。

だが、その中央突破というナポレオン戦術も、ドイツ人のメッケル少佐が陸軍大学校の兵学教官に着任後変更され、日本陸軍の戦術は、突破よりも、包囲を重視する傾向に変わった。

以後太平洋戦争の終わりまで、包囲重視は日本陸軍の作戦の根底にあった。日本陸軍の指導者は、ほとんど陸軍大学校卒業者だった。

明治十八年五月二十一日、乃木希典大佐は少将に昇進し、即日、歩兵第十一旅団長に任ぜられ、同時に熊本鎮台司令官となった。

「乃木大将実伝」(碧瑠璃園・隆文館)によると、乃木少将が熊本へ赴任する時、母親の寿子、静子夫人、勝典、保典ら子供たちも同伴した。

当時、軍人間には、大酒でも飲んで秩序のない遊びをする様でなくては軍人ではない、というような乱暴な風儀があり、熊本にはそれが大いにあった。

乃木少将が赴任早々にも、「旅団長一杯飲ませて下さい」などと深夜にやって来る青年士官もおり、家族の困却も一通りではなかった。

どうにかしてその悪風を矯正したいと思った乃木少将は、まず自分から好きな酒もあまり飲まないようにして、ちょっとした間違いも容赦なくやかましく言うという態度で部下に臨んだ。

434.乃木希典陸軍大将(14)こういう事は早く披露しておくほうが良い。おいどんから吹いてやる

2014年07月18日 | 乃木希典陸軍大将
 麹町紀尾井町七番地に伊瀬知大尉の新宅はできていた。新宅披露の来賓には次の人々が招待されて出席したが、彼らは当時の絢爛たる明治の将星たちであった。

 主席の東京鎮台司令長官・野津鎮雄(のづ・しずお)陸軍少将(鹿児島・薩英戦争出征・戊辰戦争出征・陸軍大佐・少将・陸軍省第四局長・佐賀の乱出征・熊本鎮台司令長官代理・陸軍築造局長・東京鎮台司令長官・西南戦争出征・第一旅団司令長官・中将・中部監軍部長・死去・正三位・勲二等)。

 野津鎮雄少将の弟、野津道貫(のづ・みちつら)陸軍大佐(鹿児島・戊辰戦争出征・鳥羽伏見の戦い出征・会津戦争出征・函館戦争出征・陸軍少佐・中佐・陸軍省第二局副長・大佐・西南戦争出征・少将・陸軍省第二局長・東京鎮台司令長官・子爵・中将・広島鎮台司令長官・第五師団長・日清戦争出征・第一軍司令官・大将・伯爵・近衛師団長・東部都督・教育総監・第四軍司令官・日露戦争出征・元帥・侯爵・貴族院議員・大勲位菊花大綬章・正二位・功一級)。

 海軍卿・川村純義(かわむら・すみよし)海軍中将(鹿児島・長崎海軍伝習所・戊辰戦争出征・会津戦争出征・海軍大輔・海軍中将・西南戦争出征・海軍総司令官・海軍卿・枢密院顧問・死後海軍大将・従一位・勲一等・伯爵)。

 近衛参謀長・樺山資紀陸軍大佐(鹿児島・鳥羽伏見の戦い出征・陸軍少佐・台湾事変出征・中佐・熊本鎮台参謀長・西南戦争出征・陸軍大佐・近衛参謀長・警視総監・陸軍少将・海軍に転じ海軍大輔・海軍次官・海軍大臣・枢密顧問官・海軍軍令部長・日清戦争出征・海軍大将・伯爵・初代台湾総督・内務大臣・文部大臣・従一位・大勲位・功二級)。

 
 参議・西郷従道(さいごう・よりみち)陸軍中将(鹿児島・西郷隆盛の弟・戊辰戦争出征・太政官・陸軍少将・中将・陸軍卿代行・近衛都督・参議・陸軍卿・農商務卿・開拓使長官・伯爵・海軍大臣・内務大臣・枢密顧問官・海軍大将・侯爵・元帥・従一位・大勲位・功二級)。

 
 伊瀬知大尉の新宅披露の来賓には、その外薩摩の多数の軍将たちも招かれていた。乃木中佐も、その一人として列席したのだ。奥には、湯地定基の妻とお七が来ていた。

 宴席が始まり、盃が一巡した時分に、伊瀬知大尉は主席の野津鎮雄陸軍少将の前に出て、挨拶の言葉を述べた後、「乃木中佐に、妻の世話を致しました」と話し、「特に見合いと言うと、乃木中佐が嫌いますので、今日の宴会を利用したのであります」と、言った。

 野津少将は「おいどん等は、それに立ち会った訳じゃな、ハッハハハハ」と笑った。そこで、伊瀬知大尉は「長州人ではありますが、彼は全くの別物で、特に将来のある軍将でありますから、閣下にこの媒酌を願いたいのですが、どうでありましょうか」と尋ねた。

 すると、野津少将は「よし、それはおいどんが引き受けた」と言って肯いた。伊瀬知大尉が「詳細の事は、明日申し上げるとして、陛下へのお願いも、閣下からよろしく御手続きを願います」と言うと、「よし。わかった。だが、今、ここで披露しておけ」と言った。

 「まだ、早いのでは」と伊瀬知大尉が言うと、「こういう事は早く披露しておくほうが良い。おいどんから吹いてやる」と言って気の早い野津少将は、立ち上がって、「オイ」と一同に声をかけた。列席者は、皆何事かと、箸を置いて、急に静かになった。

 
 野津少将は「今日は、伊瀬知の新宅祝いじゃが、それに加えて、もう一つめでたい事があるから、それを披露する。乃木中佐が、国元の湯地の娘を貰う事になったのじゃ。その媒酌はおいどんがする。お七ッつあんが、乃木中佐の妻になるのじゃから、実にめでたいことじゃ。前祝のしるしに、胴上げでもしてやれ」と言った。


 そこで、一同は乃木中佐を抑え込んだ。逃げ遅れた乃木中佐は、担ぎ上げられて、二、三度、畳に叩き付けられた。「見合いというものは、痛い」と乃木中佐は言った。

 こうして、明治十一年八月二十七日、芝櫻川町の乃木家で、結婚式が極めて質素に行われた。三々九度の式が済むと、宴席になった。

 乃木中佐は列席者たちと盛んに飲み、酔ったあげくに、とうとう相撲を取り始めた。夜も更けて、相撲を取った乃木中佐も、列席者も、そのまま寝込んでしまった。

 さすがに、お七も、これには、驚いた。新婚の第一夜が、このありさまであった。普通の娘なら、泣き出してしまっただろう。

 だが、男勝りの、お七は、負けぬ気を出して、着物を改め、金盥に水を汲んで来て、水にし浸した手拭いで、乃木中佐と友人の頭を冷やして回り、介抱した。

 翌朝、目覚めた客たちは、さすがに面目の悪いような様子で、すぐに帰ってしまった。乃木中佐も、起きて、周りを見回していたが、お七を見てしまった。

 お七が「お目覚めで御座いますか」と言うと、乃木中佐は「やあ、失敗した」と言った。お七は、顔が赤くなった。すると、乃木中佐は「これから連隊に行く」と言った。

 お七が「まだ、お早いでございましょう」と言いうと、「イヤ、早くてもよろしい」と言って、乃木中佐は、ずんずんと、家を出て行ってしまった。

433.乃木希典陸軍大将(13)まことにつまらぬものじゃ。ああいう事で、人間の生涯は極めたくはない

2014年07月11日 | 乃木希典陸軍大将
 鹿児島の城下に、医者を本業にしていて、儒学を教えていた、湯地定之という者がいた。長男の湯地定基は後に元老院議官から貴族院議員になっている。次男の定廉は海軍大尉で早死にしたが、三男の定監は海軍機関中将から貴族院議員になった。

 湯地定之には、娘も四人いて、四人目の娘が名を志知といい、お七と呼ばれていた。お七は安政六年十一月十七日生まれで、十四歳の時、東京へ移り、長男の湯地定基の家で女としての躾を厳しく受け、麹町女学校を卒業した。

 長男の湯地定基と伊瀬知大尉は、同国人という関係から、親しく交わって来た。伊瀬知大尉は、相談があるからといって、湯地定基を訪ねた。

 「お七さんに、この上もない相手があるのじゃが、相談に応じてくれまいか」と伊瀬知大尉が言うと、相手次第だし、生涯に関することだから、容易に定めることは出来ぬ。お七も嫁入る気があるかどうか、それを聞いてからにしたい」と湯地定基は答えた。

 さらに、湯地定基は「相手の名は聞かずともよいが、どういう身分の人か、というだけは、聞いておきたい」と問うたので、伊瀬知大尉は「陸軍中佐で、連隊長をしている人じゃ。年は三十一歳で、初婚だ」と答えた。

 「三十歳にもなって初婚というのはどういう理由か」と湯地定基が訊くと、「老母がいて、昔の武士気質の人で、普通の嫁を貰っても、容易に治まるまい、という懸念があって、いろいろ勧められても、今まで堪えていたので、遅れたのだ。その外に何の理由もない」と伊瀬知大尉は言った。

 「よく判りました。両三日のうちに、御返事を申し上げましょう」と湯地定基は言ってから、伊瀬知大尉に食事をすすめた。

 御馳走が出た。お七も杯盤(酒席の道具)の周旋(世話をする)をしていたが、その一挙一動が、テキパキとしていて、普通の女によく見る、やさし味には乏しいが、何となく淡泊としていて、気持ちが良い女性だった。

 三日後に湯地定基から来てくれとの手紙が届いたので、伊瀬知大尉は再び訪問した。湯地定基はお七に、「本人は良いようじゃが、母御というのが、余程むづかしい御方のように思われる。お前はどう思うか」と訊いた。

 すると、お七は「どうせ、お年寄りというのは、やかましいに極まっております。ほどよくお仕え申しましたら、左程のこともありますまい」と答えた。

 それで、湯地定基が伊瀬知大尉に、本人の身上について、聞いてみると、意外にも、「その本人というのは、乃木中佐である」と言うので、大いに喜んだ。

 次は、乃木中佐の方だった。伊瀬知大尉が、先方の家庭状況と、娘・志知(お七)の身上を話始めると、乃木中佐は「よく判った。それを定めてくれ」と言った。

 伊瀬知大尉が、あわてて、「まだ詳しいことは申し上げて御座いませぬ。年は…」と言いはじめると、乃木中佐は「もうよろしい。その上の事は聞かずとも、君がよい、と思ったら、それでよい。君を信じる」と言ったので、さすがに、伊瀬知大尉も驚いた。

 だが、伊瀬知大尉は、乃木中佐からこれほど信用されたなら、骨折りの甲斐があると思った。「それでは、お見合いの式を、どういう風にいたしますか。その点について…」と伊瀬知大尉がお見合いの段取りに入ると、乃木中佐は、「そんなことは、止めたらどうじゃ」と言った。

 伊瀬知大尉が驚いて、「見合いは止めるのですか?」と問い返すと、「俺も一度、友人のために、その式という者に立ち会って見たが、まことにつまらぬものじゃ。ああいう事で、人間の生涯は極めたくはない。虚礼のようなものじゃ」と言った。

 あわてて、伊瀬知大尉が「ごもっともでございますが、昔からの習慣ですから、やはり、一通りのことは、やっておくほうが良いと思います」と力説すると、乃木中佐は「君に任せるのじゃから、あえて反対はしないが、式をやるにしても、簡単にしてくれ」と答えた。

 見合いをどういう風にするか、伊瀬知大尉は悩んだ。乃木中佐は見合いを嫌っているので、都合のよい方法を考えなければならなかった。

 不意に思いついたのは、伊瀬知大尉の新宅が完成したので、郷里の先輩や親友を招いて、一夕の宴を張ることになっていたので、これを利用して、乃木中佐も招き、お七の方も呼んで、それとなく、見せ合えばよい、と考えた。

432.乃木希典陸軍大将(12)いやしくも、陸軍卿が、この位の事を知らないというのが、怪しからぬ

2014年07月04日 | 乃木希典陸軍大将
 乃木中佐は、歩哨のなしたことは、適法の処置としてかえって賞賛した位だったから、陸軍省からどういうことを言ってきても、更に取り合わなかった。

 「陸軍卿と知らずして、これを咎めたことは、まず赦すとしても、すぐに陸軍卿であることを告げられてからも、なお頑強に拒んだのは、不穏当である。連隊長がこれに関して相當の警告を与えず、却って歩哨を賞賛した、というのは甚だ宜しくない」というのが、陸軍省の主張だった。

 これに対して乃木中佐は次のように述べた。

 「いやしくも、陸軍卿が、この位の事を知らないというのが、怪しからぬことである。いずれの衛門でも無断乗り入れはならぬ、となっているのだから、それを咎めたのは当然の処置であって、少しも差し支えない」

 「陸軍卿が馬車を降りて徒歩したのは、歩哨が命じたのではなく、陸軍卿が自ら行ったことであるから、それは問題にならぬ」

 だが陸軍省ではこれを問題にしただけに、そのままには済まされなかった。遂に乃木中佐に謹慎を命じた。乃木中佐は止むを得ずこの命令に服したが、心の不平は断ち切れなかった。

 謹慎中も乃木中佐は平気で外出したり、友人を迎えたりしてしきりに気を吐いていた。長州軍閥の一人であるべき立場にたっていながらも、反抗的気分をもつようになったのは、この件が一つの原因になった。元来負けぬ気の乃木中佐は、押し付けられて来られると、頭を下げることができなかった。

 明治十一年八月二十七日、第一連隊長・乃木希典中佐(三十歳)は鹿児島藩士・湯地定之の四女・シズ(静子・二十歳)と結婚した。静子は幼名を「お七」といい、東京の麹町女学校出身だった。

 三十歳まで独身でいた乃木中佐は、遂に母・壽子(ひさこ)から「どうじゃね、大概にして、妻を迎えなさい」と強く言われて、しぶしぶ、その気になった。

 母が「私が捜してもよい」と言うのを断って、「いえ、自分で捜します」と言って、妻を迎える決心をした。だが、乃木中佐は妻を選ぶことを深く考えてはいたのだ。

 乃木中佐は、連隊に出勤し、退勤の時間が来ると、連隊副官・伊瀬知好成(いせじ・こうせい)大尉(鹿児島・歩兵第八連隊長・大佐・近衛歩兵第三連隊長・日清戦争・第一師団参謀長・少将・歩兵第一一旅団長・威海衛占領軍司令官・近衛歩兵第二旅団長・中将・第六師団長・予備役・男爵・貴族院勅選議員・勲一等・功四級)を呼んだ。

 乃木中佐は、「外の事でも、一身上の事であるが、急に妻を迎えることになったのじゃ。これから捜すのじゃが、それを、君に頼みたいのじゃよ」と言った。

 伊瀬知大尉が「そういうことなら、小官なぞに仰せがなくとも、お国元のご友人やご親戚の間で、いくらでも、人がおられるでしょう」と言うと、乃木中佐は「イヤ、わしは、長州の女が大嫌いであるから、君に頼もうというのじゃ」と答えた。

 続けて、「こんなことまで、長州の者に世話をされるのが厭じゃから、君を煩わしたいと思うのじゃ」と言った。伊瀬知大尉が「なるほど」と言うと、「わしは、薩摩の女が好きなのじゃ。どうせ生涯を一つにするのなら、好きな女の方がよいからな」とも言った。

 伊瀬知大尉は、乃木中佐の事をよく判っていた。同じ長州人でも、乃木中佐は少し気風が変わっていて、何となく別物扱いをされていたのだ。それで、他国人の自分に、こういう相談をするのだろうと思った。

 伊瀬知大尉は、「薩摩の婦人は、他国の人には不向きであります」と言って、次のように説明をした。

 「ご承知でございましょうが、薩摩は昔から夫人に対する躾が全然違っておりましたから、夫人の教育なぞは、あまり重んぜられないで、あたかも男と同じように強い女を、勇ましい女を、といった調子に、育て上げるところから、ほとんど男か女か区別のつかぬような女が、多くおりまして、とても他国の人には、世話をすることのできないものと、小官は思っているのでおります」。

 ところが、これを聞いた乃木中佐は、「そ、それが、よいのじゃ。男女の別の、はっきりしないのがよい。そういうのを、見つけてくれ」と言ったのだ。

 このようにして、頼まれると、伊瀬知大尉も頗るうれしい感じがして、乃木中佐のために、一肌脱ぐ気になったのだ。当時、長州の軍人の中で最も有望視されていた乃木中佐から、薩摩の女を頼まれたことも嬉しかった。