明治十三年四月、第一連隊長・乃木希典中佐は歩兵大佐に昇進した。三十二歳だった。
同時に、二十八歳の児玉源太郎少佐が歩兵中佐に昇進し、東京鎮台歩兵第二連隊長(下総佐倉)を命ぜられた。
「殉死」(司馬遼太郎・文春文庫)によると、児玉源太郎は長州毛利家の分家である徳山毛利藩の旧藩士であり、乃木希典と同じ長州人だったが、藩閥の恩恵をあまり受けなかった。
児玉は戊辰の役で秋田、函館で転戦し、東京に帰りフランス式の教練を受けた。そのあと、正式に陸軍の辞令を受けたが、乃木が少佐だったのに比べて、児玉は下士官の最下級の伍長に任命された。
だが児玉は頑張り、伍長から四年後には曹長になった。そして、乃木が少佐になった明治四年八月に、児玉はやっと陸軍少尉に任官した。
だが、その後、児玉は、その偉大な才幹を認められ、少尉になって一か月後の明治四年九月に中尉、明治五年七月に大尉、明治七年十月には少佐に昇進した。
この稀代の戦術家と言われた児玉源太郎は、明治十年の西南の役では熊本鎮台の参謀として、作戦のほとんどを立案している。性格は快活で機敏、しかも二六時中しゃべり続けている饒舌家だった。
児玉は、背は五尺(約一五二センチ)ほどしかなく、真夏に裸で縁台に涼んでいる姿は、どうみても俥引き程度にしか見えなかったという。その後、明治十六年二月には、三十一歳で歩兵大佐に昇進している。
明治十三年四月児玉源太郎が第二連隊長になってから、東京鎮台の第一連隊と第二連隊の対抗演習が習志野で行われた。第一連隊長は乃木大佐、第二連隊長は児玉中佐だった。
ドイツ帝国のモルトケ参謀総長から派遣されたメッケル少佐が、明治十八年に、日本帝国の陸軍大学校の兵学教官として着任し、ドイツ式軍制を日本陸軍に制定した。
それ以前は、日本陸軍の軍制・戦術はフランス式だった。フランス式戦術はナポレオン戦術で、ナポレオンの十八番である中央突破を特に重視した戦術だった。
東京鎮台の第一連隊と第二連隊の対抗演習が始まると、第二連隊長・児玉源太郎中佐は、乃木希典大佐の指揮する第一連隊の展開の様子から見て、両翼攻撃の意図があるのを察知した。
そこで児玉大佐は第二連隊を軽快に運動させて、隊形を縦隊に変え、縦隊のまま、今まさに両手を広げたように展開を完了した第一連隊の中央に突進し、突破して分断し、その後包囲して、勝利した。
馬を進めつつ、首筋の蚊をたたきながら、児玉中佐は、「乃木はいくさが下手だ」と、大笑いした。確かに乃木の戦歴は、演習も含めて勝利が少なかったという。
当時軍人の間では、その乃木と児玉の対抗演習が話題になり、それで、「気転利かしたあの乃狐を、六分の小玉にしてやられ」という都々逸までできた。
気転は「希典」で乃木の名前、乃狐(野ギツネ)は「乃木」のことで、六分は一寸に満たない、つまり「小さな」。小玉は「児玉」のことだった。
だが、その中央突破というナポレオン戦術も、ドイツ人のメッケル少佐が陸軍大学校の兵学教官に着任後変更され、日本陸軍の戦術は、突破よりも、包囲を重視する傾向に変わった。
以後太平洋戦争の終わりまで、包囲重視は日本陸軍の作戦の根底にあった。日本陸軍の指導者は、ほとんど陸軍大学校卒業者だった。
明治十八年五月二十一日、乃木希典大佐は少将に昇進し、即日、歩兵第十一旅団長に任ぜられ、同時に熊本鎮台司令官となった。
「乃木大将実伝」(碧瑠璃園・隆文館)によると、乃木少将が熊本へ赴任する時、母親の寿子、静子夫人、勝典、保典ら子供たちも同伴した。
当時、軍人間には、大酒でも飲んで秩序のない遊びをする様でなくては軍人ではない、というような乱暴な風儀があり、熊本にはそれが大いにあった。
乃木少将が赴任早々にも、「旅団長一杯飲ませて下さい」などと深夜にやって来る青年士官もおり、家族の困却も一通りではなかった。
どうにかしてその悪風を矯正したいと思った乃木少将は、まず自分から好きな酒もあまり飲まないようにして、ちょっとした間違いも容赦なくやかましく言うという態度で部下に臨んだ。
同時に、二十八歳の児玉源太郎少佐が歩兵中佐に昇進し、東京鎮台歩兵第二連隊長(下総佐倉)を命ぜられた。
「殉死」(司馬遼太郎・文春文庫)によると、児玉源太郎は長州毛利家の分家である徳山毛利藩の旧藩士であり、乃木希典と同じ長州人だったが、藩閥の恩恵をあまり受けなかった。
児玉は戊辰の役で秋田、函館で転戦し、東京に帰りフランス式の教練を受けた。そのあと、正式に陸軍の辞令を受けたが、乃木が少佐だったのに比べて、児玉は下士官の最下級の伍長に任命された。
だが児玉は頑張り、伍長から四年後には曹長になった。そして、乃木が少佐になった明治四年八月に、児玉はやっと陸軍少尉に任官した。
だが、その後、児玉は、その偉大な才幹を認められ、少尉になって一か月後の明治四年九月に中尉、明治五年七月に大尉、明治七年十月には少佐に昇進した。
この稀代の戦術家と言われた児玉源太郎は、明治十年の西南の役では熊本鎮台の参謀として、作戦のほとんどを立案している。性格は快活で機敏、しかも二六時中しゃべり続けている饒舌家だった。
児玉は、背は五尺(約一五二センチ)ほどしかなく、真夏に裸で縁台に涼んでいる姿は、どうみても俥引き程度にしか見えなかったという。その後、明治十六年二月には、三十一歳で歩兵大佐に昇進している。
明治十三年四月児玉源太郎が第二連隊長になってから、東京鎮台の第一連隊と第二連隊の対抗演習が習志野で行われた。第一連隊長は乃木大佐、第二連隊長は児玉中佐だった。
ドイツ帝国のモルトケ参謀総長から派遣されたメッケル少佐が、明治十八年に、日本帝国の陸軍大学校の兵学教官として着任し、ドイツ式軍制を日本陸軍に制定した。
それ以前は、日本陸軍の軍制・戦術はフランス式だった。フランス式戦術はナポレオン戦術で、ナポレオンの十八番である中央突破を特に重視した戦術だった。
東京鎮台の第一連隊と第二連隊の対抗演習が始まると、第二連隊長・児玉源太郎中佐は、乃木希典大佐の指揮する第一連隊の展開の様子から見て、両翼攻撃の意図があるのを察知した。
そこで児玉大佐は第二連隊を軽快に運動させて、隊形を縦隊に変え、縦隊のまま、今まさに両手を広げたように展開を完了した第一連隊の中央に突進し、突破して分断し、その後包囲して、勝利した。
馬を進めつつ、首筋の蚊をたたきながら、児玉中佐は、「乃木はいくさが下手だ」と、大笑いした。確かに乃木の戦歴は、演習も含めて勝利が少なかったという。
当時軍人の間では、その乃木と児玉の対抗演習が話題になり、それで、「気転利かしたあの乃狐を、六分の小玉にしてやられ」という都々逸までできた。
気転は「希典」で乃木の名前、乃狐(野ギツネ)は「乃木」のことで、六分は一寸に満たない、つまり「小さな」。小玉は「児玉」のことだった。
だが、その中央突破というナポレオン戦術も、ドイツ人のメッケル少佐が陸軍大学校の兵学教官に着任後変更され、日本陸軍の戦術は、突破よりも、包囲を重視する傾向に変わった。
以後太平洋戦争の終わりまで、包囲重視は日本陸軍の作戦の根底にあった。日本陸軍の指導者は、ほとんど陸軍大学校卒業者だった。
明治十八年五月二十一日、乃木希典大佐は少将に昇進し、即日、歩兵第十一旅団長に任ぜられ、同時に熊本鎮台司令官となった。
「乃木大将実伝」(碧瑠璃園・隆文館)によると、乃木少将が熊本へ赴任する時、母親の寿子、静子夫人、勝典、保典ら子供たちも同伴した。
当時、軍人間には、大酒でも飲んで秩序のない遊びをする様でなくては軍人ではない、というような乱暴な風儀があり、熊本にはそれが大いにあった。
乃木少将が赴任早々にも、「旅団長一杯飲ませて下さい」などと深夜にやって来る青年士官もおり、家族の困却も一通りではなかった。
どうにかしてその悪風を矯正したいと思った乃木少将は、まず自分から好きな酒もあまり飲まないようにして、ちょっとした間違いも容赦なくやかましく言うという態度で部下に臨んだ。