陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

692.梅津美治郎陸軍大将(32)新聞に伝えるような者を大臣にもってきても自分は承諾する意思はない

2019年06月28日 | 梅津美治郎陸軍大将
 昭和十五年初頭、大本営作戦課課員・今岡豊(いまおか・ゆたか)少佐(陸士三七・陸大四七・関東軍参謀・大佐・第七方面軍高級参謀・終戦)は、梅津関東軍司令官隷下の参謀部作戦課兵站班長として転任した。

 梅津美治郎中将が関東軍司令官に親補された経緯について、昭和十四年九月当時、大本営作戦課課員であった今岡豊少佐は、次の様に述べている。

 昭和十四年八月二十七日、平沼内閣は独ソ不可侵条約の成立による「複雑怪奇」の言を残して総辞職し、その後継内閣は、内大臣の推薦によって阿部信行陸軍大将に組閣の大命が下された。

 そして天皇は、阿部大将に対して、「陸軍大臣は梅津(美治郎中将)、畑(俊六大将)のなかから選ぶように」とのお言葉があった。

 当時の内大臣は湯浅倉平(ゆあさ・くらへい・山口・旧制山口高等学校・東京帝国大学法科大学政治学科卒・内務省・岡山県知事・静岡県知事・内務省警保局長・貴族院議員・警視総監・内務次官・朝鮮総督府政務総監・会計検査院長・宮内大臣・内大臣・昭和十五年肺気腫で死去・享年六十六歳・正二位・旭日桐花大綬章)だった。

 この辺りのことを内大臣・湯浅倉平は、八月三十一日朝、原田熊雄(はらだ・くまお・学習院高等科・京都帝国大学卒・男爵・日本銀行・加藤高明総理大臣秘書官・住友合資会社・西園寺公望私設秘書・貴族院男爵議員・昭和二十一年脳血栓で死去・享年五十七歳・男爵・従三位・勲三等)に次の様に話をしている。

 「総理親任の時に(親任は誤りで、組閣を命ぜられた時)、陛下は非常に陸軍のよくないことをつくづく慨歎されたあとで……『新聞に伝えるような者を大臣にもってきても自分は承諾する意思はない』と仰せられ極めて厳粛な御態度で『どうしても梅津か畑を大臣にするようにせよ。たとえ陸軍の三長官が議を決して自分の所にもってきても、自分にはこれを許す意思はない。なお政治は憲法を基準にしてやれ』と仰せられた」。

 この時は、陸軍大臣には畑大将が選ばれた。どうして畑大将になったかは明らかではないが、梅津将軍が戦地の軍司令官をしていることも幾分関係があったのかも知れない。

 梅津美治郎中将が、関東軍司令官兼駐満州国大使に着任して間もない、昭和十四年九月十日、支那大陸からノモンハン事件のため満州に転用された第五師団長が関東軍司令官・梅津美治郎中将に申告に来た。

 その第五師団長は今村均(いまむら・ひとし)中将(宮城・陸士一九・陸大二七首席・軍務局課員・歩兵大佐・軍務局徴募課長・参謀本部作戦課長・歩兵第五七連隊長・習志野学校幹事・少将・歩兵第四〇旅団長・関東軍参謀副長兼在満州国大使館附武官・歩兵学校幹事・陸軍省兵務局長・中将・第五師団長・教育総監部本部長・第二三軍司令官・第一六軍司令官・第八方面軍司令官・大将・終戦・戦犯・釈放・昭和四十三年死去・享年八十二歳)だった。
 
 関東軍司令官・梅津美治郎中将は、第五師団長・今村均中将に次の様に述べた。

 「第五師団はご苦労様です。自分も急に転職の電命を受け、一昨日山西から飛行機でここに着き、戦況の大体は承知し得た」

 「かつてお互いに心配し合った関東軍参謀たちの気分は満州事変の時のものが、まだ残っていたのか、こんな不準備のうちにソ連軍に応じてしまい。関東軍以外の君の師団までも煩わさなければならないことに導いてしまった」

 「中央は重光駐ソ大使に訓電の上、彼我停戦して各旧態勢に復帰することを提議している。同大使の折衝が成功すればよいと祈っている」

 「しかし万一、彼がこれに応ぜず攻勢を続ける場合は、断乎応戦する決意を示すことが、彼を自重させ停戦協定に応ぜしめることにもなる」

 「第五師団は戦力を統一し、敵に大打撃を与えるよう速やかに戦闘態勢を整えられたい。ともかく早く参謀を交戦中の蘇州軍司令部に派遣し、必要の連絡を取ることにし給え」。

 これに対し、第五師団長・今村均中将は、関東軍司令官・梅津美治郎中将に、幕僚の作戦指導について、次の様にお願いした。
 
 「ただ一点お願いしておきたいことは、先遣した連絡参謀の言によれば、第一線軍または師団の責任指揮官をさしおき、関東軍参謀が挺身第一線に進出する事はよいとして、これが部隊に直接攻撃を命じたり、叱咤したりして、多くの損害をこうむらしめていると前線の責任者は痛憤している、とのことである」
 
 「もしそのようなことが真であり、私の師団にもやって来て職分でないことを致しましたら、私はこれを取り押さえて軍司令部に送り届ける決意をしているので、この点諒承ありたい」。













691.梅津美治郎陸軍大将(31)あの緻密な頭でビシビシやられたらたまったものではない。これからの毎日が思いやられる

2019年06月21日 | 梅津美治郎陸軍大将
 飯田祥二郎少将が第一軍参謀長に就任した、昭和十三年一月当時の第一軍司令官は、香月清司(かつき・きよし)中将(佐賀・陸士一四・陸大二四・陸軍大学校教官・歩兵大佐・歩兵第六〇連隊長・歩兵第八連隊長・陸軍大学校教官・陸軍省軍務局兵務課長・少将・歩兵第三〇旅団長・陸軍大学校教官・陸軍大学校幹事・中将・陸軍歩兵学校長・第一二師団長・近衛師団長・教育総監部本部長・支那駐屯軍司令官・第一軍司令官・予備役・昭和二十五年一月死去・享年六十八歳・勲一等瑞宝章・功二級)だった。

 昭和十三年五月三十日、第一軍司令官・香月中将は、参謀本部附となり、梅津美治郎中将が第一軍司令官に着任した。

 戦後、飯田祥二郎元中将は、第一軍参謀長時代を回顧して、次の様に述べている。

 前司令官の香月中将は、怒りっぽい性格で、雷を落とすことが少なくなかった。例えば、方面軍の処置が気に入らないと、これを基礎にした幕僚の案まで、決裁を受けられなかったことが度々あった。

 しかし、翌朝になると、軍司令官の気分が一変し、「万事委す」といって決済されるのが通例であった。

 だが、平素は幕僚の仕事がやり易いように配慮したり、司令部内の空気を明るくしようと冗談を飛ばすことも再々あった。

 香月将軍は、私の士官学校生徒時代の区隊長であり、私が歩兵学校教官当時の校長という因縁があり、お互い特別親しい間柄であった。

 雷の鳴らない香月将軍など淋しい位の気持ちだったので、香月軍司令官当時の参謀長の職務は、むしろ明朗な日々であったというのが実情だった。

 このような時に、新軍司令官とし、梅津将軍を迎えたのだ。「これは大変なことになった。あの緻密な頭でビシビシやられたらたまったものではない。これからの毎日が思いやられる」というのが、偽らざる当時の感想だった。

 ところが事実はこれと全く反対で、かような心配は皆無であったばかりか、参謀長としてはむしろ理想的という生活が待ち受けていた。

 梅津司令官が着任したのが昭和十三年五月末であり、私(飯田祥二郎少将)が転出したのが同年十一月初めであるから、軍参謀長として梅津軍司令官の下に勤務したのは正味五か月ということになる。

 この間において第一軍の戦況は大きな作戦はなく、大体において守備勤務という状態であった。強いて言えば、南部山西における第二十師団の作戦位のものである。

 我々は暇さえあればボーとして頭を休めているが、雑事に負われると他を顧みる余裕のないのが一般であり、大局からの視察がとかく不足がちなのが通例だが、梅津軍司令官は絶えず軍司令官としての立場からの頭の働きが並大抵でなかった。

 以上のように梅津軍司令官の下における軍参謀長の仕事は、誠に平静な日々であったということが出来る。

 身辺日記の八月三日の一節に次のような記録がある。

 「本日は頗る暑さ激し、夕食後、官邸広間扇風機の下にて軍司令官と雑談十時半に至る。最も涼しき位置なり」。

 軍司令官との雑談が暑気を一掃し、涼風満喫という光景が想像される。これは梅津軍司令官と参謀長との日常の接触の光景と思えば如何に幸福な日々であったかを想像することが出来る。

 梅津軍司令官を理想的な戦場の将軍と推奨するのは当然であろう。

 昭和十四年九月七日、第一軍司令官・梅津美治郎中将は、関東軍司令官兼駐満州国大使に親補された。

 元来関東軍司令官は満州事変終了後、現役陸軍大将中の最古参者を送り込むのが例であったが、梅津は未だ中将であり、平素の序列によれば実に、二十名近くの人々を飛び越えて抜擢されたのだということであった。

 そして十九年七月、東條英機総理兼参謀総長が統帥と政務の分離を余儀なくされ、かつ部内の幕僚の要望によって梅津を参謀総長に呼び戻すまで、実に五年間に近く関東軍司令官の職にあった。






690.梅津美治郎陸軍大将(30)近衛首相は「杉山、……あれはバカだよ。万事、梅津まかせだ」とさえ、口にしていた

2019年06月14日 | 梅津美治郎陸軍大将
 だが、近衛首相は「君が否定する気持ちは分かるが、世間ではそんな噂が高いぞ」と、譲らなかった。

 そこで、は「万葉会で評判が出るのでしょう?」と、意表を衝いてみた。

 すると、近衛首相は「君も油断がならんね。いろんな事を知っているね」と意外そうだった。

 続いて、企画院調査官・池田純久大佐が「公爵、一度、梅津将軍に会ってくれませんか、どんな将軍かがお分かりになりましょう」と言った。

 近衛首相は「ウウン、会ってもいいよ。連れて来たまえ」と答えたので、企画院調査官・池田純久大佐は「承知しました」と言って別れ、梅津邸に急いだ。

 梅津邸で、詳細を報告して、「一度、近衛公に会ってください。公爵も会ってもよろしいと言っています」と、陸軍次官・梅津美治郎中将に会うことを勧めた。

 ところが、陸軍次官・梅津美治郎中将は「池田君、僕は次官だよ。大臣を抜きにして総理に会うことは、越権ではあるまいか」と、なかなか首を縦に振らなかった。

 企画院調査官・池田純久大佐が「大臣の認可を受けられてはどうですか」と提言すると、陸軍次官・梅津美治郎中将は「そのうちに会うことにしてみようか」と言ったものの、その日は、はっきり決まらないで終わってしまった。

 それから一ヶ月たったあとで、陸軍次官・梅津美治郎中将は支那山西省の第一軍司令官に転補されることになり、近衛首相に挨拶に行った。

 挨拶に来た後で、近衛首相は、企画院調査官・池田純久大佐に、「池田君、梅津将軍に会ったよ。一時間ばかり話してみたが、聞きしにまさる偉い将軍だね。政治的陰謀なんかやれる人じゃないね」と言った。

 「それごらんなさい!」と企画院調査官・池田純久大佐は、すかさず答えた。

 だが、梅津中将は、陸軍次官当時から、近衛首相には、憤りを感じていたのだ。

 海軍次官・山本五十六中将は、陸軍次官・梅津美治郎中将について、次の様に述べている。

 「梅津という人物について、大体分かっていたけれども、あんまりよく分からなかった。ところが、昨日、次官会議の帰りに憤慨してはっきり自分に言っていたが、言うことは全てその通りだと自分は感じた」

 「それは、“元来総理大臣は、今まで自分から自主的にこうしたらどうだとか、ああしたらどうかということを少しも言わないで、常に受け身の態度でいて、少し面倒臭くなると寝込んでしまう。自分たちの統制に対する労苦を明察することもなければ、ただ一部の者の示唆によって人を代えたりなんかしようとする。甚だけしからん話だ”と言って、はっきりと総理の態度を非常に憤慨しておった」

 「あんなにはっきりと怒ったのは、自分はかつて見たことはない」。

 梅津中将は、寺内、中村、杉山の三陸相につかえ、キャビネット・メーカーなどと言われたが、慎重だったので、記者会見を極端に嫌がった。

 梅津中将は冷静で、その行動は極めて理知的であったから、感情に走るなどということは、微塵もなかった。

 だが、下僚にとっては、聡明だっただけに、下手なことも言えず、親しみにくい存在だった。朝、廊下などで会った時、「やあ、おはよう」と挨拶くらいはしてもよさそうなものだ、と言っていた人もある。

 ちなみに、近衛首相は、陸軍大臣・杉山元大将とはとても仲が悪かった。近衛首相は「杉山、……あれはバカだよ。万事、梅津まかせだ」とさえ、口にしていたという。

 昭和十三年五月三十日、梅津美治郎中将は、陸軍次官を辞任し、第一軍司令官に親補された。
 
 陸軍省兵務局長・飯田祥二郎(いいだ・しょうじろう)少将(山口・陸士二〇・陸大二七・第四師団参謀・歩兵大佐・歩兵学校教官・近衛歩兵第四連隊長・第四師団参謀長・少将・陸軍省兵務局長・第一軍参謀長・台湾混成軍旅団長・中将・近衛師団長・第二五軍司令官・第一五軍司令官・中部軍司令官・予備役・第三〇軍司令官<関東軍>・終戦・ソ連軍捕虜・シベリア抑留・復員・昭和五十五年一月死去・享年九十一歳・旭日大綬章)は、昭和十三年一月北支の第一軍参謀長に就任した。












689.梅津美治郎陸軍大将(29)近近衛首相は「もし梅津が陸相になる位なら、自分は内閣を投げだす」とまで、言い放った

2019年06月07日 | 梅津美治郎陸軍大将
 交代の前に、梅津中将は、近衛首相の方に注文を付けて、次の様に申し出た。

 「自分は次官を辞めるが、その代わり次官の交代は板垣中将が大臣に就任する前に、東條英機を次官の後任として決定するから諒承してもらいたい」。

 風見官房長官の話では、次官人事で前もって内閣に諒解を求めるのは軍部外のものだけだったので、東條中将の次官就任については内閣としては予め下相談を受けていないとのことだった。

 近衛首相は、五月十二日、内閣改造の構想で、「陸軍は板垣と東條のコンビでやりたい」と、原田熊男に打ち明けている。

 その時、「板垣中将のような西郷隆盛式の男には、東條中将のような緻密な人を付けたら良いと思う」と述べている。

 このことから、政府の後任次官としての希望と、杉山大将、梅津中将らが推す、東條中将が偶然一致したのかもしれない。

 だが、近衛公は、後日、大きな期待をかけた板垣陸軍大臣が十分手腕を発揮できなかったことを、東條次官のせいであるとして、次の様に述べている。

 「折角大きな期待を板垣新陸相にかけたものであったが、遂にその期待が裏切られるに至ったのは、杉山、梅津がその置土産に東條英機を次官に据えたせいだ。あの場合は気が付かなかったが、東條は梅津と同心一体の存在だったのだ」。

 梅津中将らが東條中将を推薦した真意は、当時、支那事変は今や拡大の一途をたどり、近く漢口攻略も時間の問題とされている極めて軍部にとって緊要な時期だった。

 だが、新大臣は殆ど中央の職務に就いていないので、事務的に補佐することを期待して東條中将に白羽の矢を立てた。

 その後、東條次官がやりすぎて、板垣陸相がロボット扱いされたと見えた。

 以前、近衛首相に、陸相候補として原田熊男が梅津中将を推薦したところ、近衛首相は「梅津ではやっていけぬ。板垣を希望する」と話した。

 さらに、近衛首相は「もし梅津が陸相になる位なら、自分は内閣を投げだす」とまで、言い放ったのだ。梅津次官の陸軍大臣昇格に反対した。

 この発言の裏には、当時の陸軍省の首脳が、勝手に何か事を起こしておいて、首相に対しては何も話さず、予算と責任を持ってくるようなやり方に対して、近衛首相としては、やりきれない感情が一杯だった。

 それは、梅津陸軍次官としては、杉山大将が陸軍大臣として総理と折衝していたので、直接表面に出ることは殆どなかったのである。

 それに対して、海軍大臣・米内光政大将、海軍次官・山本五十六中将は、近衛総理と親しく業務上の連絡も密接であった。

 陸軍では閣議で作戦上の内容を話すと、秘密が洩れるとして説明を充分にしないので、近衛総理は陸軍の態度に強い不満を持っていた。従って、梅津中将の人柄や識見についても殆ど判っていなかったのである。

 昭和十二年十月企画院調査官に任ぜられた池田純久(いけだ・すみひさ)中佐(大分・陸士二八・陸大三六・東京帝国大学経済学部卒・資源局企画部第一課長・企画院調査官・歩兵大佐・歩兵第四五連隊長・奉天特務機関長・関東軍参謀・少将・関東軍第五課長・関東軍総参謀副長兼在満州国大使館附武官・中将・内閣綜合計画局長官・終戦・戦後歌舞伎座サービス会社社長・昭和四十三年四月死去・享年七十三歳)は、当時、近衛首相周辺と接触していた。

 昭和十三年四月末、近衛首相から、企画院調査官・池田純久大佐に、来訪するように電話があった。近衛首相とは、以前数回訪問して意見を交換した間柄だった。

 企画院調査官・池田純久大佐が荻外荘を訪れると、近衛首相は挨拶もそこそこに、次の様に言った。
 
 「池田君、梅津君は君と同郷だそうだね。梅津の陸軍か陸軍の梅津か、と言われるほどの偉い将軍だそうだね。しかし近衛内閣倒壊の陰謀を持っている様子だってね」。

 近衛首相から、このような言葉を聞こうとは、企画院調査官・池田純久大佐は思っていなかった。そこで、次の様に答えた。

 「とんでもない。梅津将軍はそんな政治的陰謀のできる人ではありません。そんな陰謀は将軍の最も嫌いなことです」。