陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

535.永田鉄山陸軍中将(35)真崎大将は傍若無人に林大将を叱りつけて沈黙させた

2016年06月24日 | 永田鉄山陸軍中将
 だが、昭和天皇は、天皇機関説に賛同していた。昭和天皇は、侍従武官長・本庄繁(ほんじょう・しげる)大将(兵庫・陸士九・陸大一九・参謀本部支那課長・歩兵大佐・歩兵第一一連隊長・参謀本部付・張作霖顧問・少将・歩兵第四旅団長・在支那公使館附武官・中将・第一〇師団長・関東軍司令官・侍従武官長・大将・男爵・功一級・予備役・軍事保護院総裁・枢密顧問官・終戦・戦犯指名・自決・正三位・勲一等)に、次のように意見を述べた。

 「軍の配慮は、自分にとって精神的にも迷惑至極だ。機関説の排撃が、かえって自分を動きのとれないものにするような結果を招く。だから、それについては慎重に考えてもらいたい」

 「私自身は、天皇主権説も天皇機関説も、帰するところは同一であると思っているが、労働条約その他債権問題のような国際関係についての事項は、機関説に従う方が便利ではないかと思う」

 「憲法第四条による『天皇は国民の元首』という言葉は、いうまでもなく機関説である。もし機関説を否定することになれば、憲法そのものを改正しなければならぬ」

 「機関説は皇室の尊厳を汚すという意見は、一応もっとものように聞こえるが、しかし事実は、このようなことを論議することこそ、皇室の尊厳を冒涜するものだ」。

 当時の岡田啓介首相は、この宮中方面の思召しと、軍部を先頭とする機関説排撃―国体明徴運動との板挟みにあって、態度を決しかねていた。

 真崎甚三郎教育総監は、陸軍三長官協議の結果、陸軍の立場を表明する必要があるとして、教育担当である教育総監・真崎甚三郎の名において、天皇機関説排撃の声明書を発表した。

 最終的に、政府は陸軍の要求をのみ、議会終了後に美濃部議員の取調べを警察に指示、美濃部議員の出版物三冊を発禁処分とした。その後、美濃部議員は貴族院議員を辞職した。

 ところが、真崎甚三郎教育総監が天皇機関説排撃の声明書を発表したことが、元老・重臣をはじめ、機関説を盲信する官僚・政治家たちをして、「真崎恐るべし」として、真崎排撃に拍車をかけることになったのである。

 昭和十年八月の異動がやってきた。林大将が陸軍大臣になって以来、昭和九年三月から三回の陸軍定期異動をおこなっているが、人事問題については、ことごとく真崎教育総監の横やりがあった。

 「二・二六事件 第一巻」(松本清張・文藝春秋)によると、林大将は、部内から皇道派分子の一掃をめざしていたが、その都度真崎教育総監の抵抗に遇い、その大半の意図がつぶされていた。また、林大将が何か気に入らないことを言えば、真崎大将は傍若無人に林大将を叱りつけて沈黙させたものである。

 林陸軍大臣は、この八月の異動で思い切った人事案を出した。秦真次第二師団長を待命、柳川平助第一師団長を予備役編入、山岡重厚整備局長を第九師団長、山下奉文軍事調査部長を朝鮮に転出、鈴木率道作戦課長を地方に、堀丈夫航空本部長を第一師団長に移動させるという徹底した皇道派の壊滅案だった。

 林陸軍大臣がこのような思い切った異動案を決意した背景には、天皇機関説問題をはじめとする、真崎教育総監の強硬な姿勢に、宮中も政府も政党も財界も不安を持っていることがあった。

 また、軍事参議官・渡辺錠太郎(わたなべ・じょうたろう)大将(愛知・陸士八・陸大一七首席・オランダ公使館附武官・少将・歩兵第二九旅団長・参謀本部第四部長・陸軍大学校兵学教官・中将・陸軍大学校長・第七師団長・陸軍航空本部長・台湾軍司令官・大将・軍事参議官・教育総監・二二六事件で暗殺)の援助があった。

 林陸軍大臣は事前に渡辺大将を訪ねて、この人事案を巡る部内皇道派の猛烈な抵抗を報告し、協議した。

 渡辺大将は、「もはやこの場合は断の一字あるのみ」だと林陸軍大臣を激励した。そして真崎教育総監があくまで反対するなら「その教育総監を解任すべし」と意見を言った。

 林陸軍大臣が今回の異動案を真崎教育総監に内示したところ、はたして真崎教育総監は、「軍事参議官・菱刈隆大将、軍事参議官・松井石根大将、関東軍司令官・南次郎大将、軍事参議官・渡辺錠太郎大将、軍事参議官・阿部信行大将を待命にせよ」と、迫った。

 さらに、「第五師団長小磯国昭中将、第一〇師団長・建川美次中将もクビにしろ」と、真崎教育総監は言い出した。また、「秦真次第二師団長の待命、柳川平助第一師団長の予備役編入には絶対反対」と、言い出した。

 また、この人事案が真崎教育総監の口から皇道派の将校等に洩れたので、彼らは騒ぎ立て、この林陸軍大臣の人事案の粉砕に躍起となった。

 この様な状況から、林陸軍大臣もいよいよ、真崎教育総監と袂を別つ決心をした。その支柱となったのは、参謀総長・閑院宮元帥だった。

 それに、参謀次長・植田謙吉(うえだ・けんきち)中将(大阪・陸士一〇・陸大二一・浦塩派遣軍参謀・騎兵大佐・浦塩派遣軍作戦課長・騎兵第一連隊長・少将・騎兵第三旅団長・軍馬補充部本部長・中将・支那駐屯軍司令官・第九師団長・参謀次長・朝鮮軍司令官・大将・関東軍司令官・予備役・戦後日本戦友団体連合会会長・日本郷友連盟会長)だった。

 さらに渡辺錠太郎大将と永田鉄山軍務局長ら統制派幕僚の後押しもあった。








534.永田鉄山陸軍中将(34)二人の免官は永田軍務局長の意図であり、皇道派への弾圧だ

2016年06月17日 | 永田鉄山陸軍中将
 昭和九年八月の異動で、林陸軍大臣は、真崎色を一掃しようと、思い切った人事案を立案した。林陸軍大臣がここまで強硬策を断行しようというのは、永田軍務局長ら統制派幕僚の突き上げだった。

 陸軍将官の異動は、陸軍大臣の原案を参謀総長、教育総監と、いわゆる三長官の協議の上で決定する習慣になっていた。

 当時は参謀総長が閑院宮載仁親王・元帥陸軍大将なので、陸軍大臣、教育総監の間で内定したものを、閑院宮元帥参謀総長に見せて了承をもらっていた。

 柳川平助次官の第一師団長(東京)転出は、さすがに、林陸軍大臣も真崎教育総監に遠慮して行った人事だった。本当は東京以外に飛ばしかったのだ。真崎教育総監も承服した。

 だが、林陸軍大臣と真崎教育総監が正面から対立したのが憲兵司令官・秦真次(はた・しんじ)中将(福岡・陸士一二・陸大二一・陸軍省新聞班長・陸軍大学校兵学教官・歩兵大佐・歩兵第二一連隊長・第三師団参謀長・東京警備参謀長・少将・歩兵第一五旅団長・陸軍大学校兵学教官・奉天特務機関長・第一四師団司令部附・中将・東京湾要塞司令官・憲兵司令官・第二師団長・予備役)の第二師団長転出案だった。

 秦中将は真崎教育総監の最も忠実な子分で、憲兵司令官として反真崎派の将官に対して徹底的内偵を行なってきたのだった。

 林陸軍大臣でさえ、護衛名義で付けられた憲兵に追い回され、重要な電話は自宅からもかけられなかった。

 閑院宮元帥参謀総長は、反真崎派の巨頭だから、閑院宮元帥の別当、稲垣三郎(いながき・さぶろう)中将(島根・陸士二・陸大一三恩賜・騎兵第一連隊長・騎兵大佐・英国大使館附武官・少将・騎兵第一旅団長・浦塩派遣軍参謀長・中将・国際連盟陸軍代表・予備役・閑院宮宮務監督・閑院宮別当)も秦中将の憲兵に追い回された。

 真崎教育総監は、秦中将の異動に反対していた。秦中将を憲兵司令官として中央に置き、自分の手足となって、統制派幕僚を監視させるつもりだった。だが、林陸軍大臣の「秦中将を第二師団長にする」という案に最終的に同意した。

 昭和九年十一月に、クーデター未遂事件である「十一月事件」(陸軍士官学校事件)が起きた。

 陸軍士官学校の佐藤候補生が仲間を誘って当時皇道派の青年将校運動の中心的人物、磯部浅一一等主計(野砲第一連隊附)と村中孝次歩兵大尉(歩兵第二六連隊大隊副官)の両氏を歴訪して国家革新について話し合っていた。

 そのうちに、両氏にクーデター計画の腹案があるのを知り、佐藤候補生は陸軍士官学校の本科生徒隊第一中隊長・辻政信大尉にその計画内容を報告した。

 辻政信大尉は、佐藤候補生に対して、クーデター計画に参加するように指示し、「内偵、報告せよ」と命じ、一種のスパイ行為を行わせた。

 佐藤候補生の報告を受けて、辻政信大尉は、懇意の参謀本部部員・片倉衷少佐にそのクーデター計画を報告した。片倉少佐は、陸軍次官・橋本虎之助中将に報告した。

 その結果、憲兵隊は、磯部一等主計、村中歩兵大尉、陸軍士官学校予科区隊長・片岡太郎中尉と、佐藤候補生以下五名の士官候補生を逮捕した。

 第一師団軍法会議で、磯部一等主計、村中歩兵大尉は停職、五名の士官候補生は退校処分となった。辻政信大尉は水戸の第二歩兵連隊附に左遷された。

 停職になった磯部一等主計、村中歩兵大尉は、その後も怪文書により林陸軍大臣や中央幕僚の攻撃を行ったため、遂に免官処分となった。

 片倉衷氏の証言によれば、この事件の報告は、辻大尉→片倉少佐→橋本中将の線で直線的に行われ、永田軍務局長は当時片倉少佐と隷属関係もなく、この事件に介入する余地はなかった。

 だが、「この二人の免官は永田軍務局長の意図であり、皇道派への弾圧だ」と、永田軍務局長は、青年将校ら皇道派の怒りを買ったのである。

 昭和十年二月十八日、天皇機関説問題が浮上して来た。貴族院本会議で、美濃部達吉議員の天皇機関説が国体に背く学説であるとして、天皇機関説排撃を決議した。

 二月二十五日、美濃部議員は天皇機関説を解説する釈明演説を行い、議場からは拍手が起こった。だが、議会の外では右翼団体や在郷軍人会が抗議した。美濃部議員の釈明演説が新聞に掲載されると、軍部や右翼の攻撃は増幅した。

533.永田鉄山陸軍中将(33)軍人の偏狭独断を匡正するために、広く一般人と交際させる

2016年06月10日 | 永田鉄山陸軍中将
 この会は、池田少佐が幹事役をつとめ、毎週一回全員が集まって、討論審議を行った。この私的な研究会は、永田少将が軍務局長になると、公然と軍務局で取り上げるようになった。

 だが、軍人の知恵だけでは具体策ができるはずは無かった。そこで官僚の中堅層と結んで、それを外郭団体とし、そこで国策を立案させ、その結論の線を軍の威力で陸軍大臣が閣議に提出し、政府に実行させる方法を案出した。

 この永田軍務局長らの要請に応えて参加した官僚は次の通り。

 岸信介(きし・のぶすけ)商工省大臣官房文書課長(山口・東京帝国大学法学部・農商務省・商工省工務局工政課長・外務書記官・大臣官房文書課長・公務局長・商工次官・商工大臣・衆議院議員・国務大臣・戦後戦犯で巣鴨拘置所入所・衆議院議員・日本民主党幹事長・自由民主党幹事長・外務大臣・首相・国連平和賞受賞・勲一等旭日桐花大綬章・大勲位菊花大綬章)。

 唐沢俊樹(からさわ・としき)内務省警保局長(長野・東京帝国大学法科大学・首席・内務省・警保局図書課新聞検閲主任事務官・警保局保安課長・和歌山県知事・内務省土木局長・警保局長・法制局長官・貴族院議員・内務次官・戦後公職追放・衆議院議員・法務大臣・勲一等瑞宝章)。

 和田博雄(わだ・ひろお)企画院調査官(埼玉・東京帝国大学法学部・農林省・企画院調査官・戦後農林省農政局長・農林大臣・経済安定本部総務長官・参議院議員・社会党入党・衆議院議員・左派社会党書記長・社会党国際局長・社会党副委員長)。

 奥村喜和男(おくむら・きわお)逓信省事務官(福岡・東京帝国大学法学部・逓信省・内閣調査局調査官・企画院調査官・内閣情報局次長・戦後公職追放・東陽通商社長)。

 迫水久常(さこみず・ひさつね)首相秘書官(東京・東京帝国大学法学部・大蔵省・甲府税務署長・外国為替管理法案策定・首相秘書官・大蔵省理財局金融課長・企画院第一課長・大蔵省総務局長・大蔵省銀行保険局長・内閣書記官長・貴族院銀・戦後公職追放・衆議院議員・参議院議員・経済企画庁長官・郵政大臣・鹿児島工業短期大学学長・勲一等旭日大綬章)。

 小金義照(こがね・よしてる)商工省事務官(神奈川・東京帝国大学法学部・農商務省・商工省鉱山局長・鉄鋼局長・燃料局長・戦後衆議院議員・自由党政務調査会副会長・国会対策委員長・自由民主党資金局長・郵政大臣・勲一等瑞宝章)。

 相川勝六(あいかわ・かつろく)内務省警保局保安課長(佐賀・東京帝国大学法科大学・内務省・警視庁刑事部長・内務省警保局保安課長・宮崎県知事・広島県知事・愛知県知事・愛媛県知事・厚生次官・厚生大臣・戦後公職追放・衆議院議員・自民党治安対策特別委員長)。

 永田少将は、大正九年欧州駐在の後、「国家総動員に関する意見」を書いて高く評価されたが、日本における国家総動員研究の最初の軍人だった。

 永田少将を中心とする国策の新建設は、当然、統制経済を念頭に置いた構想だった。永田少将らの「統制派」という名称は、例えば、池田少佐によると、「経済統制を推進」する集団であるところから、そう呼ばれたという説もある。

 その経済統制を推進する面から、永田少将は、財界の一部と交際した。またグループの幕僚たちも工業倶楽部などに出入りさせて、財界に対する知識を広めさせようとした。

 永田少将の政策に一役買ったものに矢次一夫(やつぎ・かずお・佐賀・父は医師・陸軍省から依頼され国策研究会設立・企画院委員・大政翼賛会参与・戦後公職追放・国策研究会を再建・岸信介首相の特使として日韓国交回復に尽力)の主宰する国策研究会があった。

 「昭和人物秘録」(矢次一夫・新紀元社)によると、著者の矢次一夫は、当時の永田鉄山少将について、次のように述べている。

 「陸海軍をあわせて私が知った将校は無数だが、インテリらしく、いかにも才物らしい鋭さを示した者は稀で、この点では、彼に師事した武藤(章)などまだ及ばずの感が深い」

 「永田が軍務局長として鮮満視察から帰ったあと、相沢に殺される十数日前だったが、一夜会食した席上で、私が視察談を求めたのに答えて、これはごく内密の話であり私見に止まるがと前置きして、関東軍の満州国に対する内面指導は早く打ち切る必要があり、また朝鮮は軍備と外交とを除き、国内自治を許す方向にもっていく必要を痛感したと語ったのである」

 「私はこの話を聞きながら、軍人として話しているというよりも、大学教授と語っているような気がしたし、静かに落ち着いて説く彼に、ありふれた軍人などの持たぬ卓見を聞いたのである」

 「今でこそ(発行当時の昭和二十九年)こんな見解は何でも無いようなものだが、当時としては政界人でもここまでは、個人の意見としても言い切れなかった識見であったのだ」

 「また永田は同じころ、私に、軍人の偏狭独断を匡正するために、広く一般人と交際させるよう計らいたいと思う、それには交詢社とか、日本クラブとか、工業クラブなどに加入するのが良いかも知れない」

 「軍務局とか整備局とか政治や経済を担当している中央部の将校を選抜して、それらのクラブに入会させるのはどんなものであろうか」

 「現役軍人を会員として入会させるかどうか、陸軍でも研究するが、それらのクラブの当事者と相談してもらいたい、と頼まれたことがある」

 「そこで、私はこれのクラブに行き、規約などを集めて、幹部にそれとなく聞き合せていたのであるが、この計画が実現しないうちに、彼は殺されてしまった」。



532.永田鉄山陸軍中将(32)東條少将は、真崎大将に一泡吹かせる意気込みだった

2016年06月03日 | 永田鉄山陸軍中将
 昭和九年三月五日、永田鉄山少将は、第一師団歩兵第一旅団長から、陸軍省軍務局長に就任した。五十歳であった。

 林大将は陸軍大臣になって二ケ月目に永田少将を本省に呼び戻した。一方、小畑敏四郎少将は、中央に戻さず、近衛歩兵第一旅団長から、陸軍大学校幹事にして(三月五日)、遠ざけた。

 だが、真崎大将と林大将はもともと親友だった。また、大正十五年、林中将が東京湾要塞司令官で待命を覚悟していた時、真崎少将が武藤信義教育総監に頼み込み、林中将を陸軍大学校長にしてもらったのだ。

 その真崎大将に配慮して、林陸軍大臣は、真崎派の柳川平助中将を陸軍次官として留任させ、山岡重厚少将を整備局長に、山下奉文大佐を軍事課長として留任させた。

 東條英機(とうじょう・ひでき)少将(岩手・陸士一七・陸大二七・歩兵第一連隊長・参謀本部編制動員課長・少将・陸軍省軍事調査部長・陸軍士官学校幹事・歩兵第二四旅団長・関東憲兵隊司令官・中将関東軍参謀長・陸軍次官・陸軍航空総監・陸軍大臣・大将・首相兼内務大臣・兼軍需大臣・兼参謀総長・予備役・A級戦犯で死刑)は、当時陸軍省軍事調査部長をしていたが、陸軍士官学校幹事に転出した。

 東條少将は、反荒木・真崎派で、永田鉄山少将らの「一夕会」の会員である。東條少将は、陸軍士官学校幹事として中央を離れるのだが、勇躍して陸軍省を出た。士官学校は、真崎甚三郎大将の領地だ。東條少将は、真崎大将に一泡吹かせる意気込みだったという。

 ところで、荒木大将から林大将へ陸軍大臣の更迭があった直後、まだ歩兵第一旅団長だった永田鉄山少将を原田熊雄(はらだ・くまお・学習院高等科・京都帝国大学卒・日本銀行・宮内省嘱託・加藤高明首相秘書官・元老西園寺公望の私設秘書官・貴族院議員・男爵)が訪ねてその意見を聞いた。永田少将は次のように語った。

 「まず、荒木大将自身はまことに神様のような立派な人だ。けれども、大将にはいわゆる股肱と頼むような部下があり、また荒木でなければならんとどこまでも主張する頗る偏狭な人が比較的多く取り巻いているため、ある意味からいうと、取り巻きによってまた他から誤解されやすい」

 「簡単に言えば、軍人以外の人でも極右の連中が荒木さんに近づく傾向がある。次に、林大将には股肱と頼むような人は無く、相談相手にするような誰と決まった人も無い」

 「またよくわかる人で、人の言をよく容れる。ただ、惜しむらくは、やはりその周囲に集まる者は政治ブローカーが非常に多い。そのため非常に誤られやすいが、しかし、非常にものの良く分かる人で、実に立派な大臣だと自分は思う」

 「林大臣が大臣になったらば自分なども中央に持っていかれるというように……つまり、自分が林派であるかのように言う人がある」

 「自分は林大将には一度しか会ったことがない。しかも、それも三十分ばかり話したきりで、その後近づいた事は無い」

 「最後に、真崎大将に至っては全く子分の無い人である。しかし、この三大将のいずれが大臣になっても、陸軍が動揺することは決して無い。すなわち、三大将の中の一人がなればいいのだ」。

 これが、永田少将が林大臣に迎えられる以前の感想である。だが、永田少将は林陸軍大臣のもとに軍務局長となり、「林大将には股肱と頼むような人は無く、相談相手にするような誰と決まった人も無い」欠点を永田少将自身が補って、その人となり、「永田軍政」を築いていく。

 軍務局長に就任して以来、永田鉄山少将が、最初にやったのが、国策の研究である。国内政策を整備し、国家総動員的な体制にしようという狙いだった。

 もともと、永田少将は国家改造方式を研究しており、陸軍大学校出身の優秀な幕僚将校を集めて、これに当たらせた。外国留学の経験のある者五名、東大派遣学生の経験のあるもの四名という構成だった。その主要な三名は次の通り。

 陸軍省軍務局課員・池田純久(いけだ・すみひさ)少佐(大分・陸士二八・陸大三六・東京帝国大学経済学部・企画院調査官・歩兵大佐・歩兵第四五連隊長・奉天特務機関長・関東軍参謀・少将・関東軍参謀第五課長・関東軍参謀副長・中将・内閣総合計画局長官)。

 陸軍省軍事調査部・田中清(たなか・きよし)少佐(北海道・陸士二九・陸大三七・東京帝国大学文学部・関東軍参謀・長崎要塞参謀・西部防衛参謀・歩兵大佐・台湾軍参謀・中部軍司令部附・予備役)。
  
 参謀本部支那班長・影佐禎昭(かげさ・さだあき)中佐(広島・陸士二六・砲工二三恩賜・陸大三五恩賜・東京帝国大学政治科・上海駐在武官・陸軍省軍務局軍事課満州班長・砲兵大佐・参謀本部支那課長・陸軍省軍務局軍務課長・少将・南京政府最高軍事顧問・第七砲兵司令官・中将・第三八師団長)。