陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

601.桂太郎陸軍大将(21)もし事実であれば、強迫手段をとって減額を取り消させる

2017年09月29日 | 桂太郎陸軍大将
 明治二十二年十二月二十四日、山縣有朋中将を首班とする内閣が発足した。第一次山縣内閣である。陸軍大臣は引き続き、大山巌中将で、桂太郎少将も陸軍次官として留任した。

 明治二十三年三月、陸軍次官・桂太郎少将は、兼任という形で初代軍務局長に就任した。その年の六月には陸軍中将に進級した。

 明治二十三年十一月、第一回帝国議会が開かれた。「桂太郎(日本宰相列伝4)」(川原次吉郎・時事通信社・昭和34年)及び「桂太郎」(人物叢書)(宇野俊一・吉川弘文館・昭和51年)によると、山縣有朋首相は、施政方針演説の中で、軍事費予算について、次の様に述べた(要旨)。

 「国家独立のためには主権線を守ると同時に、その主権線の安全と緊密に関係する地域である利益線を守る必要がある」

 「そのためには陸海軍に巨額の予算をあてなければならない。予算歳出額の大部分を占めるものは陸海軍に関する経費である」。

 山縣首相は、予算案中における陸海軍の比重が大きいことと、その重要性を強調したのだ。

 この山縣内閣が、明治二十四年度の歳出予算案として提出した政府原案は、八三〇七万五八三五円だった。

 予算案は十二月九日から衆議院予算委員会で審議され、自由党と立憲改進党を中心とする民党側は、政費節減、民力休養をスローガンに官吏の俸給、旅費などの人件費や庁費を大幅に削減する方針をとった。

 十二月十三日、陸軍次官兼軍務局長・桂太郎中将は、明治二十四年度予算案委員会に出席した。

 桂中将は、大山巌陸軍大臣に代わって、陸軍編制の一覧表と定員表を提示して、陸軍の組織を説明し、さらに明治十九年の官制改革によって師団編成に改められ、輜重兵の編制もようやく終わった。当面、連発銃の製造費の確保と砲兵配備、北海道の屯田兵の改革に着手していると説明した。

 予算委員会は、各省の予算を審議し、十二月二十七日に七八八万七三四円削減する査定表を決定した。

 この査定案には、憲法六十七条に規定された政府の同意なしに廃除・削減できない項目が含まれていたため、政府と民党側の対立が続くことになった。

 明治二十四年度政府予算案の中で、軍事費は、二〇六七万円を占め、陸軍側は臨時費を含め一三〇一万円、海軍は同じく七六六万円であった。

 予算委員会の査定案の削減率は、陸軍五・七パーセント、海軍六・二パーセントだった。内務省や外務省の二〇パーセントを越す削減率に比べると、かなり低く、民党側でも軍事費については政府案の大部分を認めるという姿勢をとっていた。

 衆議院予算委員会の模様は極秘であったが、十二月二十五日、報知新聞は、陸軍は、七〇万円余、海軍は三〇万円余の減額であると報道した。

 桂中将は、この記事を読んで、参謀次長・川上操六中将に、この記事の情報の真疑の確認を依頼し、もし事実であれば、強迫手段をとって減額を取り消させる必要があると主張した。

 桂中将は、議会での審議開始を前にして、陸軍省予算を担当する衆議院の議員を与野党の別なくそれぞれ自邸に招いて陸軍の予算案について説明した。

 議会では、提出された予算案の削減額をめぐって、衆議院と山縣有朋内閣の政府はまさに正面衝突となり、予算不成立に終わるかと思われた。

 その時、三崎亀之助(みさき・かめのすけ)代議士(香川・東京帝国大学法科卒業・忠愛社入社・「明治日報」記者・外務省入省<二十六歳>・書記官・米国公使館駐在・ワシントン駐在・外務省参事官・弁護士・香川県選出衆議院議員<三十二歳>・内務省県治局長・貴族院議員<三十八歳>・横浜正金銀行支配人・同銀行副頭取<四十二歳>)が政府と交渉を始めた。

 なんとかして予算は成立させたいということで、三崎亀之助代議士は、そのための特別委員九名を挙げるという動議を提出したのだ。動議は一一七名対一五〇名で可決された。

 最終的に、削減額は六三一万二〇〇〇円ということで、衆議院を通過し、貴族院もこれを承認して予算は成立した。


600.桂太郎陸軍大将(20)大山巌陸軍大臣が「月曜会」などを解散すべしとの内達を発した

2017年09月22日 | 桂太郎陸軍大将
 当時、陸軍内でエースと見られていた次のような高級将校も「月曜会」に名を連ねていた。陸軍次官・桂太郎少将(四十一歳)も入会していた。

 近衛歩兵第一旅団長・奥保鞏(おく・やすかた)少将(四十二歳・福岡・長州征討・陸軍大尉<二十六歳>・熊本鎮台中隊長・少佐<二十八歳>・歩兵第一一大隊長・歩兵第一三連隊大隊長・中佐<三十二歳>・歩兵第一四連隊長・歩兵第一〇連隊長・大佐<三十六歳>・近衛歩兵第二連隊長・少将<三十九歳>・近衛歩兵第一旅団長・東宮武官長・近衛歩兵第二旅団長・欧州出張・中将<四十八歳>・第一師団長・近衛師団長・東京防禦総督・英領印度出張・大将<五十七歳>・第二軍司令官・参謀総長・伯爵・元帥・正三位・大勲位菊花大綬章・功一級・レジオンドヌール勲章グラントフィシェ・レオボルト勲章グロースクロイツ等)。

 陸軍大学校長・児玉源太郎(こだま・げんたろう)大佐(三十六歳・山口・函館戦争・六等下士官<十八歳>・陸軍権曹長<十八歳>・陸軍准少尉<十九歳>・陸軍少尉<十九歳>・中尉<十九歳>・歩兵第一九番大隊副官・大尉<二十歳>・大阪鎮台地方司令副官心得・少佐<二十二歳>・熊本鎮台参謀副長・近衛参謀副長・歩兵中佐<二十八歳>・歩兵第二連隊長・大佐<三十一歳>・参謀本部管東局長・参謀本部第一局長・監軍部参謀長・兼陸軍大学校長・少将<三十七歳>・監軍部参謀長・欧州出張・陸軍次官・兼軍務局長・大本営留守参謀長・男爵・功二級・陸軍次官兼軍務局長・中将<四十四歳>・第三師団長・台湾総督・兼陸軍大臣・兼内務大臣・兼参謀本部次長・大将<五十二歳>・台湾総督兼満州軍総参謀長・兼参謀本部次長・子爵・参謀総長・兼南満州鉄道設立委員長・死去<五十四歳>・伯爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・功一級)。

 陸軍士官学校長・寺内正毅(てらうち・まさたけ)大佐(三十六歳・山口・戊辰戦争・陸軍少尉<十九歳>・大尉<二十五歳>・フランス公使館附武官・中佐<三十二歳>・大臣官房副長・大臣秘書官・歩兵大佐<三十五歳>・陸軍士官学校長・第一師団参謀長・参謀本部第一局長・大本営運輸通信部長官・少将<四十二歳>・参謀本部第一局長事務取扱・男爵・功二級・欧州出張・歩兵第三旅団長・教育総監・中将<四十六歳>・教育総監・参謀本部次長・陸軍大臣・兼教育総監・大将<五十四歳>・子爵・功一級・陸軍大臣・兼韓国統監・兼朝鮮総督・伯爵・元帥・総理大臣・兼外務大臣・兼大蔵大臣・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・フランスレジオンドヌール勲章オフィシェ・大韓帝国大勲位瑞星大綬章)。

 参謀本部第二局長・小川又次(おがわ・またじ)大佐(四十歳・福岡・小倉口の戦い・維新後兵学寮生徒・権曹長心得<二十二歳>・少尉心得<二十三歳>・陸軍少尉<二十三歳>・台湾征討軍・歩兵第一三連隊大隊長・西南戦争・少佐<二十九歳>・熊本鎮台参謀副長・清国派遣・中佐<三十三歳>・大阪鎮台参謀長・広島鎮台参謀長・歩兵大佐<三十六歳>・歩兵第三連隊長・参謀本部管西局長・参謀本部第二局長・少将<四十二歳>・歩兵第四旅団長・近衛歩兵第一旅団長・第一軍参謀長・男爵・功三級・近衛歩兵第二旅団長・中将<四十九歳>・第四師団長・戦傷・大将<五十七歳>・子爵・功二級・子爵・従二位・勲一等旭日大綬章・功二級)。

 歩兵第一二旅団長・長谷川好道(はせがわ・よしみち)少将(三十九歳・山口・戊辰戦争・維新後大阪兵学寮生徒・陸軍少尉心得<二十歳>・陸軍大尉<二十一歳>・五番大隊長・少佐<二十二歳>・歩兵第一連隊長心得・中佐<二十三歳>・西南戦争・広島鎮台歩兵第一一連隊長・歩兵第二連隊長・大佐<二十八歳>・広島鎮台参謀長・大阪鎮台参謀長・中部監軍参謀長・少将<三十六歳>・歩兵第一二旅団長・男爵・功三級・中将<四十六歳>・第三師団長・近衛師団長・大将<五十四歳>・子爵・功一級・参謀総長・元帥<六十五歳>・伯爵・朝鮮総督・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・大韓帝国大勲位瑞星大綬章)。

 「桂太郎」(人物叢書)(宇野俊一・吉川弘文館・昭和51年)によると、桂太郎少将ら主流派は、「月曜会」に対抗するため、すでに将校の親睦と軍人精神の涵養を掲げて組織されていた「偕行社」を利用することにした。

 その機関紙「偕行社記事」に将校らに研究材料を与える内容を盛り込み、各種研究会の学術研究の成果も取り入れるとともに、将校団の互助組織としての機能も付加して遺族に平等な給付をする組織として将校たちの利益団体の側面を持たせた。

 桂太郎少将は偕行社の幹事長に就任して、偕行社を陸軍の公式な組織として位置づけ、「新進有為」の将校達の利益関心を吸収するべく努めた。

 明治二十一年七月、陸軍次官・桂太郎少将と、監軍部参謀長兼陸軍大学校校長・児玉源太郎大佐は、「月曜会」を退会した。これに続き、次の二名の参謀をはじめ多数の将校が退会した。

 監軍部参謀・鮫島重雄(さめじま・しげお)中佐(鹿児島・陸軍教導団・陸軍士官学校生徒・工兵少尉<二十六歳>・工兵大尉<三十二歳>・近衛師団参謀・工兵第三大隊長心得・工兵少佐<三十七歳>・陸軍大学校副幹事・監軍部参謀・近衛師団参謀・工兵大佐<四十五歳>・近衛師団参謀長・中部都督部参謀長・少将<四十八歳>・由良要塞司令官・東京湾要塞司令官・中将<五十五歳>・第一一師団長・第一四師団長・大将<六十二歳>・男爵・正五位・勲一等旭日大綬章・功二級)。

 監軍部参謀・田村怡与造(たむら・いよぞう)大尉(山梨・陸士旧二期・歩兵少尉<二十五歳>・ベルリン陸軍大学校入校<二十九歳>・歩兵大尉<三十一歳>・監軍部参謀・参謀本部第一局員・歩兵少佐<三十五歳>・大本営兵站総監部参謀・歩兵中佐<四十歳>・第一軍参謀副長・歩兵第九連隊長・ベルリン公使館附武官・歩兵大佐<四十三歳>・参謀本部第二部長・参謀本部第一部長・少将<四十六歳>・参謀本部総務部長・参謀本部第一部長・参謀本部次長・死去<五十歳>・中将・従四位・勲二等旭日重光章・功四級・ロシア帝国神聖アンナ第三等勲章等)。

 陸軍の実力派幹部や留学帰りの俊英の若手将校らが「月曜会」を抜けたことは、各地の師団や連隊にも波及し、十二月末までに五百三十五名が退会するに至った。

 こうした機運を醸成した上で、翌明治二十二年二月、近衛都督・小松宮彰仁親王をはじめ、各師団長が連名で、「『月曜会』など陸軍内の様々な会を偕行社に統一すべきである」との建言が提出され、それを受けて、二月二十四日、大山巌陸軍大臣が「月曜会」などを解散すべしとの内達を発した。

 これにより、陸軍大臣・大山巌中将、山縣有朋中将(欧州視察中)、陸軍次官・桂太郎少将、監軍部参謀長兼陸軍大学校校長・児玉源太郎大佐ら陸軍主流派は四将軍派を退けた。以後、山縣有朋を中心とした陸軍閥が創られていくのである。





599.桂太郎陸軍大将(19)実際には二条例をそのまま実現させたことで、陸軍主流派の勝利だった

2017年09月15日 | 桂太郎陸軍大将
 こうした状況の中で、大山巌陸軍大臣は、条例の実現のため、大臣辞任の覚悟を示して強硬に抵抗した。

 伊藤博文首相は、この問題を解決するため、二条例は明治十九年七月二十六日に公布することとし、監軍部再設置の方向でメッケル少佐に調査させることにした。

 同時に三浦中将の改革意見の一つである全国教育会議の設置を容れた形で陸軍教育会議条例を公布した。

 これによって、明治天皇や、参謀本部、さらに反主流派の三浦中将の意向に配慮したように見える。だが、実際には二条例をそのまま実現させたことで、陸軍主流派の勝利だった。

 大山陸軍大臣の強硬姿勢の背後には、陸軍内部だけではなく、薩長閥主流派の結束と、陸軍次官・桂太郎少将の組織力があったからである。

 伊藤首相から探査を依頼された、内閣書記官長・田中光顕(たなか・みつあき)陸軍少将(高知・戊辰戦争・岩倉使節団・西南戦争で征討軍会計部長・陸軍省会計局長<三十六歳>・少将・初代内閣書記官長・警視総監<四十六歳>・学習院長・子爵・宮内大臣<五十五歳>・伯爵・従一位・勲一等)は、七月二十三日の書簡で次のように報告している。

 「桂殿の方にては、川上(操六)少将、川崎(祐名)監督長、仁礼(景範)中将、樺山(資紀)中将等の薩人と結び、青木(周蔵)外務次官、野村(靖)逓信次官等と共に、屡々小集を催し、万事相談致居候由にこれあり」。

 事実、桂少将は、仁礼や樺山ら薩派の海軍将官や、青木、野村ら長州藩出身の有力官僚を結集して、支援体制をとっていた。

 明治十九年七月十日、反主流派の、近衛歩兵第一旅団長・堀江芳介(ほりえ・よしすけ)少将(山口・戊辰戦争・別働第二旅団参謀長・陸軍大佐<三十三歳>・参謀本部管東局長・兼近衛参謀長・戸山学校次長・少将<三十八歳>・戸山学校長・近衛歩兵第一旅団長・歩兵第六旅団長・欧州出張・予備役・元老院議官<四十四歳>・衆議院議員・錦鵄間祗侯<四十五歳>・阿月村(山口県柳井市)村長・従三位・旭日重光章)が名古屋鎮台の歩兵第六旅団長に左遷された。

 また、七月二十六日、陸軍士官学校校長から東京鎮台司令官に就任していた三浦梧楼中将が熊本鎮台司令官に左遷された。

 さらに、七月二十九日、参謀本部次長・曽我祐準中将が陸軍士官学校校長にされた。

 堀江少将と、曽我中将は、病気を理由に、三浦中将は戦術の早い変化について行けないことを理由に、転任を辞退した。

 明治天皇は、これを認めず、療養して服務するよう沙汰があった。だが、三人は再度辞表を提出したため、参謀本部長と陸軍大臣が連署して辞任願を受理するという手続きを経て休職となった。

 明治天皇が三人の辞任をすぐに認めなかったことは、陸軍主流派の左遷人事に異議を表明したことを意味している。

 だが、陸軍次官・桂太郎少将が密接にかかわった監軍廃止と二条例をめぐる事件は、陸軍内の批判派を要職から排除して、陸軍主流派が陸軍における主導権を確保したものであり、薩長両藩出身の特定の陸軍将官を頂点とする支配体制が整った。
 
 さらに明治二十二年二月十一日には、大日本帝国憲法が公布され、その第十一条で、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定され、いわゆる統帥大権が明記され、さらに第十二条「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」の条文で、天皇が軍隊の編制と軍事費の決定に大きな発言権を持つことが明示された。日本の軍隊が天皇の軍隊であるという位置づけがされたのだ。

 また、明治二十三年の帝国議会の開設、立憲体制に移行する以前に、陸軍次官・桂太郎少将が処理しなければならない課題が残っていた。

 その一つは、陸軍内で大きな組織になっていた「月曜会」をどうするかということだった。

 「月曜会」は明治十七年に趣意書を頒布して以後、会員が急増し、翌年、機関誌として「月曜会記事」を創刊、東京では毎月会合を開いて研究発表や討議を重ねていた。

 地方に各支部も組織され、自主的な運営で、メッケル少佐の著述や兵術関係書なども発行し、若い将校らの研究意欲を刺激する集団だった。

 明治二十一年に曽我祐準中将が「月曜会」幹事に就任すると、休職中の三浦梧楼中将や予備役の谷干城中将、鳥尾小弥太中将も入会し、反主流派と目されていた四中将が勢揃いすることになった。

 明治二十一年二月における会員は、中将八名、少将十七名の名誉会員をはじめ、大佐級二十四名、中佐級三十二名、少佐級百三十一名、大尉級四十名、中尉級、少尉級を合わせて総計千六百七十名の多数が入会していた。

 「月曜会」は、学術団体として自主的に運用され、その人数の多さと佐官級、尉官九の横断的な組織と自由な活動は、陸軍主流派としては、無視し難いものだった。





598.桂太郎陸軍大将(18)薩摩藩出身の若手将校が三浦中将に詰め寄り、大激論となった

2017年09月08日 | 桂太郎陸軍大将
 時恰も本邦の陸軍に在りては、参謀本部設立巳来学理上の研究漸次に勢力を得るに至り、我々が明治十七年の一個年間海外に在りし中に於て、学理の必要といふ風気を、希望以上の提訴にまで上進せしめたりき。

 以上の「桂太郎自伝」において、欧州視察中に、桂太郎が自分と異色な存在である川上操六と努めて盟友的な親交を結んだことがわかる。

 その結果、後の桂の陸軍軍制改革において、川上は協力を惜しまず、桂は思う存分な陸軍の新建設を行うことができた。

 この大山陸軍卿ヨーロッパ視察団が、ドイツに長期間滞在したことは、この視察旅行の目的が、山縣有朋、大山巌ら陸軍主流が、ドイツ軍制をモデルとして、日本帝国陸軍の整備を考えていたことを示すものだった。

 この使節団の成果としては、陸軍大学校の教官の雇い入れが依嘱されており、ヤコブ・メッケル少佐(ドイツ・プロイセン王国ケルン出身・プロイセン陸軍大学校卒・同大学校兵学教官・日本帝国陸軍大学校教官・帰国後ナッサウ歩兵第二連隊長・参謀本部戦史部長・陸軍大学校教官・少将・参謀本部次長・皇帝ヴィルヘルム二世の受けが悪く第八歩兵旅団長に左遷の辞令を受けるが依願退役・退役後音楽に親しみオペラを作曲・六十四歳で死去)を確保したことだった。
 
 明治十八年一月、大山巌陸軍卿ヨーロッパ視察団は帰国した。桂太郎大佐は、その年の五月、陸軍少将に昇進、陸軍省総務局長に就任、参謀本部御用掛も兼任することになった。三十七歳だった。

 明治十九年三月、桂太郎少将は三十八歳で陸軍次官に就任し、陸軍大臣・大山巌中将の下で、陸軍の様々な官制改革と、部内統一実現に向けた任務を担った。

 明治維新以来、日本帝国陸軍はフランス式の兵制でやってきたのだが、これを、ドイツ式を取り入れて、改革を行なったので、摩擦も多かった。

 最初に、監軍を廃止し、新たに陸軍検閲条例と陸軍武官進級条例を改正しようとしたのだが、これが、政治問題化した。

 監軍の廃止は、行政改革の大義名分を掲げての廃止だったが、前年の明治十八年五月に、監軍部条例が改正され、東部・中部・西部の監軍とその業務が規定され、明治天皇はその三監軍に陸軍の反主流派と目されていた次の三中将を任命してはどうかとの意見を表明していたのだ。

 元老院議員・鳥尾小弥太中将、農商務大臣・谷干城中将、東京鎮台司令官・三浦梧楼中将(官職・階級は明治十九年当時)。

 だが、この明治天皇の意見表明にもかかわらず、これが実現されないままに、監軍が廃止されることに、不透明さが見受けられたのだ。

 しかも、監軍の職務の中の「軍隊の検閲」だけを切り取って条例化し、また、進級条例では、その十四条に進級は停年順序に従うことが明記されており、従来、薩長両藩出身者が優遇されて来た年功序列が温存されるものになっていた。

 これより先の明治十八年三月、三浦梧楼中将は、ヨーロッパ視察から帰国した直後の士官学校長の立場から、陸軍教育総裁の設置、留学生の優遇措置、新規将校教育機関設置等、幹部将校養成の抜本的改革の意見書を、大山陸軍卿に提出していた。

 さらに、明治十八年五月、紅葉館(芝区の高級料亭)で、鎮台条例改正に伴う人事異動に際会して各司令官、旅団長、参謀長等の将官が参集した席で、三浦中将は、「陸軍の枢要な地位を薩長出身者が独占している」と批判した。

 これを聞いた、薩摩藩出身の若手将校が三浦中将に詰め寄り、大激論となった。三浦中将は、陸軍部内の薩長藩閥主流派支配の現状を改革することを訴えたのだった。

 三浦中将には同志的結束に基づいた、学習院長・子爵・谷干城中将、参議・伯爵・鳥尾小弥太中将、仙台鎮台司令官・子爵・曽我祐準中将がいた。四将軍派である。

 また、当時の政府の指導者・伯爵・伊藤博文(山口・初代内閣総理大臣・公爵・従一位・菊花章頸飾)、外務卿・伯爵・井上馨(山口・大蔵大臣・侯爵・従一位・菊花章頸飾)ら強力な政治家の後ろ盾があった。

 さらに、三浦中将の背景には、「月曜会」に結集している多数の将校団がいた。

 「月曜会」は、明治十四年一月に東京の長岡外史(ながおか・がいし)陸軍少尉(山口・陸士旧二期・陸大一・軍務局歩兵課長・歩兵大佐<三十九歳>・軍務局軍事課長・欧州出張・少将<四十四歳>・歩兵第九旅団長・参謀本部次長・歩兵第二旅団長・軍務局長・中将<五十一歳>・第一三師団長・第一六師団長・予備役・正三位・勲一等瑞宝章・功二級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ・ドイツ赤十字社勲章等)の自宅に、十三名が集まり、学術研究のための組織として発足した。

 こうした陸軍上層部の対立が顕在化している中での監軍廃止と二条例の発令は、明治天皇にも不信感を与えることになり、「このニ条例の発布を裁可しない」との意思が伝えられた。

 また、参謀本部次長・曽我祐準中将もこれを激しく批判し、陸軍省との権限争いとなった。

 「曽我祐準自叙伝」(曽我祐準・大空社・昭和63年)によると、著者の曽我祐準は後年、次のように回想している。

 「彼是する内に図らず陸軍省と参謀本部との権限争議が起こり、余は漫(みだり)に屈服することが性質として出来ぬから、強硬の態度を取りて抵抗したので、七月は士官学校に逐はれた」。



597.桂太郎陸軍大将(17)我等両人にて陸軍を担ふべしとの考案は、相互の脳裡に固結するに及べり

2017年09月01日 | 桂太郎陸軍大将
 八月三十日、日本帝国と李氏は、済物浦(さいもっぽ)条約を締結し、日本軍による日本公使館の警備を約束し、以後、日本は朝鮮に軍隊を常駐させることになった。

 だが、朝鮮は清国の冊封国(さくほうこく=従属国)であるという清国をけん制する意図もあった、日本帝国の陸海軍の派遣は、清国との対立を顕在化した。これが後の日清戦争(明治二十七年七月~明治二十八年三月)へと繋がっていった。

 こうして、日本帝国は、軍備の拡張が緊急の課題となった。陸軍では、軍事体制の抜本的な整備と強化を急速に推し進めることが要請された。それには、陸軍首脳部の意識改革と意思統一が不可欠であった。

 桂太郎大佐は、そのための第一歩として、陸軍を統率する将官を選抜して、ドイツ、フランスに派遣し、軍事演習を実地に見学して軍隊指揮の知識を研鑽する必要があると建言した。

 これを受けて、各兵科の将校を選抜して、陸軍卿・大山巌中将がこれを率いてヨーロッパの軍事情勢を視察することが決定された。

 明治十七年二月、大山陸軍卿ヨーロッパ視察団は、横浜港を出発した。参謀本部管西局長・桂太郎大佐(三十六歳)のほかに、随行する将官と主要将校は、次の通り。

 士官学校長・三浦梧楼(みうら・ごろう)中将(三十八歳)は、弘化三年生まれ、山口県出身。明治四年七月陸軍大佐(二十四歳)、同年十二月陸軍少将(二十五歳)、東京鎮台司令官。第三局長、広島鎮台司令官、征討第三旅団司令長官。明治十一年十一月中将(三十二歳)。西部軍艦部長、陸軍士官学校校長、大山巌陸軍卿ヨーロッパ視察団随行(三十八歳)、子爵、東京鎮台司令官(三十九歳)、熊本鎮台司令官、学習院長、宮中顧問官、予備役、駐韓国特命全権大使(四十九歳)、入獄、出獄、枢密顧問官(六十四歳)、子爵、従一位、勲一等旭日桐花大綬章。

 東京鎮台司令官・野津道貫(のづ・みちつら)少将(四十三歳)は、天保十二年生まれ、鹿児島県出身。明治四年七月陸軍少佐(三十歳)。明治七年一月陸軍大佐(三十三歳)、近衛参謀長心得、征討第二旅団参謀長。明治十一年十一月少将(三十七歳)、第二局長。東京鎮台司令官、大山巌陸軍卿ヨーロッパ視察団随行(四十三歳)。明治十八年五月陸軍中将(四十四歳)、広島鎮台司令官。第五師団長、第一軍司令官。明治二十八年三月大将(五十四歳)、伯爵、功二級。近衛師団長、東部都督、教育総監(五十九歳)、第四軍司令官、元帥(六十五歳)、侯爵、正二位、大勲位菊花大綬章、功一級。

 近衛歩兵第一連隊長・川上操六(かわかみ・そうろく)大佐(三十六歳)は、嘉永元年生まれ、鹿児島県出身。明治四年七月陸軍中尉(二十三歳)、功二級。明治十一年十二月陸軍中佐(三十歳)、歩兵第一三連隊長、仙台鎮台参謀長。明治十五年二月陸軍歩兵大佐(三十四歳)、近衛歩兵第一連隊長、大山巌陸軍卿ヨーロッパ視察団随行(三十六歳)。明治十八年五月少将(三十七歳)、参謀本部次長、近衛歩兵第二旅団長、ドイツ留学、参謀次長。明治二十三年六月中将(四十二歳)、参謀本部次長、子爵(四十七歳)、シベリア出兵、参謀総長。明治三十一年九月大将(五十歳)。子爵、正三位、勲一等旭日大綬章、功二級。

 「桂太郎自伝」(桂太郎・宇野俊一校注・平凡社・平成5年)によると、桂太郎は、同じく大山陸軍卿ヨーロッパ視察団の随行を命ぜられた、川上操六大佐について、次の様に記している。

 此の時歩兵科の大佐として、川上近衛歩兵連隊長(操六・子爵)が随行を命ぜられけるが、之より前川上大佐は所謂実地的の人にて、我が学理的応用を為す考案とは殆ど正反対ありし。

 然るに大山陸軍卿は、到底川上と桂とを和熟せしめ、共に陸軍に従事せしむることを謀らざれば、一大衝突を来すべし、是非この両人を随行せしめんとする意志ありしと見えたり。

 又川上大佐も大に其点に見る所あり、我も亦大に川上大佐に見る所ありて、此の随行を命ぜらるゝと同時に、川上と我と両人の間に誓ひて、前に大山陸軍卿の意思ならむと思ふ如く、我々両人が将来相衝突することあれば、我が陸軍の為に一大不利益なれば、冀わくば将来相互に両人の肩頭に我が陸軍を担ふべしと決心し、互ひに長短相補ひ、日本帝国の陸軍のみを眼中に措かば、毫も蔕芥なきにあらずやと。

 我又曰、子は軍事を担当せよ、我は軍事行政を担当せんと。この時初めて二人の間に此誓約は成立たり。而して明治十七年の二[一]月、横浜を解纜するより、川上と船室を共にし、欧州巡回中も、殆ど房室を同くし、互ひに長短を補ふの益友となり、我は渠儂が欧州に於て必要とすべきものには、充分の便利を得る様に力を添え、兎に角我等両人にて陸軍を担ふべしとの考案は、相互の脳裡に固結するに及べり。

 伊仏独露墺等欧州大陸の軍事を視察し、又英国及び米国を視察し、明治十八年二月を以て帰朝したり。

 同年五月我は陸軍少将に任ぜられ、陸軍省総務局長に補せらる。川上も同時に陸軍少将に任じ、参謀本部次長に補せられたり。

 爾来我と川上と互ひに相提携して、大に軍事上に尽くすことを得たるの第一着なりき。是全く大山陸軍卿の処置の公平なりしのみならず、斯くあらざれば大に軍事上の進歩を計ること能はざりしなり。

 然るに我と川上とは新参将校中より擢用せられて、枢要の地位を占めたるより、物論囂々ともいふべきありさまなりし。