陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

540.永田鉄山陸軍中将(40)石原莞爾は「何だ、殺されたじゃないか」と当然の帰結の如く言った

2016年07月29日 | 永田鉄山陸軍中将
 そして私は「閣下とは今日初めて御会いしたのですが、私は以前から考えていた通り、国体観念の乏しい人だから、軍務局長をお罷めになったらよろしいでしょう」と言うと、これに対しては何も言われませんでした。

 それからしばらく話していると課員が入って来て話が切れましたが、永田閣下は「兎に角今日初めて君に会ったのでゆっくり話す訳には行かぬから、この次の機会に会って話すか、又は手紙で往復して話をしよう」と言われました。

 私は「それでは今度上京した時に御会いします」と言って、最後に「あなたは十一月事件に関係して、而もその責任者として処理するに付いて不届きなやり方じゃないか」と言うと、永田閣下は、カラカラと笑って、「あれは私に関係も責任もない、その様な事をよく言う人があるので、会ってよく話をしている。君もその様に思っているのなら、今度会った時によく話をする」と言われ、午後五時頃別れました。

 以上が、相沢三郎中佐が岡田予審官に話した内容である。

 「片倉参謀の証言・叛乱と鎮圧」(片倉衷・芙蓉書房)によると、昭和十年七月末、当時陸軍省軍務局軍事課満州班に勤務していた片倉衷少佐は、永田軍務局長に「大分閣下を狙っている奴がいますので、護衛を常時つけられたら如何ですか」と言った。

 すると、永田軍務局長は「片倉、人間死ぬときは死ぬ。殺される時はやられる。すべては運命だ。私は運命に従う。俺は覚悟しているよ」とはっきり答えた。

 昭和十年八月十二日午前九時四十五分頃、軍務局長・永田鉄山少将は、陸軍省の局長室で、机に座り、東京憲兵隊長・新見英夫(にいみ・ひでお)大佐(山口・陸士一九・憲兵大佐・東京憲兵隊長・相沢事件・京都憲兵隊長・予備役)の所管事務報告を受けようとしていた。

 新見大佐の側には、兵務課長・山田長三郎(やまだ・さぶろう)大佐(宮城・陸士二〇・陸大二八・砲兵大佐・野砲兵第二二連隊長・陸軍省軍務局兵務課長・相沢事件・陸軍兵器本廠附・自決)が席についていた。

 山田大佐が隣室の軍事課長・橋本群(はしもと・ぐん)大佐(広島・陸士二〇・砲工高一八恩賜・陸大二八恩賜・参謀本部動員課長・陸軍省軍務局軍事課長・相沢事件・鎮海湾要塞司令官・少将・第一軍参謀長・参謀本部第一部長・中将)呼びに席を立って隣室に行った。

 その瞬間、眼光の鋭い中年将校が、抜身の軍刀を手にして迫って来た。新見大佐は、初めは、その男が何か冗談を仕掛けてきたように思われたので、それで笑おうとした。

 だが、次の瞬間、その中年将校は、永田軍務局長に近づき、「天誅!」と声をあげ、逃げる永田軍務局長の右肩あたりに白刃をサッときらめかせた。袈裟がけに切りつけたのである。

 新見大佐は、阻止するためその中年将校の腰あたりに抱き付いたが、次の瞬間斬られて尻餅を突き意識を失った。

 逃げる永田軍務局長の背後からブスリと軍刀を突き刺し、よろよろ逃げるが、遂に仰向けにバッタリ倒れた永田軍務局長の頭部から頸動脈にかけて、中年将校はもう一太刀打ち下ろした。とどめを刺したのである。永田軍務局長は息絶えた。

 この中年将校は、先月永田軍務局長に面会した、あの相沢三郎中佐だった。相沢中佐は憲兵隊に拘束された。

 軍務局長・永田鉄山少将は、享年五十一歳だった。死後陸軍中将に昇進した。永田鉄山は東條英機より大局を見る眼があり、“カミソリ東條”より、なおよく切れた。

 片倉衷は、永田鉄山と石原莞爾をコンビにして、国軍の刷新強化を図ろうとしていたのだが、石原莞爾は、事務系の人として永田鉄山を余り高く評価しなかった。

 永田鉄山が斬殺された時も、片倉衷に、石原莞爾は「何だ、殺されたじゃないか」と当然の帰結の如く言った。そう言われて、片倉衷は面白くなかった。

 戦後、片倉衷は、永田鉄山、石原莞爾の二人が一緒に仕事を始めていれば、支那事変は拡大せず、さらには大東亜戦争も防止し得たのではないか。日本の命運も違ったものになっていただろうと述べている。

 この相沢事件は、翌年の二・二六事件の引き鉄となった。相沢三郎中佐は、昭和十一年五月七日第一師団軍法会議で死刑の判決を受け、七月三日、銃殺刑に処された。

 (今回で「永田鉄山陸軍中将」は終わりです。次回からは「源田実海軍大佐」が始まります)




539.永田鉄山陸軍中将(39)気違いみたいな奴だが、それにしては、トボけた気違いだ!

2016年07月22日 | 永田鉄山陸軍中将
 だが、相沢中佐は永田少将のそういう様子にはかまわず、別な方向に話をもって行った。「では、閣下は、尊皇絶対の精神を、どうお考えですか」と切り出し、元の連隊長の名前を持ち出し、その連隊長の尊皇絶対の精神について、聞き取りにくい仙台訛りで、くどくどとならべたてた。

 永田少将が耳を傾けてみると、別に傾聴に価する所説でも何でもなく、ごく素朴な尊皇精神を回りくどく言っているに過ぎなかった。

 永田少将は相沢中佐の言葉の区切りを待って、「初めて会ったので、君の思想はよく分らんが、もし言う事があれば、手紙か、今度上京された時、くわしく聞こう」と言って、立ち上がった。

 それにつれて、相沢中佐も腰を上げたが、次の様に言った。「では、もう一つだけ最後に伺います。十一月事件は、あれはどうして起こったのですか。辻大尉が士官候補生をスパイに使って、でっち上げた芝居に過ぎませんが。しかし、辻の背後で糸を引いていたのは、世間では閣下だと言っておりますが」。

 相沢中佐の余りにも飾り気のない直截な聞き方が、とぼけた滑稽味をおびていたので、永田少将は声をたてて笑って、次の様に答えた。

 「世間はどう見てもかまわん。自分はあれについては何も知らん、責任もない……それにあれはもう済んだことだし、何もいまさら……どうでもいいじゃないか」。

 相沢中佐は、まだ何か物足りない様子だったが、それでも丁寧に敬礼をして、局長室を出て行った。

 永田少将は、相沢中佐が出て行ったあとの扉を見つめていたが、そのうちに笑い出した。どうにもおかしくて、我慢できないといった笑いだった。「気違いみたいな奴だが、それにしては、トボけた気違いだ!」。

 だが、一瞬後には、永田少将は生真面目な顔に戻った。「あいつらは俺を憎んでいる。何もかも俺の仕業で、俺が元凶だと思い込んでいる」。

 永田少将はじっと宙を見つめて、思いを凝らした。すると刺客が四方八方から自分一人を狙っているような感じに襲われた。

 永田少将は、部下の幕僚に、「相沢によく言って聞かせてやったら、おとなしく帰ったよ」と言った。

 一方、「相沢中佐事件の真相」(菅原裕・経済往来社)によると、昭和十年七月十九日の、陸軍省軍務局長・永田鉄山少将と相沢三郎中佐のやり取りを、相沢公判における岡田予審官による第三回被告人訊問調書で、相沢中佐自身は次のように述べている。

 (上略)それから私は改まって「一寸申し上げます」と言って「閣下はこの重大時局に軍務局長としては誠に不適任である。軍務局長は大臣の唯一の補佐官であるのに、その補佐が悪いから、何卒自決されたらよろしかろうと思います」と申しました。

 すると永田閣下は腑に落ちない様で「一体君は今日初めて会うのだが、君の心持ちもよく判らないが、一体自決とはどういう事か」と聞かれたので、「早速辞職しなさい」と言ったように思います。

 すると永田閣下が「君のように注意してくれるのは非常に有り難いが、自分は誠心誠意やっているが、もとより修養が足りないので、力の及ばないところもあるが、私が誠心誠意、大臣に申し上げても採用にならない事は仕方がない」と言われたので、これは誰でも言う事でありますから、この人は普通一般の人だと思いました。

 そして私は「あなたの御考えは下剋上である」と言いますと、永田閣下は、「君の言う事は違う。下剋上というのは下の者が上の者を誣いる事だ」と言われたので、私は「一体大臣は輔弼の重職にあられるもので、その大臣に対して間違った補佐をするのは、これは大御心を間違えて下万民に伝えるのであるから、あなたは下剋上だ」と言いました。

 永田閣下は「話が込み入って来たから腰掛よ」と言われたので、腰を下ろすと「君は私が悪いと言うが、具体的に言え」と言われましたので、そこで私は「真崎大将が交代したというのは間違った補佐である」と申しますと、永田閣下は「人は各々見方があるが、自分は情を以って取り扱わない、理性を以って事をする」と言われた。

 私は「情という事は日本精神の方から言うと真心即ち至情で最も尊いものだが、あなたの言われる情というのは感情の事か」と言いましたところ、永田閣下は返事もせずに「自分は漸新的にこの世の中を改革する」と言われたので、私は「それは良い事だ」と言ってから“至情”ということに就いて説明しました。

 この時私は永田という人は、以前から考えていた通り薄っぺらな人だと思いました。至情という事に就いて村岡中将という人は軍を厳粛に統率された非常に立派な人で至情について確固たる信念をもっておられると感じた事を話すと、永田閣下はそれに対して何も言わずに「自分は罪を憎むが人を憎まない」と言われたので、私は何の事か判らなかったが「私もその様に考えております」と言いました。

538.永田鉄山陸軍中将(38)真崎総監は、大臣や閣下の私情をもって追われたのでありますか

2016年07月15日 | 永田鉄山陸軍中将
 相沢少佐は、昭和六年青森歩兵第五連隊大隊長。昭和七年歩兵第一七連隊附。昭和八年歩兵中佐、福山歩兵第四一連隊附。相沢三郎中佐は皇道派の将校で、剣道四段、銃剣道の達人でもあった。

 昭和十年七月十九日、陸軍省軍務局長・永田鉄山少将に面会した相沢三郎中佐は突然、永田少将に辞職を迫った。「叛乱」(立野信之・ぺりかん社)によると、その時の二人の対談が次の様に記されている。

 局長室で永田少将が引見すると、相沢中佐は突っ立ったまま田舎者の愚直な鄭重さで、義弟の浜野井少佐が世話になった礼を述べた。仙台訛りがひどく聞き取りにくかった。

 「ハマノエ?」。永田少将は、はじめ誰のことか思い当らなかったが、それが慶応大学配属将校の浜野井少佐のことだと分ると、別に取り立てて世話をした覚えもなかったので、「ああ、いや……」と、あいまいに肯き返した。

 相沢中佐は、儀礼的な挨拶がすむと、改まって次の様に言った。

 「閣下、自分は本日、陸軍大臣ならびに軍務局長閣下に辞職を勧告に参りました。自分は、ただそれだけの用事で、福山から出てきたのであります」。

 相変わらず不動の姿勢で、突っ立ったままだった。くぼんだ眼は大きく見開いて、ピカッと薄気味の悪い光をおびていた。狂信者によくある眼である。

 「まあ、何か……立ったままでは固苦しくていかんから、お掛けなさい」。永田少将は椅子を差し出した。

 「失礼します」。相沢中佐はしゃちこ張った礼をして、傍らの椅子へ腰をおろした。相沢中佐は、腰かけても、状態をまっすぐにのばし、まじろぎもせずに永田少将を見つめている。

 「どういう理由で、陸軍大臣と私が辞職をしなければならんのですか」。永田少将はキョトンとした顔を相沢中佐に向けて、相変わらずものやわらかな態度できいた。永田少将も相沢中佐に負けないくらい色が黒かった。

 「理由を申し上げます」と、相沢中佐は切り出して、「最近の皇軍は実に憂うべき状態にあります」と言って次のような内容を永田少将に論じた(要旨)。

 「天皇機関説問題を徹底的にやり尊王絶対主義を皇軍に叩き込まなければならない。機関説とは何だと農民に教えてやらねばならない。日清戦争のとき明治天皇は幼年学校に対して天皇絶対の思想をお諭しになった。石原大佐が満州で活躍したのも、この幼年学校の影響だ」

 「私も郷里仙台で石原大佐が民衆指導に尽力されているのに感激した。今の士官学校教育は徹底していない。軍人の堕落は士官学校教育が悪い。しかるに軍当局は、腐敗した政府や外部の旧勢力と結託して皇軍を紊乱させている」

 「そのいい例が、真崎教育総監更迭問題だ。なぜ真崎総監を勇退させたか。真崎閣下は至誠尽忠の人だ。陸軍大臣閣下は軍の統制だという。真崎閣下を無理やり勇退させるのが軍の統制なのか。皇軍を腐敗堕落させる元を大臣自ら作っている。それゆえ、陸軍大臣ならびに大臣補佐の地位にある閣下の辞職を勧告する」。

 以上が相沢中佐の話の要旨だが、その理論はあっちへ飛び、こっちに飛び、棒を置きならべたようで、その間に何の脈路もないようでいて、不思議に一貫した強い意志的なものが感じられた。

 だが、相沢中佐の理屈は、皇道派の連中が口にしたり、怪文書に書いたりしている理論を、舌足らずに述べているだけだった。いささか滑稽でもあった。

 永田少将は相沢中佐の話が終わったのを見て、さとすように、「君の忠告は有難いが……、自分も誠心誠意大臣を補佐しているんです。決していい加減な気持ちでやっているんじゃない……君の御意見は、大臣に伝えるが、しかし、大臣がそれを聞き入れられるかどうかわからない」と言った。

 「それでは伺いますが、真崎総監は、なぜ勇退させられたのでありますか」。相沢中佐は永田少将からキラリと眼を離さないで言った。

 「さあ、それは今ここでは言えない。新聞に理由みたいなものが出ていたが、もちろんあれが全てではない。ただ僕がここで言えることは……人事は理性をもって行い、情で行うべきものでないということです。それが僕がここで言える総てです」と永田少将はいくぶん迷惑そうに答えた。

 「情とは、わたくしの情でありますか……それでは真崎総監は、大臣や閣下の私情をもって追われたのでありますか」と相沢中佐は生真面目な顔で聞き返した。

 「私情ではない…だから僕は、人事は情では行わない、と言ったはずだ」。永田少将の顔にはイライラした表情が浮かんだ。もう話は分かったから、いい加減に打ち切りたいという態度がありありと見えた。



537.永田鉄山陸軍中将(37)軍事参議官会同は、林陸軍大臣、永田軍務局長らの勝利に終わった

2016年07月08日 | 永田鉄山陸軍中将
 荒木大将「具体的に言えば永田は一日も現役にとどまっておられないと思えばこそ、抽象的に言ったのである。よろしい、では、陸軍大臣がご希望とあれば申し上げよう」(荒木大将は、永田の三月事件における策謀を述べた)。

 真崎大将「これを見てもらいたい」(真崎大将は一握りの書類を持ち出した。当時永田軍事課長が小磯軍務局長に頼まれて作成したクーデタープランだった)。

 真崎大将「これは貴官の執筆と思うが、間違いはないか」(末席に控えていた永田軍務局長を呼び寄せて見せた)。

 永田軍務局長「その通りであります」。

 真崎大将「これほど歴然たる証拠がある。三月事件は闇から闇に葬られているが、かような大それた計画を当時の軍事課長自ら執筆起案しながら時の当局者はこれを不問に付している。軍規の頽廃これよりも甚だしいものがあろうか。その者をこともあろうに陸軍軍政の中枢部たる軍務局長の席につかせているとは何事であるか」。

 渡辺教育総監「只今の書類はたしかに穏やかならざることが書いてある。書いた者が永田であることも間違いない。けれども、これは永田個人の作案で、陸軍省として責任を負うべき書類ではないように思うが、その点はいかがなものか」。

 真崎大将「普通の書類とは違う非合法なクーデター計画書だ。大臣、次官の決裁印がなくとも実質は立派な公文書である」。

 渡辺教育総監「真崎参議官の見解では、公文書、つまり軍の機密文書だとの御意見である。列席の諸官は果たしてどう認められるか」。

 荒木大将「念を押すまでもなく、これは立派な軍の機密書類である」。

 渡辺教育総監「よろしい。一歩譲って機密公文書と認めよう。それなら、軍の機密文書を一参議官が持っておられるのは、どういう次第であるか。機密文書が外部に漏れたとすれば軍機漏えいである。真崎参議官はどうしてこれを持参されたか、御返答によっては所用の手続きをとらねばならぬ」。

 機密文書を勝手に持ち出せば軍法会議ものであった。さすがの真崎大将も巻き返しができず、荒木大将と共に、絶句し、沈黙した。

 阿部信行大将が「この書類に関する限り、この辺で打ち切り、同時に陸軍大臣の手元に返還されては如何なものであるか」と、とりなして、真崎大将も荒木大将もほっとして引き下がった。

 この様にして、軍事参議官会同は、林陸軍大臣、永田軍務局長らの勝利に終わった。だが、これは一応の勝利であった。この後に、さらなる重大なる危機が迫っていたのである。

 ところで、真崎甚三郎教育総監罷免の第一は永田鉄山軍務局長であるということが、通説のように伝わっている。だが、永田軍務局長が真崎教育総監罷免の張本人であることを否定するものとして、昭和のフィクサー・矢次一夫(佐賀・統制派の幕僚池田純久と組んで国策研究会同志会を創立・国策研究会として戦時国策の立案に従事・大政翼賛会参与・戦後岸信介首相の顧問)が証言している。

 「昭和動乱私史」(矢次一夫・経済往来社)の中で、矢次は次のように記している。

 「私もまた、真崎、柳川と共に佐賀県出身でいろいろ関係もあり、この説をおかしいとし、随分調べてみたのだが、その限りでも、永田が真崎を追い出すべく策動した、という確証は一つも見つからぬのである」

 「岡村寧次のような荒木、真崎とも親しく、永田とも親友で、斬られたあと葬儀万端の世話をした人や、同じ時代に参謀本部の課長をして永田と交渉の多かった今村均、河辺正三等、及び永田時代のたくさんの後輩軍人たちの話を総合しても、全て否定する人物ばかりであることだ」

 「軍務局長という地位と権限には、省部の人事、特に将官人事に対していささかの発言権も、したがって発言力も無く、それに永田は典型的な合理主義者で軍秩序維持主義者であり、だからこうした策動をする人ではないと異口同音している」。

 昭和十年七月十九日、軍事参議官会同が開かれてから、四日後の午後のことである。陸軍省軍務局長・永田鉄山少将は、一人の見知らぬ中年将校の訪問を受けた。

 中年将校は色が黒く、頬がこけていて頬骨が高く、目はくぼんでいて、口が大きかった。容貌魁偉な男であった。福山の連隊附中佐で、相沢三郎と名乗った。陸軍大臣秘書官・有末清三少佐の紹介だった。

 相沢三郎中佐は、宮城県仙台市出身で、仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校卒(二二期・卒業成績は歩兵科五〇九名中九十五番)。明治四十三年歩兵少尉任官、歩兵第四連隊附。陸軍戸山学校卒(卒業成績は一〇五名中三番)。大正二年歩兵中尉。

 大正七年台湾歩兵第一連隊附。大正九年歩兵大尉、陸軍戸山学校剣道教官。大正十四年陸軍士官学校剣道教官。大正十五年歩兵第一三連隊中隊長。昭和二年歩兵少佐、歩兵第一連隊附、日本体育会体操学校剣道教官(配属将校)。






536.永田鉄山陸軍中将(36)永田こそ派閥的行動をしている張本人ではないか!

2016年07月01日 | 永田鉄山陸軍中将
 昭和十年七月十日林陸軍大臣は真崎教育総監と再び会談をして、八月人事の話し合いを行ったが、真崎教育総監は林陸軍大臣の人事案に同意しなかった。林陸軍大臣と真崎教育総監のやり取りは次の通り(要旨・概略)。

 林陸軍大臣「君がどうしても不同意というなら、軍の統制の必要から、この際、部内の総意に従って、教育総監を勇退してもらいたい。そもそも君が派閥の中心になって軍の統制を乱している」。

 真崎教育総監「君は統制、統制というが、一体軍をどう統制するのか。それに俺が派閥を作っているというが、何を指してそう言うのか」。

 林陸軍大臣「総監部に七田大佐あり、参謀本部に牟田口大佐あり、補任課長に小藤大佐あり……そういう部内の輿論(よろん)だ」(しどろもどろの言い方だった)。

 真崎教育総監「何を言うか。七田はおれが総監就任前からの第二課長だ。実はあまり役に立たんから、代えようとさえ思っている位だ。牟田口は永田局長が推薦した男だ。小藤に至っては顔も知らん……秦中将を退職させて、三月事件に関係の深い小磯中将を航空本部長に栄転させるようなことは、正に道理転倒で、俺はこの案に賛成し難い。一体そういう輿論作成の根源は誰だ」。

 林陸軍大臣「実は……これは南大将と永田軍務局長以下の幕僚たちの主張で、自分としては統制上どうにも致し方のない案なのだ」。

 それを聞いた真崎教育総監は、青白く、苦々しい表情をして、「とにかく、この案には同意できない」と、林陸軍大臣の人事案を一蹴した。

 翌日、七月十一日、閑院宮参謀総長、林陸軍大臣、真崎教育総監による、三長官会議が開かれたが、真崎教育総監が案の討議に入ることを拒否したので、結論は出なかった。

 七月十五日、二回目の三長官会議が開かれた。この会議では、真崎教育総監が「今次の異動は不純な動機でなされたものだ」「大元帥陛下に直隷する教育総監の職をけがすものだ」「永田らの統制派の連中こそ三月事件、十月事件で軍の統制を乱したではないか」などと強硬意見を長々と主張した。

 これに対し、閑院宮参謀総長が「総監は、それでは陸軍大臣の事務を妨害するのか」「この案でゆけば、あるいは何事か起こるかもしれんが、その時はその時で、陸軍大臣にも適切な処置があるだろうから、今回はこの案でいこう」との強い意向を示した。

 これにより、真崎教育総監の罷免が決定した。

 七月十七日、軍事参議官会同が行われた。この軍事参議官会同は、教育総監の更迭があった場合は、恒例として、新任の渡辺錠太郎教育総監と、真崎甚三郎旧教育総監の挨拶程度で開かれるものだった。永田軍務局長も出席していた。

 ところが、この会同では、真崎大将が教育総監罷免の、林陸軍大臣の措置を、長々と非難した。荒木貞夫大将も同様に「統帥権干犯ではないか」と林陸軍大臣を非難した。以下、軍事参議官会同での永田軍務局長に関するやりとりは次の通り(要旨抜粋)。

 林陸軍大臣「教育総監が辞任を承知しない時は、陸軍大臣、参謀総長合議の上、辞任させて差し支えないという結論を得ている」。

 荒木大将「陸軍大臣は軍の統制うんぬんと言われ、真崎大将がその統制を乱したようなお話であるが、それはそもそもどういう事であるか」。

 林陸軍大臣「真崎大将は派閥的行動があり、それが軍の統制上すこぶるおもしろくない影響を与えている」。

 松井石根大将「派閥は確かにある。それは自分もおもしろくないと思っていた」。

 川島義之大将「同感である」。

 真崎大将「派閥とか何とか言われるが、それなら永田軍務局長はどうであるか。永田は宇垣陸相の時三月事件に関与し、陸軍の統制を乱したのみならず、その後の行動は、永田こそ派閥的行動をしている張本人ではないか! こういう者を側近に置いて自分らを責めるのは順逆を誤ってはいないか」。

 渡辺教育総監「只今は永田軍務局長の行動を議題としているのではない。永田君のことはまた別に論議する機会があろう」。

 菱刈隆大将「そうかも知れないが、三月事件は、小耳にはさんだことはあるが、こういう席ではまだ聞いたことがない。ついでに事情を聞いてみてはどうか」。

 真崎大将「陸軍大臣は永田と三月事件の関係は御承知のことと思うが、どうか」。

 林陸軍大臣「荒木前陸軍大臣から何らの引き継ぎも受けていないから分らない」。

 荒木貞夫大将「それでは申し上げよう」(荒木大将は三月事件の概要を話し、それに当時の永田軍事課長が関与していたことを述べた)。

 林陸軍大臣「只今のお話だけでは、永田を辞めさせなければならぬほどの事実が良く了解できない。ことに、それだけ悪いことをしているなら、なぜ、君が陸軍大臣のときに永田を罷免しなかったのか、今頃になってその話を持ち出されることは、頗る迷惑である。また、永田を非難されるが、抽象的な攻撃ばかりだ。具体的な事実を示されたい」。