山岡「真崎閣下の将来については、渡辺総監とよく協議して遺憾なきを期せられたい」。
大臣「渡辺は反対の立場にて困る」。
以上が、山岡重厚中将と林陸相との会談の全貌であり、林陸相の当時の心情が吐露されている。
この会談の十一日後、昭和十年八月十二日、相沢中佐事件が起きた。皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、陸軍省において軍務局長・永田鉄山少将を斬殺した事件である。
「二・二六事件・第一巻」(松本清張・文藝春秋)によると、相沢中佐は、永田鉄山が軍務局長になってから十一月事件が起こり、村中、磯部らが停職処分を受け、ついで免官になったのを永田軍務局長の策謀だと信じ、永田軍務局長に対して怒りを持っていた。
七月十六日の真崎教育総監の罷免を新聞で知り、特に「教育総監更迭事情要点」などの怪文書を読んで、永田軍務局長のこのような不義不逞の策動は絶対に許せないとし、まず彼を辞めさせなければならないと決心したといわれている。
この相沢中佐事件の半年後、昭和十一年二月二十六日、二・二六事件が起きた。当日早朝、決起した皇道派の青年将校らは千数百名の兵を動かし、重臣を襲撃、殺害し、陸軍省、参謀本部という軍中枢機構を完全に包囲制圧し、陸相官邸を維新革命司令部とすることに成功した。
二・二六事件の首謀者の一人、磯部浅一元主計大尉は事件後、獄中で「行動記」を書き残している。
「行動記」によると、磯部は事件前の昭和十年十二月中旬に古荘幹郎中将、真崎甚三郎大将、山下奉文少将に会っている。
その時、真崎大将は「このままでおいたら血を見る、俺がそれを云うと真崎が扇動していると云う。何しろ俺の周囲にはロシヤのスパイがついている」と時局いよいよ重大機に入らんとするを予期せる如く語った、と記している。
さらに一月二十八日に、磯部は再び真崎大将を訪ねている。真崎は「何事か起こるなら、何も云って呉れるな」と言い、磯辺の要求に応え、物でも売って五百円を都合することを約束した。
このようなことから、磯部は「余は、これなら必ず真崎大将はやって呉れる、余とは生まれて二度目の面会であるだけなのに、これだけの好意と援助をして呉れると云う事は、青年将校の思想信念、行動に理解を有している動かぬ証拠だと信じた」と断定している。
「二・二六事件の謎」(大谷敬二郎・光人社)によると、著者の大谷敬二郎(おおたに・けいじろう・滋賀・陸士三一・東京帝国大学法学部・東京憲兵隊特高課長・大佐・東京憲兵隊長・東部憲兵隊司令官・戦犯重労働十年・戦後作家)は当時憲兵大尉で、事件後真崎大将の取調官の一人だった。
軍事参議官・真崎甚三郎大将が二・二六事件決起を知ったのは、二月二十六日午前四時半頃、亀川哲也(沖縄・早稲田大学卒・会計検査院・森格の施設経済顧問・大日本農道会・二二六事件謀議で無期禁錮・戦後釈放)が世田谷の真崎邸の扉を叩いたことから始まる。
「二・二六事件への挽歌」(大蔵栄一・読売新聞社)によると、著者の大蔵栄一氏は、熊本幼年学校(二二期)、陸軍士官学校(三七期)卒の元陸軍大尉。青年将校として二・二六事件に連座して免官、禁錮四年の刑に処せられた。昭和五十四年死去。享年七十五歳。
大蔵氏は戦後、昭和三十年頃、真崎甚三郎元大将を世田谷の邸宅に訪ねた。そのとき、大蔵氏は二・二六事件について、「閣下はあの事件を事前にご承知だったのでしょうか」と、知るはずはないと思ったが一応確かめてみた。
真崎元大将「オレが知るはずがないではないか」。
大蔵氏「そうだと思います。じゃ、いつ知ったのでしょうか」。
真崎元大将「二十六日の朝四時半か五時ごろ、亀川(哲也)がきて知らせてくれて初めて知ったんだがね……」。
そのあと、真崎元大将は二・二六事件の朝のその後の行動を次のように大蔵氏に語った。
「八時半ごろ、陸軍大臣官邸に出かけた。行ってみると川島義之陸相の顔は土色で、生ける屍のようであった」
「それほど大臣はあわてて自己喪失に陥っていたらしい。その川島大臣を鞭撻して青年将校とも会い、事件処理に心を砕いた」
大臣「渡辺は反対の立場にて困る」。
以上が、山岡重厚中将と林陸相との会談の全貌であり、林陸相の当時の心情が吐露されている。
この会談の十一日後、昭和十年八月十二日、相沢中佐事件が起きた。皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、陸軍省において軍務局長・永田鉄山少将を斬殺した事件である。
「二・二六事件・第一巻」(松本清張・文藝春秋)によると、相沢中佐は、永田鉄山が軍務局長になってから十一月事件が起こり、村中、磯部らが停職処分を受け、ついで免官になったのを永田軍務局長の策謀だと信じ、永田軍務局長に対して怒りを持っていた。
七月十六日の真崎教育総監の罷免を新聞で知り、特に「教育総監更迭事情要点」などの怪文書を読んで、永田軍務局長のこのような不義不逞の策動は絶対に許せないとし、まず彼を辞めさせなければならないと決心したといわれている。
この相沢中佐事件の半年後、昭和十一年二月二十六日、二・二六事件が起きた。当日早朝、決起した皇道派の青年将校らは千数百名の兵を動かし、重臣を襲撃、殺害し、陸軍省、参謀本部という軍中枢機構を完全に包囲制圧し、陸相官邸を維新革命司令部とすることに成功した。
二・二六事件の首謀者の一人、磯部浅一元主計大尉は事件後、獄中で「行動記」を書き残している。
「行動記」によると、磯部は事件前の昭和十年十二月中旬に古荘幹郎中将、真崎甚三郎大将、山下奉文少将に会っている。
その時、真崎大将は「このままでおいたら血を見る、俺がそれを云うと真崎が扇動していると云う。何しろ俺の周囲にはロシヤのスパイがついている」と時局いよいよ重大機に入らんとするを予期せる如く語った、と記している。
さらに一月二十八日に、磯部は再び真崎大将を訪ねている。真崎は「何事か起こるなら、何も云って呉れるな」と言い、磯辺の要求に応え、物でも売って五百円を都合することを約束した。
このようなことから、磯部は「余は、これなら必ず真崎大将はやって呉れる、余とは生まれて二度目の面会であるだけなのに、これだけの好意と援助をして呉れると云う事は、青年将校の思想信念、行動に理解を有している動かぬ証拠だと信じた」と断定している。
「二・二六事件の謎」(大谷敬二郎・光人社)によると、著者の大谷敬二郎(おおたに・けいじろう・滋賀・陸士三一・東京帝国大学法学部・東京憲兵隊特高課長・大佐・東京憲兵隊長・東部憲兵隊司令官・戦犯重労働十年・戦後作家)は当時憲兵大尉で、事件後真崎大将の取調官の一人だった。
軍事参議官・真崎甚三郎大将が二・二六事件決起を知ったのは、二月二十六日午前四時半頃、亀川哲也(沖縄・早稲田大学卒・会計検査院・森格の施設経済顧問・大日本農道会・二二六事件謀議で無期禁錮・戦後釈放)が世田谷の真崎邸の扉を叩いたことから始まる。
「二・二六事件への挽歌」(大蔵栄一・読売新聞社)によると、著者の大蔵栄一氏は、熊本幼年学校(二二期)、陸軍士官学校(三七期)卒の元陸軍大尉。青年将校として二・二六事件に連座して免官、禁錮四年の刑に処せられた。昭和五十四年死去。享年七十五歳。
大蔵氏は戦後、昭和三十年頃、真崎甚三郎元大将を世田谷の邸宅に訪ねた。そのとき、大蔵氏は二・二六事件について、「閣下はあの事件を事前にご承知だったのでしょうか」と、知るはずはないと思ったが一応確かめてみた。
真崎元大将「オレが知るはずがないではないか」。
大蔵氏「そうだと思います。じゃ、いつ知ったのでしょうか」。
真崎元大将「二十六日の朝四時半か五時ごろ、亀川(哲也)がきて知らせてくれて初めて知ったんだがね……」。
そのあと、真崎元大将は二・二六事件の朝のその後の行動を次のように大蔵氏に語った。
「八時半ごろ、陸軍大臣官邸に出かけた。行ってみると川島義之陸相の顔は土色で、生ける屍のようであった」
「それほど大臣はあわてて自己喪失に陥っていたらしい。その川島大臣を鞭撻して青年将校とも会い、事件処理に心を砕いた」