東郷元帥と西園寺公との会談は、小笠原日記によると、東郷元帥は、枢密院副議長・平沼麒一郎(ひらぬま・きいちろう)男爵(岡山・東京帝国大学法科卒・東京地方裁判所判事・横浜地裁部長・東京控訴院部長・東京控訴院検事・大審院検事・法学博士・司法次官・検事総長・大審院長・司法大臣・貴族院議員・枢密顧問官・男爵・枢密院議長・首相・A級戦犯・終身禁錮・勲一等旭日桐花大綬章)を首班として強く推薦したとある。
また、それに対して、西園寺公は同意をしなかった。それで斎藤実子爵を推したとの内容も、小笠原日記に記してある。
ところが、「西園寺公と政局」(原田熊雄・岩波書店)では、「東郷元帥は、平沼麒一郎が一番適当だと思うが、強いて彼でなくても、斎藤実でもいい」と記してある。
また、「東郷元帥は、ただ山本権兵衛(やまもと・ごんのひょうえ・鹿児島・海兵二期・大佐・巡洋艦「高雄」艦長・日清戦争・海軍大臣副官・軍務局長・海軍大臣・男爵・日露戦争・大将・伯爵・首相・従一位・大勲位菊花章頸飾)だけは困る、と言った」とも記してある。
昭和七年五月二十六日、斎藤実内閣が成立した。陸相・荒木貞夫(あらき・さだお)中将(東京・陸士九・陸大一九首席・大佐・歩兵第二三連隊長・参謀本部欧米課長・少将・歩兵第八旅団長・憲兵司令官・参謀本部第一部長・中将・陸軍大学校校長・第六師団長・教育総監部本部長・陸軍大臣・大将・男爵・予備役・文部大臣・A級戦犯・終身刑・釈放)は留任した。
だが、海相には岡田啓介が就任した。斎藤実も岡田啓介も、ロンドン海軍軍縮会議では条約をまとめたメンバーだ。東郷元帥、小笠原長生の思惑は、はずれた。
小笠原は艦隊派の危機とみて、軍令部長・伏見宮に「岡田は来年一月に満期となるを以って大角を大臣とせらるること然るべきこと。加藤大将、末次中将の身上に付き御保護願いたき」と頼んだ。
岡田海相が満六十五歳で定年になるのを機に、大角峯生(おおすみ・みねお)前海相(愛知・海兵二四期三席・海大五・海大教官・ドイツ駐在・大佐・戦艦「朝日」艦長・フランス大使館附武官・少将・軍務局長・第三戦隊司令官・中将・海軍次官・第二艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・海軍大臣・男爵・高等技術会議議長・航空機事故で死亡)を再起用するという工作だった。
昭和七年暮れに、斎藤首相が東郷元帥を訪ねた。満州事変の重大時期であり、岡田海相の留任を求めたが、東郷元帥は応じなかった。
岡田海相は結局、辞職せざるを得なくなったが、その理由に困った。「定年」では時期的に説得力に欠け、「東郷元帥」を理由にするわけにもいかず、「病気」にした。
そして大角大将が海相に返り咲いた。昭和八年一月二十五日、警視庁高等掛二人が小笠原長生を訪ね、海相交代劇の真相を聞き出そうとした。
「世間は閣下のことを昭和の由井正雪だと言っています」と言うと、小笠原は笑いながら「いや、正雪はひどい。私はそんな謀反気はないよ」と言ったという。
その後、人事権を握った大角海相によって、条約派の穏健な提督たちが次々に現役から追われた。昭和八年から翌年にかけて艦隊派主導によって行われた、条約派追放人事で、世にいう「大角人事」である。
東郷元帥の晩年は質素な生活だった。「足るを知る」が信条で、それを貫いた。「フランスの老農夫のようだった」との評もある。碁を囲み、庭木いじりのハサミを手にするほか、趣味は無かった。
昭和九年五月三十日午前七時、膀胱がんのため、元帥海軍大将正二位大勲位功一級侯爵・東郷平八郎は永遠の眠りについた。享年八十六歳だった。
死後従一位に昇格。六月五日国葬(葬儀委員長・有馬良橘海軍大将)が営まれ、多磨墓地に葬られた。
東郷元帥の遺髪は、英国海軍のネルソン提督の遺髪とともに、広島県江田島の海上自衛隊幹部候補生学校に厳重に保管されている。
(「東郷平八郎元帥海軍大将」は今回で終わりです。次回からは「永田鉄山陸軍中将」が始まります)
また、それに対して、西園寺公は同意をしなかった。それで斎藤実子爵を推したとの内容も、小笠原日記に記してある。
ところが、「西園寺公と政局」(原田熊雄・岩波書店)では、「東郷元帥は、平沼麒一郎が一番適当だと思うが、強いて彼でなくても、斎藤実でもいい」と記してある。
また、「東郷元帥は、ただ山本権兵衛(やまもと・ごんのひょうえ・鹿児島・海兵二期・大佐・巡洋艦「高雄」艦長・日清戦争・海軍大臣副官・軍務局長・海軍大臣・男爵・日露戦争・大将・伯爵・首相・従一位・大勲位菊花章頸飾)だけは困る、と言った」とも記してある。
昭和七年五月二十六日、斎藤実内閣が成立した。陸相・荒木貞夫(あらき・さだお)中将(東京・陸士九・陸大一九首席・大佐・歩兵第二三連隊長・参謀本部欧米課長・少将・歩兵第八旅団長・憲兵司令官・参謀本部第一部長・中将・陸軍大学校校長・第六師団長・教育総監部本部長・陸軍大臣・大将・男爵・予備役・文部大臣・A級戦犯・終身刑・釈放)は留任した。
だが、海相には岡田啓介が就任した。斎藤実も岡田啓介も、ロンドン海軍軍縮会議では条約をまとめたメンバーだ。東郷元帥、小笠原長生の思惑は、はずれた。
小笠原は艦隊派の危機とみて、軍令部長・伏見宮に「岡田は来年一月に満期となるを以って大角を大臣とせらるること然るべきこと。加藤大将、末次中将の身上に付き御保護願いたき」と頼んだ。
岡田海相が満六十五歳で定年になるのを機に、大角峯生(おおすみ・みねお)前海相(愛知・海兵二四期三席・海大五・海大教官・ドイツ駐在・大佐・戦艦「朝日」艦長・フランス大使館附武官・少将・軍務局長・第三戦隊司令官・中将・海軍次官・第二艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・海軍大臣・男爵・高等技術会議議長・航空機事故で死亡)を再起用するという工作だった。
昭和七年暮れに、斎藤首相が東郷元帥を訪ねた。満州事変の重大時期であり、岡田海相の留任を求めたが、東郷元帥は応じなかった。
岡田海相は結局、辞職せざるを得なくなったが、その理由に困った。「定年」では時期的に説得力に欠け、「東郷元帥」を理由にするわけにもいかず、「病気」にした。
そして大角大将が海相に返り咲いた。昭和八年一月二十五日、警視庁高等掛二人が小笠原長生を訪ね、海相交代劇の真相を聞き出そうとした。
「世間は閣下のことを昭和の由井正雪だと言っています」と言うと、小笠原は笑いながら「いや、正雪はひどい。私はそんな謀反気はないよ」と言ったという。
その後、人事権を握った大角海相によって、条約派の穏健な提督たちが次々に現役から追われた。昭和八年から翌年にかけて艦隊派主導によって行われた、条約派追放人事で、世にいう「大角人事」である。
東郷元帥の晩年は質素な生活だった。「足るを知る」が信条で、それを貫いた。「フランスの老農夫のようだった」との評もある。碁を囲み、庭木いじりのハサミを手にするほか、趣味は無かった。
昭和九年五月三十日午前七時、膀胱がんのため、元帥海軍大将正二位大勲位功一級侯爵・東郷平八郎は永遠の眠りについた。享年八十六歳だった。
死後従一位に昇格。六月五日国葬(葬儀委員長・有馬良橘海軍大将)が営まれ、多磨墓地に葬られた。
東郷元帥の遺髪は、英国海軍のネルソン提督の遺髪とともに、広島県江田島の海上自衛隊幹部候補生学校に厳重に保管されている。
(「東郷平八郎元帥海軍大将」は今回で終わりです。次回からは「永田鉄山陸軍中将」が始まります)