陸軍省では、軍務局高級課員・鈴木貞一中佐(陸士二二・陸大二九・中将・第三軍参謀長・貴族院議員・国務大臣企画院総裁・大日本産業報国会総裁)が脱退強硬論者だったが、荒木陸相はむしろ脱退に賛成していなかった。
このとき、新聞班長である本間大佐が強硬論を唱えたことは、陸軍部内を脱退に引きずって行った強い力となった。
この前年の十月二日に、リットン調査団の報告書が発表された。二部送られてきたリットン・レポートの一部は、外務省で十数名かかって、徹夜で翻訳された。
その夜、本間大佐は陸軍省の憲兵宿直室のベッドに寝転んで、夜通し、あとの一部のレポートを読破した。
その翌朝、徹夜のため目を真っ赤にした本間大佐が、毎日新聞の岡田益吉記者に「英国はダメだね」とポツンと言った。
国際連盟で、満州問題を取り上げ、英国が日本をギュウギュウ言わしているとき、外務省の霞倶楽部の記者たちが一斉に筆をそろえて英国攻撃をやった。
当時、本間大佐は英国にいたが、帰朝して、「あのときの日本の新聞の英国攻撃は、英国外務省に最も効果的だったよ。英国はあれで、すっかり日本いじめをやめたからね」と述懐していた。本間大佐は決して単純な親英論者でも排英論者でもなかった。
本間大佐が英国に三年間滞在して帰国した大正十年、参謀総長・上原大将に呼ばれ、「英国の長所と短所は如何」と質問され、散々に絞られた。このことから、本間大佐は国際情勢の甘い判断は禁物であると、認識していた。
その後、本間雅晴は、昭和十年陸軍少将に昇進、歩兵第三二旅団長、ヨーロッパ出張。昭和十三年陸軍中将に昇進し、第二七師団長。次に昭和十五年、台湾軍司令官を務めた。昭和十六年十一月、第一四軍司令官。
そしていよいよ、太平洋戦争に突入し、第一四軍司令官・本間中将は、米国の著名な軍人、マッカーサー将軍と対戦することになる。
「帝国陸軍の最後1進攻・決戦篇」(伊藤正徳・光人社)によると、昭和十六年十一月上旬、参謀総長・杉山元大将(陸士一二・陸大二二・元帥・教育総監・陸軍大臣・第一総軍司令官)は、山下奉文中将(陸士一八・陸大二八恩賜・大将・第一四軍司令官)、今村均中将(陸士一九・陸大二七恩賜・第八方面軍司令官・大将)、本間雅晴中将(陸士一九・陸大二七恩賜・参謀本部付・予備役)の三人を極秘裏に参謀総長室に集めた。
杉山大将と本間中将は、参謀総長と台湾軍司令官という上下の差は別として、親交も信頼感も持ち合わせなかった。本間中将は、杉山大将の将器を高く評価していなかった。
杉山大将は参謀長室に集めた三人の将軍に、対米英戦争の切迫を語り、三人に軍司令官の大任を託す内命を下した。
杉山大将は戦争の不可避を述べ、マレー、蘭印、比島の攻略作戦計画の大要を説明し、各軍が攻略に要する予定日数を内示し、順を追うて比島におよび「マニラの攻略は作戦発起後五十日以内とする」旨を指示した。
それこそ厳粛無比の戦争計画密議であって、杉山参謀総長の態度にも、おのずから昂然たる威勢が溢れて見えた。
すると、本間中将が、躊躇なく反問し、次のように述べた。
「敵の勢力も戦備の程度も不明であるのに、二個師団程度の限定兵力を持って、五十日以内にマニラを攻略せよと言われても、それは無理な注文ではなかろうか。彼我の兵力と戦備形勢一般を検討した上で、軍司令官の目算を徴せられるのが至当ではなかろうか」。
杉山参謀総長の顔は見る間に変わり、温顔が苦虫を噛みつぶしたようなった。手がふるえて、憤怒の色が明らかにうかがわれた。
杉山参謀総長は「これは参謀本部の研究の結論である」と吐き出すように言った。
本間中将はかかる場合に、自説をさっさとひるがえして調子を合わせるような世渡りの術は持っていなかった。
このとき、新聞班長である本間大佐が強硬論を唱えたことは、陸軍部内を脱退に引きずって行った強い力となった。
この前年の十月二日に、リットン調査団の報告書が発表された。二部送られてきたリットン・レポートの一部は、外務省で十数名かかって、徹夜で翻訳された。
その夜、本間大佐は陸軍省の憲兵宿直室のベッドに寝転んで、夜通し、あとの一部のレポートを読破した。
その翌朝、徹夜のため目を真っ赤にした本間大佐が、毎日新聞の岡田益吉記者に「英国はダメだね」とポツンと言った。
国際連盟で、満州問題を取り上げ、英国が日本をギュウギュウ言わしているとき、外務省の霞倶楽部の記者たちが一斉に筆をそろえて英国攻撃をやった。
当時、本間大佐は英国にいたが、帰朝して、「あのときの日本の新聞の英国攻撃は、英国外務省に最も効果的だったよ。英国はあれで、すっかり日本いじめをやめたからね」と述懐していた。本間大佐は決して単純な親英論者でも排英論者でもなかった。
本間大佐が英国に三年間滞在して帰国した大正十年、参謀総長・上原大将に呼ばれ、「英国の長所と短所は如何」と質問され、散々に絞られた。このことから、本間大佐は国際情勢の甘い判断は禁物であると、認識していた。
その後、本間雅晴は、昭和十年陸軍少将に昇進、歩兵第三二旅団長、ヨーロッパ出張。昭和十三年陸軍中将に昇進し、第二七師団長。次に昭和十五年、台湾軍司令官を務めた。昭和十六年十一月、第一四軍司令官。
そしていよいよ、太平洋戦争に突入し、第一四軍司令官・本間中将は、米国の著名な軍人、マッカーサー将軍と対戦することになる。
「帝国陸軍の最後1進攻・決戦篇」(伊藤正徳・光人社)によると、昭和十六年十一月上旬、参謀総長・杉山元大将(陸士一二・陸大二二・元帥・教育総監・陸軍大臣・第一総軍司令官)は、山下奉文中将(陸士一八・陸大二八恩賜・大将・第一四軍司令官)、今村均中将(陸士一九・陸大二七恩賜・第八方面軍司令官・大将)、本間雅晴中将(陸士一九・陸大二七恩賜・参謀本部付・予備役)の三人を極秘裏に参謀総長室に集めた。
杉山大将と本間中将は、参謀総長と台湾軍司令官という上下の差は別として、親交も信頼感も持ち合わせなかった。本間中将は、杉山大将の将器を高く評価していなかった。
杉山大将は参謀長室に集めた三人の将軍に、対米英戦争の切迫を語り、三人に軍司令官の大任を託す内命を下した。
杉山大将は戦争の不可避を述べ、マレー、蘭印、比島の攻略作戦計画の大要を説明し、各軍が攻略に要する予定日数を内示し、順を追うて比島におよび「マニラの攻略は作戦発起後五十日以内とする」旨を指示した。
それこそ厳粛無比の戦争計画密議であって、杉山参謀総長の態度にも、おのずから昂然たる威勢が溢れて見えた。
すると、本間中将が、躊躇なく反問し、次のように述べた。
「敵の勢力も戦備の程度も不明であるのに、二個師団程度の限定兵力を持って、五十日以内にマニラを攻略せよと言われても、それは無理な注文ではなかろうか。彼我の兵力と戦備形勢一般を検討した上で、軍司令官の目算を徴せられるのが至当ではなかろうか」。
杉山参謀総長の顔は見る間に変わり、温顔が苦虫を噛みつぶしたようなった。手がふるえて、憤怒の色が明らかにうかがわれた。
杉山参謀総長は「これは参謀本部の研究の結論である」と吐き出すように言った。
本間中将はかかる場合に、自説をさっさとひるがえして調子を合わせるような世渡りの術は持っていなかった。