陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

309.本間雅晴陸軍中将(9)杉山参謀総長の顔は見る間に変わり、温顔が苦虫を噛みつぶしたようなった

2012年02月24日 | 本間雅晴陸軍中将
 陸軍省では、軍務局高級課員・鈴木貞一中佐(陸士二二・陸大二九・中将・第三軍参謀長・貴族院議員・国務大臣企画院総裁・大日本産業報国会総裁)が脱退強硬論者だったが、荒木陸相はむしろ脱退に賛成していなかった。

 このとき、新聞班長である本間大佐が強硬論を唱えたことは、陸軍部内を脱退に引きずって行った強い力となった。

 この前年の十月二日に、リットン調査団の報告書が発表された。二部送られてきたリットン・レポートの一部は、外務省で十数名かかって、徹夜で翻訳された。

 その夜、本間大佐は陸軍省の憲兵宿直室のベッドに寝転んで、夜通し、あとの一部のレポートを読破した。

 その翌朝、徹夜のため目を真っ赤にした本間大佐が、毎日新聞の岡田益吉記者に「英国はダメだね」とポツンと言った。

 国際連盟で、満州問題を取り上げ、英国が日本をギュウギュウ言わしているとき、外務省の霞倶楽部の記者たちが一斉に筆をそろえて英国攻撃をやった。

 当時、本間大佐は英国にいたが、帰朝して、「あのときの日本の新聞の英国攻撃は、英国外務省に最も効果的だったよ。英国はあれで、すっかり日本いじめをやめたからね」と述懐していた。本間大佐は決して単純な親英論者でも排英論者でもなかった。

 本間大佐が英国に三年間滞在して帰国した大正十年、参謀総長・上原大将に呼ばれ、「英国の長所と短所は如何」と質問され、散々に絞られた。このことから、本間大佐は国際情勢の甘い判断は禁物であると、認識していた。

 その後、本間雅晴は、昭和十年陸軍少将に昇進、歩兵第三二旅団長、ヨーロッパ出張。昭和十三年陸軍中将に昇進し、第二七師団長。次に昭和十五年、台湾軍司令官を務めた。昭和十六年十一月、第一四軍司令官。

 そしていよいよ、太平洋戦争に突入し、第一四軍司令官・本間中将は、米国の著名な軍人、マッカーサー将軍と対戦することになる。

 「帝国陸軍の最後1進攻・決戦篇」(伊藤正徳・光人社)によると、昭和十六年十一月上旬、参謀総長・杉山元大将(陸士一二・陸大二二・元帥・教育総監・陸軍大臣・第一総軍司令官)は、山下奉文中将(陸士一八・陸大二八恩賜・大将・第一四軍司令官)、今村均中将(陸士一九・陸大二七恩賜・第八方面軍司令官・大将)、本間雅晴中将(陸士一九・陸大二七恩賜・参謀本部付・予備役)の三人を極秘裏に参謀総長室に集めた。

 杉山大将と本間中将は、参謀総長と台湾軍司令官という上下の差は別として、親交も信頼感も持ち合わせなかった。本間中将は、杉山大将の将器を高く評価していなかった。

 杉山大将は参謀長室に集めた三人の将軍に、対米英戦争の切迫を語り、三人に軍司令官の大任を託す内命を下した。

 杉山大将は戦争の不可避を述べ、マレー、蘭印、比島の攻略作戦計画の大要を説明し、各軍が攻略に要する予定日数を内示し、順を追うて比島におよび「マニラの攻略は作戦発起後五十日以内とする」旨を指示した。

 それこそ厳粛無比の戦争計画密議であって、杉山参謀総長の態度にも、おのずから昂然たる威勢が溢れて見えた。

 すると、本間中将が、躊躇なく反問し、次のように述べた。

 「敵の勢力も戦備の程度も不明であるのに、二個師団程度の限定兵力を持って、五十日以内にマニラを攻略せよと言われても、それは無理な注文ではなかろうか。彼我の兵力と戦備形勢一般を検討した上で、軍司令官の目算を徴せられるのが至当ではなかろうか」。

 杉山参謀総長の顔は見る間に変わり、温顔が苦虫を噛みつぶしたようなった。手がふるえて、憤怒の色が明らかにうかがわれた。

 杉山参謀総長は「これは参謀本部の研究の結論である」と吐き出すように言った。

 本間中将はかかる場合に、自説をさっさとひるがえして調子を合わせるような世渡りの術は持っていなかった。

308.本間雅晴陸軍中将(8)本間大尉は完璧までにやっつけられて「雷おやじめ」と思いながら退散した

2012年02月17日 | 本間雅晴陸軍中将
 今村大尉が「さようであります」と答えると、

 上原元帥は「わしはフランスと違った編制にしている英軍は、いかなる理由で、そのようにしたかを聞いているのだ」と言った。

 今村大尉が「両軍の主義を確かめてはおりません」としぶしぶ答えると、

 上原元帥は「日本軍の将来の歩兵隊編制をどうすべきかに考え及んだなら、すぐにこの点を聞き出しておくべきだった。それを確かめなかったのは手落ちだ。さて、疑問の第二点は……」と、二時間も絞られ、今村大尉はほうほうの態で逃げ出した。

 次の日曜日には、本間大尉が上原別荘に呼びつけられた。その翌日、本間大尉は参謀本部の今村大尉を訪ねた。

 今村大尉が「どうだった。無事に済んだか」と問いかけると、

 本間大尉は「無事でなんかあるものか。ひどい目にあわされた。俺の報告書の“戦車隊運用”についての質問だったが……」と詳しく話し出した。

 その報告書は英軍雑誌記事の要点を訳したものだった。

 本間大尉は「榴弾が近くで炸裂したとき、戦車内の兵員は振動でどんな衝撃を受けるか?なんて聞かれたって、戦車に乗ったこともない俺にわかるはずがない」と今村大尉に語った。

 だが、その前日、上原元帥は「英軍は君を戦車隊にはつけなかったかも知れんが、英軍将校にただすなりして、戦車に対する敵砲兵の威力を確かめることはできたはずだ」と本間大尉を叱責している。

 また上原元帥は「三年間の駐在で、英国の最もよい点と感じたところ、最も悪い点と感じたところは、何だった?」と本間大尉に質問した。

 本間大尉は「よい点は紳士道といいましょうか、実に礼儀正しいことです。悪いところと申せば、保守主義で、他国のことを学ぼうとしないことです」と答えた。

 すると上原元帥は「君は三年もおって、まるで逆に見ている。英国の紳士道という礼儀は国内だけの話、国際間のことになると完全に非紳士的だ」

 「目の前の香港をどうして手に入れたか。インドをどう統治しているか。敗将ナポレオンをどう取り扱ったか。アフリカ土人をいかに奴隷として売りさばいたか。君はそれでも英国民は紳士的だというのか」

 「また、英国の悪いところは保守だという。英国は外に対しては、あのようにおおっぴらに無作法な利己主義を振舞いながら、国内では全英人の団結保持のため、おおいに国粋と民族の優越性とを説いてやまない」

 「この保守こそ、大英帝国を堅持している唯一の強味といえる。しかも保守の内容を検討して見給え。英国のような進歩的な民族が、どこにいる。蒸気機関の発明、鉄道の建設、社会施設の改良、議会制度など、みな他国より一歩も二歩も先に進んでいる」

 「現に将来列国軍がそうなるであろう軍の機械化などでさえ、英国は先鞭をつけているではないか。君はもう一ぺん、英国の歴史や英民族の性格を研修しなおさなけりゃいかん」。

 本間大尉は完璧までにやっつけられて、「雷おやじめ」と思いながら退散した。だが、今村大尉も本間大尉も上原元帥は結局、「偉いおやじだ」という結論を出した。

 一方上原元帥は、本間大尉を陸軍大学校の教官に任じ、戦車戦術の教育に当たらせた。また、今村大尉は、この三年後、参謀総長の職を辞したあと軍事参議官となった上原元帥の副官に任命されている。

 昭和六年、満州事変が勃発、翌七年に、本間雅晴大佐は陸軍省新聞班長になった。「丸エキストラ戦史と旅28将軍と提督」(潮書房)所収「非情の将軍・本間雅晴」(岡田益吉)によると、本間大佐は名新聞班長で、うるさい新聞記者連中も慈父のごとく本間大佐を慕っていた。

 当時、反軍的傾向も残っており、軍の強行的な満州政策に対しても、本間新聞班長は言論界に対するオブラートの役目を果たしていた。

 陸軍大臣は荒木貞夫中将(陸士九・陸大一九首席・大将・勲一等旭日大綬章・男爵・文部大臣)、陸軍次官は柳川平助中将(陸士一二・陸大二四恩賜・第一〇軍司令官・司法大臣・国務大臣)、軍務局長は山岡重厚少将(陸士一五・陸大二四・中将・第一〇九師団長・勲一等旭日大綬章・善通寺師管区司令官・高知県恩給権擁護連盟委員長)という、わからず屋が控えている中で、本間大佐はいつもニコニコして、軍部の真意を諒解させるよう努力していた。

 ところが、不思議なことが起こった。昭和八年三月二十七日、日本は国際連盟を脱退して、外交上孤立してしまった。

 このとき、英国に長くいて、親英派とか、その人柄から国際協調派と思われていた、本間新聞班長が、強硬に国際連盟脱退を支持したのである。

307.本間雅晴陸軍中将(7)「君は、なんと言う馬鹿か……」と言って、唖然とした

2012年02月10日 | 本間雅晴陸軍中将
 本間大尉は仲人の鈴木荘六中将に智子との復縁を頼みに行ったが、噂を聞いていた鈴木中将は本間大尉を痛烈に非難して断った。

 本間大尉は、親友今村大尉にも智子との仲介を頼んだが、今村大尉も断った。本間大尉はあきらめきれずにいた。

 本間大尉は子供たちの顔を見せたら智子の気持ちもやわらぐかと、佐渡から呼び寄せた、道夫、雅彦兄弟に、ロンドンみやげの服を着せ、公園で智子に会わせた。

 だが、これも本間大尉のみじめさの上塗りをしただけで、効果はなかった。そのころの本間大尉は、豊満な頬の肉はそがれ、笑いはまったくなかった。

 大正十年十二月、本間大尉は智子夫人と協議離婚した。本間大尉は智子の実家、田村家の要求どおり千円とも三千円ともいう金を支払った。

 本間大尉は仲人の鈴木中将に会い、金を払った上での離婚を報告した。鈴木中将は「腰抜けめ。そんなだらし無しだから、鼻毛を抜かれたんだぞ」と散々に本間大尉を罵倒した。

 本間大尉は親友の今村均大尉にも報告した。これを聞いた今村大尉も、「君は、なんと言う馬鹿か……」と言って、唖然とした。

 だが、本間大尉は「俺が金を払ったのは、七年間慰めてくれた恋の死屍(しかばね)の葬式費用のつもりだ」と答えて、涙を流した。

 この言葉を聞いた、今村大尉は、本間大尉の独特の性格に心を打たれて、「……馬鹿だなんて言った失敬な言葉を許してくれ給え。友人の多くは、仲人の中将同様、君をあざ笑うだろう。だが、今の今、僕は君の純情に心から敬服した」と感動に目を潤ませて答えた。

 大正十一年八月、本間雅晴大尉は陸軍少佐に昇進した。陸軍大学校の優秀な兵学教官ではあったが、上官、同僚からひそかに“腰抜け”と呼ばれていた。智子との離婚のいきさつが広く知れ渡っていた。

 「昭和陸海軍の失敗」(文藝春秋)の中で、半藤一利と保阪正康が本間雅晴将軍について、次の様に述べている。

 (半藤)軍人にならないほうが良かった軍人がいるとすれば、まさに本間でしょう。周囲からは「文人将軍」と言われ、たるんでいたと思われていた。

 (保阪)「西洋かぶれ」「腰抜け将軍」とも言われていたようです。評判が悪かったのは最初の夫人の問題もあるでしょう。日露戦争前に活躍した大物軍人・田村恰与造(たむら・いよぞう・旧制2期)の娘と結婚したのですが、これがまた奔放な女性で、本間が英国へ単身赴任している間に、女優として舞台にあがるは、作家の永井荷風と浮名をながすわと、軍人の妻らしからぬ振る舞いが多かった。荷風の「断腸亭日乗」にも交際相手として名前が出てきますよ。

 (半藤)そんな妻をたたき出すこともできないとは、軍人の風上にも置けない腰抜けだと散々な言われようだったそうですね。

 「私記・一軍人六十年の哀歓」(今村均・芙蓉書房)によると、大正十年、英国から帰って間もない頃、本間雅晴大尉と今村均大尉が、上原勇作元帥に徹底的に鍛えられたことが記してある。

 上原勇作元帥(陸士旧三)は当時、子爵で陸軍参謀総長の職にあった。上原元帥は東京帝国大学の前身である大学南校を中退して幼年学校、陸軍士官学校に入り、首席で卒業した。フランスに留学、フォンテブロー砲工学校に入り五年間フランスに滞在した。

 明治四十年男爵、師団長を経て、明治四十五年陸軍大臣に就任。その後大正三年教育総監、同四年陸軍大将、陸軍参謀総長になり、大正十二年までその職にあった。

 その間、大正十年四月に子爵、元帥になった。非常に勉学好きで、軍事の読書に励み、軍事学の権威でもあった。

 上原元帥は、陸軍大臣、教育総監、参謀総長の陸軍三長官をすべて勤めた。陸軍史上、三長官を歴任したのは上原元帥と杉山元(すぎやま・げん)元帥(陸士一二・陸大二二)のみだった。

 英国から帰国すると、日曜日に、まず、今村均大尉が鎌倉の上原別荘に呼びつけられた。

 上原元帥は「君が英国から中央に送ってきた駐在員報告を、わしはみな読んでおる。それについて……」と容赦なく質問を今村大尉に浴びせた。

 今村大尉が「それは、歩兵の突撃力を減ずるためと思います」と答えると、

 上原元帥は、「思いますというのは、君がそう思うという意味か」と突っ込まれた。

306.本間雅晴陸軍中将(6)四階の窓から飛び降りそうになった自殺未遂事件を起こした

2012年02月03日 | 本間雅晴陸軍中将
 九月末、本間大尉は従軍武官として英軍に配属されるため、西部戦線に向かった。本来なら今村大尉が従軍するはずだった。

 本間大尉は大使館付武官の補佐官になる予定だったが、朝から晩まで暗号を組み立てて電報を打ったり、暗号解読、旅行中の日本人の世話などの補佐官の仕事を見て、すっかり嫌気がさしていた。

 それで本間大尉は、世界大戦も終わろうとしている時、一度戦場を視察したいと思ったので、同郷、新潟出身の先輩、参謀本部作戦課長・大竹沢治大佐(陸士七・陸大一六恩賜・少将・参謀本部第一部長)に英軍に従軍することを頼んだ。

 本間大尉は、自分が従軍することになれば、補佐官の代わりが東京から派遣されると思い込んでいた。だが、結果は、本間大尉と今村大尉が入れ替って、今村大尉が補佐官を命ぜられた。

 東京で今村大尉は軍務局長・奈良武次中将(陸士一一・砲工学校高等科優等・陸大一三・侍従武官長・大将・男爵・勲一等旭日桐花大綬章)から「君は渡英後、従軍武官に指名されるはずだ。その時の研究項目は別に指令する」と言われていたので、補佐官に決まったと聞かされたときは、甚だ不満だった。

 そこで、今村大尉は、参謀本部の電報は間違いだろうと、訂正電報を待っていた。その今村大尉を本間大尉が食事に誘った。本間大尉は首をうなだれて、「君にあやまらねばならぬことがある」と、大竹大佐に依頼した事情を説明した。

 今村大尉は、「もし本間大尉が黙っていたら、あとになってその理由が分かったら、自分は彼を卑劣な奴と軽蔑しただろう」と述べて、素直に打ち明けた本間大尉を快く許した。

 三年後の大正十年春、ロンドンの本間大尉は、東京にいる陸軍士官学校同期の藤井貫一大尉(陸士一九・陸大三二・少将・対馬要塞司令官)から手紙を受け取った。

二人は新発田連隊で一緒に勤務、暮らした仲だった。藤井大尉からの手紙は、本間大尉の胸を刺した。それは次のような内容だった。

 「智子夫人の評判が非常に悪い。二人の子供は女中まかせで、着飾っては若い男と出歩いている。女優となって舞台に立っているらしく、家にもあやし気な男たちが出入りして、近所の話題になっている。軍人の名誉を傷つけることでもあり、君から厳重に注意されることを望む」。

 藤井大尉はこの手紙を書く前に、同期生の牧野正三郎大尉(陸士一九・陸大三一・少将・陸軍司政長官)とともに本間大尉の留守宅を訪れ、直接智子に忠告した。

 だが、とても二人の意見を聞く相手ではなかった。「何もやましいことはない。芸術家と交際してどこが悪いか。失礼なことを言うな」と逆にまくしたてられて、ほうほうの態で引き上げた。

 さらに、同期の舞伝男大尉から藤井は「本間の留守宅には行くな。悪い噂のある細君だから、うっかりすると、こちらまで人から変な目で見られるぞ」と忠告された。

 ロンドンの本間大尉から返信が藤井大尉へ来た。「家庭内のことに干渉してくれるな」という文面で、友情に感謝しているものの、「余計なおせっかい」と言わぬばかりだった。

 智子は自分の行動が夫にどのような影響をおよぼすか考えるような女ではなかった。二人の子供は佐渡のマツのところに引き取られた。

 そのあと智子は一人でアトリエのついた借家に引っ越した。こうして、ロンドンの本間大尉がそこへ帰る日を待ち焦がれた彼らの家庭は消滅した。

 本間と智子の次男、雅彦は、彼の手記「偉大なる腰抜け将軍―本間雅晴」の中に、「留守中、智子は若い画家と駆け落ちした」と書いている。

 ロンドンの本間大尉は妻の素行について藤井や母マツから知らされたとき、理性を失うほどの絶望状態に陥った。日本料理屋「日の出屋」の四階の窓から飛び降りそうになった自殺未遂事件を起こした。

 すぐにでも軍人をやめ、故郷に帰って子供を育てるという本間大尉を、今村均大尉はなだめすかして、予定通り柳川平助中佐と三人で二ヶ月間の欧州旅行を済ませ、マルセイユから郵船・北野丸で日本に向かった。

 三年ぶりで再開した夫婦は麹町の旅館で話し合った。元通りの生活に戻ってくれと哀訴懇願する本間大尉をかたくなに拒んで、智子は旅館を出た。