画期的だったのは「清輝」が、国産艦である軍艦であることと、従来と違い、外国人教師を一人も同乗させずに、日本人だけで航海して来たという壮挙だった。
明治十二年十月二日、山本中尉の妻、登喜子が長女、いね子を出産した。いね子は後に、海軍兵学校第一五期を首席で卒業し出世コースを進む財部彪(たからべ・たけし)大尉(宮崎・海兵一五首席・大佐・巡洋艦「宗谷」艦長・戦艦「富士」艦長・第一艦隊参謀長・少将・海軍次官・中将・第三艦隊司令官・旅順要港部司令官・舞鶴鎮守府司令長官・佐世保鎮守府司令長官・海軍大臣・ロンドン海軍軍縮会議全権・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・功三級・スペイン王国海軍有功白色第四級勲章等)と結婚する。
明治十三年頃、山本権兵衛中尉の妻、登喜子が、練習艦「乾行」を見学に来た。山本中尉は妻を自分で案内し、説明した。
妻、登喜子が帰るとき、ボートから桟橋に移る際、山本中尉は、登喜子の履物を手に持って、先に桟橋に移り、彼女の前に揃えた。
回りにいた将兵達は冷笑した。海軍士官が妻を艦内に案内することも殆どないのに、衆人環視の中で、妻の履物を揃えて置くなどは、男としてはあまりにも見苦しい行為だと思ったのだ。
だが、山本中尉は平然としていた。「敬妻は一家に秩序と平和をもたらす」というのが、山本中尉の信念だったのだ。
明治十三年十月七日、山本権兵衛中尉は、海軍兵学校卒業の海軍少尉補らを乗せて遠洋航海に出かける練習艦「龍驤」乗組みとなった。
実は、山本中尉は、練習艦「乾行」乗組みの時、軍艦「清輝」の壮挙に刺激されて、次の様に海軍兵学校校長・仁礼景範少将に進言した。
「外国人教師は学校での特殊教科を教えるだけにとどめ、日本海軍を代表する活動を行う練習艦には、もはや同乗させるべきではない。また、時代に後れて補習が必要になった高級士官らも遠洋航海練習艦に乗組ませ、少尉補らと同様に、新学術を習得した青年士官教師の教育を受けさせる必要がある」
「学術の前には上下がなく、軍隊のおける命令・服従に支障を生じさせるものでもない。むしろ、海軍全般に研学の気運を振興し、ひいては士気を高揚して、海軍実力を増進させることになる。したがって、新学術を習得した青年士官を、できるだけ多く練習艦の指導官に任命すべきである」。
校長・仁礼少将は大賛成して、山本中尉の案を海軍省に提出し、海軍省もそれを認めた。その結果、山本中尉ほか数名の青年士官が、練習艦「龍驤」乗組みとなったのだ。
ところが、その後、海軍省勤務の日高壮の丞中尉から、横須賀港で「龍驤」乗組み中の山本中尉のもとに電報があり、「至急上京せよ」と言ってきた。
そこで、山本中尉は、艦長の許可を得て上京し、日高中尉に面会した。日高中尉はため息をつくと、次の様に言った。
「従来の士官(海軍兵学校以前)を「龍驤」で再教育すっちゅう件じゃが、ちかく軍務局長になる中将が大反対で、海軍卿を動かして、中止となった」。
軍務局長になる中将とは、伊東祐麿(いとう・すけまろ)中将(鹿児島・薩摩藩士・薩摩藩砲隊長・維新後海軍少佐・練習艦「龍驤」副長・練習艦「龍驤」艦長・中艦隊指揮官・少将・佐賀征討参軍・東部指揮官・東海鎮守府司令長官・西南戦争で海軍艦隊指揮官・中将・海軍省軍務局長・海軍兵学校校長・元老院議員・貴族院議員・子爵・錦鶏間祗候・正三位)のことだった。
また、海軍卿は榎本武揚(えのもと・たけあき)中将(東京・長崎海軍伝習所・築地軍艦操練所教授・オランダ留学・軍艦頭・阿波沖海戦で勝利・海軍副総裁・旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出・函館戦争・新政府軍に降伏・特赦で出獄・開拓使四等出仕・北海道鉱山検査巡回・中判官・駐露特命全権大使・海軍中将・樺太・千島交換条約締結・外務大輔・海軍卿・予備役・皇居造営事務副総裁・駐清特命全権公使・逓信大臣・子爵・農商務大臣・電気学会初代会長・文部大臣・枢密顧問官・外務大臣・農商務大臣・工業化学会初代会長・子爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・ロシア帝国白鷲大綬章等)だった。
日高中尉は、続けて、山本中尉に次の様に言った。
「伊東さんは、従来の士官は維新当時、兵馬倥偬(こうそう=戦争で多忙)の間に出入りした者が多く、海軍が定めた学科を習得する機会がなかったちゅうても、実戦の経歴功績を持つか、独学的実地的に研鑽を積み、いづれも相当の抱負を持ってその地位にあるのに、練習乗組みを命じ、青年士官の指導の下で練習させるちゅうは、個人の名誉を傷つけるのみか、下級者の軽視を招き、ひいては軍隊における秩序を乱す嫌いがあるというんじゃ」
明治十二年十月二日、山本中尉の妻、登喜子が長女、いね子を出産した。いね子は後に、海軍兵学校第一五期を首席で卒業し出世コースを進む財部彪(たからべ・たけし)大尉(宮崎・海兵一五首席・大佐・巡洋艦「宗谷」艦長・戦艦「富士」艦長・第一艦隊参謀長・少将・海軍次官・中将・第三艦隊司令官・旅順要港部司令官・舞鶴鎮守府司令長官・佐世保鎮守府司令長官・海軍大臣・ロンドン海軍軍縮会議全権・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・功三級・スペイン王国海軍有功白色第四級勲章等)と結婚する。
明治十三年頃、山本権兵衛中尉の妻、登喜子が、練習艦「乾行」を見学に来た。山本中尉は妻を自分で案内し、説明した。
妻、登喜子が帰るとき、ボートから桟橋に移る際、山本中尉は、登喜子の履物を手に持って、先に桟橋に移り、彼女の前に揃えた。
回りにいた将兵達は冷笑した。海軍士官が妻を艦内に案内することも殆どないのに、衆人環視の中で、妻の履物を揃えて置くなどは、男としてはあまりにも見苦しい行為だと思ったのだ。
だが、山本中尉は平然としていた。「敬妻は一家に秩序と平和をもたらす」というのが、山本中尉の信念だったのだ。
明治十三年十月七日、山本権兵衛中尉は、海軍兵学校卒業の海軍少尉補らを乗せて遠洋航海に出かける練習艦「龍驤」乗組みとなった。
実は、山本中尉は、練習艦「乾行」乗組みの時、軍艦「清輝」の壮挙に刺激されて、次の様に海軍兵学校校長・仁礼景範少将に進言した。
「外国人教師は学校での特殊教科を教えるだけにとどめ、日本海軍を代表する活動を行う練習艦には、もはや同乗させるべきではない。また、時代に後れて補習が必要になった高級士官らも遠洋航海練習艦に乗組ませ、少尉補らと同様に、新学術を習得した青年士官教師の教育を受けさせる必要がある」
「学術の前には上下がなく、軍隊のおける命令・服従に支障を生じさせるものでもない。むしろ、海軍全般に研学の気運を振興し、ひいては士気を高揚して、海軍実力を増進させることになる。したがって、新学術を習得した青年士官を、できるだけ多く練習艦の指導官に任命すべきである」。
校長・仁礼少将は大賛成して、山本中尉の案を海軍省に提出し、海軍省もそれを認めた。その結果、山本中尉ほか数名の青年士官が、練習艦「龍驤」乗組みとなったのだ。
ところが、その後、海軍省勤務の日高壮の丞中尉から、横須賀港で「龍驤」乗組み中の山本中尉のもとに電報があり、「至急上京せよ」と言ってきた。
そこで、山本中尉は、艦長の許可を得て上京し、日高中尉に面会した。日高中尉はため息をつくと、次の様に言った。
「従来の士官(海軍兵学校以前)を「龍驤」で再教育すっちゅう件じゃが、ちかく軍務局長になる中将が大反対で、海軍卿を動かして、中止となった」。
軍務局長になる中将とは、伊東祐麿(いとう・すけまろ)中将(鹿児島・薩摩藩士・薩摩藩砲隊長・維新後海軍少佐・練習艦「龍驤」副長・練習艦「龍驤」艦長・中艦隊指揮官・少将・佐賀征討参軍・東部指揮官・東海鎮守府司令長官・西南戦争で海軍艦隊指揮官・中将・海軍省軍務局長・海軍兵学校校長・元老院議員・貴族院議員・子爵・錦鶏間祗候・正三位)のことだった。
また、海軍卿は榎本武揚(えのもと・たけあき)中将(東京・長崎海軍伝習所・築地軍艦操練所教授・オランダ留学・軍艦頭・阿波沖海戦で勝利・海軍副総裁・旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出・函館戦争・新政府軍に降伏・特赦で出獄・開拓使四等出仕・北海道鉱山検査巡回・中判官・駐露特命全権大使・海軍中将・樺太・千島交換条約締結・外務大輔・海軍卿・予備役・皇居造営事務副総裁・駐清特命全権公使・逓信大臣・子爵・農商務大臣・電気学会初代会長・文部大臣・枢密顧問官・外務大臣・農商務大臣・工業化学会初代会長・子爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・ロシア帝国白鷲大綬章等)だった。
日高中尉は、続けて、山本中尉に次の様に言った。
「伊東さんは、従来の士官は維新当時、兵馬倥偬(こうそう=戦争で多忙)の間に出入りした者が多く、海軍が定めた学科を習得する機会がなかったちゅうても、実戦の経歴功績を持つか、独学的実地的に研鑽を積み、いづれも相当の抱負を持ってその地位にあるのに、練習乗組みを命じ、青年士官の指導の下で練習させるちゅうは、個人の名誉を傷つけるのみか、下級者の軽視を招き、ひいては軍隊における秩序を乱す嫌いがあるというんじゃ」