陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

631.山本権兵衛海軍大将(11)妻の履物を揃えて置くなどは、男としてはあまりにも見苦しい行為だ

2018年04月27日 | 山本権兵衛海軍大将
 画期的だったのは「清輝」が、国産艦である軍艦であることと、従来と違い、外国人教師を一人も同乗させずに、日本人だけで航海して来たという壮挙だった。

 明治十二年十月二日、山本中尉の妻、登喜子が長女、いね子を出産した。いね子は後に、海軍兵学校第一五期を首席で卒業し出世コースを進む財部彪(たからべ・たけし)大尉(宮崎・海兵一五首席・大佐・巡洋艦「宗谷」艦長・戦艦「富士」艦長・第一艦隊参謀長・少将・海軍次官・中将・第三艦隊司令官・旅順要港部司令官・舞鶴鎮守府司令長官・佐世保鎮守府司令長官・海軍大臣・ロンドン海軍軍縮会議全権・従二位・勲一等旭日桐花大綬章・功三級・スペイン王国海軍有功白色第四級勲章等)と結婚する。

 明治十三年頃、山本権兵衛中尉の妻、登喜子が、練習艦「乾行」を見学に来た。山本中尉は妻を自分で案内し、説明した。

 妻、登喜子が帰るとき、ボートから桟橋に移る際、山本中尉は、登喜子の履物を手に持って、先に桟橋に移り、彼女の前に揃えた。

 回りにいた将兵達は冷笑した。海軍士官が妻を艦内に案内することも殆どないのに、衆人環視の中で、妻の履物を揃えて置くなどは、男としてはあまりにも見苦しい行為だと思ったのだ。

 だが、山本中尉は平然としていた。「敬妻は一家に秩序と平和をもたらす」というのが、山本中尉の信念だったのだ。

 明治十三年十月七日、山本権兵衛中尉は、海軍兵学校卒業の海軍少尉補らを乗せて遠洋航海に出かける練習艦「龍驤」乗組みとなった。

 実は、山本中尉は、練習艦「乾行」乗組みの時、軍艦「清輝」の壮挙に刺激されて、次の様に海軍兵学校校長・仁礼景範少将に進言した。

 「外国人教師は学校での特殊教科を教えるだけにとどめ、日本海軍を代表する活動を行う練習艦には、もはや同乗させるべきではない。また、時代に後れて補習が必要になった高級士官らも遠洋航海練習艦に乗組ませ、少尉補らと同様に、新学術を習得した青年士官教師の教育を受けさせる必要がある」

 「学術の前には上下がなく、軍隊のおける命令・服従に支障を生じさせるものでもない。むしろ、海軍全般に研学の気運を振興し、ひいては士気を高揚して、海軍実力を増進させることになる。したがって、新学術を習得した青年士官を、できるだけ多く練習艦の指導官に任命すべきである」。

 校長・仁礼少将は大賛成して、山本中尉の案を海軍省に提出し、海軍省もそれを認めた。その結果、山本中尉ほか数名の青年士官が、練習艦「龍驤」乗組みとなったのだ。

 ところが、その後、海軍省勤務の日高壮の丞中尉から、横須賀港で「龍驤」乗組み中の山本中尉のもとに電報があり、「至急上京せよ」と言ってきた。

 そこで、山本中尉は、艦長の許可を得て上京し、日高中尉に面会した。日高中尉はため息をつくと、次の様に言った。

 「従来の士官(海軍兵学校以前)を「龍驤」で再教育すっちゅう件じゃが、ちかく軍務局長になる中将が大反対で、海軍卿を動かして、中止となった」。

 軍務局長になる中将とは、伊東祐麿(いとう・すけまろ)中将(鹿児島・薩摩藩士・薩摩藩砲隊長・維新後海軍少佐・練習艦「龍驤」副長・練習艦「龍驤」艦長・中艦隊指揮官・少将・佐賀征討参軍・東部指揮官・東海鎮守府司令長官・西南戦争で海軍艦隊指揮官・中将・海軍省軍務局長・海軍兵学校校長・元老院議員・貴族院議員・子爵・錦鶏間祗候・正三位)のことだった。

 また、海軍卿は榎本武揚(えのもと・たけあき)中将(東京・長崎海軍伝習所・築地軍艦操練所教授・オランダ留学・軍艦頭・阿波沖海戦で勝利・海軍副総裁・旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出・函館戦争・新政府軍に降伏・特赦で出獄・開拓使四等出仕・北海道鉱山検査巡回・中判官・駐露特命全権大使・海軍中将・樺太・千島交換条約締結・外務大輔・海軍卿・予備役・皇居造営事務副総裁・駐清特命全権公使・逓信大臣・子爵・農商務大臣・電気学会初代会長・文部大臣・枢密顧問官・外務大臣・農商務大臣・工業化学会初代会長・子爵・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・ロシア帝国白鷲大綬章等)だった。

 日高中尉は、続けて、山本中尉に次の様に言った。

 「伊東さんは、従来の士官は維新当時、兵馬倥偬(こうそう=戦争で多忙)の間に出入りした者が多く、海軍が定めた学科を習得する機会がなかったちゅうても、実戦の経歴功績を持つか、独学的実地的に研鑽を積み、いづれも相当の抱負を持ってその地位にあるのに、練習乗組みを命じ、青年士官の指導の下で練習させるちゅうは、個人の名誉を傷つけるのみか、下級者の軽視を招き、ひいては軍隊における秩序を乱す嫌いがあるというんじゃ」










630.山本権兵衛海軍大将(10)水兵に反感を買っていることを知った山本少尉は、東郷中尉に忠告した

2018年04月20日 | 山本権兵衛海軍大将
 続いて青木公使は、日本海軍の命令を伝達した。山本少尉ら八名はドイツ海軍の新造艦「ライプチッヒ」に乗組むことを命ぜられた。彼らは「ライプチッヒ」に乗組み実習を行った。

 明治十一年三月、山本少尉ら八人は、「ライプチッヒ」を退艦し、帰国の途についた。五月六日、横浜港に帰着した。

 五月二十五日、山本権兵衛少尉は、近く英国から回航されてくる新造の甲鉄コルベット「扶桑」(三七一七トン)乗組みを命ぜられた。

 八月十六日、横須賀に停泊中の甲鉄コルベット「扶桑」に、英国で七年間船乗り修業をした東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)中尉(鹿児島・英国商船学校・コルベット「大和」艦長・大佐・装甲艦「比叡」艦長・呉鎮守府参謀長・防護巡洋艦「浪速」艦長・呉鎮守府海兵団長・防護巡洋艦「浪速」艦長・日清戦争・少将・常備艦隊司令官・海軍大学校校長・中将・佐世保鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・常備艦隊司令長官・日露戦争・日本海海戦で大勝利・軍令部長・伯爵・訪英・元帥・東宮御学問所総裁・侯爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・功一級)が着任した。

 東郷中尉(三十歳)と山本少尉(二十六歳)は少年時代から顔見知りだったが、勤務を共にするのはこれが初めてだった。

 間もなく、英国帰りの東郷中尉が時々英語の命令を出して、水兵に反感を買っていることを知った山本少尉は、東郷中尉に忠告した。

 「英語の命令は止めた方がよか思めもすが」。すると東郷中尉は「英語も命令は命令ごわんそ」と平然と答えた。

 この強情な相手に、山本少尉は戦法を変えて、「リッキング(マストに取り付けられた縄梯子)の昇降競争をやいもはんか」と提案すると、」「どげんすっと」と東郷中尉は質問をした。

 「早く甲板に着いたが勝ちで、その意見に従うちゅうのはどげじゃろ」と山本少尉が説明すると、「よかごわんそ」と東郷中尉は、挑戦を受けた。

 二人は作業服に着替え、士官連中が観戦する中で、競争することにした。

 煙突後方のメインマストには、何人もが一度に昇り降りできる幅広い縄梯子が取り付けられていて、東郷中尉は左舷側から、山本少尉は右舷側から昇ることになった。

 判定係士官の合図で、二人は昇り始めたが、山本少尉がサルなら、東郷中尉はナマケモノのようだった。山本少尉が甲板に降り立った時、東郷中尉はまだ下りの半分にもかかっていなかった。

 ようやく甲板におりてきた東郷中尉に、山本少尉が「おいの勝ちじゃ」と声をかけた。ところが東郷中尉は兜を脱がず、「いや、負けちゃおいもはんど、おいはズボンが破れもうした。そいで遅れただけじゃ」と反論して、何かに引っ掛けて破ったらしいズタズタのズボンを指さした。

 山本少尉はじめ見物の士官連中は、東郷中尉の負け嫌いにあきれ、笑い出した。

 しかし、東郷中尉は、約束通り、その後は英語の命令を出さなくなった。英語と日本語の対訳命令メモを作り、分からなくなると、メモを見て日本語の命令を出していた。

 山本少尉は、東郷中尉の不屈の闘志と、誠実な性格に感服した。

 明治十一年十月二十三日、東郷平八郎中尉(三十歳)は、芝田町の尾張屋で、薩摩藩の先輩、奈良県令・海江田信義の長女、テツ(十七歳)と結婚式を挙げた。

 およそ二か月後の、十二月十六日、山本権兵衛少尉(二十六歳)は、箸屋から身請けした、津沢鹿助の三女、トキ(十九歳)と結婚した。山本権兵衛少尉の妻となったトキは、登喜子と改名した。

 結婚直後の明治十一年十二月二十七日、山本権兵衛少尉は中尉に昇進した。

 明治十二年四月九日、山本権兵衛中尉は、海軍兵学校の練習艦「乾行」乗組みを命ぜられた。生徒たちに運用術と砲術を教えることになった。

 四月十八日、明治維新後、初めての国産の軍艦「清輝」(八九七トン)が、ヨーロッパ方面を回り、二六三〇〇海里という大記録を樹立して、横浜港に帰って来た。

 乗組員は、艦長・井上良馨(いのうえ・よしか)中佐(鹿児島・薩英戦争・「春日艦」小頭・戊辰戦争・阿波沖海戦・宮古湾海戦・函館戦争・「龍驤」乗組・中尉・少佐・軍艦「春日丸」艦長・砲艦「雲揚」艦長・中佐・軍艦「「清輝」艦長・西南戦争・大佐・装甲艦「扶桑」艦長・海軍省軍事部次長・少将・海軍省軍務局長・中将・佐世保鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・日清戦争・西海艦隊司令長官・常備艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・日露戦争・軍事参議官・子爵・元帥・従一位・大勲位菊花大綬章・功二級)以下一五〇人だった。









629.山本権兵衛海軍大将(9)トキをさらったのは山本少尉補の所業と発覚して、箸屋の主は怒った

2018年04月13日 | 山本権兵衛海軍大将
 この十七名が、海軍兵学校二期生だが、権兵衛の卒業成績は十六番、日高壮之丞は十四番だった。だが、権兵衛と日高の二人だけが、後に海軍大将まで昇進した。

 ちなみに、上村彦之丞は、二年七か月後の明治十年六月八日、第四期生としてようやく卒業したが、卒業成績は九名ちゅう九番だった。だが、上村も後に海軍大将になった。

 海軍兵学寮を卒業した、権兵衛は、練習艦「筑波」で遠洋航海。明治九年九月までに帰港した。その後、そのまま「筑波」乗組みとなった。

 明治九年十二月、山本権兵衛ら八名の海軍少尉補は、軍事研究のため、ドイツ海軍練習艦「ヴィネタ」乗組みを命ぜられた。明治十年の年明けに、「ヴィネタ」は出港し、ドイツに向かった。

 二十四歳の山本権兵衛少尉補が、十七歳の美しい少女、トキを発見し、結婚の約束をしたのは、練習艦「筑波」で遠洋航海から帰ってきて、ドイツ海軍練習艦「ヴィネタ」に乗組むまでの間だった。

 太平洋横断の遠洋航海から帰った山本少尉補らは、上陸すると、南品三丁目の海軍士官合宿所の村田屋によく行った。

 その村田屋の道を隔てた向かいに箸屋という女郎屋があり、そこには、ほっそりして憂いを含んだ美しい少女の遊女が新しく現れた。

 山本少尉補は一目見て、胸をうたれ、彼女を相方に指名した。

 その娘は、山本少尉補の真摯な態度に安心して、身の上を語った。本名はトキ、十七歳で、新潟県中浦原郡菱潟村の漁師、津沢鹿助の三女で、家が貧しく、最近売られてきた。しかし、これからどうなるのか、とても不安だという。

 悲哀と同情を覚えた山本少尉補は、心の底からトキを愛しく思い、一身をなげうってでも苦境から救い出し、妻に迎え、幸せにしようと決心した。

 太田家の養子となった六歳下の弟、盛実と、同僚数名に考えを打ち明けた山本少尉補は、彼らの協力を得て、ある夜、ひそかにトキを縄でくくり、茶屋の二階から屋外に降ろし、赤坂付近の盛実の下宿にかくまった。

 たちまち、トキをさらったのは山本少尉補の所業と発覚して、箸屋の主は怒った。だが、相手が贔屓になっている海軍士官の一人で、さらに、身請けしたいためと知った。

 箸屋の主は、事を荒立てるより、示談にした方が得と悟り、山本権兵衛少尉補が身請け金四十円を数回に分けて支払う条件で、手を打った。当時海軍少尉の月給がほぼ四十円だった。

 トキ(後、登喜子と改名)は、海軍士官の妻として必要な心得、知識、作法などを学びながら、山本少尉補がドイツ軍艦での修業を終えて帰って来るのを待つことになった。

 明治十年一月二日、山本権兵衛ら八名の少尉補を乗せた、ドイツ海軍練習船「ヴィネタ」は、横浜港を出港、世界を半周する長い航海に出発した。

 この航海の途中、明治十年五月、西郷隆盛の挙兵を知ったが、山本少尉補らは、国の命令がなければ、勝手に行動できないとの判断から、この練習船での実習を続けることにした。

 山本少尉補は、ドイツ海軍練習船「ヴィネタ」での航海時実習中に、ドイツ士官や候補生に少しも屈するところがなく、随分喧嘩もした。

 次の番の当直であるドイツ人候補生が起きて来ないのに癇癪を起した山本少尉補は、釣床のひもを解いて、いきなり甲板に落下させてやった。

 明治十年十一月二日、練習艦「ヴィネタ」は北ドイツに入港した。山本少尉補ら八名は、日本公使館に行くために、十一月六日ベルリンに着いた。

 山本少尉補は、そこで、官軍の陸軍大尉として西郷軍と戦っていた兄、吉蔵が六月二十四日、鹿児島西方の武大明神岳の激しい白兵戦で戦死し、西郷隆盛が鹿児島の岩崎谷で敗れて自決したことを知った。

 当時の駐独公使は、青木周蔵(あおき・しゅうぞう・山口・明倫館・ドイツ留学・外務省入省・駐独公使・プロイセン貴族令嬢エリザベートと結婚・帰国後条約改正取調御用掛・駐独公使・外務大輔・条約改正議会副委員長・外務次官・外務大臣・駐独公使兼イギリス公使・外務大臣・枢密顧問官・子爵・駐米大使・正二位・勲一等旭日桐花大綬章・ポルトガル王国キリスト勲章・勲一等タイ王冠勲章等)だった。

 青木周蔵公使は、日本公使館で、山本権兵衛ら八人の少尉補に、「任海軍少尉」の辞令を渡した。彼らは六月八日付けで海軍少尉に昇進していた。





628.山本権兵衛海軍大将(8)いよいよ、明日出発という前夜、二人は大議論を始めた

2018年04月06日 | 山本権兵衛海軍大将
 鹿児島に着くと、権兵衛と左近充は、自宅を素通りして、まず次の二人の邸宅を訪れ、自分たちの所懐と決意を告げた。
 
 桐野利秋(きりの・としあき=中村半次郎・鹿児島・朝彦親王守衛・禁門の変・戊辰戦争・城下一番小隊長・大総督府軍監・維新後鹿児島常備隊第一大隊長・御親兵・陸軍少将・従五位・鎮西鎮台司令長官・兼陸軍裁判所所長・正五位・・西郷隆盛の下野に従い鹿児島に帰郷・吉野開墾社指導役・出兵・西南戦争・西郷軍総司令兼四番大隊指揮長・政府軍と戦闘・戦死・正五位)。

 篠原国幹(しのはら・くにもと・鹿児島・藩校造士館・江戸練兵館・寺田屋騒動・薩英戦争・薩摩藩城下三番小隊長・鳥羽伏見の戦い・維新後鹿児島常備隊第二大隊長・御親兵・陸軍大佐・陸軍少将・近衛局出仕・従五位・近衛長官・西郷隆盛の下野に従い鹿児島に帰郷・鹿児島に私学校設立・出兵・西南戦争・西郷軍一番大隊指揮長・政府軍と戦闘・戦死・正五位)。

 桐野も篠原も、べつに反対はせず、むしろ大いに賛同したので、権兵衛と左近允は、その足で武村(現・武町)の西郷邸を訪ねた。

 西郷隆盛は、二人を厳しい態度で迎え、お茶の一杯も出さなかった。だが、二人の言うことは、静かに聞いた。また、彼らの質問には誠実に答えた。その後、しばらくの間、黙って考えていたが、次の様に二人を懇々と諭した(要旨)。

 「我が国は四面を海に囲まれ、支那及びロシアに接近しちょういもうす。一朝国難が至らば、海軍なしでは手も足も出もはん。おはんらは、ここをよく考え、けっして現下の政治問題などに関与せず、一意専心、国家のために、学業を修めてもらいたか。そいがおいの切望でごわす」。

 この西郷の言葉に、権兵衛は深い感銘を受けた。そして、これからは、ひたすら海軍の修業に励み、将来国家のために一身を捧げて奉公する旨を西郷隆盛に誓った。

 ところが、左近充隼太は、どうしてもこれを聞き入れようとしなかった。西郷隆盛は、左近充に再三、兵学寮に復帰するよう勧告したが、左近充は、頑として応じなかった。西郷隆盛と生死を共にする決意を変えようとはしなかった。

 この場で、翻意をさせるのは無理だと判断した西郷隆盛は、左近充に、それでは、山本権兵衛を京都まで見送った上で、さらにまた帰省する気になったら、そうしても良いと言った。

 二人が西郷邸を辞した時は、深夜の十二時を過ぎていた。そのあと二人は、初めてそれぞれの実家に帰り、今回帰郷したいきさつを、家族に話した。

 数日後、権兵衛と左近充は、長崎行きの船で鹿児島を出発し、状況の途についた。やがて、京都の宿舎に着き、いよいよ、明日出発という前夜、二人は大議論を始めた。

 左近充にしてみれば、「帰郷するとき、将来生死を共にしようと固く誓いながら、たとえ西郷隆盛から諭されたにせよ、権兵衛が友を裏切って、去るとは卑怯ではないか」という思いがあった。

 遂に左近充は、激論中、突然立ち上がり、床の間に詰め寄り、そこに置いてあった自分の信玄袋から短刀を取り出して、刺し違えようとまでした。

 ところが、どうしたことか、信玄袋を開いてみると、中にあるはずの短刀が見当たらない。さすがの左近充も、気抜けの態で、ぽかんとしていた。

 そこで、ここぞとばかり、権兵衛は左近充に対し、事の理議を説き聞かせた。左近充もようやく落ち着いて、権兵衛の説得に耳を傾け、その場では納得したようだった。

 二人は翌日出発して帰京し、再び兵学寮で学ぶことになった。権兵衛は、あらかじめ、このことあるを予期して、左近充の短刀を隠していたのだ。

 しかし、兵学寮に戻った、左近充は再び考えを改め、退寮して、鹿児島に帰った。どうしても、西郷隆盛と運命を共にしたい、ということだった。左近充は、明治十年の西南戦争で西郷軍として戦い、城山で戦死した。

 後年、権兵衛は、この鹿児島帰郷について、長文の手記を書いている。その中で、次のように述懐している。

 「予が今日あるは、まったく西郷南洲翁(西郷隆盛)の高論に感じ、深く自覚したる結果にほかならず、ああ、今にして当時を追想すれば、感極まって、言うところを知らず」。

 明治七年十一月一日、山本権兵衛、日高壮之丞ら十七名は、海軍兵学寮を二期生として卒業し、海軍少尉補となった。