陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

83.宇垣纏海軍中将(3) 別にけんかをするわけではなかったが、どうも私には虫が好かなかった

2007年10月26日 | 宇垣纏海軍中将
 太平洋戦争中の連合艦隊司令長官は四人いるが、この四人とも人に対する好き嫌いが強かった。

 山本長官が福留繁参謀長転出にともない、その後釜に第一部長の宇垣少将をあてようとする人事局に、宇垣が艦隊勤務をしていないのを口実として忌避した。

 このため、宇垣少将は第八戦隊司令官として海上勤務に出ることになり、連合艦隊参謀長には第八戦隊司令官の伊藤整一少将が着任した。

 だが四ヵ月後、伏見軍令部総長が発病、永野修身大将が急遽その後釜に就任し、軍令部次長に伊藤参謀長が引っ張られたので、伊藤の後に、宇垣少将が連合艦隊参謀長に就任した。

 だが、一方、この宇垣参謀長就任の経過については「最後の特攻機」(中公文庫)によると、次のようにも記されている。

 まず、宇垣少将が昭和16年4月、日本の空気がいよいよ険悪な時期に、軍令部第一部長から唐突に第八戦隊司令官に転出させられたことについて、宇垣の盟友、福留繁中将の「海軍生活四十年」に次のように述べられている。

 当時、山本五十六連合艦隊司令長官が福留繁連合艦隊参謀長に「及川小古志郎海軍大臣が、どうしても君を軍令部第一部長にくれという。時局も切迫してきたので、航空兵力を急造する必要がある」と言ったのだ。

 続けて山本五十六長官は福留繁連合艦隊参謀長に「ところが財源の関係で、四年も五年も建造にかかるような武蔵、大和級の第三号艦(信濃)、第四号艦(紀伊)の計画を中止しなければ、飛行機増産の方に力が回らない」

 さらに「ところが、今の軍令部一部長の宇垣少将がどうしても承知しない。艦船兵器を要求する一番元の注文は第一部が出すのであるから、一部長が反対していては飛行機の増産ができない」

 最後に「そこで、宇垣の代わりに、君が一部長になって、わが方の要求実現に努力してくれまいか」と山本長官が福留参謀長に言ったのが宇垣転出の原因であったという。

 宇垣第一部長は大艦巨砲主義であり、及川海相、山本長官の航空機増産を阻止しているように見える。

 最後に山本は福留に「もう一つ、対米関係が悪化しているが、軍令部に行ったら、戦争にだけはならぬよう尽力してもらいたい」と注文をつけた。

 三国軍事同盟の締結以前よりかたくなまでの態度をとりつづけ悩まされ続けてきた宇垣少将に対して、折を見て更迭させたい気持ちがあった。それに代わるべき人材として協調的な福留少将を選んだともいえる。

 当時、軍令部第一部長か連合艦隊参謀長かの要職につけうる人材としては、宇垣纏か福留繁か、二人以外には見当たらず、それは衆目の見るところであったと言われている。

 「山本五十六」(新潮文庫)によると、昭和16年2月6日附けの堀悌吉あての書簡の中には、山本長官が宇垣少将の連合艦隊参謀長に不賛成を唱えている箇所がある。

 「一月中旬頃の話、四月横須賀入港後古賀と近藤、福留と宇垣(福留一部長、アト伊藤整一アト宇垣)嶋田と豊田(嶋田横須賀アト豊田貞アト清水)交代の内相談及川よりあり」と、例の人事異動の問題をしるした欄外に「宇垣参謀長は当方同意せず」という一行が見える。この手紙は「五峯録」の中におさめられている。

 山本長官が人事に関するこういう構想をあちこちに訴えたのは、中央を強化して何とか戦争突入を避けたいと考えたからである。

 宇垣が第一部長時代、作戦課長が一期後輩の草鹿龍之介大佐だった。

 草鹿龍之介氏(元海軍中将)が戦後著した「連合艦隊ー草鹿元参謀長の回想」によると、彼もまた、当時宇垣に悪感情を抱いていた。彼は次のように述べている。

 「宇垣中将は私より一つ上の級で秀才だった。私は軍令部の作戦課長を二年やったが、そのあとの一年は宇垣少将が上役の一部長になってきたので一緒にいた」と述べており、そのあと

「故人の悪口を言うのは済まないようだが、率直に言うと私は彼が大嫌いだった。何かものをいっても木で鼻をくくったような冷淡さがあった。別にけんかをするわけではなかったが、どうも私には虫が好かなかった」と露骨に記している。

82.宇垣纏海軍中将(2) そこには帝国陸海軍のエリートたちの紳士道も武士道も全く見られなかった

2007年10月19日 | 宇垣纏海軍中将
 丸別冊「回想の将軍・提督」(潮書房)によると、「特攻艦隊二長官、宇垣纏と醍醐忠重」と題して元海軍中佐・鳥巣建之助氏が寄稿している。

 それによると、宇垣が少将で軍令部第一部長の時に発生した仏印進駐のあと、昭和15年10月8日、芝水交会で開催された陸海軍中央合同研究会の一断面を「統帥乱れて」(大井篤著)からの引用で述べている。

 左隣の佐藤(南支那方面参謀副長・佐藤賢了大佐)がもぞもぞし始めた。ちらりと目をやると、まず詰襟のホックを、次いで五つもあるボタンを全部外し、肌着襦袢の上部をあらわにした。

 わたしの説明が終わったわけでもないのに、佐藤は両手でカーキ色の軍衣を左右に開きつつ、一メートル半ばかり目前の席で会議を司会している軍令部第一部長・宇垣少将に向かい、こう言った。  
 
 「一介の属吏にすぎない軍令部第一部長が大命を勝手に解釈して作戦部隊の行動を指示したりするから、いま二遣支参謀が述べたようなことになる。統帥の尊厳を損なうものだ」

 宇垣は私の海軍大学校当時の教官だった。気性が激しく、兵棋演習のさい、学生が丁寧に並べた兵棋のコマを「この並べようはなんじゃ」とスリッパで蹴飛ばしたことさえあった。

 あの荒武者の宇垣が右の佐藤の不遜な発言に一言も答えず、安楽椅子に腰を埋めてじっとしている。宇垣の隣席の近藤(軍令部次長・近藤信竹中将)を含め、誰もが黙ったまま。私には不可解な情景だった。

 ヤクザまがいの佐藤のしぐさ、海軍統帥部に対する理不尽かつ無礼極まる発言、そして海軍側の卑屈そのものの対応、そこには帝国陸海軍のエリートたちの紳士道も武士道も全く見られなかった。

 「海軍参謀」(文藝春秋)によると、山本五十六連合艦隊司令長官率いる連合艦隊は、真珠湾攻撃、マレー沖、南方作戦、ミッドウェー、珊瑚海、ガダルカナル、ソロモンと問題の多い作戦の計画と指導を続けた。

 その連合艦隊司令部で作戦を主導的に進めていったのが黒島亀人先任参謀であった。黒島参謀のすぐれた点は独創力と構成力にあり、山本長官から厚い信頼を受けていた。

 だが結果的にこれらの作戦は、黒島参謀の主観的、思い込み的、自己過信、敵過小評価的指導による大失敗に脅かされた。

 黒島の独走を抑える役目は本来は参謀長の宇垣少将であった。だが連合艦隊司令部では宇垣参謀長は浮いた存在であった。だからその機能を果たしていなかった。

 悪いことに、黒島参謀は山本長官が着任した昭和14年9月1日から二ヶ月たたない10月20日に発令されている。

 渡辺戦務参謀も、黒島参謀に十日遅れただけの11月1日発令で着任している。なのに、宇垣参謀長の着任は16年8月。二年も遅かった。

 山本長官が、日米開戦の場合、どんな作戦をとるべきか、長い間悩みぬいて、最後に真珠湾攻撃を決心したのは15年11月末だったろうと考えられている。
 
 黒島、渡辺参謀はその苦悩と決断を陰に陽に補佐してきたし、山本長官が決心した前後に着任した佐々木航空参謀、有馬水雷参謀、和田通信参謀たちも、黒島、渡辺参謀と一緒に開戦当初の真珠湾攻撃や南方作戦の計画と準備に知恵を絞り、力を尽くした。

 宇垣参謀長が着任した16年8月には、開戦から南方作戦が終わるまでの第一段作戦は、ほとんどの作戦研究と計画立案が終わっていた。

 しかも宇垣参謀長の着任の遅れは、山本長官が忌避したからだった。本当なら、宇垣少将は軍令部作戦部長からまっすぐ連合艦隊参謀長に着任するはずだった。

 だが、第八戦隊(重巡戦隊)の司令官を四ヶ月やらされ道草を食ったのだった。

81.宇垣纏海軍中将(1) 連合艦隊司令長官山本五十六大将は宇垣纏参謀長が嫌いである

2007年10月12日 | 宇垣纏海軍中将
 「海軍参謀」(文藝春秋)によると、連合艦隊司令長官山本五十六大将は宇垣纏参謀長が嫌いである。

 山本長官は嫌いな人間には口を利かない。利いても無愛想な切り口上になる。普通のしゃべり方になるには、相手にいくらかでも心を許さないといけない。感情の非常にきつい人の特徴である。

 宇垣参謀長が山本長官に嫌われている理由は、山本長官が次官時代に命がけで反対し続けた日独伊三国同盟に、宇垣が軍令部作戦部長時代に最終的に結局賛成したことだった。

 宇垣少将は積極的に賛成したわけではなく、やむをえず「よかろう」と言ったのだから山本長官に申し開きはできると考えていた。

 だが、申し開きをしても、それを聞いて、心を開いてくれる人ではない、と宇垣参謀長は見ていた。時間をかけて氷が解けるのを待つしかないと。

 ミッドウェー作戦を担当したのは、黒島亀人大佐・先任参謀と渡辺安治中佐・参謀であった。

 宇垣参謀長は山本長官が嫌いだからと、カヤの外に置かれていた。そうすると、参謀長の役目は誰がするのか。
 
 黒島先任参謀は「変人参謀」であり「仙人参謀」であって、ものを考え始めると私室に篭って出てこない。極端に自分中心で動いているから艦隊令に定められたような参謀長の職務は代行できない。

 渡辺戦務参謀は黒島先任参謀の仕事の一部を代行して幕僚陣を束ねてはいるが、参謀長の代行はキャリア不足でとても無理だった。

 とすれば、種を播いた山本長官が刈り取らなければならなくなるが、彼は日ごろは無口で容易に自分の腹を明かさない。

 これでは連合艦隊司令部のシステムが円滑に動くわけがない。ミッドウェー作戦はこんな空気の中から忽然と浮上した。

 黒島と渡辺参謀は猛然と走り出し、後から考えると正気の沙汰とも思えないラフな作戦準備が、強引に急がれていった。

 「ひどいもので、箸にも棒にもかからぬ。連合艦隊司令部はもう神がかりだ」と「強引に急がされた」人たちは憤慨した。

 結局、ミッドウェー海戦は、惨敗した。司令部の参謀たちは動揺し、黒島先任参謀も涙を流した。作戦は中止され、総引き揚げに転じた。

 このときの宇垣参謀長の直接指揮振りは、さすがに水際立っていた。指揮下の部隊に発光信号を打たせたその信文までも、宇垣が口述した。

 そばで見ていた司令部付の大佐が、こう言った。「いや、快刀乱麻とはこのことだろう。いつも、山本長官の威光をカサに威張っていた参謀連中が、まるで小間使いのようだった」

 この後から宇垣の陣中日誌「戦藻録(せんそうろく)」の記事が、活き活きしてきた。借りてきた猫のようだった宇垣参謀長が、ミッドウェーの大敗を機に、司令部の中でそれなりに重量を持つようになった。

 宇垣はもともと「人を人とも思わぬ増長慢で、近寄り難いサムライだ。独善的で激しい。こんな下手くそやって、何だッ、とワケなく怒鳴る男だ」といわれ評判はひどく悪い。

 「山本長官の敬礼は、実に端正だ。二等兵が相手でもゆるがせにしない。ちゃんと挙手注目される。しかるに宇垣参謀長は、頭をチョッと後ろに反らすだけだ。それが答礼だ。しかも相手の敬礼の仕方が気に食わないと、黄金仮面とあだ名された顔を向けて、睨みつけるから恐れ入る」と某大佐は首を振り、とてもいけません、というジェスチャーをした。



<宇垣纏海軍中将プロフィル>

 明治23年2月岡山県赤磐郡潟瀬村に宇垣善蔵の次男として生まれる。

 明治42年2月岡山県立第一中学校卒業。9月海軍兵学校生徒(四十期)。同期生に山口多門、福留繁、大西瀧治郎、寺岡謹平など。

 明治45年7月海軍兵学校卒業。144人中9番で卒業。

 大正2年12月海軍少尉。大正4年12月海軍中尉。大正7年12月海軍大尉。大正8年12月砲術学校高等科学生修了。

 大正11年6月海軍大学校甲種学生(海軍大尉)。大正13年11月海軍大学校卒業(22期)。12月海軍少佐。

 大正14年12月海軍軍令部参謀。昭和3年11月ドイツ駐在海軍武官。12月海軍中佐。

 昭和5年12月第五戦隊参謀。昭和6年12月第二艦隊参謀。昭和7年11月海軍大学校教官兼陸軍大学校教官。12月1日海軍大佐。

 昭和10年10月連合艦隊参謀兼第一艦隊参謀。昭和11年12月海防艦八雲艦長。昭和12年12月戦艦日向艦長。

 昭和13年11月海軍少将。12月海軍軍令部第一部長。昭和16年4月第八戦隊司令官。8月連合艦隊参謀長。12月ハワイ真珠湾攻撃。

 昭和17年11月海軍中将。

 昭和18年4月連合艦隊司令長官山本五十六大将ブイン上空で戦死(海軍甲事件)。二番機搭乗の宇垣参謀長、海中に沈没するも奇跡的に救出される。戦傷のまま旗艦武蔵に運ばれる。軍令部出仕、戦傷。

 昭和19年2月第一戦隊司令官。7月16日宇垣司令官、戦艦大和、武蔵、駆逐艦三隻を率いてリンガ泊地に到着。10月レイテ海戦。11月24日軍令部出仕。

 昭和20年2月10日第五航空艦隊司令長官。14日鹿屋基地に将旗を掲揚。3月11日梓特攻作戦(ウルシー基地特攻)。4月6日菊水一号作戦。7日大和特攻。12日菊水二号作戦、15日菊水三号作戦、28日菊水四号作戦、5月24日菊水7号作戦、27日菊水八号作戦、6月22日菊水10号作戦で菊水作戦打ち切り。

 昭和20年8月10日第三航空艦隊司令官に親補(後任は草鹿龍之介中将)。14日草鹿長官大分に到着せず。15日正午玉音放送、終戦。午後七時二十四分、宇垣長官、彗星で沖縄特攻、散華(56歳)。共にしたもの艦爆機彗星十一機、十六名。

80.有末精三陸軍中将(10) もし死のうと決心したら三人一緒に死のうじゃないか

2007年10月05日 | 有末精三陸軍中将
 「ザ・進駐軍」(芙蓉書房)によると、8月14日朝、有末中将が第二部長室で朝食を採っていたところ、近衛師団長の森赳中将(陸士28期)が突然訪ねてきた。森赳中将は有末中将と中央幼年学校の同期生。有末中将は士官学校では病気のため一期延期で29期となる。

 有末中将の机の側に来て、立ったまま森中将は「オイ!第二部長なんていうものは誰でも出来るよ、わしでも勤まるよ。第一貴様は皇太子様に勝ちもしない戦を勝つ勝つとウソを申し上げたじゃないか」と詰問した。

 有末中将は「わしは何もウソを申し上げたわけじゃない、努力すれば勝つし、また勝つようにしなければならないと申し上げただけだよ」と答えた。

 それから二、三押し問答の後、有末中将が「時に食事は終わったのか?」と聞いたところ、森中将は「貴様はよく飯を食うなあ。死ねよ」とキツイ一言を放った。

 有末中将は「死ぬ死なぬはわしの勝手だ。考えさせてもらう。時に御所の方は大丈夫か」と返事とともに質問した。

 「憚りながら禁闕守衛については指一本指させぬから、その点は心配するな」と言い放って立ち去った。その後味はなんとも言いようの無いものであった。

 朝食を済ませた有末中将は、隣の第一部長室に作戦部長の宮崎周一中将を訪ねた。

 宮崎中将は森中将の同期生であった。「おい、森が来たろう」との有末中将の呼びかけに「ウン来たよ。そして死ね!と言って帰ったよ」と言った。

 「わしのところも同じだったよ」。お互い死んでお詫びをしたものかどうか悩んでいた時でもあり、ことに作戦部長として全作戦の企画・実行に精進していた宮崎中将の苦悩は察するに難くなかった。

 宮崎中将は独り言のように「時に第三部長の磯谷中将(伍郎・有末中将と同期)が近来全然ものも言わずにふさぎこんでいるようだなあ」と洩らした。

 有末中将は「お互いそんな心境にある今日、おい、もし死のうと決心したら三人一緒に死のうじゃないか」などと話して別れた。

 森中将はその夜、宮中へ録音盤を奪回に侵入するため、クーデターを計画した一派が近衛師団の出動命令の発令を強要したのを拒否して射殺された。

 有末中将は終戦後、昭和20年8月厚木進駐部隊受け入れのための連絡委員長、9月対連合軍陸軍連絡委員長(有末機関・東京)等に就任し、マッカーサー進駐軍の受け入れに全力を尽くし、後に米軍顧問となり、日米の橋渡しを行った。

 昭和30年社団法人日本郷友連盟が発足し、連盟参与に就任。翌31年、米軍顧問を辞任した。

 昭和34年から44年にかけて、北米、西ドイツ、イタリア、トルコ、エジプト中近東、イラン各国の情勢視察を行った。

 昭和45年社団法人日本郷友連盟会長に就任。平成4年2月14日死去した。

(「有末精三陸軍中将」は今回で終わりです。次回からは「宇垣纏海軍中将」が始まります)