陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

161.米内光政海軍大将(1)米内、残念だったなあ。せっかく俺の後に連合艦隊を預かってもらったのに

2009年04月24日 | 米内光政海軍大将
 最後の海軍大将で知られる井上成美(海兵三七恩賜・海大二二)は戦後、サイレント・ネイビーに徹し、清廉潔白、隠遁の生活を死ぬまで貫いた。

 戦時中、井上が仕えた米内光政大将(海兵二九・海大一二)の七年を偲ぶ集いが、昭和二十九年の春開催されたが、井上は一言の理由も付け加えず「欠席」の返事を出した。井上は戦後世に出ないと決めていたので、自分をごまかす事は死ぬまでしなかった。

 井上が尊敬する海軍将星は皆無に近かったと言われている。きらめく海軍大将にしても井上の評価はほとんど三等大将だった。そのような井上の尊敬する数少ない人物の一人が米内光政海軍大将で、井上の評価は一等大将だった。

 昭和十二年二月二日、廣田弘毅内閣の後を受けて、予備役陸軍大将・林銑十郎(陸士八・陸大一七)に組閣の大命が降下、米内光政中将は海軍大臣に就任した。

 この内閣の組閣前の話だが、「米内光政」(阿川弘之・新潮文庫)によると、海軍はこの内閣に誰を大臣として出すか問題であった。初め軍事参議官・藤田尚徳大将(海兵二九・海大一〇)、軍事参議官・末次信正大将(海兵二七・海大七恩賜)という噂があり、次に米内光政の声が出てきた。当時米内中将は連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)だった。

 だが、海軍省軍務局第一課長の保科善四郎大佐(海兵四一・海大二三) が中心になり、海軍中央の意見をまとめ、山本五十六次官(海兵三二・海大一四)の強い要望で米内の海軍大臣が実現した。

 「激流の孤舟」(豊田譲・講談社)によると、米内と同期で連合艦隊司令長官として、米内の前任者であった高橋三吉大将(海兵二九恩賜・海大一〇)は、米内の海軍大臣就任を聞いて「なんだ、たった二ヶ月で大臣になってしまったのか」と驚いた。

 艦隊派の闘将である高橋は、同じ艦隊派の先輩である末次信正大将のあとをついで、昭和九年十一月十二日から昭和十一年十二月三十日まで丸二年間、連合艦隊司令長官として、みっちりと連合艦隊の訓練を行ったという自信を持っていた。

 後に高橋は米内に会ったとき、「おい米内、残念だったなあ。せっかく俺の後に連合艦隊を預かってもらったのになあ。大臣じゃ戦闘訓練もできまい」と言った。

 高橋は、ハンモックナンバー(海軍兵学校卒業席次)は百二十五人中五番の恩賜組である。米内は卒業席次六十八番の鈍才だった。

 このときの高橋の心理、感情は複雑だったといわれている。同期の高橋としてはこの鈍才の米内に、せめて半年でも連合艦隊の指揮をとらしてやりたかったという気持ちがあった。

 その反面、艦隊派でない米内がわずかな期間で連合艦隊から赤レンガの海軍省に行ったので高橋は、ほっとしたのかも知れない。

 さらに高橋としては、二期先輩で、同じ艦隊派の末次信正大将に海軍大臣になってもらいたいという気持ちもあったはずである。何といっても大臣は人事権を握っているのだ。これらのことから、高橋大将は米内中将の海軍大臣就任に複雑な感情を抱いていた。

 しかし、このとき高橋大将は、この鈍才の米内中将が、何代にも渡って海軍大臣を歴任し、海軍のみならず国の運命を一身に背負う総理までなり、最後には日本帝国の臨終をみとり、葬儀委員まで勤める大物になろうとは夢想だにしていなかった。

 <米内光政(よない・みつまさ)海軍大将プロフィル>

明治十三年三月二日岩手県盛岡市に旧盛岡藩士米内受政の長男として生まれる。
明治三十四年(二十一歳)十二月海軍兵学校卒業(二九期)。卒業成績は百二十五人中六十八番。
明治三十六年(二十三歳)一月海軍少尉。常盤乗組。
明治三十七年(二十四歳)七月海軍中尉。
明治三十八年(二十五歳)日露戦争に従軍。磐手分隊長心得、海軍砲術学校。
明治三十九年(二十六歳)六月大隈宗の娘こまと結婚。九月海軍大尉。新高分隊長心得。
明治四十一年(二十八歳)四月海軍砲術学校教官兼分隊長。
明治四十五年(三十二歳)十二月海軍少佐。
大正三年(三十四歳)五月海軍大学校卒業(一二期)。
大正四年(三十五歳)二月ロシア国駐在武官補佐官。
大正五年(三十六歳)十二月海軍中佐。
大正六年(三十七歳)五月ロシア国駐在を免じ佐世保鎮守府参謀兼望楼監督官。
大正八年(三十九歳)九月富士副長兼海軍大学校教官。
大正九年(四十歳)六月ベルリン駐在。十二月海軍大佐。
大正十年(四十一歳)十一月ポーランド駐在員監督。
大正十一年(四十二歳)春日艦長。
大正十二年(四十三歳)三月磐手艦長。
大正十三年(四十四歳)戦艦扶桑、陸奥艦長。
大正十四年(四十五歳)十二月海軍少将。
昭和三年(四十八歳)第一遣外艦隊司令官。
昭和五年(五十歳)十二月海軍中将。鎮海要港部司令官。
昭和七年(五十二歳)十二月第三艦隊司令長官。
昭和八年(五十三歳)十一月佐世保鎮守府司令長官。
昭和九年(五十四歳)十一月第二艦隊司令長官。
昭和十年(五十五歳)十二月横須賀鎮守府司令長官。
昭和十一年(五十六歳)連合艦隊司令長官兼大一艦隊司令長官。
昭和十二年(五十七歳)二月二日林銑十郎内閣の海軍大臣。四月海軍大将。六月第一次近衛内閣海軍大臣(~昭和十四年一月)。
昭和十四年(五十九歳)一月平沼騏一郎内閣の海軍大臣。米内海軍大臣、山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長のトリオで日独伊三国同盟締結に反対する。九月軍事参議官。
昭和十五年(六十歳)一月内閣総理大臣。七月総理大臣辞職。
昭和十九年(六十四歳)七月二十二日小磯内閣海軍大臣(副総理格。小磯・米内連立内閣)。
昭和二十年(六十五歳)四月鈴木貫太郎内閣海軍大臣。八月東久邇宮稔彦王内閣海軍大臣、十月幣原喜重郎内閣海軍大臣。
昭和二十三年四月二十日、脳溢血で肺炎を併発して死去。六十八歳。

160.牟田口廉也陸軍中将(10)心置きなく腹を切って下さい。作戦の失敗は、それ以上の価値があります

2009年04月17日 | 牟田口廉也陸軍中将
 「抗命」(文春文庫)によると、第十五軍司令部の部付将校、中井悟四郎中尉が司令部で仕事をしていると、牟田口軍司令官が、参謀の藤原少佐の机の所にやってきて、中井中尉ら部付将校のいる前で、いとも弱々しげな口調で次のように言った。

 「藤原、これだけ多くの部下を殺し、多くの兵器を失ったことは、司令官としての責任上、私は腹を切ってお詫びしなければ、上御一人や、将兵の霊に相済まんと思っとるが、貴官の腹蔵ない意見を聞きたい」

 中井中尉らは仕事の手を休め、この興味深い話に耳を傾けた。軍司令官は本当に責任を感じ、心底からこんなことを言い出したものだろうか。自分の自害を人に相談するものがあるだろうか。言葉の裏に隠された生への執着が、言外にあふれているような疑いが、だれしもの脳裏にピンときた。

 藤原参謀はと見ると、仕事の手を一瞬もとめようとはせず、作戦命令の起案の鉛筆を走らせていた。軍司令官には一瞥もくれようとはせず、表情すら動かさず、つぎのようなことを激しい口調で言った。

 「昔から死ぬ、死ぬと言った人に死んだためしがありません。司令官から私は切腹するからと相談を持ち掛けられたら、幕僚としての責任上、一応形式的にも止めない訳には参りません」

 続けて「司令官としての責任を真実感じておられるなら黙って腹を切って下さい。だれも邪魔したり止めたりは致しません。心置きなく腹を切って下さい。今度の作戦の失敗は、それ以上の価値があります」

 取りつくしまもなくなった軍司令官は「そうか、良くわかった」と消え入りそうな、ファッ、ファッ、ファッと、どこか気の抜けた笑い声とも自嘲ともつかない声を残して、藤原参謀の机の前から去って行った。

 牟田口軍司令官はインパール作戦失敗の責任を取らされ、昭和19年8月、第十五軍司令官を解任され、参謀本部附のあと12月予備役になった。だが、昭和20年1月召集され、予科士官学校長に就任した。

 終戦後、昭和20年12月戦犯容疑で逮捕され昭和21年9月シンガポールに移送された。昭和23年3月釈放され帰国、東京都調布市に住んだ。

 昭和36年2月26日、佐藤元中将は東京都世田谷区の病院で、肝硬変で亡くなった。告別式の日、牟田口元中将が姿を見せた。戦争が終わっても二人の気持ちは和解しなかった。しかし、牟田口元中将は、佐藤家の遺族の前に頭を下げ、「自分の至らないため、すまないことをした」と詫びた。

 その後英国からアーサー・パーカー中佐の、インパール作戦での牟田口軍司令官を称える手紙が来た。牟田口元中将は、パーカー中佐の手紙を持って新聞社や雑誌社をまわり、自分の作戦が正しかったことを、当時の敵軍将校によって認められたと主張した。

 牟田口元中将は、昭和38年4月23日と昭和40年2月18日の二回、国会図書館で政治史資料の録音を行った。

 最初の録音は、盧溝橋事件についてであり、二回目は、インパール作戦についてであった。インパール作戦については、牟田口元中将は、パーカー中佐の手紙にふれて、話をした。

 昭和40年7月12日、北九州市で北九州ビルマ方面戦没者合同慰霊祭が催された。招かれて出席した牟田口元中将は、意気盛んな様子で、挨拶に立つと、英軍のパーカー書簡について語った。

 続けて、河辺ビルマ方面軍司令官がディマプール進撃を制止したから負けたこと、弓、烈、祭の三師団長がつまらない人物だったので、早く更迭しておけば勝っていたことなどを語った。

 牟田口元中将は、最後に印刷された「牟田口文書」をふりかざして、「くわしくは、これを読んでください」と叫んだ。参列の遺族は意外な話に驚き、あきれた。せめて、一言申し訳なかったと言って欲しかったという。

 昭和41年8月2日、牟田口元中将は、亡くなった。喘息、胆嚢症、心筋梗塞で加療中に脳溢血を併発した。七十七歳だった。

 告別式は8月4日、東京都調布市の自宅で行われた。会葬者は長い列をつくった。その中に、荒木貞夫元大将ら旧将軍の顔も見えた。

 受付の係りの前にはパンフレットが高く積まれ、会葬者に渡された。それが牟田口元中将の、あの「国会図書館における説明資料」だった。

 (「牟田口廉也陸軍中将」は今回で終わりです。次回からは「米内光政海軍大将」が始まります)

159.牟田口廉也陸軍中将(9) 軍法会議にまわす、佐藤を叩き斬って俺も切腹する

2009年04月10日 | 牟田口廉也陸軍中将
 さらに佐藤師団長は「軍の統帥はでたらめだ。牟田口は訓示でも『皇国の荒廃この一戦にあり』と言っている。この作戦にそんなことを言うのは正気ではない。この作戦は牟田口が上司を動かして始めたにもかかわらず、この期に及んでなすことを知らない有様だ」と言ってさらに続けた。

 「自分の立場に部下軍隊を引きつけ、統帥権冒涜におちいるようなことになれば、『戦線の2.26事件』ともなることだ。この際、われわれは誠忠の士となるべきことを心がけなければならない」

 久野村軍参謀長は、しばらくして「インパール攻撃の師団長がその意思がなければ駄目ですな」と妙なことを言った。ロウソクの光の中で、その目が不気味に光っていた。

 その後会談は続き、師団の終結地点は一応ミンタに決まった。会談が終わって、佐藤師団長は「どうだ、烈の将兵は、飲まず食わずでいくさをしても、士気旺盛だろうが」と大声で言った。

 すると久野村軍参謀長は「上官に対し敬礼する意思はあるようですな」と皮肉の答えをした。

 外に出るために佐藤師団長は席を立った。

 すると久野村軍参謀長も立ち上がった。そして「閣下」と呼び止めた。そして「閣下は命令を実行されますか」と言った。語気が強かった。

 佐藤師団長は「もちろん、軍命令は実行するさ」と不愉快になって答えた。

 昭和19年7月9日、佐藤師団長あてに、十五軍から電報が届いた。「ビルマ方面軍司令部付に命ず」というものだった。師団長解任であった。

 烈・第三十一師団後方主任参謀・野中国男少佐(陸士47・陸大56)は、終戦後ビルマに抑留され、自決した。死後、遺稿が見つかった。

 その遺稿によると、野中参謀は解任された佐藤師団長を送ってチンドウイン河の渡河点まで行った。その帰りに第十五軍司令部に立ち寄り、牟田口軍司令官と会談した。

 軍司令官に申告に行くと「参謀一名、佐藤中将について来るというから、だれかと思ったらお前だったか。だいぶ苦労したな、ゆっくり休んで明朝来てくれ」と言われた。

 明朝十時、軍司令官と机をはさんでさし向いにかけた。煙草が出され、恩賜の酒が出され、すすめられるままに、外国煙草に火をつけた。

 軍司令官は、佐藤中将をさんざんに酷評した。軍法会議にまわす、佐藤を叩き斬って俺も切腹すると言った。また、一人として腹を切ってでも、師団長を諌めようとする幕僚もいないとなじった。

 そして「足利尊氏になることは誰にでもできる」とも言ったが、語っているその頭から湯気が立ち、眼が据わり、常人でないように感じられた。

 すると突然に、軍司令官の話は「真崎将軍はあんな人とは思わなかった。俺も色々面倒を見たことがあるが」と何も関係の無いことにとんだりした。

 佐藤師団長はラングーンのビルマ軍司令部に向かう途中、第十五軍司令部に寄ったが、牟田口軍司令官は前線視察で不在だった。

 佐藤師団長は、ビルマの首都ラングーンのラングーン大学の中にあったビルマ軍司令部に到着したのは7月12日であった。佐藤師団長は、河辺正三軍司令官(陸士19・陸大27)と面会した。

 その後、南方軍司令部から法務部長がきて、佐藤師団長を抗命罪で調査したが、不起訴になった。外形上は抗命行為があったが、精神鑑定の結果、当時は疲労のため、心神喪失状態にあったと判断され、不起訴になったのだ。

 実際には佐藤師団長の精神には異常は無かったのだが、南方軍とビルマ方面軍が意図的に、事件を終結させた。佐藤師団長は予備役に編入させられた。

 「完本太平洋戦争・(ニ)」(文春文庫)で、元第十五軍参謀・藤原岩市氏(陸士43・陸大50)は「インド進攻の夢破る」と題して寄稿している。その中で「ウ号作戦の秘匿名称を以って呼ばれたインパール作戦こそ、過ぐる太平洋戦争の間でも最も凄惨苛烈な異色の作戦であった」と記している。

 昭和19年7月10日、牟田口軍司令官の具申が大本営に容れられ、インパール作戦中止、ジビュー山系、カレワの線に撤退すべき方面軍命令が下った。

158.牟田口廉也陸軍中将(8) 二人の怪しげな魔法使いを、自分の天幕に入れてやった

2009年04月03日 | 牟田口廉也陸軍中将
 第三十一師団がコヒマから独断撤退したことを知った牟田口軍司令官は、驚き、憤慨した。第三十一師団を戦線に戻さなければならない。牟田口軍司令官は久野村軍参謀長と兵站参謀・薄井誠三郎少佐(陸士四五・陸大五五)を第三十一師団司令部に派遣した。

 撤退中の師団司令部にたどり着いた久野村軍参謀長と薄井参謀は、すぐに佐藤師団長に面会を申し入れた。

 ところが佐藤師団長は「軍参謀長などに会う必要は無い」と拒絶した。二人は、やむなく師団参謀長の加藤国治大佐(陸士三四・陸大四四)と会見し、師団長に面会できるよう頼んだ。

 第三十一師団長・佐藤幸徳中将は戦後、昭和三十六年二月二十六日に死去した。佐藤中将は、遺稿の回想録を遺していた。その回想録にこの時のことを次のように記している。

 「六月二十一日、突如として二人の魔法使いが出現した。自分は会いたくなかった。彼らは軍命令を携行してきたのである。それはインパール攻撃命令であり、二、三日前に師団無線で受信し、誰も相手にしなかった複雑怪奇、奇想天外のものと同一であった」

 「加藤参謀長のとりなしで、とうとう自分はいたしかたなく、二人の怪しげな魔法使いを、自分の天幕に入れてやったのである」。

 佐藤師団長にしてみれば、第十五軍の立案したインパール作戦は魔法に等しいものと言いたいのだった。怪奇であり、人間わざではできないことであると。

 二人は佐藤師団長の天幕に通された。いきなり佐藤師団長は兵站参謀・薄井少佐を怒鳴り付けた。

 「出発前、あれだけ固い約束をしておきながら、烈(第三十一師団)に一発の弾も一粒の米も送らなかったのは何事か。カラソムに四日分の糧食を集積しておくと言ったのは、どこの幽霊司令部だったか。弾も無く、食うものも無く、戦をするという戦術を、貴様らはどこで習ったか」。

 久野村軍参謀長は「参謀に過失があれば、どうか直接私に言っていただきます。これから閣下と私だけで懇談をお願いします」と言った。佐藤師団長は同意して、加藤参謀長と薄井少佐を退出させた。

 すると久野村軍参謀長は「一体、閣下、どうしたらよいでしょうか。この作戦の失敗は全く自分の失敗です」と口を開いた。

 軍の参謀長は軍の作戦指導の責任者である。佐藤師団長は、そのような人物から、このような言葉を聞くのは心外にたえなかった。恐るべき無能である。十五軍司令部の魔法の正体を見た思いだった。

 佐藤師団長は「貴官はこの作戦を実行するという前提で着任したはずだ。それだけの成算と決心があったはずだ。それを今になって、どうしたらよいでしょうとは、何事か。貴官は貴官としてなすべき使命があろう」と大声で叱りつけた。

 佐藤師団長に叱られて、久野村軍参謀長はうなだれていた。だが、久野村軍参謀長は第十五軍の新たな命令を携行していた。それはまたもインパール攻撃を命じたものだった。内容はとても承服できるものではなかった。

 佐藤師団長は「インパール作戦の現状は、大陸のガダルカナルとも言うべき悲惨な失敗に陥っている。しかるに牟田口はいたずらにインパールに妄執している。牟田口の考えているのは政治だ。戦略ではない。自分は陛下の軍隊を無意味に餓死させることはできん」と言った。

 さらに「牟田口は作戦開始前から『自分を死なせてくれ』とか『不可能を可能にして』ということを口癖にしていた。これは思い上がりで、幕僚の意見も聞かず、異常な心理だ」と言い放った。

 久野村軍参謀長は、一言も口をきけないでいた。わずかに、佐藤師団長が牟田口軍司令官の名を呼び捨てにしたときに、久野村軍参謀長の目が動いた。とがめるような目であった。