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陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

375.黒島亀人海軍少将(15)「何を言うか生意気な。先任参謀、貴様口が過ぎるぞ」

2013年05月31日 | 黒島亀人海軍少将
 南雲長官は、ハワイに向かう途中も、「機動部隊の司令長官の役を断るべきだったかもしれない」と弱気な言葉を吐いた。そんな南雲長官を、山本長官は、「心配するな、万一の場合、責任は自分が取る」と励ましていた。

 そのような南雲長官が真珠湾奇襲攻撃の指揮をとり、一応の戦果をおさめた。そして今、泥棒が盗んだものを持って無事に逃げることしか考えていないのと同じ心境にいるだろうと、山本長官は皮肉ったのだった。

 十二月二十三日午後六時半、南雲機動部隊は広島湾に凱旋してきた。年の暮れである。空母「赤城」が到着したときは、すでに日が暮れ、灯火管制で海上も島も闇に塗り込められていた。

 宇垣参謀長以下十二名の連合艦隊司令部参謀は、そろって内火艇で「赤城」の南雲長官と草鹿参謀長を表敬訪問した。

 長官公室で一同は顔をあわせた。宇垣参謀長が連合艦隊司令部を代表して凱旋を祝し、機動部隊の奮戦に感謝の意をあらわした。

 南雲長官も草鹿参謀長も得意の絶頂にあった。肩を怒らせ、椅子にそっくり返って大声で語った。まるで自分たちが戦艦四隻を撃沈、四隻を大中破したような話し振りだった。

 黒島大佐は、南雲長官、草鹿参謀長の消極的な指揮ぶりが不満だったので、「一陣、二陣による第一回攻撃のあと、なぜ第二回の攻撃をやらなかったのか」と詰問する口調で質問した。

 ところが、南雲長官も草鹿参謀長も、赤くなって声を荒げた。

 「現場におらぬ者に何が分かる。空襲部隊の搭乗員は生命がけで大仕事をやり、疲れきって帰還したんだぞ。それを再び死地に追いやることはできぬ」。

 「その通りだ。第一回の一次、二次攻撃で真珠湾は火焔に覆われていた。新たに空襲しても、攻撃目標をろくに発見できなかったはずだ。しかも、敵は反撃態勢をととのえていた。そこへ空襲をかけたら、我が方も百機ぐらいは犠牲がでていたところだぞ」。

 「軍令部の命令は、空襲後ただちに避退せよだった。その通りにやったまでだ」というのが南雲長官の主張だった。

 軍令部は南方の資源地帯の確保を開戦の第一目標においていた。ハワイ作戦は南方攻略をすみやかに達成するための支作戦に過ぎない。

 その作戦で、貴重な飛行機や艦船を失うのはまっぴらである。空襲がすんだらさっさと退避せよ。これが軍令部の意向だった。南雲長官らにしてみれば、その通りにやったまでで、非難されるいわれはない。

 そんな二人を、黒島大佐は冷ややかに眺めていた。だが、ムキになって反論する態度そのものに、内心の後ろめたさが露呈していた。山本長官が言った通り、「泥棒も帰りが怖かった」のである。

 黒島大佐は「敵の最重要地点をつづけさまに痛撃して戦意を奪う、という山本長官の方針は、もっと尊重されるべきだったと思います」と遠慮なく切り込んだ。

 「何を言うか生意気な。先任参謀、貴様口が過ぎるぞ」草鹿参謀長が逆上して叫んだ。「獅子翻擲はわしの信念だ。全力で敵を倒したあと、さらにぐずぐずと戦利品を漁りにゆくような汚いまねは絶対にできぬ」。一刀流に草鹿参謀長はこだわっていた。

 黒島大佐は引き下がらなかった。「お言葉ですが草鹿少将、我々は近代戦を戦っているのです。剣道の稽古をしているのではありません。戦争はそんないさぎよいものではない。第一、ハワイ作戦自体が卑怯といえば卑怯な奇襲だったのです」。

 「なんだとォ。では訊くが、山本長官が我々に方針を詳しく説明したことがあったか。ハワイ近海に踏みとどまって何度でも叩けと言われたことなど一度もないぞ。文句を言わずに協力しろと言われただけだ」。草鹿参謀長は、この点を強く主張した。

 だが、黒島大佐は「現場で情勢を見て判断なさるべきです。最初から翻擲を決め込むのは、おかしい」と引き下がらなかった。

 真珠湾攻撃から約五ヶ月を経過した昭和十七年四月中旬、海軍中央は黒島亀人大佐の連合艦隊主任参謀の交代を画策した。

 連合艦隊の先任参謀がずっと同じでは、作戦のクセを敵に読まれるという名目だったが、実情は、黒島大佐が奇人・変人とのうわさがあり、アブノーマルな頭脳の持ち主ではなく、海軍中央部の意向に忠実な正統派の作戦家を送り込もうとしたのだ。

374.黒島亀人海軍少将(14)山本長官は笑みを含んで「泥棒も帰りがこわい」と黒島大佐に言った

2013年05月24日 | 黒島亀人海軍少将
 真珠湾奇襲攻撃は本決まりになった。黒島大佐は山本長官の期待に応えて、海軍中央に風穴をあけることに成功した。周囲から奇人・変人とも言われながらも、動じない強固の意志力が真珠湾奇襲作戦を動かした。

 「太平洋戦争と富岡定俊」(史料調査会編・軍事研究社)の中で、富岡定俊元海軍少将(男爵)は、軍令部第一課長当時、黒島大佐とハワイ奇襲作戦で大激論をかわしたことについて、戦後、次のように述べている(要旨)。

 「私が、連合艦隊の先任参謀だった黒島参謀とハワイ攻撃のことで大激論をかわしたと一般に伝えられ、これがまた軍令部がハワイ作戦に最後まで反対し、連合艦隊側と激突したようにも書かれているが、それは真相ではない」

 「軍令部はハワイ作戦そのもののプリンシプルに反対したのではなく、ハワイ作戦に投入する兵力量の問題で違憲を異にしたのである」

 「軍令部は全海軍作戦を大局的にみて、まず南方要域の確保に重点を置いていたから、いきおい投機的なハワイ作戦に、トラの子の空母六隻を全力投入することに反対していたので、空母三隻くらいならすぐOKを出したのである」

 「連合艦隊は最後には空母四隻でもいいからと言ってきたことがある位だ。黒島参謀は、私との折衝のテクニックのためか、『連合艦隊案が通らなければ山本長官は辞職される』とまで言っていたが、私は山本司令長官の進退と、戦略、戦術とは別事であると思っていたし、また山本さんが辞職されるなどということも考えてはいなかった」

 「こういうことがあってから、陸軍参謀本部の作戦課長が、快く満州から陸軍航空兵力を南部仏印に回してくれたので、これで後顧の憂いを断ち、ハワイへ空母を全力投入することに決まったのであって、問題はあくまで兵力量であり、それも乏しい中でのヤリクリの結果であった」。

 以上のように当時を振り返って、富岡元少将は、ハワイ奇襲作戦に反対した軍令部の立場を述べている。

 昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃飛行機総指揮官・淵田美津雄(ふちだ・みつお)中佐(奈良・海兵五二・海大三六・真珠湾攻撃飛行機総指揮官・横須賀航空隊教官・海大教官・連合艦隊参謀・大佐・戦後キリスト教伝道・大阪水交会会長)は、第一次攻撃隊、第一集団の九七艦攻水平爆撃機五十機の一番機に乗っていた。

 「ト・ト・ト」(全軍突撃セヨ)のあと、淵田美津雄中佐は、午前三時二十三分(日本時間)、空母機動部隊、第一航空艦隊(司令官・南雲忠一中将)の旗艦、空母「赤城」に対して「トラ・トラ・トラ」(ワレ奇襲ニ成功セリ)を打電した。連合艦隊の真珠湾奇襲攻撃は開始された。

 真珠湾奇襲攻撃の戦果は、撃沈が、「アリゾナ」など戦艦五隻、巡洋艦二隻、給油艦一隻。大破が、戦艦三隻、軽巡二隻、駆逐艦二隻。中破が、戦艦一隻、巡洋艦四隻。飛行機は164機を撃墜または破戒、159機に損傷を与えた。

 一方、日本側の損害は軽微だった。未帰還の航空機は、雷撃機五機、戦闘機九機、急降下爆撃機十五機の計二十九機、損傷は七四機だった。それに特殊潜航艇(甲標的)五隻だった。

 真珠湾奇襲攻撃の戦果は予想外に大きいものだった。伝統的な海軍戦略の信奉者であった機動部隊司令長官・南雲忠一中将は、武力を温存するために、できるだけ早く日本の海域に戻りたいと判断していた。参謀長・草鹿龍之介少将も同様な考え方だった。

 これに対し、航空甲参謀・源田実中佐は、強硬に再攻撃を主張した。その理由は、四五〇万バレルにのぼる石油タンク群、大規模な工廠、それに敵空母群が無傷だった。

 第二航空戦隊司令官・山口多聞少将も源田中佐と同様な考え方で、南雲長官に対し、真珠湾再攻撃を主張し、必要なら第二撃、第三撃を加えるべきと、意見具申を行った。

 だが、南雲長官と草鹿参謀長はこれらの意見を拒み、「攻撃準備取り止め」の号令を発した。

 連合艦隊の旗艦、戦艦「長門」にいた先任参謀・黒島亀人大佐も、強硬な再攻撃論者だった。黒島大佐は連合艦隊の全参謀を集めて、真珠湾に第二撃を加えるかどうか討議した。

 十二月九日午前十時、「長門」では、幕僚会議が開かれた。黒島大佐は、討議の内容を山本長官と宇垣参謀長に説明して「長官に再攻撃の命令を出していただきたいと考えております」と述べた。

 山本長官は、その理由を黒島大佐にもう一度説明するように言った。黒島大佐は、敵機動部隊が生き残っていると中途半端な戦果になると主張した。

 さらに、黒島大佐は「第二撃の命令を出していただけませんか」と山本長官に激しく喰い下がり、次のように述べた。

 「もともと、真珠湾を徹底的に破壊し、敵空母を撃沈するのが作戦の狙いでした。是が非でも再攻撃の命令を」。

 この黒島大佐の主張を、山本長官は微笑で受けとめたと言われている。山本長官は南雲長官の心情を知っていた。南雲長官は、第二撃は決して加えないだろうと。

 山本長官は笑みを含んで「泥棒も帰りがこわい」と黒島大佐に言った。その一言だったが、それは鉛のように重い言葉だった。

373.黒島亀人海軍少将(13)「大艦巨砲主義ですか、馬鹿のひとつ覚えですな」と吐き出すように言った

2013年05月16日 | 黒島亀人海軍少将
 長官公室では、山本五十六長官と黒島大佐、航空参謀・佐々木中佐が応対し次のようなやりとりが行われた。

 大西瀧治郎少将「十一航艦のみではフィリピン撃滅は無理です。一航艦のハワイ奇襲を中止し、十一航艦とともにフィリピン攻撃を実施させてください」。

 佐々木彰中佐「軍令部情報では、フィリピン方面の敵は弱体であると分析しています」。

 草鹿龍之介少将「ハワイ奇襲作戦は投機性が強すぎます。中止していただきたい」。

 これを聞いていた山本長官は、大西少将と草鹿少将の二人に穏やかに言い聞かせる口調で次のように述べた。

 「南方作戦中に東方から米機動部隊に本土を空襲されたらどうする。石油さえ手に入れれば東京、大阪が焦土になってもかまわんのか。まずハワイを叩いておかなくては、安心して南方作戦を展開できんではないか」。

 「とにかく自分が連合艦隊司令長官でいる限り、ハワイ奇襲作戦は断行する。一航艦、十一航とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲はぜひやるんだという気構えで準備を進めてくれ」

 「おれがいくら博奕(ばくえき)好きでも、そう投機的だ投機的だ、と言うなよ。君たちの考えにも一理あるが、俺の話もよく研究してくれよ」。

 この山本長官の言葉を聞いたあと、しばらく話し合ううちに、大西少将が折れ、逆に草鹿少将の説得にかかるようになった。それで、遂に草鹿少将も約束せざるを得なくなった。

 二人の少将が退艦する際、山本長官は舷門まで二人を送って行った。これは極めて異例なことだった。黒島大佐、佐々木中佐もついていった。

 別れ際に、山本長官は草鹿少将の肩をたたいて、次のように話しかけた。

 「君の言うことはよく分かる。だが、真珠湾攻撃は自分の固い信念なのだ。これからは反対論を言わず協力してくれ。ハワイ作戦実施のためなら、君の要望は何でも必ず実現するよう努力するから」。

 「分かりました。もう何も申しません。ハワイ作戦のため全力を尽くします」。草鹿少将は感動して答え、敬礼をした。

 昭和十六年十月十八日、山本長官の指示で黒島大佐は海軍省に出向いた。黒島大佐を迎えたのは、軍令部作戦課長・富岡大佐と航空主務部員・三代辰吉(後に改名・一就)中佐(茨城・海兵五一・海大三三・第二艦隊参謀・軍令部作戦課・大佐・横須賀海軍航空隊副長)だった。

 黒島大佐は「真珠湾はどうしても攻撃しなけりゃならない」と激しくまくしたてた。

 富岡大佐は「いや、軍令部は必ずしもそうは考えていない」と応酬した。

 黒島大佐は「大艦巨砲主義ですか、馬鹿のひとつ覚えですな」と吐き出すように言った。

 すると、富岡大佐は「我々はそうは考えません」と応じた。

 黒島大佐は「軍令部の石頭と評するしかありません」と言い、けんかの様相で、両者の激しい応酬は続いた。

 ついに黒島大佐は、「この作戦が採用されない場合には、わが国の防衛に責任が持てない。山本長官と全幕僚は辞任するしかない」という爆弾発言をし、切り札を切った。

 開戦を目前にして、山本長官以下幕僚に辞任されたら、海軍中央はどうにもならない。この発言に驚いた富岡大佐は、黒島大佐を作戦部長・福留少将のもとへ連れて行った。

 福留少将に対しても、黒島大佐は同様な発言をした。困惑した福留少将は、黒島大佐と富岡大佐を、軍令部次長・伊藤整一中将に会わせた。

 伊藤中将は、二ヶ月前の九月一日まで、山本長官の参謀長だったので、黒島大佐をよく知っていて、好意的だった。

 伊藤中将は、黒島大佐を自分の部屋に待たせ、福留少将と富岡大佐をともなって、軍令部総長・永野修身大将のところに行った。

 伊藤中将と福留少将が、事情を説明し、永野大将の決断を迫った。二人の説明を黙って聞いていた永野大将は、「山本がそこまで言うなら……」と言って、折れた。だが、その作戦遂行に二つの注文をつけた。

 第一は、真珠湾奇襲攻撃が南方作戦に支障を与えてはならないこと。第二は、この作戦が南方作戦における海軍航空兵力をいささかでも弱めるようなことがあってはならないこと。

 このようにして、真珠湾奇襲攻撃は、海軍中央の承認を受け、以後、軍令部と連合艦隊は一心同体となって作戦遂行に全力をあげることになった。

372.黒島亀人海軍少将(12)バカモン。戦は自分がやる。そんな会議などやってもらわんでよろしい

2013年05月09日 | 黒島亀人海軍少将
 昭和十六年九月二十四日、軍令部の作戦室でハワイ作戦に関する首脳会議が開かれた。軍令部からの出席者は、第一部長・福留繁少将、第一課長・富岡定俊大佐以下、神重徳中佐ら第一課の全員だった。

 連合艦隊からは参謀長・宇垣少将、先任参謀・黒島亀人大佐、航空参謀・佐々木彰中佐(広島・海兵五一・海大三四・海大教官・大佐・第三航空艦隊参謀)、第一航空艦隊参謀長・草鹿少将、先任参謀・大石保中佐(高知・海兵四八・海大三〇・砲艦「嵯峨」艦長・興亜院調査官・第一航空艦隊先任参謀・海大教官・特設巡洋艦「愛国丸」艦長・大佐・兵備局第三課長・横須賀突撃隊司令・少将)、航空甲参謀・源田実中佐が出席した。

 軍令部は南方の資源獲得のため、陸軍の上陸作戦を援護するため、フィリピンをはじめ南方方面の空襲する方針で、そのための空母の必要性を主張した。

 そのため、ハワイ空襲に空母を動員すると、南方の資源獲得の目途が立たなくなる。ハワイ作戦などをやる余裕はない。

 これに対して連合艦隊はハワイ空襲を第一の目的としている。軍令部と連合艦隊の毎度おなじみの議論による渡り合いだった。会議は当然紛糾した。

 福留繁少将「奇襲なんてありえないですよ。かならず敵に発見されて強襲になる。ハワイは捨ててあくまで南方資源地帯の確保を優先すべきである。開戦日は十一月二十日ごろ」。

 神重徳中佐「奇襲以上に補給が問題。荒れた北洋で各艦へすんなり給油ができるとは思えない。失敗すれば惨敗必至です。それに雷撃が困難だからといって爆撃だけで戦果があがるとは思えない」。

 源田実中佐「敵艦隊がマウイ島にある場合、雷撃で戦艦八隻は撃沈できます。戦時低下率を見込んでも四ないし六隻は沈められる。敵が真珠湾にいる場合は、艦爆八十機で飛行場を制圧します。空母は艦爆五十四機で攻撃、空母三隻は大丈夫、撃沈できます。飛行場をすてて艦船攻撃に集中する場合は、戦艦二、三隻、空母三は固いところです」。

 佐々木彰中佐「奇襲の成否を論じても、所詮は水掛け論です。断行すべきです。我が航空部隊の練度は驚異的に向上している。たとえ強襲になったとしても、必ず戦果はあがります」。

 黒島大佐も熱弁をふるった。ハワイ奇襲最優先の持論を展開した。いつもはあまり発言しない宇垣纏少将も積極的だった。大艦巨砲主義の宇垣少将も連合艦隊へ着任してからはハワイ奇襲作戦支持に変わっていた。

 宇垣纏少将「準備不足なら開戦日を十二月まで遅らせてでもハワイ作戦を決行するべきである。そのほうが作戦全般を円滑に進行させうる。南方作戦が円滑に運ぶとすれば、ハワイ作戦の前提あってのことだと私は思う」。

 腹立たしいのは肝腎の実行部隊である第一航空艦隊の参謀長・草鹿龍之介少将と先任参謀・大石保中佐がハワイ作戦に消極的であることだった。

 草鹿龍之介少将「戦術的に見てハワイ作戦は有望だが、戦略的、攻略的効果は疑問である。成功してもその場の勝利で終わるのではないか。やはり南方作戦のほうが重要である。それでなくとも兵力が不足なのだから、南方に兵力を集中し、一気に資源地隊を占領すべきだ」。

 大石保中佐「敵機の哨戒機が三百浬までなら航路選定は楽だが、四百浬であれば奇襲は不可能。また洋上の燃料補給は風速十一メートル以上では極めて困難です。二つの点から空母をハワイに接近させる見込みが立ちません」。

 ハワイ奇襲作戦賛成論者は連合艦隊の三名と一航艦一名の四名に過ぎなかった。反対の軍令部からは二十名ぐらいが出席している。反対論者が大勢で団結し、黒島大佐ら賛成派を口々に吊るし上げる状況になってしまった。

 この会議は、山本長官や永野軍令部総長、伊藤次長らがいると、本音を出しにくいから、宇垣参謀長、福留第一部長以下が話し合おうと、山本長官には内緒で開いたものだった。

 だが、この会議の結果を、山本長官の耳に入れないのもまずい。宇垣少将、黒島大佐らは、横須賀の旗艦、戦艦「長門」にひとます戻り、会議のいきさつを山本長官に報告した。

 「バカモン。戦は自分がやる。そんな会議などやってもらわんでよろしい」。山本長官は大いに怒った。山本長官の怒りのおもな標的になったのは参謀長・宇垣少将だった。

 十月三日、第一航空艦隊の参謀長草鹿龍之介少将と、第十一航空艦隊の大西瀧治郎少将が、戦艦「陸奥」にやって来た。連合艦隊司令長官・山本五十六大将にハワイ奇襲作戦の中止を進言しに来たのだ。当時、戦艦「長門」は修理・点検のため、連合艦隊の旗艦は「陸奥」になっていた。

371.黒島亀人海軍少将(11)宇垣少将は「もう一度判定をやりなおせ」と怒鳴った

2013年05月02日 | 黒島亀人海軍少将
 宇垣少将は苦虫を噛み潰したような顔で沈黙した。だが、宇垣少将は次のようにあびせかけた。

 「GF司令部は雰囲気が女々しいなあ。君達の言うことを聞いていると、山本長官は私のものよ、手を出さないで、と言われているような気がするぞ」。

 それを聞いて、黒島大佐は苦笑した。宇垣少将はなかなかしたたかであった。

 昭和十六年九月十一日から十日間、目黒の海軍大学校において図上演習がおこなわれ、そのうち、十六日と十七日、特別室で、富岡課長の約束どおり、ハワイ作戦特別図上演習が実施された。

 出席者は山本長官をはじめ連合艦隊幕僚、第一航空艦隊の各司令長官、参謀長、先任参謀、航空参謀。軍令部からは、第一部長・福留繁少将、第一課長・富岡定俊大佐をはじめ、第一部(作戦課)の部員数名が出席した。

 青軍(日本)と赤軍(アメリカ)の模擬戦闘は三時間に及んだ。結果は、アメリカの戦艦四隻撃沈、一隻大破、空母二隻撃沈、一隻大破、巡洋艦六隻撃沈破、飛行機撃墜・破壊一八〇機だった。

 だが日本海軍の損害も、空母二隻が撃沈され、二隻が小破、飛行機一二七機喪失と出た。

 「山本五十六」(半藤一利・平凡社)によると、この日本の空母小破二隻は、翌日、赤軍の長距離爆撃機の追撃を受け、一隻が沈められ、もう一隻も大破・自沈した。

この惨たる結果に、演習の統監である参謀長・宇垣少将は驚愕した。沈鬱な雰囲気に満ちた部屋の空気を破るように、宇垣少将は「もう一度判定をやりなおせ」と怒鳴ったという。

 再判定、つまりサイコロの振り直しが行われた。当然、サイコロの目は変わったが、結果はさして好転しなかった。青軍の空母四隻全滅が、半減したが、大損害であることは変わらなかった。

 この結果、軍令部側は反対論に力を得た。だが、黒島大佐ら連合艦隊司令部は結果について、次のように主張した。

 「空母は差し引きゼロとしても、戦艦四隻撃沈は大収穫ですよ。敵の受ける心理的ダメージは途方もなく大きい」。

 これに対し軍令部は次のように意見を述べた。

 「いや、奇襲に成功してこの程度の戦果では成功とは言えないよ。実戦では我が航空隊は敵に反撃され、かなりの損失が出る。戦果もすっと小さくなるはずだ」

 「敵の工業生産力を考えると、戦艦四隻を屠ったからといって満足はできんな。四隻くらい敵はすぐ補充がきくだろう。工廠や石油タンクを徹底的に破壊しなくてはならぬ。だが、それには我が飛行機が不足だ」。

 これに対し、連合艦隊司令部は次のように応酬した。

 「いや、第一、第二航空戦隊は攻撃に十分自信がある。空母三隻は撃沈できる。艦攻すべてに水平爆撃をやらせれば、戦艦五、空母三はやれるはずだ。搭乗員の技量はそれだけ向上している。信用してもらいたい」。

 結局、図上演習は、ハワイ作戦を実行すべきか断念すべきか、どちらともいえぬあいまいな結果を残しただけだった。山本長官は無表情に部屋を出て行った。軍令部は依然としてハワイ作戦には消極的だった。

 実施部隊である第一航空艦隊の司令長官・南雲忠一中将と参謀長・草鹿龍之介少将は、怒ったような顔でなにか話し合っていた。二人ともハワイ作戦には乗り気でない様子だった。草鹿少将は次のように反対論を唱えた。

 「成功するには、絶対に奇襲であることが必要だが、その確算はない。開戦となれば、一刻も早く南方地域を制圧すべきだ。真珠湾攻撃は、いわば、敵の懐にあえて飛び込んでいくようなもので、国家の興廃をかける戦争の第一戦に、このような投機的な危険をおかす作戦をとるべきでない」。

 黒島大佐は憮然とした面持ちで、第一航空艦隊航空甲参謀・源田実中佐に、「軍議は戦わずですよ」と言った。さらに黒島大佐は次のように言った。

 「軍令部は仕方ないとしても、機動部隊の親分があんなに消極的では困ったものだな。南雲さんという人は、あれでけっこう肝っ玉が小さいのではないか」。

 源田中佐は「さあ、どうですかね。私はまだ仕えて日が浅いのでよくわからんのです」と答えたという。