陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

136、宇垣一成陸軍大将(6) きれいさっぱりと、やったらいいじゃないか

2008年10月31日 | 宇垣一成陸軍大将
 宇垣陸相は「この件の取調べを続けるには、組閣に関りを持った有松枢密院顧問、西原亀三、福原俊丸男爵など部外者にも及ばせねばなりませぬ。これらを証人として引き合いには出せません。また部内長老の争いを部外にさらけ出すことも忍びませぬ」と答えた。

 すると上原元帥は「きれいさっぱりと、やったらいいじゃないか」と答えたと言う。

 「国軍の名誉、社会の大局にかんがみて閣下のご反省を願いたく、この問題はこれで打ち切りたいと存じます」

 宇垣陸相は「田中大将を予備役にせよ」と言う上原元帥の要求も断った。上原元帥と宇垣陸相の対立もこれで顕著になった。

 「橋本大佐の手記」(みすず書房)によると、大正時代になり、薩摩の大山巌元帥(西郷隆盛の従弟)が死ぬと、長州派が軍の実権を握り、山県有朋、田中義一が陸軍を支配した。

 この間、薩摩の上原勇作元帥が失地回復を狙ったが田中義一に押さえられて失敗した。

 宇垣一成は田中義一の引きで長州派に随身して陸軍大臣になった。だが宇垣は田中義一が死ぬと長州派に反旗を翻し長州閥を粉砕した。

 陸軍の出世方式は人物本位でなく学校本位であった。軍中央の要職に就くのは陸軍大学校の卒業者に限るから、派閥を粉砕する妙手は陸軍大学校に入れないことだ。

 宇垣一成陸軍大臣は、長州出身者はどんな秀才であろうとも身元を調べ上げてすべて落第させた。こうして長州の勢力を削いだが、この結果、新たに宇垣グループができた。

 宇垣一成を筆頭に、鈴木荘六、白川義則、南次郎、金谷範三、二宮治重、畑英太郎、畑俊六、阿部信行、杉山元、小磯國昭、建川美次らである。

 この宇垣グループに対抗したのが佐賀の宇都宮太郎大将を中心に、真崎甚三郎、村岡長太郎、武藤信義、柳川平助、荒木貞夫、渡辺錠太郎らの、いわゆる真崎グループである。

 宇垣は陸相を通算四期以上続け、四個師団を削減する宇垣軍縮を断行し、力量手腕は抜群といわれた。だが、宇垣には欠点がある。それは政権に対する強欲だ。

 さらに四期も陸相をやった結果人物が驕慢無礼となってきて、宇垣は陸軍部内で人気が下降してきた。

 そこで昭和6年3月、小磯國昭軍務局長、二宮治重参謀次長、建川美次参謀本部第二部長らは宇垣勢力の強化案を検討していた。

 ちょうどこういう時期に橋本欣五郎大佐、大川周明らの宇垣政権を狙ったクーデター案が浮上してきた。三月事件である。

 ところが、途中で宇垣は変心して、このクーデターから抜けた。濱口雄幸(おさち)首相の容態がはかばかしくなく、濱口内閣は総辞職を決意、次期政権担当の総裁に宇垣一成を迎える工作が、内相安達謙蔵らが盛り上げていた。

 こうなれば宇垣は何もクーデターをやる必要はない。そこで宇垣は「東京撹乱を認めたることなし」と言い出したのであろう。ところが、宇垣首班工作は失敗して若槻儀礼次郎が首相になった。

135、宇垣一成陸軍大将(5) 福田大将を推挙した君の面目を潰したわけでもありますまい

2008年10月24日 | 宇垣一成陸軍大将
 翌日1月8日上原元帥は青山の田中大将邸を訪問して意見を述べた。「内閣の首班者がその政綱に基づいて陸海軍大臣を推薦することを妨げるものではない」

 さらに「三長官合同で陸相候補者を推薦するがごときは、職権を超えた官紀の紊乱であり、これに軍事参議官が連なるのは徒党的陰謀をもって国政を掣肘するものである」と述べた。

 田中大将はこれを聴くだけにとどめたと言われている。

 宇垣中将の陸相就任後も紛糾は続いた。3月11日、上原元帥は清浦首相を訪ねて宇垣陸相就任の経緯を改めて訊いた。

 清浦首相は「田中陸相には上原元帥ともよく相談して三人の候補者を選定して提出していただきたいと頼んだのです」

 「では何ゆえ、第三位の候補者を選定されたのですか」

 「人にはおのおの能・不能、適・不適があり、第三位者が適任であると考えたのです。また陸軍部内の折り合いも考えて決めました」

 すると上原元帥は「今回のことでは、面目を潰されました」と憮然と言った。

 清浦首相は「僕は陸軍部内のことは良く知らぬから君に参考までに訊いたまでで、福田本人にも内交渉はしていない。だから他のものを選んだからとて本人に義理を欠いたわけでもなく、福田大将を推挙した君の面目を潰したわけでもありますまい」

 「それでは訊ねますが、私は田中大将への回答に第三者の者ならびにこれと等しい年少者を任用しないことが国軍のためであるとの但し書きを附けましたが、それはお聴きでしょうか」

 「いや、そのことは聴いておりませぬ」

 上原元帥と清浦首相の会談はこれで終わった。

 その日の午後、清浦首相は田中大将の来邸を求めた。

 清浦首相は田中大将に「上原元帥は君への回答に但し書きを附けたことに執着されていたが」と言った。

 「但し書きについては、上原元帥の田中に対する注意と考え、閣下には伝えませんでした」と田中大将は平然と言ってのけた。

 上原元帥は宇垣陸相にも談じ込んだ。その会見は3月から4月にかけて四回にも及んだ。

 その大半は、ああ言った、こう言った、それは聞かぬたぐいの蒸返しで、田中大将への中傷・批判であった。さらに「ぜひ貴大臣の厳正なるお調べによって、公平なる処断を仰がねばならぬ」と言った。

134、宇垣一成陸軍大将(4) 石光中将は身の潔白を証するため、手記をものして、各方面に発送した

2008年10月17日 | 宇垣一成陸軍大将
 田中大将が福田大将起用に反対したので、仕方なく清浦子爵は「それならば、上原元帥と田中大将が協議の上、三名の候補者を推薦して貰いたい。その中から僕が指名しよう」と提議すると田中大将も同意した。

 田中大将は陸相候補として福田雅太郎大将、尾野実信大将、宇垣一成中将の三人を順に挙げ、これを書き物にして。秘書官に鎌倉の上原元帥へ届けさせた。宇垣一成中将は当時陸軍次官だった。

 上原元帥は「ここに記された選定人名とその順序は自分の意見と齟齬しない。ただし、ここにある第三者の名前の者(宇垣)とこれに等しい年少者は、政局に顧みて、これを任用しないことが国軍のために有利である」という意見を付箋にして田中大将に返した。

 1月6日、田中大将は清浦子爵を訪問し、上原元帥と協議の上決定したとして、陸相候補者名簿を提出した。そして「自分としては第三位にある宇垣中将を採用してもらいたいのです」と言った。

 清浦子爵は「順位からいけば第一位を採らぬとすれば、第二位の尾野大将ではないか」と答えた。

 すると田中大将は「尾野大将には就任の意思がありません。交渉しても辞退します。就任の意思のないものに交渉するのは時間の無駄です。宇垣中将を採用するのがよろしい」と強引に言った。

 尾野大将は陸士、陸大をともに主席で卒業し、児玉源太郎に認められて、日露戦争では満州軍参謀に抜擢された。その後陸軍次官、関東軍司令官、軍事参議官になっていた。大器と言われた人物だが、事実陸相就任の意思はなかった。

 田中大将は前日の1月5日、教育総監・大庭二郎大将(山口)、参謀総長・河合操大将(大分)を招いて「石光中将が清浦内閣組閣にあたり、軍隊指揮官の身にありながら、福田大将を陸軍大臣候補に推し、自らはその次官たらんと狂奔しているのは実に不謹慎。このような運動によって福田大将の就任を見るがごときは将来に悪例を残す。また福田大将が我々に一言の相談もなくこれを内諾したことは、われわれの面目を踏み潰すものであるから、厳にこれを糾弾しなければならぬ」と述べた。両大将はこれに同意した。

 また、田中大将は、山梨半造大将、尾野実信大将、町田経宇大将を招いて同じ趣旨を話、賛同を得た。

 そのあと町田大将が、福田大将を訪ねて清浦子爵から内交渉を受けていたかどうか糺すと「今日までなんらの交渉を受けていない」とのことだったので、町田大将は他の大将連に伝えた。町田大将は鹿児島出身で上原元帥閥であった。

 一方、石光中将は身の潔白を証するため、手記をものして、各方面に発送した。だが大勢は田中大将に軍配が上がり、1月7日、清浦内閣が成立、宇垣一成中将が陸軍大臣に就任した。

 内閣成立後の1月7日午後、田中大将は上原元帥を東京大井鹿島谷の私邸を訪問した。

 田中大将は「陸相候補者は首相の単独意思で専決せしむべきではないと思います。将来は前陸相が後任者を推薦し、三長官の同意と軍事参事官の協議を得る必要があると思います」と述べた。

 上原元帥は「自分は全く反対である。将来研究の余地がある。しかし、熟考の上、明八日、貴邸を訪問して自分の意見を述べたい」と答えた。

133、宇垣一成陸軍大将(3) 君と僕は山県有朋傘下の者として親交のある間柄ではないか

2008年10月10日 | 宇垣一成陸軍大将
 12月29日、上原元帥は河合操参謀総長に対して、「今次の政局に対してはお互いに控えておこう」と語った。ところが、12月31日、上原元帥は清浦子爵を訪ねて「大命が降下したら拝辞するな」と勧告した。河合を抑えて自分は動いたのだ。

 大正13年1月1日夕方、清浦子爵は石光真臣中将を上原元帥のところへ行かせ、陸軍大臣候補者の推薦を依頼した。

 上原元帥は「陸相候補者としては福田雅太郎大将と尾野実信大将が挙げられるが、この際は福田大将が適当である」と返事した。

 福田大将は長崎出身。参謀次長、台湾軍司令官、関東戒厳司令官を歴任し軍事参議技官の職にあった。福田大将も尾野大将(福岡)も上原元帥閥であった。

 石光中将は上原元帥の回答をもって、清浦子爵邸に行き、上原元帥の意向を伝えた。

 ところが、清浦子爵は「実は田中義一大将(陸相)から西原亀三を介して、陸軍大臣の後任は、参謀総長、教育総監と協議の上適任者を推薦したい、との申し込みがあった」と石光中将に伝えた。

 清浦子爵は困惑気味であった。田中陸相(田中義一大将は当時山本権兵衛内閣の陸軍大臣であった。総辞職は1月7日)からの申し入れは闇の中でいきなり短刀を突きつけられた感じであった。

 上原元帥は、福田大将を呼び、「清浦子爵から、貴官に陸相の内交渉があろうから、そのときはすぐに回答せず、先輩・同僚と協議したいので時間を頂きたいと述べよ。そして田中陸相に相談し、その結果によっては軍事参議官の会同を求めるか、あるいは個別に訪問し同意を求める。また元帥も個別に訪問せよ」と至れり尽くせり、手を取り足を取り教えている。

 1月4日貴族院議員・福原俊丸男爵(山口県出身)が清浦子爵を訪ね「陸軍大臣候補者は、現陸相田中大将の推薦する者を採用してほしいのです。もしそうしなければ研究会は動揺するでしょう」と告げた。

 これは一種の脅迫であった。清浦子爵は貴族院研究会を基礎にして組閣する決心でいたのだ。福原男爵は上原元帥の動きを察知していた。

 清浦子爵は田中大将とじかに話し合う必要があると思い、来訪を促した。

 清浦子爵は「陸相候補については、上原元帥に推薦を依頼し、福田大将を起用することにした。福田大将は前内閣のときも陸相候補になり、相当手腕のある人だと聞いた。福田大将は君とも親善の間柄と信じていたので、君にも異議はないと思っていた」と田中大将に言った。

 続けて「君と僕は山県有朋傘下の者として親交のある間柄ではないか。今、陸相問題に紛糾を生じることになれば、僕の組閣を困難に陥れることになり、おもしろくないではないか」と言った。

 清浦子爵は山県有朋内相の下で警保局長を勤めたのを皮切りに第二次山県内閣の司法大臣、以後農商務大臣、内務大臣などを歴任していた。

 田中大将はしかし清浦子爵に反発した。「福田大将は関東大震災の際、甘粕正彦大尉の大杉栄殺害事件の責任を取って辞任した。陸相には不適である」と。

 さらに「陸相候補は陸軍大臣、参謀総長、教育総監の三者が意図を一致させなければ、部内の改善進歩はできません」と福田大将起用に反対した。

132、宇垣一成陸軍大将(2) 清浦内閣の陸軍大臣をめぐる陸軍首脳の熾烈な抗争に火がついた

2008年10月03日 | 宇垣一成陸軍大将
 「宇垣一成~政軍関係の確執」(中公新書)によると、明治時代以降、内閣首班を事実上決めるのは元老であった。元老はもともと維新の元勲で、これが明治天皇の後継首班決定の相談にあずかった。

 大正天皇即位のときには、山県有朋、大山巌、松方正義、井上馨、桂太郎の四人が「卿宜シク朕カ意ヲ体シ朕か業ヲ輔クル所アルヘシ」との勅語を賜った。大正2年桂太郎死去後西園寺公望が元老に加わった。

 大正4年井上馨、大正5年大山巌、大正11年山県有朋、大正13年松方正義がそれぞれ死去すると、以後は、後継首班を奏請する元老は西園寺公望一人となった。

 大正12年8月25日加藤友三郎死去に伴い、薩摩の海軍大将(大正2年退役)・山本権兵衛が首班に指名された。ところが9月1日関東大震災が起こり、死者・行方不明者14万2800人を出した。その翌日9月2日山本権兵衛内閣が組閣された。

 ところが、その年の12月27日に、摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が難波大助(山口県光市立野出身)に狙撃された虎ノ門事件が起こった。山本権兵衛内閣はこの事件の責任をとり、翌大正13年1月7日に第二次山本権兵衛内閣総辞職した。当時の陸軍大臣は田中義一大将であった。

 元老西園寺公望と松方正義は清浦奎吾子爵を後継首班に据えるのが無難であるとの意見が一致しており、清浦奎吾に翌大正13年1月1日大命が降下した(大正天皇は病のため摂政宮裕仁親王(後の昭和天皇)が政務を執っていた)。そして清浦内閣の陸軍大臣をめぐる陸軍首脳の熾烈な抗争に火がついた。

 明治から大正に至る日本帝国陸軍の派閥は二系列に分かれていた。長州閥と薩摩閥である。

 長州閥の系列は山県有朋元帥(山口)、桂太郎大将(山口)、寺内正毅元帥(山口)、田中義一大将(山口)、大庭二郎大将(山口)、宇垣一成大将(岡山)、南次郎大将(大分)、金谷範三大将(大分)、河合操大将(大分)、寺内寿一元帥(山口)、建川美次中将(新潟)、二宮治重中将(岡山)、小磯国昭大将(山形)、杉山元元帥(福岡)。

 薩摩閥の系列は、大山巌元帥(鹿児島)、野津道貫元帥(鹿児島)、上原勇作元帥(宮崎)、武藤信義元帥(佐賀)、福田雅太郎大将(長崎)、宇都宮太郎大将(佐賀)、真崎甚三郎大将(佐賀)、荒木貞夫大将(東京)。

 清浦内閣の陸軍大臣の就任をめぐって、上原勇作元帥派と田中義一大将派の間で熾烈な抗争が行われ、それは後々まで陸軍を二分する勢力争いに発展した。

 当時長州閥は、山県有朋元帥(大正11年没)、桂太郎大将(大正2年没)、寺内正毅元帥(大正8年没)は死去しており、田中義一大将が領袖であった。

 一方、薩摩閥は、大山巌元帥(大正5年没)、野津道貫元帥(明治41年没)が死去しており、上原勇作元帥が領袖であった。