陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

735.野村吉三郎海軍大将(35)中国の一〇〇万大軍もできないことを朝鮮の一青年がやり遂げた。感激した

2020年04月24日 | 野村吉三郎海軍大将
 その水筒が、野村吉三郎海軍中将と重光公使の間に来た時、閃光に続いて轟音が響き、ごうっ! と不気味な音ともに第三艦隊司令長官・野村吉三郎海軍中将は熱湯を全身に浴びせかけられたようなショックを受けた。

 強烈な火薬(手榴弾)の爆発だった。会場は騒然となり、第三艦隊司令長官・野村吉三郎海軍中将の身を気遣う参謀たちが壇上に駆け上がって来た。

 犯人を捜そうとする警備の警官、壇上の被害者を心配する関係者、会場から逃げ出そうとする者……会場は一瞬にして騒乱の巷と化した。

 上海派遣軍司令官・白川義則陸軍大将は重傷だったが、血潮をかぶったまま、一人で壇上から下りようとした。

 第三艦隊司令長官・野村吉三郎海軍中将と在上海公使・重光葵駐華公使は舞台の上に倒れた。

 在上海総領事・村井倉松、第九師団長・植田謙吉陸軍中将、上海居留民団行政委員会会長・河端員次、上海日本人居留民団・友野盛書記長らもそれぞれ負傷して、壇上は血の海と化していた。

 上海派遣軍司令官・白川義則陸軍大将は五月二十六日死去した。

 最初は、第三艦隊司令長官・野村吉三郎海軍中将の負傷状況が最も重いと見られていたが、実際には在上海公使・重光葵駐華公使が左脚切断、第三艦隊司令長官・野村吉三郎海軍中将は右眼を失明した。

 在上海総領事・村井倉松は顔と左脚に、上海日本人居留民団・友野盛書記長は脚、顔、手に負傷した。

 最も重かったのが上海居留民団行政委員会会長・河端員次で、脚と腹部に重傷を負い、翌日死去した。

 犯人は、その場で逮捕された。予想された蒋介石側の便衣隊(スパイ)ではなく、朝鮮独立党員の尹奉吉(いん・ほうきち・抗日武装組織「韓人愛国党」党員)だった。

 五月二十五日、尹奉吉は上海派遣軍の軍法会議で死刑の判決を受け、十一月十八日内地の大阪衛戍刑務所へ移監され、さらに十二月十八日、陸軍第九師団の駐屯地である石川県金沢市の軍法会議拘禁所へ移管、留置。

 十二月十九日、金沢市内の練兵場で銃殺刑に処された。遺体は金沢市内の共同墓地に埋葬された。享年二十四歳。子供が二人いた。

 当時、中華民国政府の蒋介石主席は、事件を聞いて「中国の一〇〇万大軍もできないことを朝鮮の一青年がやり遂げた。感激した」と評価した。

 昭和七年十月十日付で、野村吉三郎中将は二度目の横須賀鎮守府司令長官に親補され、昭和八年三月三十日大将に進級した。十一月、軍事参議官。

 昭和十二年四月六日、野村吉三郎大将は予備役編入、学習院長に就任した。

 昭和十四年八月三十日、阿部信行(あべ・のぶゆき)陸軍大将(石川・陸士九期・陸大一九期恩賜・陸軍大学校教官・元帥副官・砲兵中佐・砲兵大佐・野砲兵第三連隊長・参謀本部課長・陸軍大学校幹事・少将・参謀本部総務部長・陸軍省軍務局長・中将・陸軍次官・陸軍大臣臨時代理・第四師団長・台湾軍司令官・大将・軍事参議官・予備役・内閣総理大臣・中華民国特派大使・貴族院議員・朝鮮総督・昭和二十八年九月七日死去・享年七十七歳・正二位・勲一等旭日大綬章)が内閣総理大臣に就任した。

 九月二十五日、野村吉三郎大将は阿部内閣において、第六十一代外務大臣に就任した。この就任について世論はどうであったのか。当時の毎日新聞の評は次の通り。

 「――帝国外交の転機に配慮――安倍内閣は列国との外交調整を使命として生まれた。たまたま対米外交は極度に悪化していて、策も施しようもない始末、日独伊枢軸も弛んでいるから、英仏にもなんらかの手を打っておかなければならない」

 「そこで長い間駐米武官としてワシントンにあり、アメリカ人とも特殊の親しみがある学習院長・野村吉三郎大将に専任外相として出馬をうながした」

 「大将は軍人というよりは教育家、教育家というよりは実業人といいたいような触りのよい人物で、対米外交に重点をおく以上、うってつけだという重臣たちの折り紙付きである」。




734.野村吉三郎海軍大将(34)中立の立場にいた野村吉三郎中将は練習艦隊司令官に追いやられてしまった

2020年04月17日 | 野村吉三郎海軍大将
 大正十五年七月二十六日、野村吉三郎少将は軍令部次長に補され、十二月一日、海軍中将に進級した。

 大正十五年十二月二十五日、大正天皇が崩御され、年号は昭和に改まった。

 時の内閣は若槻礼次郎内閣で、海軍大臣は財部彪大将、軍令部長は鈴木貫太郎大将、海軍次官は大角岑生中将、軍務局長は野村吉三郎中将と同期の小林躋三中将だった。

 連合艦隊司令長官は、かつて、ワシントン会議で大加藤と激論した加藤寛治中将だった。

 昭和二年四月二十日、陸軍大将・田中義一内閣が発足すると、加藤寛治大将が軍令部長に就任した。

 軍令部次長・野村吉三郎中将は、ワシントン会議以来の知己である軍令部長・加藤寛治大将の下で特に政争などに巻き込まれることはなかった。

 だが、昭和五年のロンドン軍縮会議が近づいてくると、海軍部内では、条約(軍縮)派と艦隊派の対立が際立ってきた。

 昭和三年十二月十日、野村吉三郎中将は軍令部出仕となり、軍令部次長の後任に、末次信正中将が就任した。

 軍令部は、加藤寛治大将、末次信正中将の艦隊派のコンビになってしまった。

 昭和四年二月一日、中立の立場にいた野村吉三郎中将は練習艦隊司令官に追いやられてしまった。

 その後、野村吉三郎中将は、昭和五年六月十一日、呉鎮守府司令長官、昭和六年十二月一日、横須賀鎮守府司令長官を歴任した。

 昭和七年一月二十八日、中華民国の上海共同租界周辺で、日本軍と中国軍が衝突し、第一次上海事変後勃発した。

 昭和七年二月二日、野村吉三郎中将は新編の第三艦隊司令長官に親補され、上海に赴いた。

 第三艦隊司令長官・野村吉三郎中将は艦隊の軍艦により、揚子江からの艦砲射撃で、白川義則陸軍大将が率いる陸軍の上海派遣軍を側面支援した。

 その後、第一次上海事変は、停戦の動きが進み、三月二十四日、日中両国の代表により第一回停戦会議が英国総領事館前で開かれた。

 四月に入り、英国などの大国の斡旋も続き、両国の交渉は進捗の目安がついてきて、昭和七年五月五日に停戦という運びとなった。

 昭和七年四月二十九日、天長節(昭和天皇の誕生日)の祝賀行事が、午前十時から上海市の虹口公園で行われ、大観兵式が挙行された。

 大観兵式後、虹口公園には小学生、青少年団、その他の団体が整列し、官民合同の天長節祝賀式が行われようとしていた。

一段と高い中央の壇上には、向かって右から次の人々が並んだ。

 在上海総領事・村井倉松、上海派遣軍司令官・白川義則陸軍大将、第三艦隊司令長官・野村吉三郎海軍中将、在上海公使・重光葵駐華公使、第九師団長・植田謙吉陸軍中将、上海居留民団行政委員会会長・河端員次、上海日本人居留民団・友野盛書記長。

 午前十一時半、式典は開始された。雨がばらついていた。祝辞朗読後、「君が代」合唱が終わり、壇上の白川義則陸軍大将が一歩前進して「天皇陛下万歳!」を唱えようとした。

 その時、上海派遣軍司令官・白川義則陸軍大将の右背後から水筒のようなものが、コロコロと転がり出た。

 ……なんだ? あれは……壇上の第三艦隊司令長官・野村吉三郎海軍中将や第九師団長・植田謙吉陸軍中将たちは、……誰かがいたずらをしたのか?……と肩を寄せて見ていた。


733.野村吉三郎海軍大将(33)隠居扱いにするつもりでいたら、大変だぞ。君にはまだ元帥の偉さが分かっていない

2020年04月10日 | 野村吉三郎海軍大将
 後に、加藤友三郎大将の系統を引く海軍士官は「条約派(軍縮派)」、加藤寛治中将の系統は「艦隊派(艦隊拡張派)」と呼ばれるようになった。

 野村吉三郎大佐は後に、ワシントン会議の思い出を次のように回想している。

 十一月十一日の初会議で、ヒューズ氏はいわゆる爆弾的といわれる軍縮案を提案して、場内から盛んな喝采を博していた。

 その初会議からの帰途、加藤(友三郎)さんは、井出謙治海軍次官(十六期、後、大将、佐世保鎮守府長官)宛ての電報を示されたが、要領は『アメリカ案を基礎として交渉する決意である。もちろんこのことは日本海軍としては造艦対策上、人事行政上大問題であるが、これは国内問題として善処すべきである』という意味であった。

 井出次官はスマート、かつ俊敏な人であったが、帰朝した時。私に『あの電報で大臣の決意のほどを知り善処するを得た』と語っていた。

 またあるとき、宿舎のショーラム・ホテルの次の部屋で聞くともなく聞いていると、加藤(友三郎)全権が加藤(寛治)随員に向かって、

 『加藤。お前ももう中将になったのだから、いつまでも若い者に尻を叩かれて旗ばかり振っておらずに、ときによっては冷静沈着に物事を考えねばいかんよ』

 と叱っているのが耳に入ったことがある。

 小加藤は海兵に入る頃、大加藤は教官だったのだから、まったく生徒か子供並みの扱い方だった。

 さすがの猛将・加藤(寛治)中将や末次(信正)らも大加藤にかかるとどうにもならず、最終的に会議は妥結したのである。

 このように生徒でもたしなめるように叱ってはいたが、一面では加藤さんは小加藤の一身上についてつねに意を用いていた。

 帰朝してからの話だが、無二の親友・島村速雄大将と同車した際に、『加藤(寛治)も五十になったのだから、そろそろなんとかしてやらねばならんね』と語っておられたが、それからすぐに加藤(寛治)中将は海大校長から軍令部次長となり、主流コースに乗って出世街道を歩むようになった。

 余談になるが、私も加藤さんに叱られたことがあった。それは海軍省宛ての電報中、東郷元帥へ報告するように言い付けられた時に、私が一寸苦笑を浮かべたら、

 『野村、元帥はあれでなんでも大綱は知っておられるのだよ。隠居扱いにするつもりでいたら、大変だぞ。君にはまだ元帥の偉さが分かっていない』

 とたしなめ叱られたのである。

 東郷元帥は加藤さんをもって適材適所の全権と認め、加藤さんもまた、元帥を太極に通ずる偉い人と認めていたのであった。

 加藤(友三郎)全権のワシントンにおける大局的判断は、今日においても深く敬意を表しているが、このほかに同会議に関係して、さすがはと瞠目させた人物は渋沢栄一子爵である。

 子爵は日本国交の改善について自ら民選全権と称して出かけていったが、ワシントン会議にも大きな関心を持ち、ワシントンやニューヨークで盛んに側面活動をやりながら、あたかも会議がわが七割主義で緊張している最中に、

 『日本は国力からいえば、アメリカの十分の一ぐらいのものだ。したがって海軍は十分の一でも仕方がない。米国は寛大であって、六割というのだから欣んで受諾すべきだ』と論じていた。

 海軍側は全権以下、『あのじいさんには早く帰ってもらわなければ困る』とぶうぶういったものだ。

 でも、それだけのことを平気で主張した勇気と見識には驚かされるとともに、偉いじいさんだと感心させられたものである。

 以上が、野村吉三郎大佐のワシントン会議の思い出の回想である。

 ワシントン会議後、野村吉三郎大佐は、大正十一年六月一日、少将に進級し、軍令部第三班長、第一遣外艦隊司令官、海軍省教育局長を歴任した。

732.野村吉三郎海軍大将(32)海軍中将にもなって、どうしてそんなことが分からないのか……

2020年04月03日 | 野村吉三郎海軍大将
 一方、出来るだけ努力し、ねばるが、最終的には世界恒久平和のために、五・五・三(米・英・日)の比率を呑まなければならないだろうというのが、ワシントン会議全権、海軍大臣・加藤友三郎大将だった。

 ワシントン会議の始まる前、野村吉三郎大佐は、全権・加藤友三郎大将と首席随員・加藤寛治中将の間で論争・対立が起きることを予想していた。

 その場合、全権・加藤友三郎大将の方には、自分、野村吉三郎大佐がつき、首席随員・加藤寛治中将には末次信正大佐がつくだろうと思った。

 大正十年十一月十二日、アメリカのワシントンD.C.で軍縮会議(ワシントン会議)が始まった。

 会議は討論を重ね、全権・加藤友三郎大将も懸命の努力を続けたが、米英は妥協せず、結局、主力艦保有率を五・五・三(米・英・日)以外には、妥協か決裂の二つに一つしかない、という状況に追い込まれてしまった。

 全権・加藤友三郎大将は、会議が決裂した場合、列強は再び建艦競争に追い込まれてしまう。建艦競争に負けた日本は、経済が破綻して軍事力も三流に陥る可能性もあると考えていた。

 結局、全権・加藤友三郎大将は、主力艦保有率五・五・三(米・英・日)を認める方向に意志を固めた。

 だが、この比率に大反対したのが、軍令系統・海軍大学校の対米戦術家を仕切る、首席随員・加藤寛治中将であった。

 十・十・七の比率以外には進攻してくるアメリカ海軍に勝てないというのである。

 予想通り、末次信正大佐が首席随員・加藤寛治中将についた。

 勢いづいた首席随員・加藤寛治中将は、勝手に外国の記者を集めて会見を行い、日本海軍は「十対七の比率を獲得するまでは調印しない覚悟である」などと演説を行った。

 ついに全権・加藤友三郎大将も堪忍袋の緒を切った。ホテルに帰ると自分の部屋に首席随員・加藤寛治中将を呼びつけ、次の様に大声で叱責した。

 「君は一体、何年海軍の飯を食っているんだ? 全権の私のいうことが聞けないということは、すなわち上官の命令を無視するということだ。海軍中将にもなって、どうしてそんなことが分からないのか……」。

 むっとした首席随員・加藤寛治中将は、じっと全権・加藤友三郎大将の顔をにらみ返していたという。

 全権・加藤友三郎大将は海軍兵学校七期、首席随員・加藤寛治中将は十八期で、日本海海戦の時は、全権・加藤友三郎大将は少将で連合艦隊参謀長として東郷平八郎司令長官を補佐し、大勝利をもたらした功労者であった。

 一方、首席随員・加藤寛治中将は、日露戦争開戦時は少佐で、連合艦隊旗艦、戦艦「三笠」(一五一四〇トン)の砲術長、日本海海戦の時は東京の海軍省で山本権兵衛海軍大臣の秘書官をしていた。

 このような経歴からも、首席随員・加藤寛治中将のほうが貫禄負けで、不服ではあるが、引き下がった。

 このような情況を見て、野村吉三郎大佐は、全権・加藤友三郎大将の苦心と決断に大いに学ぶところがあった。

 後にワシントンから引き揚げてきた野村吉三郎大佐は、次のように回想している。

 「加藤友三郎大将という人は、実に偉い提督だった。実戦に有能で、平和、軍縮にも十分国際的な視野を持った人だった」。

 ところで、自説が通らなかった首席随員・加藤寛治中将は、頭痛を発し、会議が終わらぬうちにワシントンを発って帰国してしまった。

 頭に腫れ物ができていたという話だが、愛国一徹の首席随員・加藤寛治中将は、まさしく頭を痛める位、日米戦争の将来を心配していたのだと言われている。