その中の一条に、軍司令官の権限があった。松村少佐はシベリア出兵など作った似たものを参考として、「軍司令官は部下を指揮しその経理、衛生等を律す」と書いた。
これで編制班長も第一課長も黙って判を押してくれたので、これを総務部長・梅津少将に持って行くと、梅津少将は「これはおかしい。もっと考えろ」と言って判を押してくれなかった。
松村少佐は部屋に戻って戦時高等司令部勤務令、その他新しいものを見ると、「軍司令官は軍を統率す」とだけ書いてあった。
いろいろ経験の深い先輩に、松村少佐が聞いてみると、両者趣旨に変わりはないが、「統率」の字句ですべてを網羅するから、これに改めたことが分かった。
松村少佐が修正して、提出すると、梅津少将は黙って判を押した。梅津少将は若い部員が自ら勉強するように指導した。
昭和七年頃、情勢の変化、ことに無線の発達に伴い、暗号の使用が平戦時とも盛んになり、その構造も複雑となり、下級司令部や舞台で使用するだけでなく、自ら暗号を作ることも必要になった。
そこで暗号の作成、使用等に関する教育を行う必要ができ、毎年ある数の将校を全軍から集めて参謀本部で教育することになった。
その主任者がたまたま他の用務で出張することになったので、松村少佐が代わって第一課長・東條英機大佐や総務部長・梅津美治郎少将の判をもらいにいった。
ところが、総務部長・梅津美治郎少将は「参謀本部にはそんな任務はない。省部協定(参謀本部、陸軍省、教育総監のいわゆる三官衙の業務分担、起案者、連帯者などを決めたもの)にも一言もふれていない」と言って、判をくれなかった。
それは、これまでその必要がなかったからである。だが、その教育能力をもっているのは参謀本部だけだから、省部の主任者が協議の上この決定となった。
松村少佐は臨時に代理したものだから、十分に総務部長・梅津美治郎少将を納得させることができず、起案紙を一応持って帰った。松村少佐は、第一課長・東條英機大佐に、いきさつを報告し「研究します」と言った。
ところが、第一課長・東條英機大佐は、「俺によこせ」と言うとともに、その起案紙を持って、すぐ総務部長・梅津美治郎少将のところへ行った。
第一課長・東條英機大佐は、間も無く判をもらって戻り、「おい」と言って、起案紙を松村少佐に渡した。
総務部長・梅津美治郎少将は勿論、この新しい規定は百も承知しているのである。だが、合理主義的な総務部長・梅津美治郎少将は、諸規定を順守し、これを改めるにそれだけ合理的な説明を要求したのだ。松村少佐が、十分に説明ができなかったのだ。
第一課長・東條英機大佐は、これをもどかしいとして、すぐ自分で説明に行き、総務部長・梅津美治郎少将の判をもらった。ここにも、両者の性格の差異が見られる。
昭和八年八月の定期異動で、真崎甚三郎(まさき・じんざぶろう)中将(佐賀・陸士九・陸大一九恩賜・教育総監部第二課長・歩兵大佐・陸軍省軍務局軍事課長・近衛歩兵第一連隊長・少将・歩兵第一旅団長・陸軍士官学校本科長・陸軍士官学校教授部長兼幹事・陸軍士官学校長・中将・第八師団長・第一師団長・台湾軍司令官・参謀次長・大将・軍事参議官・教育総監・軍事参議官予備役・佐賀県教育会長・昭和三十一年死去・享年八十歳・正三位・勲一等・功四級・フランスレジオンドヌール勲章コマンドール等)は大将に進級するとともに、参謀次長を辞め、軍事参議官に転じた。
後任の参謀次長は植田謙吉(うえだ・けんきち)中将(大阪・陸士一〇・陸大二一・浦塩派遣軍参謀・奇兵大佐・浦塩派遣軍作戦課長・騎兵第一連隊長・少将・騎兵第三旅団長・馬政長官・軍馬補充部本部長・中将・支那駐屯軍司令官・第九師団長・負傷・参謀本部附・参謀次長・朝鮮軍司令官・大将・軍事参議官・関東軍司令官・予備役・戦後・日本戦友団体連合会会長・日本郷友連盟会長・昭和三十七年死去・享年八十七歳・正三位・大勲位蘭花大綬章・功三級・フランスレジオンドヌール勲章オフィシェ等)が就任した。
これで編制班長も第一課長も黙って判を押してくれたので、これを総務部長・梅津少将に持って行くと、梅津少将は「これはおかしい。もっと考えろ」と言って判を押してくれなかった。
松村少佐は部屋に戻って戦時高等司令部勤務令、その他新しいものを見ると、「軍司令官は軍を統率す」とだけ書いてあった。
いろいろ経験の深い先輩に、松村少佐が聞いてみると、両者趣旨に変わりはないが、「統率」の字句ですべてを網羅するから、これに改めたことが分かった。
松村少佐が修正して、提出すると、梅津少将は黙って判を押した。梅津少将は若い部員が自ら勉強するように指導した。
昭和七年頃、情勢の変化、ことに無線の発達に伴い、暗号の使用が平戦時とも盛んになり、その構造も複雑となり、下級司令部や舞台で使用するだけでなく、自ら暗号を作ることも必要になった。
そこで暗号の作成、使用等に関する教育を行う必要ができ、毎年ある数の将校を全軍から集めて参謀本部で教育することになった。
その主任者がたまたま他の用務で出張することになったので、松村少佐が代わって第一課長・東條英機大佐や総務部長・梅津美治郎少将の判をもらいにいった。
ところが、総務部長・梅津美治郎少将は「参謀本部にはそんな任務はない。省部協定(参謀本部、陸軍省、教育総監のいわゆる三官衙の業務分担、起案者、連帯者などを決めたもの)にも一言もふれていない」と言って、判をくれなかった。
それは、これまでその必要がなかったからである。だが、その教育能力をもっているのは参謀本部だけだから、省部の主任者が協議の上この決定となった。
松村少佐は臨時に代理したものだから、十分に総務部長・梅津美治郎少将を納得させることができず、起案紙を一応持って帰った。松村少佐は、第一課長・東條英機大佐に、いきさつを報告し「研究します」と言った。
ところが、第一課長・東條英機大佐は、「俺によこせ」と言うとともに、その起案紙を持って、すぐ総務部長・梅津美治郎少将のところへ行った。
第一課長・東條英機大佐は、間も無く判をもらって戻り、「おい」と言って、起案紙を松村少佐に渡した。
総務部長・梅津美治郎少将は勿論、この新しい規定は百も承知しているのである。だが、合理主義的な総務部長・梅津美治郎少将は、諸規定を順守し、これを改めるにそれだけ合理的な説明を要求したのだ。松村少佐が、十分に説明ができなかったのだ。
第一課長・東條英機大佐は、これをもどかしいとして、すぐ自分で説明に行き、総務部長・梅津美治郎少将の判をもらった。ここにも、両者の性格の差異が見られる。
昭和八年八月の定期異動で、真崎甚三郎(まさき・じんざぶろう)中将(佐賀・陸士九・陸大一九恩賜・教育総監部第二課長・歩兵大佐・陸軍省軍務局軍事課長・近衛歩兵第一連隊長・少将・歩兵第一旅団長・陸軍士官学校本科長・陸軍士官学校教授部長兼幹事・陸軍士官学校長・中将・第八師団長・第一師団長・台湾軍司令官・参謀次長・大将・軍事参議官・教育総監・軍事参議官予備役・佐賀県教育会長・昭和三十一年死去・享年八十歳・正三位・勲一等・功四級・フランスレジオンドヌール勲章コマンドール等)は大将に進級するとともに、参謀次長を辞め、軍事参議官に転じた。
後任の参謀次長は植田謙吉(うえだ・けんきち)中将(大阪・陸士一〇・陸大二一・浦塩派遣軍参謀・奇兵大佐・浦塩派遣軍作戦課長・騎兵第一連隊長・少将・騎兵第三旅団長・馬政長官・軍馬補充部本部長・中将・支那駐屯軍司令官・第九師団長・負傷・参謀本部附・参謀次長・朝鮮軍司令官・大将・軍事参議官・関東軍司令官・予備役・戦後・日本戦友団体連合会会長・日本郷友連盟会長・昭和三十七年死去・享年八十七歳・正三位・大勲位蘭花大綬章・功三級・フランスレジオンドヌール勲章オフィシェ等)が就任した。