陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

649.山本権兵衛海軍大将(29)海軍部内では、財部を「財部親王」と称し、不快に思う者が少なくなかった

2018年08月31日 | 山本権兵衛海軍大将
 また、同じく同期である兵学校一五期の岡田啓介(おかだ・けいすけ)中将(福井・海兵一五・七番・海大二期・一等戦艦「朝日」副長・水雷術練習所教官兼海軍大学校教官・大佐・海軍水雷学校校長・装甲巡洋艦「春日」艦長・戦艦「鹿島」艦長・少将・第二艦隊司令官・第一水雷戦隊司令官・海軍技術本部第二部長・海軍省人事局長・中将・佐世保工廠長・海軍艦政本部長・海軍次官・大将・連合艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・後備役・内閣総理大臣・従三位・旭日桐花大綬章・フランス国レジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)は、大正十三年二月三日に大将に進級している。

 日本海軍の海軍大将は、西郷従道から井上成美まで、七十七名出たが、財部彪のような超特急の進級は次の三名の大将、元帥を除いて、例がない(最初に、財部彪大将の軍歴を参考に記す)。

 財部彪(たからべ・たけし)大将(宮崎・海兵一五期首席・少佐<三十二歳>常備艦隊参謀・軍令部第二局局員・中佐<三十六歳>・軍令部参謀・大佐<三十九歳>・英国出張・巡洋艦「宗谷」艦長・一等戦艦「富士」艦長・第一艦隊参謀長・少将<四十二歳>・海軍次官・中将<四十六歳>・第三艦隊司令官・旅順警備府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・佐世保鎮守府司令長官・大将<五十二歳>・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・軍事参議官・海軍大臣・軍事参議官・海軍大臣・ロンドン会議全権・従二位・旭日桐花大綬章・功三級・オーストリア=ハンガリー帝国鉄冠第二等勲章等)。

 有栖川宮威仁親王(ありすがわのみや・たけひとしんのう)元帥(京都・海軍兵学寮予科・英国グリニッジ海軍大学校・少佐<二十四歳>・海軍参謀本部・大勲位菊花大綬章・海軍参謀部・大佐<二十八歳>・コルベット「葛城」艦長・巡洋艦「高雄」艦長・横須賀鎮守府海兵団長・防護巡洋艦「松島」艦長・砲術練習所所長・少将<三十四歳>・常備艦隊司令官・遣英大使<女王即位六十年記念式典>・軍令部・中将<三十七歳>・大本営・大将<四十二歳>・軍事参議官・欧州差遣・元帥<五十一歳>・大勲位菊花章頸飾・功三級)。

 伏見宮博恭王(ふしみのみや・ひろやすおう)元帥(東京・海兵一六期退校・ドイツ海軍兵学校・ドイツ海軍大学校・大勲位菊花大綬章・防護巡洋艦「浪速」副長心得・中佐<三十一歳>・防護巡洋艦「浪速」副長・装甲巡洋艦「日進」副長・海軍大学校選科・英国駐在・軍令部・大佐<三十五歳>・一等戦艦「朝日」艦長・巡洋戦艦「伊吹」艦長・海軍大学校選科・少将<三十八歳>・横須賀鎮守府艦隊司令官・海軍大学校校長・第二戦隊司令官・中将<四十一歳>・第二艦隊司令長官・軍事参議官・大将<四十七歳>・佐世保鎮守府司令長官・軍令部長・元帥<五十七歳>・軍令部総長・大勲位菊花章頸飾・功一級)。

 山本権兵衛(やまもと・ごんべえ)大将(鹿児島・海兵二期・一六番・少佐<三十三歳>・防護巡洋艦「浪速」副長・砲艦「天城」艦長・大臣伝令使・海軍次官欧米随行・大佐<三十七歳>・巡洋艦「高雄」艦長・防護巡洋艦「高千穂」艦長・海軍省主事・少将<四十三歳>・軍務局長・中将<四十六歳>・海軍大臣・男爵・大将<五十二歳>・軍事参議官・伯爵・内閣総理大臣・予備役・内閣総理大臣・伯爵・従一位・大勲位菊花章頸飾・フランスレジオンドヌール勲章グランクロア等)。

 財部彪の能力が人より優れていたにしても、これほどの昇進は以上の三人を除いて例がなく、誰が見ても権勢並ぶ者のない山本権兵衛の七光り、依怙贔屓としか考えられない昇進だった。

 このために、海軍部内では、財部を「財部親王」と称し、不快に思う者が少なくなかった。太平洋戦争末期に首相になり、危機一髪のところで日本を救った、鈴木貫太郎も、その一人だった。

 財部より海軍兵学校一期上の鈴木貫太郎は、財部の超特急の昇進を目の当たりにして、さすがに海軍をいやになり、一時は本気で海軍をやめたくなったという。鈴木貫太郎の軍歴は次の通り。

 鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)大将(千葉・海兵一四・十三番・海大一期・少佐<三十一歳>・海軍省軍務局軍事課・陸軍大学校兵学教官・海軍大学校教官・教育本部部員・海軍大学校教官・ドイツ駐在・中佐<三十六歳>・装甲巡洋艦「春日」副長・第二艦隊駆逐隊司令・第四駆逐隊指令・海軍大学校教官・陸軍大学校兵学教官・教育本部部員・大佐<四十歳>・防護巡洋艦「明石」艦長・巡洋艦「宗谷」艦長・海軍水雷学校校長・一等戦艦「敷島」艦長・巡洋戦艦「筑波」艦長・少将<四十六歳>・舞鶴水雷隊司令官・第二艦隊司令官・舞鶴水雷隊司令官・海軍省人事局長・海軍次官・兼軍務局長・中将<五十歳>・練習艦隊司令官・海軍兵学校校長・第二艦隊司令長官・第三艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将<五十六歳>・連合艦隊司令長官・軍令部長・予備役・侍従長・枢密顧問官・男爵・枢密院議長・内閣総理大臣・枢密院議長・男爵・従一位・旭日桐花大綬章・功三級・ロシア帝国神聖アンナ第一等勲章)。



648.山本権兵衛海軍大将(28)兵学校一五期の財部彪中将は、第一二期の二人の中将とともに大将に進級した

2018年08月24日 | 山本権兵衛海軍大将
 財部少将と同期である第一五期の次の二人が中将に進級したのは、やはり四年後の大正六年だった。

 竹下勇(たけした・いさむ)少将(鹿児島・海兵一五期・三番・海大一期・在米大使館附武官・装甲巡洋艦「磐手」副長・大佐・第二艦隊参謀長・防護巡洋艦「須磨」艦長・装甲巡洋艦「出雲」艦長・軍令部第四班長・巡洋戦艦「筑波」艦長・一等戦艦「敷島」艦長・第一艦隊参謀長・少将・軍令部第四班長・軍令部第一班長・第二戦隊司令官・中将・第一特務艦隊司令官・軍令部次長・国連海軍代表・連合艦隊司令長官・大将・呉鎮守府司令長官・正三位・勲一等旭日大綬章)。

 小栗孝三郎(おぐり・こうざぶろう)少将(石川・海兵一五期・五番・海大二期・水雷母艦「韓崎」艦長・大佐・情報艦「鈴谷」艦長・戦艦「香取」艦長・海軍艦政本部第一部長・少将・在英国大使館附武官・海軍省軍務局長・中将・第三艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・大将・正三位・フランス共和国レジオンドヌール勲章グラントフィシェ等)。

 大正八年十一月二十五日、兵学校一五期の財部彪中将は、第一二期の二人の中将とともに大将に進級した。二人の中将は次の通り。

 山屋他人(やまや・たにん)中将(岩手・皇太子妃雅子様<平成三〇年現在>は曾孫になる・海兵一二期・五番・海大将校科二期首席・海軍大学校教官・防護巡洋艦「秋津洲」艦長・大佐・防護巡洋艦「笠置」艦長・第二艦隊参謀長・防護巡洋艦「千歳」艦長・軍令部第二班長兼海軍大学校教官・少将・海軍教育本部第一部長・海軍大学校校長・舞鶴予備艦隊司令官・海軍省人事局長・中将・海軍大学校校長・第一艦隊司令官・第一南遣枝隊司令官・第三戦隊司令官・軍令部次長・第二艦隊司令長官・大将・連合艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・従三位・勲一等旭日大綬章)。

 有馬良橘(ありま・りょうきつ)中将(和歌山・海兵一二期・一六番・防護巡洋艦「音羽」艦長・大佐・防護巡洋艦「笠置」艦長・竹敷要港部参謀長・装甲巡洋艦「磐手」艦長・第二艦隊参謀長・海軍砲術学校校長・少将・軍令部第一班長・第一艦隊司令官・中将・海軍兵学校校長・海軍教育本部長・第三艦隊司令長官・大将・海軍教育本部長・予備役・明治神宮宮司・枢密顧問官・議定官・勲一等旭日桐花大綬章・功三級)。

 ちなみに、兵学校第一三期の次の三中将は、翌年の大正九年八月十六日に大将に進級している。

 黒井悌次郎(くろい・ていじろう)中将(山形・海兵一三期・四番・海大甲号五期・英国駐在・一等戦艦「敷島」副長・佐世保鎮守府参謀・大佐・旅順口工作廠長・在ロシア国公使館附武官・一等戦艦「敷島」艦長・少将・佐世保工廠長・舞鶴艦隊司令官・練習艦隊司令官・中将・横須賀工廠長・馬公警備府司令長官・旅順警備府司令長官・第三艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・大将・正三位・勲一等旭日大綬章・功三級・ロシア帝国神聖アンナ第一等勲章等)。

 野間口兼雄(のまぐち・かねお)中将(鹿児島・海兵一三期・六番・海大選科・海軍大臣秘書官・大佐・防護巡洋艦「高千穂」艦長・装甲巡洋艦「浅間」艦長・軍務局局員・少将・第一艦隊参謀長・佐世保鎮守府参謀長・海軍砲術学校校長・呉鎮守府参謀長・軍務局長・呉工廠長・中将・第六戦隊司令官・海軍兵学校校長・舞鶴鎮守府司令長官・第三艦隊司令長官・大将・海軍教育本部長・横須賀鎮守府司令長官・従二位・勲三等旭日中綬章・功三級)。

 栃内曽次郎(とちない・そじろう)中将(岩手・海兵一三・二十二番・巡洋艦「宮古」艦長・コルベット「武蔵」艦長・大佐・防護巡洋艦「須磨」艦長・在英国大使館附武官・装甲巡洋艦「吾妻」艦長・少将・軍務局長・練習艦隊司令官・大湊警備府司令長官・横須賀工廠長・中将・第二艦隊司令官・第一艦隊司令官・第四戦隊司令官・第三戦隊司令官・海軍技術本部長・海軍次官・大将・連合艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・予備役・貴族院議員・正三位)。

 また、次の三中将は、大正十二年八月三日に大将に進級している。

 兵学校一四期の鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)中将(千葉・海兵一四・一三番・海大一期・海軍大学校教官兼陸軍大学校兵学教官・大佐・防護巡洋艦「明石」艦長・巡洋艦「宗谷」艦長・海軍水雷学校校長・一等戦艦「敷島」艦長・巡洋戦艦「筑波」艦長・少将・舞鶴水雷隊司令官・第二艦隊司令官・海軍省人事局長・海軍次官・中将・練習艦隊司令官・海軍兵学校校長・第二艦隊司令長官・第三艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・連合艦隊司令長官・軍令部長・予備役・侍従長・枢密顧問官・男爵・枢密院議長・内閣総理大臣・枢密院議長・男爵・従一位・旭日桐花大綬章・ロシア帝国神聖アンナ第一等勲章等)。

 財部彪と同期である兵学校一五期の竹下勇中将と小栗孝三郎中将。

647.山本権兵衛海軍大将(27)財部彪大佐は、皇族の如く、特急で昇進を開始した

2018年08月17日 | 山本権兵衛海軍大将
 広瀬大尉は、山本少将の言葉に二言はあるまいと、納得して去った。山本少将は、義の為に権力に立ち向かう男がいることを知った。

 財部彪(たからべ・たけし)大尉(宮崎・海兵一五首席・海大丙号・大佐・軍令部参謀・巡洋艦「宗谷」艦長・戦艦「富士」艦長・第一艦隊参謀長・少将・海軍次官・中将・第三艦隊司令官・旅順警備府司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・佐世保鎮守府司令長官・大将・横須賀鎮守府司令長官・海軍大臣・海軍ロンドン軍縮会議全権・従二位・旭日桐花大綬章・功三級・オーストリア=ハンガリー帝国鉄冠第二等勲章等)は、当時常備艦隊参謀だった。

 財部大尉と広瀬大尉は、明治二十二年四月、山本権兵衛中佐が、巡洋艦「高雄」艦長に任命された直後の頃、江田島の海軍兵学校を卒業した。

 財部大尉は、第一五期八十名中の首席で、広瀬大尉は体を悪くしたせいもあって、六十四番だった。

 山本権兵衛は後に、財部を眼にとめた時の事を、次の様に述べている。

 「我輩が財部を知ったのは、練習艦隊検閲の時だった。候補生の中に、小作りだが、キリッとした元気な奴がいた。左肩が上がっているので、『方はどうしたのか?』と聞いてみると、『親ゆずりでごわす』と言った。それが財部だった」。

 山本権兵衛は、さらに財部の身上を詳細に調べ、その後の勤務ぶり、素行などを見て、明治二十九年の末頃、縁談を進めたと思われる。

 財部彪はこの婚約について、次の様に述べている。

 「前に『高千穂』の航海士をしていた時、山本艦長に数か月仕えた(明治二十三年、四年の頃)が、それだけだった」。

 「軍務局長と私では身分が違うし、権勢につくのはよくないので、辞退しようと考えた。広瀬もそうだと言って奔走してくれた。しかし、親類縁者や家郷(宮崎県都城)の古老のとり裁きによって、縁談を受けることにした」。

 明治三十年五月十五日、三十歳の財部彪大尉と十七歳の山本いねの結婚式が、行われた。

 媒酌人は、財部の故郷の先輩、参謀本部第四部長・上原勇作(うえはら・ゆうさく)陸軍中佐(宮崎県都城・陸士旧三期・工兵大佐・参謀本部第三部長・少将・陸軍砲工学校長・第四軍参謀長・工兵監・中将・男爵・第七師団長・第一四師団長・陸軍大臣・第三師団長・教育総監・大将・参謀総長・子爵・元帥・議定官・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・フランスレジオンドヌール勲章グランクロワ等)夫妻だった。

 さて、山本権兵衛は、広瀬武夫大尉に、「俺は財部を特別扱いにはせん」と男の約束をした。

 ころが、広瀬少佐は、日露戦争中の明治三十七年三月二十七日、旅順港閉塞隊指揮官として、壮烈な戦死を遂げた。

 当時すでに中佐だった財部彪は、翌年の明治三十八年一月、大佐に進級した。三十八歳だった。

 さらに、明治三十八年九月、日露戦争が終わると、当時、軍令部参謀であった財部彪大佐は、皇族の如く、特急で昇進を開始したのである。

 明治四十二年十二月には、財部彪大佐は、海軍兵学校で二、三期上の先任者(同階級でも上位の優秀者)と同時に少将に進級した。四十二歳だった。同期の一五期の少将進級は、それから四年後だった。

 大正二年十二月には、財部少将より二期上である、第一三期の次の二人の少将を追い越して、中将に進級した。

 黒井悌次郎(くろい・ていじろう)少将(山形・海兵一三期・四番・海大甲号学生五期・英国駐在・一等戦艦「敷島」副長・大佐・在ロシア国公使館附武官・一等戦艦「敷島」艦長・少将・舞鶴艦隊司令官・練習艦隊司令官・中将・横須賀工廠長・馬公警備府司令長官・旅順警備府司令長官・第三艦隊司令長官・舞鶴鎮守府司令長官・大将・正三位・勲一等旭日大綬章・功三級・ロシア帝国神聖アンナ第一等勲章等)。

 栃内曽次郎(とちない・そじろう)少将(岩手・海兵一三期・二二番・巡洋艦「宮古」艦長・コルベット「武蔵」艦長・大佐・防護巡洋艦「須磨」艦長・在英国大使館附武官・装甲巡洋艦「吾妻」艦長・少将・軍務局長・練習艦隊司令官・大湊警備府司令長官・横須賀工廠長・中将・第二艦隊司令官・第一艦隊司令官・第四戦隊司令官・第三戦隊司令官・海軍技術本部長・海軍次官・大将・連合艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・貴族院議員・正三位)。







646.山本権兵衛海軍大将(26)今度は、山縣陸軍大将は苦虫を噛むような顔で聴き入っていた

2018年08月10日 | 山本権兵衛海軍大将
 そこで、山本大佐は、日頃考えているところの大筋を、あれやこれやと打ち明けた。見ると、今度は、山縣陸軍大将は苦虫を噛むような顔で聴き入っていた。一段落すると、山縣陸軍大将は、次の様に問うた。

 「このごろ、貴下が海軍本省に在って種々の改革を企て、何か術策を弄して事を誤る恐れがあると、何某からしきりに告げてきている。また、新聞などにも色々風説が出ているようである。もとより一方的な意見では判断のしようもないが、このことについてはどう思うか」。

 山本大佐は、このような非難攻撃にも、見にやましいところさえ無ければ、いちいち釈明する必要はないと思っていたので、次の様に答えた。

 「自分は何もやましいところがないから、一身上の蔭口などは少しも意に介せず、捨て置いてきた。しかし、何某らが貴下にまで告げ来たったとは、初めて聞くことではあり、このため海軍諸般の改革まで影響を及ぼすようなことがあっては遺憾なので、自分の真に意のあるところを申し上げる」。

 続いて、山本大佐は、それらの山縣陸軍大将の耳に届いている風評に、一つ一つ反証を挙げて説明をした。

 山縣陸軍大将は、大きくうなずいて、「よく事の真相は分かった。では、今回改革しようとする制度の大要を、ここで聞かせてもらえないか」と言った。

 山本大佐は、五年前、欧米各国視察の時調査した列国海軍制度の状態から、進んで現下の情勢に及び、我が国の将来に対する国防の大計からみて今回断行すべき海軍制度改革諸案の綱領を説明、この成案を得るまでは数か月の研究調査がなされていることを、述べた。

 じっくり聞いていた、山縣陸軍大将は、「諒解した。あんたなら海軍整理はやれるだろう」と言った。

 この会談後、枢密院議長・山縣陸軍大将は、内閣に出て、各大臣に次の様に語ったと言われている。

 「自分は、山縣権兵衛の人となりについて、これまで巷間に伝えられている話や人々の情報を聞き、実は大いに疑惑を抱いていた。大奸物なのではないかと想像していたのだが、今回親しく会見して色々語り合い、よく観察したところ、自分の疑惑は氷解し、世間の風評も全く根拠がないことを悟って、案に相違の感があった」

 「また識見力量にも富み、幾多の経験を有することが想見される。自分はこの会見により、かねて同氏に対する予の抱懐せる暗雲を釈然一掃することができ、大いに満足した」。

 山本大佐について、よく知らなかった閣僚も、この山縣陸軍大将の言明を聞いて、その人格の概要を知った。

 明治二十八年三月八日、山本権兵衛大佐は少将に進級し、海軍省軍務局長に就任した。

 明治三十年一月のある夜、砲艦「磐城」航海長である青年士官が、海軍省軍務局長・山本権兵衛少将の自宅に、突然現れた。

 彼は、広瀬武夫(ひろせ・たけお)大尉(鹿児島・一五期・六四番・コルベット「比叡」で遠洋航海・少尉・測量艦「海門」甲板士官・日清戦争・大尉・ロシア留学・ロシア駐在武官・少佐・日露戦争で戦死・中佐・従六位・軍神)と名乗った。

 身長一七〇センチ、筋骨隆々とした、ごつい髭面の男だった。何事かと、いぶかる山本権兵衛少将の鋭い眼を直視しながら、広瀬大尉は次の様に言った。

 「私は財部彪と同期(海軍兵学校一五期)です。財部は閣下のお嬢さんとの婚約について、権勢につくのはよくない、と悩んでおります。あいつは自力でも必ず大成する男です」

 「それが閣下の女婿になれば、たとえ自力で昇進しても、七光りのせいだと言われます。そうなれば、我々同期の者も残念至極です。どうか、この縁談は破談にしてください。お願いします」。

 広瀬大尉の態度は真摯で、情理もあった。山本少将も、怒鳴りつけるわけにもいかなかった。しかし、長女いねの、またと無い良縁を放棄することもできなかった。山本少将は気を落ち着けて、次の様に答えた。

 「その心配は無用だ。この縁談がまとまっても、俺は財部を特別扱いにはせん。世間の噂など気にするな。しかし、君の心配ももっともだ。この問題は財部自身の気持ちをよく聞いた上で善処しよう」。






645.山本権兵衛海軍大将(25)山本大佐は、山縣陸軍大将に会うことにした。まさに「乗り込んで行く」意気込みだった

2018年08月03日 | 山本権兵衛海軍大将
 自分はこのような功績をおさめているのに、なぜ辞めなければならないのか、という個人的な理由を上げる者もあれば、かように有能な者を多数辞めさせることは、国策を危うくするという者まであり、あるいは背面で、あるいは口頭で、強硬に詰め寄ってきた。

 また、「海軍省主事の山本権兵衛は、我が物顔にふるまっておる」そういう世評も強まってきた。次のような声も上がった。

 「山本主事は横暴である」「ロシアも清国も海軍拡張に血道を上げておるのに、山本主事は日本海軍の屋台骨を削ろうとしておる。時代逆行もはなはだしい」。

 そんなある日、西郷従道海相から、「山縣さんが会いたいと言っておるが、どうするかね」と海軍省主事・山本権兵衛大佐に打診があった。

 当時、伯爵・山縣有朋(やまがた・ありとも)陸軍大将(山口・奇兵隊総管・戊辰戦争・維新後陸軍大輔・中将・陸軍卿・近衛都督・西南の役・征討参軍・陸軍卿・参謀本部長・伯爵・内務大臣・農商務大臣・内閣総理大臣・大将・司法大臣・枢密院議長・日清戦争・第一軍司令官・監軍・陸軍大臣・侯爵・元帥・内閣総理大臣・参謀総長・枢密院議長・公爵・枢密顧問官・枢密院議長・公爵・従一位・菊花章頸飾・功一級・フランスレジオンドヌール勲章グランクロア等)は軍部、政官界に人脈を築き、山縣閥を形成していた。

 山縣陸軍大将は伊藤博文とならぶ長州閥の超大物で、三代目の内閣総理大臣を経験していた。ちなみに、日本国初代内閣総理大臣と二代内閣総理大臣は次の通り。

 初代・伊藤博文(いとうひろふみ・山口・英国留学・維新後外国事務局判事・初代兵庫県知事・初代工部卿・宮内卿・岩倉使節団副使・内務卿・憲法調査で渡欧・初代内閣総理大臣・初代枢密院議長・内閣総理大臣<二次>・内閣総理大臣<三次>・貴族院議長・初代韓国統監・安重根により暗殺される・公爵・従一位・菊花章頸飾・大英帝国バス勲章勲一等など)。
 
 二代・黒田清隆(くろだ・きよたか・鹿児島・薩英戦争・戊辰戦争・維新後開拓次官・欧米旅行・開拓使長官・陸軍中将・北海道屯田憲兵事務総理・全権弁理大臣として日朝修好条規締結・西南戦争で征討参軍・開拓長官・内閣顧問・農商務大臣・第二代内閣総理大臣・枢密顧問官・逓信大臣・枢密院議長・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・ロシア帝国白鷲勲章など)。

 当時、山縣陸軍大将は枢密院議長で、海軍整理取調委員長でもあった。山本大佐の直接の上司ではないが、内閣において海軍整理を担当する最高責任者だった。

 山本大佐は、山縣陸軍大将に会うことにした。まさに「乗り込んで行く」意気込みだった。山縣陸軍大将は、気軽に訪問できる相手ではなかったのだ。

 山本権兵衛大佐が、目白の枢密院議長・山縣陸軍大将の自宅を訪ねると、山本大佐が挨拶するのを待ちかねたというように、山縣陸軍大将は「官位や身分をはぎとり、ただの山本権兵衛と山縣有朋の対面、そういうことでゆこうと思うが、どうかな?」と、勇ましく切り込んできた。

 山本大佐は、『痩身で眼光は鋭い。だが、背中のあたりに弱気の部分があるのを隠そうとして虚勢をはっている』と、山縣陸軍大将の印象を受けた。

 「結構ですな」と山本大佐が返答すると、山縣陸軍大将は「国防とは何か、日本の国防はいかにあるべきか……ご意見をうかがおう」と言った。

 ここは高飛車に出るのがよかろうと、山本大佐は、咄嗟に判断した。相手が“聴く耳で構えている”のだから、こちらとしては、“聞かせてやる口”で対応すべきだと思った。

 つまらぬ謙遜をして機嫌を損ねるのは得策ではない。とはいえ、さすがに経歴と身分の差は越えられないので、山本大佐は、次の様に下手に出た。

 「維新の時、閣下は参謀として一方の軍を指揮なされ、私は小銃を担いで従軍しました。それを思い出せば、今ここで閣下を相手に軍事を談ずるに躊躇せざるを得ないところが無いとは……」。

 以上のように、とりあえず、謙遜をしておき、山本大佐は、山縣陸軍大将に口を挟む暇を与えずに、一気に次の様にまくしたてた。
 
「維新のあとは兵学校で最新の軍事学を研鑽した上で、欧米各国の海軍事情の視察に相当の経験を積みました。閣下のお相手を務めるに足る、いささかの知識と抱負は持ち合わせているつもりであります」。

 ふむふむと、穏やかな表情で山縣陸軍大将は聴き入っていた。高い身分にかかわらず、他者の意見には謙虚に耳を傾ける人物……そういう評判に包まれたいのが、山縣陸軍大将の欲なのだと山本大佐は判断した。