陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

449.乃木希典陸軍大将(29)陸軍の部内がこのように腐敗していてはだめだ

2014年10月31日 | 乃木希典陸軍大将
 杉浦少佐は結局、嫌疑だけで罪にはならなかった。ほかの関係各師団でも戦争で功労を立ててきた者たちであるから、多少の事はあっても大目に見ようという態度であって、忌まわしい事件で彼らの将来を失わしめることのないように努力して事件は大きく発展しなかった。

 丸亀の第一二連隊長・斎藤徳明大佐は、杉浦少佐を弁明して、「嫌疑を受けたとはいっても、有罪になったのではありませんから、師団長が引責辞任されては、彼の罪を認めたという印象を世間に与えます。是非思いとどまってください」と乃木師団長に進言した。

 しかし乃木師団長は聞き入れなかった。「有罪になったとか、ならなかったということではない。軍人は嫌疑を受けたという事で責任を感じなければいけない。しかしお前が言うように、私が辞職をしたことで部下の有罪を認めたという印象を世間に与えるというのが面白くないというのなら、私は病気のためということで辞職しよう」と乃木師団長は答えた。

 乃木師団長は、表向きの理由は、リュウマチスで起居不自由につき、として辞表を提出した。しかしこのことはよく中央でもわかっているのでなかなか聴許がおりなかった。やむを得ず、乃木師団長は湯治湯に行って一か月半も司令部に顔を出さなかった。

 
 こうなっては軍上層部としても乃木師団長の依願免職を認めないわけにはいかなかった。こうして休職となって乃木中将は四度、野に下った。

 乃木中将は自分のものとなった時間を那須野に行って耕作をしたり、土地の人たちと地酒を酌み交わしたり、東京にあっては読書に日を送り、又旅行に出かけたり、戦死したかつての部下の墓標を書いたりして、穏やかな生活を続けていた。

 しかし陸軍部内では、乃木中将を知っている者も少なくなかった。乃木中将のような清廉潔白な勇将をこんなことで腐らしてしまってはならないという声が起こっていた。

 明治三十五年に陸軍大臣となった寺内正毅(てらうち・まさたけ)大将(山口・戊辰戦争・西南戦争・フランス留学兼駐在武官・陸軍士官学校長・日清戦争で運輸通信長官・第一師団参謀長・参謀本部第一局長・教育総監・参謀次長・陸軍大臣・大将・子爵・第三代韓国統監・朝鮮総督・伯爵・元帥・首相・功一級金鵄勲章・レジオンドヌール勲章オフィシェ)は、乃木中将と同じ長州藩出身だった。

 寺内大将は乃木中将の隠栖(いんせい)を最も惜しむ一人だった。そこで乃木中将を官邸に呼んで再び現役に戻れと数時間に渡って説得した。

 しかし頑固な乃木中将は首をたてにふらなかった。乃木中将の言い分は、「陸軍の部内がこのように腐敗していてはだめだ。断固たる廓清ができない間は戻らない」と、かえって粛軍することを強く要望した。

 乃木中将の最後の休職期間は二年九か月だった。乃木中将が現役に復帰したのは日露戦争が勃発したからであった。

 日露戦争が、迫っていた。陸軍では近衛第一二師団をもって一軍を編成し、黒木為(くろき・ためとも)大将(鹿児島・戊辰戦争・広島鎮台第一二連隊長・西南戦争・大佐・近衛歩兵第二連隊長・参謀本部管東局長・少将・近衛歩兵第二旅団長・中将・第六師団長・日清戦争・男爵・近衛師団長・西部都督・大将・日露戦争で第一軍司令官・伯爵・枢密顧問官・功一級金鵄勲章)が軍司令官となった。
 

 近衛師団が動員下令で出征が決まったので、乃木中将は留守近衛師団長として復職したのである。日本が国運をかけて大国ロシアと戦うというときである。この時乃木中将は五十五歳だった。

 明治三十七年二月八日旅順港のロシア旅順艦隊に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃で日露戦争は開戦した。この攻撃でロシアの艦艇数隻に損害を与えたが、大きな戦果はなかった。

 五月二日、乃木希典中将は第三軍司令官に任命された。そして、六月六日乃木中将は陸軍大将に昇進した。

 六月二十二日、第三軍司令官・乃木大将は、まず第一一師団を進めて、剣山、歪頭山を陥落させた。七月三日、敵の必死の逆襲を退け、営城子、偏石柳子付近、大白山付近を占領した。そして七月三十日には、はやくも敵の旅順第二防御線である大狐山東方の高地一帯も占領した。

 八月に入ると、八月七日、八日、九日の三日間の戦いで、大狐山、小狐山の要害が陥落した。十四日には干大山から北東溝北方高地、随家屯西方高地に渡る戦域を占領した。十五日には爺盤南方、小東満東北高地を陥落させた。これにより第三防御陣地も突破した。

 こうなると、旅順は目の前であった。旅順は裸にされたも同然だった。日本軍は旅順何するものかとの自信を大いに強くした。乃木大将も攻略に自信を持っていた。

448.乃木希典陸軍大将(28)曾根長官が桂大臣に働きかけて乃木中将の首を切った

2014年10月24日 | 乃木希典陸軍大将
 乃木中将は、桂太郎陸軍大臣に会って、桂大臣とともに伊藤博文(いとう・ひろふみ)首相(山口県光市・松下村塾・英国留学・討幕運動に参加・初代兵庫県知事・初代工部卿、宮内卿等明治政府の要職を歴任・初代・第五代・第七代・第十代の内閣総理大臣・初代枢密院議長・初代貴族院議長・日露戦争・初代韓国統監・ハルピン駅で暗殺される・従一位・大勲位・公爵)と会見した。

 そのあと、乃木中将は井上馨(いのうえ・かおる)蔵相(山口県山口市・藩校明倫館・英国留学・・討幕運動に参加・大蔵大補・外務卿・外務大臣・農商務大臣・内務大臣・大蔵大臣を歴任・三井財閥最高顧問・従一位・菊花章頸飾・侯爵)とも会見した。

 その会議に曾根長官も加わって長時間の密議が行われた。どういう話し合いがなされたのか、そのことは伝わっていない。だが、その翌日、乃木中将の台湾総督の依願免職が発令され、乃木中将は台湾には帰らず、そのまま休職となった。

 したがって乃木中将を知る人たち、台湾の事情に明るい人たちは、乃木中将が曾根長官に一服盛られたのだと噂した。桂大臣と曾根長官とは台湾時代からの相棒だったから、その線から曾根長官が桂大臣に働きかけて乃木中将の首を切ったとも言われたが、おそらく当たらずといえども遠からずの噂だった。

 乃木中将の台湾統治に対する見解は、次のようなものだった。

 「台湾の治績をあげるには、大いに官吏を精選してよいものを集めなければいけない。しかも日本から派遣する人員をできるだけ少なくして、小遣いとか給仕とか、下級官吏はなるべく台湾人を登用すべきである」

 「台湾に来ている日本の官吏は手当てが良いから贅沢をしているが、彼らの行動を見ると、台湾に赴任してきているのは贅沢をしたいためであって、本気で台湾のためになろうとか、骨を埋めるつもりで来ている者がない」

 「腰掛のつもりできているのだから真剣でない。したがって台湾の人民に対しても親切な情けを持っていない。こんなことでどうして新領土の民心を治めることができよう。粗末な大和魂なら台湾人の利欲心にも及ばない」。

 乃木中将は、当然この秘密会議で桂大臣に対して自分のこの考えを表明したであろうし、桂大臣の政治的な意見について乃木中将は耳を貸さなかったに違いない。そうした意見の衝突から休職が発令されたのであろうが、あるいは乃木中将の方から腹を立てて辞めさせてくれと言い出したのかも知れない。

 乃木中将が台湾総督を追われたので、児玉源太郎中将が責任を負って新総督として就任した。当時、児玉中将は第三師団長だった。児玉中将は乃木中将と違って政治的手腕もあり、智謀者であったから、曾根長官なんかに一服盛られるような下手なことはしなかった。彼は台湾総督に就任すると、すぐに曾根長官の首を切った。

 そして、後任長官に後藤新平(ごとう・しんぺい・岩手・福島洋学校・須賀川医学校・愛知県医学校勤務医・同学校長兼病院長・内務省衛生局・ドイツ留学・医学博士・内務省衛生局長・相馬事件で収監・臨時陸軍検疫部事務長官・台湾総督府民政局長・民政長官・南満州鉄道初代総裁・拓殖大学学長・初代内閣鉄道院総裁・内務大臣・外務大臣・東京市長・内務大臣・東京放送局初代総裁・貴族院勅選議員・勲一等旭日桐花大綬章・伯爵)をもってきた。乃木中将の敵を討ったのである。

 台湾総督を辞任して、休職していた乃木中将は、明治三十一年十月三日、香川県善通寺に新設された第一一師団長として復職した。師団長在任中の明治三十三年、清国に暴動が発生した。義和団事件とも呼ばれているが、北清事変である。

 このとき、乃木中将の第一一師団隷下の丸亀連隊からも杉浦少佐の指揮する第三大隊が派遣され、第五師団長・山口素臣(やまぐち・もとおみ)中将(山口・大阪陸軍教導団・二五歳で陸軍軍曹となりすぐに陸軍少尉・中尉・大尉に昇進・二十七歳で陸軍少佐・歩兵第七連隊長・三十五歳で大佐・東京鎮台参謀長・近衛参謀長・少将・歩兵第一〇旅団長・歩兵第三旅団長・男爵・中将・第五師団長・北清事変で勲一等旭日大綬章・功二級金鵄勲章・大将・子爵)の隷下に入って参戦した。

 事変が平定して、翌年の明治三十四年、原隊に復帰してから馬蹄銀事件という汚職事件が明るみに出た。第五師団を中心とする出征部隊が、馬蹄銀という清国の銀貨を不法にぶんどって持ち帰ったという事件だった。

 だんだんと取り調べが進んでいくうちに丸亀連隊も多少やっていたらしいという噂が流れだした。潔癖な乃木中将は、師団長としてそう聞いて黙ってはおられなかった。早速、自ら出向いて丸亀連隊を徹底的に調査した。すると、ある古寺の床下に埋められてあった馬蹄銀六万両が発見された。

 乃木中将は「かような不名誉なことを部下がしでかしたのは、師団長として自分の指導に欠陥があったからである。陛下に対し奉っても、国民に対しても申し訳がないから辞職する」と言い出した。

447.乃木希典陸軍大将(27)乃木中将が台湾総督として赴任したのは、確かに失敗だった

2014年10月17日 | 乃木希典陸軍大将
 さて、桂中将が突然辞任したので、乃木希典中将が総督に性格的に向くとか向かんとかいうのは第二の問題で、とにかく台湾総督の椅子を空っぽにしておくわけにはいかなかった。

 そこで、陸軍の中央部は、乃木に白羽の矢をたてた。理由は簡単だった。乃木中将はかつて、台湾討伐(明治二十八年六月)をしているからで、乃木中将なら睨みがきくだろうということだった。

 「伊藤痴遊全集第五巻・乃木希典」(伊藤仁太郎・平凡社)によると、桂中将が台湾総督を辞職して、間もなく、乃木中将は政府の命により、東京へ出てきた。

 その夜、親友の児玉源太郎少将(被服装具陣具及携帯糧食改良審査委員長・男爵)が訪ねてきて、「台湾総督として、君を推挙するつもりであるから、是非、承知してくれ」と言って相談を持ち掛けた。

 乃木中将はしきりに辞退して、「そういう事は、俺の適任でないから、平に断る。俺は、一生を、単純な軍人生活で、終わるつもりだ」と、固く断った。

 だが、児玉少将は「台湾の前途は、なかなか重大で、その経営の上についても、苦心があるのに、土匪の征討が、容易ではない。君のような者に行ってもらわなければ、これを成し遂げることは難しい。是非、行ってくれ。新領土としての経営の上には、民政長官というものが、別にあるのだから、そうひどく君に、心配をかける訳もなかろう。兎に角承知してもらいたい」と言って、色々説きつけた。

 このような押し問答が度々、重ねられ、また、各方面からも、しきりに勧められるので、遂に乃木中将も、承知して、台湾総督を引き受けてしまった。

 明治二十九年十月十四日、乃木希典中将は台湾総督に任じられた。ちなみに、この日に、児玉源太郎は陸軍中将に昇進し、臨時政務調査委員長に就任している。乃木中将は四十六歳、児玉中将は四十四歳だった。

 乃木中将が台湾総督として赴任したのは、確かに失敗だった。乃木の気質は、自分が引き受けてしまえば、誠実にそれを勤めて、己の力の続く限り真面目にやる。それで力が及ばなければ、己の罪である。職を辞めるなり、腹を切るなりする、というものだった。だから、政治的柔軟性が全くなかったのである。

 乃木中将は、明治二十九年十一月、家族とともに、台湾に赴任し、総督府官邸に入った。ところが、当初から、この官邸でも、乃木中将は、桂中将をにがにがしく思ったのである。総督官邸は二つあった。一つは最初から建てられている粗末な洋式の家だった。

 もう一つは、桂中将がこんなところに住めるかと言って、新築させたという日本式の立派な屋敷だった。乃木中将は桂中将のやり方を憤慨した。乃木中将は台湾統治について次のような考え方を持っていた。

 「植民地の政治は、そこに住む人々の心をまず、なごませることから始めなければならない。台湾に住む住民たちは、まだ日本人ではないのだ。新日本領土となって、表向きは日本国民になったとはいえ、本当は支那人ではないか。だから日本人に対するようにはいかない」

 「彼らは急に変わった環境から日本人に不安と不満を抱いているに違いない。統治する者としては、全ての行動に慎み、質素で公正、清廉潔白でなければならない。勝った者が負けた者を支配するというようなおごりがあってはならない」。

 乃木中将は、今後、台湾総督として、以上のような方針でやっていこうと考えた。当時、台湾にきていた公吏は給与やその他の待遇は内地の官吏に比べてはるかに良かったので、彼らは分に過ぎた贅沢な生活をしていた。

 乃木中将は総督として、まず、その悪習から改めにかかった。また、賄賂を取る習慣もついていた。乃木中将は贈り物を取ることを一切拒否し、またそうすることを禁止した。こうしたことから、乃木中将に対する反感が起こった。

 台湾の官吏の中で総督・乃木中将排撃の急先鋒になったのは、民政府長官である曾根静夫(そね・しずお・千葉・北条県<現・岡山県東北部>十五等出仕・内務省地租改正事務局・鹿児島県一等属・租税課長・農商務省・大蔵省主計局総予算決算課長・大蔵省国債局長・拓殖務省北部局長・台湾総督府民政局長<民政府長官>・同財務局長・山形県知事・北海道拓殖銀行初代頭取)だった。

 曾根民政府長官は乃木中将に対して、ことごとく反対する態度をとった。曾根長官は桂太郎と同腹の人間だった。曾根長官は中央政府に対して、色々と乃木中将の中傷を続けた。その遠距離射撃がきいたのか、乃木中将は突然に急ぎ上京せよとの電報を受け取った。

 この時、乃木中将の母、寿子はマラリヤにかかり、急に容態が悪化して、すでに世を去っていた。乃木中将が上京する時、曾根長官も同行した。曾根長官には上京の命令が出ていないから、行く理由はなかったが、彼は当然のことのような顔をして上京した。

 当時、内閣は第三次伊藤内閣になっていて、桂中将は、八方手を回して運動し、望み通り、陸軍大臣の椅子に座っていたのである。

446.乃木希典陸軍大将(26)桂師団長は悲鳴をあげ、乃木少将の混成旅団に助けられた

2014年10月10日 | 乃木希典陸軍大将
 園遊会で、仙台にあるだけの芸者を集めて、それに酒の酌をさせたり、色々な余興をやらしたりして、これを第一の御馳走として、乃木中将に喜んで貰おう、としたのであるが、それが、乃木中将の気に入らない、というのだから、そうなってみると、園遊会の組織を、根本から改めなければならぬ事になるのだ。

 一同は別室に下がって、相談をした。話がまとまり、一同は、乃木中将のところへ行った。

 市長「エー、甚だ恐れ入りまするが、唯今になりまして、閣下が、御欠席という事になりますと、発起人一同が、世間に会わす顔も、無いような訳で、まことに困りまするから、是非、御列席を、願いたいので御座いまして、それに就いては、唯今までの方法を、ことごとく改めまして、必ず閣下の思召しに、適うように致しますゆえ、是非、御出席を願いたいもので御座いますが、如何なものでございましょうか」。

 乃木中将「イヤ、今に至って、そういう事をされては、却って、わしの方が困る。園遊会は、最初の計画通りやって宜しいから、乃木は病気で出ない、と言うて呉れれば、貴下等にも、不都合な事は無かろう、と思う故、このまま、会の方はやって貰いたいものだ」。

 市長「それでは、我々の心が許しませぬから、是非、御出席を願いたいものです」。

 乃木中将は、様々に言って、断ったが、中々一同は承知をしなかった。乃木中将は言うだけの事を言ってしまえば、将来の戒めにもなるのであるから、もうこれぐらいでよかろう、と考えて、遂に出席を諾した。

 園遊会に、乃木中将が出席してみると、芸者は、少しはいたが、一切の趣向は一変していた。殆どの接待役は、県庁または市役所の役人が行っていて、来賓をもてなしていた。乃木中将は非常に喜んで、閉会までゆっくりと居た。それで発起人達も安心して、無事に園遊会を終えることができた。

 明治二十九年十月十四日、乃木希典中将は、仙台の第二師団長から突然、台湾総督に任じられた。乃木中将が、台湾総督に任じられた仔細は、「乃木希典」(戸川幸夫・人物往来社)によると、次のようなものであった。

 明治二十九年六月、初代の台湾総督であった、樺山資紀(かばやま・すけのり)海軍大将(鹿児島・陸軍少佐・台湾出兵・西南戦争・熊本鎮台参謀長・警視総監・陸軍少将・海軍に転官・海軍大輔・海軍次官・海軍軍令部長・海軍大将・初代台湾総督・枢密院顧問・内務大臣・文部大臣・従一位・大勲位・功二級・伯爵)から、台湾総督が第三師団長だった桂太郎中将に移った。

 当時、桂太郎中将は武人としては、すでに落第点がつけられていた。日清戦争の海城の戦い(明治二十七年十二月~明治二十八年二月)では第三師団は苦戦し、桂師団長は悲鳴をあげ、乃木少将の混成旅団に助けられた。

 桂中将は将軍としては駄目だということになっていた。しかし、彼の政治的素質はすでに誰もが認めていた。桂中将自身も、将来軍人としてではなく、政治的に動こうとする強い野心を持っていた。だから、上層部は、桂中将の政治的手腕によって新領土となった台湾の統治をうまくやらせようとしたのである。

 桂中将が本気で台湾統治をやったら、必ずそこに成果が上がったに違いないが、なにしろ中央に野心を持っている桂中将は、植民地なんかにじっくり腰を落ち着けて仕事をする気などなかった。あくまで台湾総督は、桂中将にとっては腰かけであったのだから、絶えず中央に戻る機会をねらっていた。

 桂中将が台湾総督の椅子に座って三か月もたたない、明治二十九年九月十八日、第二次伊藤内閣が倒れて、後継内閣の首班に松方正義がきまった。この時、山縣有朋はすでに陸軍の長州閥大長老になっていた。

 そこで、山縣は松方内閣の陸軍大臣に、自分の子分である桂太郎中将を推薦した。これは桂中将からの働きかけがあったのではないかと言われている。

 台湾総督としてまだ席もあたたまらない桂中将を、山縣が一存で呼び戻すとは考えられないからである。山縣から言われて、松方も仕方なく内諾をした。話がほぼ決まったというので、桂中将は待望の陸軍大臣の椅子に座れると有頂天になっていた。

 ところが、この人事に薩摩閥から横やりが入った。長州の思い通りにはさせぬぞというわけである。

 すったもんだの末、とうとう高島鞆之助(たかしま・とものすけ)陸軍中将(鹿児島・薩摩藩藩校「造士館」卒・戊辰戦争従軍・陸軍大佐・西南戦争に第一旅団司令長官として出征・中将・子爵・勲一等旭日大綬章・大阪鎮台司令官・陸軍大臣・枢密顧問官・台湾副総督・拓殖務大臣・陸軍大臣・枢密顧問官・勲一等旭日桐花大綬章)が拓殖大臣の椅子と一緒に陸軍大臣も兼務するということになってしまった。

 この話を聞いて、桂中将は大憤慨をし、あてつけに台湾総督を辞めてしまった。内閣が代わってごたごたしている時であった。ちなみに、桂中将は、明治三十一年一月十二日組閣の第三次伊藤博文内閣で陸軍大臣になっている(五十歳)。それまでは、東京防御総督の職にいた。

445.乃木希典陸軍大将(25)、そういう風に、考えが違うのじゃから、ツイ行けぬ事にもなるのじゃ

2014年10月03日 | 乃木希典陸軍大将
 乃木中将は出てくると、「ヤア、何か御用ですか」と言った。今日、呼ばれていて、今、断って来た人のようでもなく、園遊会のことはもう忘れているような顔付きで「何か用ですか」とは、ずいぶん厳しい聞きようだった。だが、相手が相手だけに、一同謹んで、態度を見ていると、やがて、市長が席を進んで、次のように申し出た。

 「ちょっと、お伺いしたいのですが、今日の園遊会へ、御出席が無い、というお知らせを承って、一同、驚きの余り、斯く打ち揃って参ったのでありますが、全体、どういう御都合で、御欠席に、なるので御座いますか、それを承りたいと、存じまする」。

 
 すると、乃木中将は、「イヤ、そう深い仔細は無いが、何となく、行くのが厭になったから、それで、御断りするのじゃ」と答えた。艶も無ければ、飾りも無い。思ったままの答えには違いないが、厭になったから断るとは、益々猛烈な断りようだった。それから、市長と乃木中将の間で、次のようなやり取りが行われた。

 市長「併し、その御厭に、御成り遊ばした、というに就いては、何か、仔細がなければなるまい、と考えます。どうせ、我々の計画した事で御座いますから、御気に召さぬ事は、沢山に御座いましょうが、発起人一同の苦衷は、御諒察を願いたく、また、県の有力者が、殆ど十里二十里の遠きを、厭わずに集まって来る、という、これ等の者に対しても、此の儘、将軍が、御欠席になる、という事があっては、来会者の失望は勿論、発起人の顔も立ちませぬので、何とか、御心を直して、御出席を願いたいので御座いますが、それに就いては、どういう点が、御気に召さなかったのか、それを御明かし下さいますれば、悪い点は改めて、御出席を願う事に致しましょう」。

 乃木中将「そう心配を掛けては、まことに相済まぬが、何となく、厭になったものじゃから、それで、断りを言うたのじゃ。集まられた一同に対しては、更に我輩から、御挨拶の書簡は、出しても差し支えないから、どうか、勘弁して貰いたい」。

 市長「それまでに仰せられるほど、御厭とありましては、猶更、どういう点が悪い、という事を、仰せを願いたいのです」。

 乃木中将「イヤ、別に悪い、という事はない。世間一般、そういう事に、なっているのじゃから、わしが一人で、嫌いじゃからと、言うたところで、致し方もないのじゃ。いっそ、参らぬが一番よい、と考えて、断ったのじゃから、そこは、よく察して貰いたい。併し、諸君の御好意に対しては、飽く迄も感謝する次第である」。

 市長「へー、そう致しますると、何か、今日の計画の中に、御気に召さぬところがあって、それが為に、御欠席というように聞き取られますが、左様で御座りますか」。

 乃木中将「ウム、実は、その通りじゃ」。

 市長「それを、承りたいのです。どういう点が、御気に召さなかったのですか」。

 乃木中将「我輩も、そう言われると、言わなけりゃならぬが……」。

 そう言いながら、乃木中将は、しばらく考えていたが、やがて独りうなずいて、次のように言った。

 乃木中将「よし、それじゃ、いっそ、言うてしまおう」。

 市長「ハイ、どうぞ、御聞かせください」。

 乃木中将「こういう訳じゃ。今朝、案内状を開いて見ると、催し事のプログラムが、出てきた。それを読んで見ると、今日の歓待は、実に至れり尽くせりで、我々如き者が、たまたま、赴任して来たから、というて、これまでの事をなさらずとも、と思う程に、立派な園遊会の仕組みに、なっているようじゃが、併し、その歓待の眼目が、芸者の接待に、在るように思われた。そうして見ると、わしとしては、一寸行けぬ事になる」。

 市長「ハハー、それが、何で悪いので御座いますか」。

 乃木中将「さア、そういう風に、考えが違うのじゃから、ツイ行けぬ事にもなるのじゃ。わしは、山口県人の、乃木希典として行くのではない。又それならば、君方も、これまでに我等を、歓待して呉れる次第もまかろう。我輩が、招ばれて行くのは、第二師団長として行くのであるから、軍人を迎えるような方法がいくらもあろうと思う。芸者の御馳走が、唯一の眼目に、なっている会では、どうも軍人として、一寸行く事が出来ぬじゃないか。もっとも、これは、わし一人の考えであって、折角、世間で流行っているのに、わし一人が嫌いじゃから、というて、他人までも、わしと同じような意見になれ、とは言わぬが、自分だけは、そういう意味の会合には、出ぬ事に極めているのじゃから、それでよんどころなく、御断りをしたのじゃ」。

 厳然として、乃木中将が、欠席の理由を語ったから、それを聞いた、発起人一同は、顔を見合わせて、しばらくは、何と答えのしようも無かった。