陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

314.本間雅晴陸軍中将(14)前田参謀長は消極論の急先鋒であったため首を切られた

2012年03月30日 | 本間雅晴陸軍中将
 二月十一日から、南方軍の参謀・荒尾興功(あらお・おきかつ)中佐(陸士三五恩賜・陸大四二恩賜・大佐・軍務局軍事課長・戦後、連絡部長)がフィリピンを視察した。

 二月十五日、荒尾参謀は、バターン封鎖論を再考するよう、第一四軍に伝えた。荒尾参謀の意向を聞いた本間軍司令官は、再び悩んだ。

 さらに、二月十七日、南方軍の高級参謀・石井秋穂大佐(陸士三四恩賜・陸大四四・陸大教官)から、第一四軍の高級参謀・中山大佐あてに、「甲案の採用を希望せらる」と入電した。「バターンを攻撃せよ」という意味だった。本間軍司令官の決心はいよいよ乱れた。

 二月二十日、第一四軍は、再度作戦会議を開いたが、バターン攻撃案を強く主張したのは、中山高級参謀一人で、多数はバターン封鎖またはビサヤ(中部フィリピン諸島)先攻を唱えた。本間軍司令官は幕僚の多数の意見に従わざるを得なかった。

 南方軍は「バターン半島を攻略せよ」というのに、現地の第一四軍は、二月二十日の作戦会議で「バターン封鎖、ビサヤ先攻」を決定したのだった。

 「バターン封鎖、ビサヤ先攻」とは、バターン以外を攻略し、バターン半島に立てこもっている、米比軍の自滅を待つという、いわば消極論だった。

 これは明らかに南方軍、ひいては大本営の意向に反する決定だった。南方軍はすぐに、反動的処置を取った。

 二月二十一日、第一四軍参謀長・前田正実中将は、南方軍司令部に赴き、ビサヤ先攻案を説明するため準備していたが、突然「二十日付で参謀長を罷免する」という電報を受け取った。前田参謀長は消極論の急先鋒であったため首を切られた。

 同じく消極論者の作戦主任参謀・牧達夫中佐は第一四軍付に、後方主任参謀・稲垣正次少佐(陸士四四・陸大五一・中佐)は、二月二十三日付で陸軍輜重兵学校教官に転出になった。

 前田参謀長の後任は、和知鷹二少将(陸士二六・陸大三四・中将・中国憲兵隊司令官)が補任された。和知少将は本間中将が台湾軍司令官当時の軍参謀長だった。

 消極論一掃のために、南方軍は第一四軍に対して人事で応酬した。愕然とした本間軍司令官は、二月二十五日、再びバターン攻略の決意に変わった。

 「日本軍マニラ占領」(ワード・ラザフォード/本郷健訳・サンケイ新聞出版局)によると、バターン半島第二次総攻撃をめぐって、日本軍の混乱が起きている二月二十一日、フィリピンの米極東軍司令官・ダグラス・マッカーサー大将に対して、ワシントンの陸軍参謀総長・ジョージ・マーシャル大将から通達が入ってきた。

 それは、「マッカーサーの将来に関しては、ワシントンにはワシントンなりの見解がある。司令部をフィリピンの南端ミンダナオ島に移し、その後、南西太平洋の連合軍を指揮するため、オーストラリアに向かえ」というものだった。

 マッカーサーは、この命令を無視した。また、「現職を辞任して、一志願兵として、バターン防御軍に加わるつもりだ」と、ワシントンを驚かせた。

 だが、周囲の人々は、このようなマッカーサーのゼスチャアは、形だけのものだということをよく知っていた。

 マッカーサーがフィリピンを離れるのを躊躇したのは、彼自身敗北を認めたくなかったことと、日本軍がバターン攻撃を中止した現時点で、バターン防御軍は勝利を得たとも思われた。

 今こそ、バターン半島を出て、攻勢に転じるべきだという意見も出た。

 日本軍の第一四軍司令官・本間雅晴中将は、後に、「もし、このような反攻が行われたとしたら、日本軍は、これに対応できる状態になかった」と語っている。

 だが、最終的にマッカーサー大将は二月十五日、ワシントンのマーシャル大将に対して、「三月十五日頃、ミンダナオ島に向かうつもりである」と報告した。

 陸軍参謀総長・マーシャル大将と極東軍司令官・マッカーサー大将はともに一八八〇年生まれだった。

 ジョージ・キャトレット・マーシャルは一八八〇年十二月三十一日生まれ。一九〇一年(二十一歳)バージニア軍事大学卒、陸軍入隊。一九一七年(三十七歳)少佐。第一次大戦、ヨーロッパ派遣軍作戦参謀として活躍、一九一九年(三十九歳)大佐。

 第一次大戦終結にともない、一九二〇年(四十歳)少佐に戻る。その後一九二三年(四十三歳)中佐、一九三三年(五十三歳)大佐、一九三六年(五十六歳)准将に昇進した。

 第二次大戦勃発により一九三九年(五十九歳)少将。フランクリン・ルーズベルト大統領により第十五代陸軍参謀総長に任命された。同時に陸軍大将に昇進した。第二次大戦を陸軍参謀総長として米国を勝利に導き、一九四四年(六十四歳)十二月元帥になった。

 戦後、国務長官、アメリカ赤十字社総裁、国防長官を歴任。一九五三年(七十三歳)ノーベル平和賞受賞。一九五九年死去。享年七十八歳。

313.本間雅晴陸軍中将(13) 本間のバカが、こんな戦争をやらせやがる

2012年03月23日 | 本間雅晴陸軍中将
 「戦争と人間の記録バターン戦」(御田重宝・徳間書店)によると、バターン戦の初期作戦について、厳しい批判をしたのは第一四軍司令官・本間雅晴中将だった。

 米国流の温厚な将軍と見られていた風評とは違い、非難に満ちた日記を書き残している。本間中将の一月十一日の日記には次の様な記述がある。

 「夕刻帰ってきた佐藤参謀の報告によると、奈良兵団第一線は一つ手前の敵陣地に終日引っかかっていて、敵の十五センチカノン(砲)に痛めつけられているよし。がっかりした。武智大佐、初陣に道を誤り。松原大隊を除き、わが第二線の位置に舞い戻って好機を逸し、受功のいい機会を失った。ダメなヤツだ」。

 日記中の奈良兵団は、奈良晃中将(陸士二三・陸大三二・第一六方面軍兵務部長)の率いる第六五旅団(福山)で、第一四軍の指揮下、バターン攻撃に参加した。

 事実はカノン砲に痛めつけられて進めなかったのではなく、バターン半島の米比軍の陣地が本格的なものであったので前進できなかった。

 日記の中の佐藤参謀は、第一四軍作戦参謀・佐藤徳太郎少佐のことで、陸士四十一期、陸大四十九期卒。フィリピン作戦後は陸軍大学校教官、第一一方面軍参謀を勤め陸軍中佐で終戦。戦後陸上自衛隊に入隊し、幹部学校副校長、第六管区副総監を経て陸将補で退官後、防衛大教授等を歴任している。著書に、「戦争概論」(アントワーヌ・アンリジョミニ・佐藤徳太郎訳・中公文庫)、「近代西欧先史」(原書房)等がある。

 武智大佐は、武智漸大佐で、陸士二十三期。当時、第一四軍隷下の第十六師団所属の歩兵第九連隊長は、上島良雄大佐(陸士二六)だったが、昭和十六年十二月三十日戦死したので、その後任として武智大佐が第九連隊長に補任された。昭和十七年十一月八日フィリピンで戦死。

 武智大佐が連隊長になった初陣がバターン攻撃だった。本間中将が、せっかく手柄を立てさせてやろうと思って行かせたのに、道に迷って、だめなヤツだということなのだ。

 この第九連隊はこの後も、大切な時にジャングルの中に消えてしまい、何日間も連絡のなかったことがあり、バターン半島の初期作戦ではミスが多かった。「敵のいない所ばかり進んでいた連隊だ」と風評が立った。

 さらに、本間中将の一月十二日の日記には次の様な記述がある。

 「奈良兵団、進捗せず。膠着せるがごとく憤激の到りだ。優勢な兵力を持っていて何をしているか」

 膠着(こうちゃく)の意味は「粘りつくこと」。第一線の実情を知らない本間軍司令官は、はるか後方のサンフェルナンドの軍司令部で、憤まんをぶちまけていた。さらに次のようにも記している。

 「私はこの二十日の誕生日までに、この敵を壊滅し、第四八師団の転進(ジャワへの転進)に先立ち、入城式(本間軍司令官はまだマニラ市に入っていなかった)、同日慰霊祭をやろうとしているのだ」。

 本間軍司令官の日記には、第六五旅団に対して厳しい批判をしている。一方、第六十五旅団の兵士も本間軍司令官に対し批判的だった。

 第六五旅団野戦病院にいた多田兵長は「本間のバカが、こんな戦争をやらせやがる、と兵隊はみんな言っていた」と述べている。ひどい戦闘を強いられた腹いせだった。

 バターン半島の戦闘はこちらが小銃一発撃つと十発もお返しが来た。夜行軍をやれば曳光弾が飛んでくるし、ヤシの木の上にはマイクが付けてあり、日本軍の行動は筒抜けだった。

 敵の重砲は、コレヒドール島要塞から飛んできた。とにかく大きな弾で、弾が落ちるとそこに水溜りができて、水牛が泳いでいたほどだった。戦死者が多数出て初期のバターン戦は、日本軍は苦戦した。

 第一四軍は膠着状態のバターン半島攻撃の打開策を練るため、本間軍司令官の発案で、昭和十七年二月八日、サンフェルナンドの戦闘指令所で作戦会議を開いた。

 この席上で次の二案が論議された。(甲案)いぜん攻撃を続行する。(乙案)一時態勢を整理して増援兵力の到着を待ち、攻撃を再興する。

 甲案の主張者は、第一課高級参謀・中山源夫大佐(陸士三二・陸大四一・少将・第一二軍参謀長)で、作戦参謀・佐藤徳太郎少佐が支持した。乙案の主張者は軍参謀長・前田正実中将と作戦主任参謀・牧達夫中佐だった。

 論議の結果、最終的に乙案に決まったが、本間軍司令官は、攻撃続行の思いであったが、論議の結果を尊重し、しぶしぶ了承、第一線部隊に態勢の整理を発令した。

 第一線部隊は攻撃を中止した。だが、第一四軍は、その後も、バターン攻撃か、封鎖かで動揺し、思い切りの悪い統帥となった。

312.本間雅晴陸軍中将(12)君は陸大の優等生でありながら、妙なことを言うね

2012年03月16日 | 本間雅晴陸軍中将
 第四八師団長・土橋勇逸中将の昭和十七年一月一日の「土橋日記」に、マニラ市への一番乗りなどよりも、バターン半島へ米比軍を逃した第一四軍の処置を不満とした内容の記述が見られる。

 一月一日の「土橋日記」には第一四軍から派遣されて来た軍の作戦主任参謀・牧達夫中佐(陸士三六・陸大四五首席・大佐・第四軍高級参謀)とのやり取りが次の様に克明に描かれている。

 「十七時ごろ、牧軍参謀来たり、一六師団と同時入城せしめたいから、師団のマニラ入城を待つようにという軍司令官(本間雅晴中将)の意図を伝えた。一番乗りなど別に眼中にないから快諾した。が自由に前進を許していたら、師団はこの正月にマニラに入城できたのであった」

 「私は牧参謀に対し、あれほど度々意見を具申したのに、軍が一顧も与えなかったため、遂に敵をバターンに逃がしたではないか、となじったところ、牧君は『いや閣下、ご心配は無用です。バターンに逃げ込んでも永く抵抗などできません。全く袋のねずみ同様に、わけなく潰せます』と答えた」

 「私は『君は陸大の優等生でありながら、妙なことを言うね。あるいは袋のねずみでわけなくたたけるかもしれぬが、戦術というものは機会を求めて殲滅を図るべきではないか。パンパンガ河の東でたたき得る絶好の機会があるのを、何の処置もせず、みすみす逃しておいて、いや、バターンでやりますからとは何事だ』と大渇した。隣室に集まっていた新聞記者連中が驚いたそうである」。

 土橋中将は翌一月二日にも、第十四軍参謀長・前田正実中将(陸士二五・陸大三四)に対しても同じような苦言を呈している。一月二日の「土橋日記」は次の通り。

 「早朝、前田軍参謀長が新年のちいさなモチを持って来てくれた。私は前田君にも、軍が敵をバターンに逃がしたことを非難し、『軍はなぜ私をバターンへ行けと命令しないのか』と問うた」

 「前田君いわく、『いや軍司令官はそのことを望んでいるのですが、師団の任務はマニラ占領であり、またジャワ作戦の準備(四八師団はマニラ占領後、ジャワに転進することに決定していた)をせねばならぬから、土橋に要求しても承知せんだろう、と言っている』と」

 「私は驚いた。いやしくも戦場である。必要ならば、そんな下らぬことを言っている場合ではなかろう。『よろしい、私は直ぐ命令を下してバターンへ行く。が次の作戦準備もあるから永くは無理だ。一週間という約束で押せるところまで押してあげよう』と答えた。そして即座にバターンへの転進を命じた」。

 だが、第四八師団のバターン総攻撃は成功しなかった。マニラを占領したことで士気が十分ではなかったとも言われている。

 この状況は、「指揮官」(児島襄・文藝春秋)・「本間雅晴」の章に詳細が述べられている。それによると、昭和十七年一月二日、マニラ市は陥落した。

 すでにオープン・シティ(無防備都市)が宣言され、陥落というよりも、明け渡された感じだった。市内は無秩序状態で、無頼の徒が横行し、キャバレーは騒々しく営業を続けていた。

 第十四軍司令官・本間雅晴中将(陸士一九次席・陸大二七恩賜)は、参謀長・前田正実中将(陸士二五・陸大三四)の献言に従い、参謀副長・林義秀少将(陸士二六・陸大三五・第五三師団長・中将)、高級参謀(情報)・高津利光大佐(陸士三二・陸大四〇・第二三師団参謀長・少将)、参謀(作戦)・牧達夫中佐(陸士三六・陸大四五首席・大佐・第四軍高級参謀)、参謀(情報主任)・中島義雄中佐(陸士三六・陸大四四恩賜・大佐・参謀本部教育課長)らに、軍政担当を命じた。

 マニラ占領で一応の作戦は終わり、あとは占領行政でフィリピン市民の対日協力を確保すべきだ、という前田参謀長の意見は、広い視野を持つ本間中将の意にかなった。

 また、前田参謀長は、「バターンの敵は封鎖により自滅させるべきだ」と述べたが、近く第四八師団を転用され、兵力が不足する第十四軍にとっては、適切であると本間中将は最終的に判断した。

 第四八師団長・土橋中将からは、しきりに「戦いの目的は敵軍の撃滅にある、不動産(土地)の確保ではない」といった進言がよせられるが、本間中将は、前田参謀長に次のように言ったという。

 「『海』(第四八師団の暗号名)はジャワ行きの準備もある。追撃は必要だが、実際に命令しては『海』も良い気持ちはしないのでは、ないかな」。

 この意向が伝えられると、土橋師団長は、心外の思いにかられ、次の様に述べた。

 「何という遠慮だ。いやしくも戦場ではないか。必要とあれば、どんな命令でも出すべきであろう。よろしい、私はすぐバターンに行く」。

 だが、第四八師団は、確かにジャワ行きの準備があり、バターン半島入り口付近で数日間の戦闘をしたにとどまり、本格的なバターン攻撃は、第六十五旅団に命ぜられた。

311.本間雅晴陸軍中将(11)戦闘機を操縦しているのは、日本人ではなくドイツ兵だ

2012年03月09日 | 本間雅晴陸軍中将
 マッカーサー大将は、人種差別的発想から、日本軍を見下した。そしてルソン島に上陸した日本軍を過小評価していた。

 日本陸軍の戦闘機により、味方の戦闘機が撃墜されると、マッカーサー大将は「戦闘機を操縦しているのは、日本人ではなくドイツ兵だ」と言ったという。

 だが、その後、各地の防衛線を突破し、米軍を蹴散らし、電撃的に侵攻してくる日本軍に驚いたマッカーサー大将は、日本軍上陸の翌日には、マニラを放棄せざるを得なくなり、バターン半島へ敗退した。

 一方、「1億人の昭和史・日本の戦史8・太平洋戦争2」(毎日新聞社)に「マッカーサー回想記・上」から抜粋したダグラス・マッカーサー(当時・アメリカ極東陸軍司令官)の本間雅晴中将の指揮する日本軍に対する作戦の証言、「知り尽くしていたバターン」では次の様に述べている。

 「この一連の上陸で、本間将軍の戦略はたちどころにはっきりした。本間将軍がリンガエンに上陸した主力とアチモナン(ラモン湾)に上陸した別働隊で、われわれをはさみ打ちにするつもりであることは明白だった」

 「この両部隊が急速に接近すると、私の主力部隊は、中部ルソンのしゃへい物の少ない平野で、敵に前後をはさまれて戦わなければならなくなる。日本軍の戦略はルソンの防衛を短期に完全に粉砕することを想定したものだった」

 「……それはまことに非の打ちどころのない戦略構想だった。私の兵力はジョーンズ将軍指揮下の第二軍団と、ウェーンライト将軍指揮下の第一軍団とが二つに断ち切られ、両軍団が別々につぶされそうな情勢となってきたのである」

 「私は即座に防衛計画を立てた。第一軍団は、北はリンガエン湾から南はバターン半島の付け根まで広い中部平野で、次々に新しい防衛線へ後退する持久戦術をとらせる」

 「この持久行動の援護の下に、第二軍団は、マニラ部隊も全部バターン半島に撤退させる。バターンでは私が地形を知り尽くしているので、ここで日本軍の優勢な空軍力、戦車、大砲、兵力に対抗するという計画だった」。

 「戦争と人間の記録バターン戦」(御田重宝・徳間書店)によると、第四十八師団長・土橋勇逸(どばし・ゆういつ)中将(陸士二四・陸大三二・東京外語学校・中将・第三八軍司令官)の「土橋日記」の昭和十六年十二月二十七日の内容に、「敵は最後の抵抗をバターン半島に試みるであろう」と記されている。

 マニラ市にあったアメリカ極東軍司令部は、十二月二十四日には、すでにコレヒドール島に移動していた。日本軍に押されてマッカーサー司令官以下、セーヤー高等弁務官、ケソン大統領とその家族、高級官吏等が、船でマニラ湾を横切ってコレヒドール島に立てこもった。

 本間中将以下の第一四軍司令部がこの事実を知ったのは、十二月二十七日だったが、この時点で、第一四軍司令部は、マッカーサー大将がバターン半島で持久戦に持ち込む計画であることを見抜くべきであった。

 現に土橋師団長は、その可能性を再三に渡って申し立てている。第一四軍は依然としてマニラ市周辺で、一大会戦が行われるものと信じ込み、バターン半島に重点を置かなかった。

 その結果、バターン半島に米比軍の大半を逃がし、そのために後のバターン攻撃が一時頓挫し、犠牲者を多く出し、作戦上の不手際を重ねることになった。

 マッカーサー大将が出した「マニラ非武装都市宣言」を、第一四軍は十二月二十七日夕、サンフランシスコ放送で聞いた。大本営もそれを聞き「注意せよ」と第一四軍に通報した。

 この時点で本間中将の第一四軍はマニラからバターン半島に作戦の方向を転換すべきだったと言われているが、そう簡単に「非武装都市宣言」が信じられるはずもなかった。

 第一四軍はフィリピン作戦については、慎重で、第四八師団の前進については、上陸直後からブレーキをかける役に回っている。

 第一回は、リンガエン湾に上陸直後、アグノ河の線に一気に出るという第四八師団に対して、重火器の揚陸が終わるまで待て、と止めた。

 これは戦術的には当然の処置で、重火器も持たない歩兵部隊が、米比軍の待ち受けている正面にぶつかるのは危険だとの判断に立っている。

 しかし、マニラ市を目前にしてのブレーキは、ルソン島南部のラモン湾に上陸した第一六師団と同時にマニラ占領をさせようという、第一四軍の政治的配慮だった。

310.本間雅晴陸軍中将(10)本間軍司令官は「こんなひどい格好を誰がさせたか」と言った

2012年03月02日 | 本間雅晴陸軍中将
 本間中将はもともと米英と戦争するなぞは馬鹿の骨頂であると胸底に信じていた(本間中将は英国で勉強しその不屈の潜勢力を知っていた)ので、その心証が反抗的な言動に出た。

 本間中将は言葉を返して「だが、敵の守備兵力を知らなければ、一定期日内にマニラ攻略の御約束は困難ではないでしょうか」と言った。

 杉山参謀総長は「困難は君だけのことではない。お国が困難の最中なのだ」と答えた。

 本間中将は「予備兵力はあたえられますか」と訊いた。

 すると杉山参謀総長は「そんな余裕はない。君は厭なのか」と言い返した。

 本間中将は「任命に厭応はありません。ただ、五十日期限に確信の根拠がないので、も少し確かめたいと思ったまでのことです」と答えた。

 そこで、今村中将と山下中将が話を引き取って、とにかく全力を尽くしてやってみようではないか、ということでケリがついた。参謀総長室は、かつて見たことのない暗い空気につつまれた。

 参謀長室を出た廊下で、他の二人の将軍は、「本間、いいことを言ってくれた。俺も質そうと思っていたのだ」と肩を叩いた。だが、杉山参謀総長の無上の不快感は、ひとり本間中将の上にそそがれた。

 この際の軍司令官拝命は、軍人最高の名誉として歓喜雀踊すべきところを、条件らしいものを云々するとは、生意気な奴だ、という印象が深く杉山総長の心に根を降ろした。

 「悲劇の将軍」(今日出海・中公文庫)によると、著者の今日出海氏(東京帝大仏文科卒・明治大学教授・直木賞・小説家・初代文化庁長官・勲一等瑞宝章・文化功労者・「天皇の帽子」)は、昭和十六年十一月、太平洋戦争の始まる一ヶ月前に、徴用令書を貰い、広島から御用船で台湾の台北に連れて行かれた。

 高雄から「帝海丸」という船に乗り組み、比島(フィリピン)派遣軍とともに、フィリピンに向かった。十二月八日ラジオで宣戦の詔勅を聞いた。

 今氏は広島で着ている服を剥ぎ取られ、軍夫の作業着みたいなものを着せられていた。

 大本営はドイツの宣伝中隊を真似て、同じ組織を急造した。その中で、作家としては、今氏と、尾崎士郎(早稲田大学政治科中退・小説家・文化功労者・「人生劇場」)、石坂洋二郎(慶應義塾大学国文科卒・中学教師・小説家・菊池寛賞・「青い山脈」)の三人だけだった。

 今氏が比島派遣軍総司令官・本間雅晴中将と始めて会ったのは、この「帝海丸」の甲板だった。本間中将はずんぐり肥って、丈は高く、猫背で、いかにも軍司令官らしい偉丈夫であった。大きな眼で、眉毛が長く、達磨大師の顔そっくりだった。

 今氏は船内にじっとしていると運動不足になり、食欲不振に陥った。そこで毎朝毎夕上甲板にのぼり、体操をしたり、お百度を踏むようにぐるぐる歩き回った。

 そのとき、本間軍司令官とばったり出会った。今氏は直立不動の姿勢をとって敬礼をした。胸に幼稚園の生徒みたいに名前をはりつけてあるのを見て、本間軍司令官は「君が今日出海君か…」と、すでに姓名を知っているようであった。

 さらに本間軍司令官は「こんなひどい格好を誰がさせたか」と言った。

 今氏が「さあ、広島で一様に着せられましたが…」と答えた。

 すると、本間軍司令官は「比島に着いてもそんな格好をしていたら、笑われるぞ」と言った。

 いかに笑われても、軍隊というところは勝手に服装をかえるわけにはいかぬし、比島に着いても、私物の背広を買い整えたが、夕方宿舎に帰ってからでないと、着ることは許されなかった。

 「戦争と人間の記録バターン戦」(御田重宝・徳間書店)によると、本間雅晴中将の率いる第一四軍(第四八師団・第一六師団)がフィリピンのルソン島に上陸したのは、昭和十六年十二月二十二日(リンガエン湾)と二十四日(ラモン湾)だった。

 フィリピンは、四〇〇年に及ぶスペイン支配の後、一八九八年、米西戦争に勝利したアメリカの植民地になった。以来フィリピンはアメリカの統治の下にあった。

 上陸した日本軍を歓迎したのは、アメリカからの独立を求めて戦ってきた民族主義者たちだった。彼らは日本軍に協力し、マッカーサーに敵対した。

 当時、ダグラス・マッカーサー大将(昭和十六年十二月十八日付けで大将に昇進)はアメリカ極東軍司令官の職にあり、フィリピン防衛の最高指揮官としてマニラに司令部を置いていた。