新聞社内での状況を説明すると、「乃木は馬鹿だ」という社員たちの罵倒は、一義的には、御大葬の記事をやっと組み上げて、皆、へとへとに疲れ切っているところへ、また紙面を作り変えなければならないようなことを仕出かしゃがって……という不機嫌の表明なのである。
そのことは、「乃木大将は馬鹿だ」と最初に言い出したのが、労働のしわ寄せを蒙る植字工であったという事実が示している。
当時は、植字工が鉛の活字を一つ一つ拾って印刷のための記事を組み立てていた。やっと御大葬の記事を組み終えたところで、乃木将軍殉死の記事を組み入れなければならなくなったので、レイアウトは大きく変更になるし、新たに記事を組み直さなければならない。植字工は大変なことになった。
また、夕刊編輯主任のMは、「本当に馬鹿じゃわい。何も今夜あたり死ななくたって、他の晩にしてくれりゃいいんだ。今夜は(御大葬の)記事が十二頁にしても這入りきれないほど、あり余っとるんじゃ」と言った。
外交部長のKは「惜しいなあ。もっと種の無い時に死んでくれりゃ、全く我々はどの位助かるか知れないんだ。無駄なことをしたもんだな」と残念がっていた。つまり新聞社の社員たちは、乃木大将の殉死は大きく扱わなければならない、という認識では一致していたわけである。
ただ、それがニュースとしては極めて間が悪いために、苛々不機嫌になり、乃木は将軍として無能で、多くの兵士を無駄死にさせた、といった批判も出てきた。御馳走で満腹しているところへ、思いがけず、もう一つ、どうしても平らげなければならない御馳走が来たので、苦し紛れに愚痴が出たというようなものだった。
以上の記述を踏まえ、「新聞を疑え」の著者、百目鬼恭三郎氏は、乃木大将について、次のように述べている。
「世間はともすれば戦争に勝った将軍より、悲劇的な敗けかたをした将軍のほうを英雄視する風があり、源義経や乃木希典がそうだ。これが人気というもので、人気は貸借対照表による合理的な価値判断によって決まるのではない。多くの人を感情的にひきつけるかどうかということなのである」
「乃木の場合でいうと、彼の自己破壊衝動型の行動と、置かれている地位との極端なアンバランスが、人の庇護本能をくすぐる。そこに人気の秘密があったわけで、彼が将軍として無能だったという、本来もっとも評価の対象となるべき実績は、まるで考慮されなかったといってもよろしかろう」
「できるだけ多くの読者を獲得することを至上命令とする日本の新聞が、このような世間の感情に逆らって、『乃木は無能な将軍であった、彼が多くの兵士を殺した責任は、自刃によってもなお償えるものではない』といった論陣を張り得なかったのは当然過ぎるほどだ」。
「将軍 乃木希典」(志村有弘編・勉誠出版)によると、乃木希典は嘉永二年十一月十一日(一八四九年十二月二十五日)、父・乃木十郎希次、母・寿子の三男として生まれた。なお、長男も次男もち乳呑み児のうちに死んでいた。
三男が生まれたとき、見るからに弱々しく、乃木十郎希次は、前に死なせた二人の男の子の運命と思い合わせて、「せっかくの男の子が生まれてきたたが、やっぱり駄目だ。育ちそうもない。あとで力を落とすよりも、初めから無い子とあきらめてしまったほうがよかろう」と、生まれてきた子に「無人(なきと)」という名前をつけた。これが後の乃木希典である。
五年遅れて、乃木十郎希次にまともや男の子が生まれた。今度のは丈夫そうだった。「無人が育ったのだから運が直ってきたのかもしれん。今度こそ、本当に人になるに違いない」というので、無人の弟には「真人(まこと)」と名前をつけた。
乃木真人は、後に玉木文之進の養子になり、玉木正誼(たまき・まさよし)となった。子供のない玉木文之進が乃木十郎希次に懇望して真人をもらいうけたのだった。そして吉田松陰の実兄、杉民治の娘、お豊を、正誼の妻として迎えた。玉木文之進は吉田松陰の叔父であった。
その後も、乃木十郎希次には、男の子の「集作」、女の子の「とめ子」、「いね子」が次々に生まれて、皆無事に成人している。
乃木十郎希次は、宇治川の先陣で名高い近江源氏・佐々木四郎高綱を先祖に持ち、長府毛利家、つまり長門萩にある毛利元就の本家ではなく、元就の四男、元清を先祖とする分家の、長門府中(長府藩)五万石の毛利家の家臣だった。
そのことは、「乃木大将は馬鹿だ」と最初に言い出したのが、労働のしわ寄せを蒙る植字工であったという事実が示している。
当時は、植字工が鉛の活字を一つ一つ拾って印刷のための記事を組み立てていた。やっと御大葬の記事を組み終えたところで、乃木将軍殉死の記事を組み入れなければならなくなったので、レイアウトは大きく変更になるし、新たに記事を組み直さなければならない。植字工は大変なことになった。
また、夕刊編輯主任のMは、「本当に馬鹿じゃわい。何も今夜あたり死ななくたって、他の晩にしてくれりゃいいんだ。今夜は(御大葬の)記事が十二頁にしても這入りきれないほど、あり余っとるんじゃ」と言った。
外交部長のKは「惜しいなあ。もっと種の無い時に死んでくれりゃ、全く我々はどの位助かるか知れないんだ。無駄なことをしたもんだな」と残念がっていた。つまり新聞社の社員たちは、乃木大将の殉死は大きく扱わなければならない、という認識では一致していたわけである。
ただ、それがニュースとしては極めて間が悪いために、苛々不機嫌になり、乃木は将軍として無能で、多くの兵士を無駄死にさせた、といった批判も出てきた。御馳走で満腹しているところへ、思いがけず、もう一つ、どうしても平らげなければならない御馳走が来たので、苦し紛れに愚痴が出たというようなものだった。
以上の記述を踏まえ、「新聞を疑え」の著者、百目鬼恭三郎氏は、乃木大将について、次のように述べている。
「世間はともすれば戦争に勝った将軍より、悲劇的な敗けかたをした将軍のほうを英雄視する風があり、源義経や乃木希典がそうだ。これが人気というもので、人気は貸借対照表による合理的な価値判断によって決まるのではない。多くの人を感情的にひきつけるかどうかということなのである」
「乃木の場合でいうと、彼の自己破壊衝動型の行動と、置かれている地位との極端なアンバランスが、人の庇護本能をくすぐる。そこに人気の秘密があったわけで、彼が将軍として無能だったという、本来もっとも評価の対象となるべき実績は、まるで考慮されなかったといってもよろしかろう」
「できるだけ多くの読者を獲得することを至上命令とする日本の新聞が、このような世間の感情に逆らって、『乃木は無能な将軍であった、彼が多くの兵士を殺した責任は、自刃によってもなお償えるものではない』といった論陣を張り得なかったのは当然過ぎるほどだ」。
「将軍 乃木希典」(志村有弘編・勉誠出版)によると、乃木希典は嘉永二年十一月十一日(一八四九年十二月二十五日)、父・乃木十郎希次、母・寿子の三男として生まれた。なお、長男も次男もち乳呑み児のうちに死んでいた。
三男が生まれたとき、見るからに弱々しく、乃木十郎希次は、前に死なせた二人の男の子の運命と思い合わせて、「せっかくの男の子が生まれてきたたが、やっぱり駄目だ。育ちそうもない。あとで力を落とすよりも、初めから無い子とあきらめてしまったほうがよかろう」と、生まれてきた子に「無人(なきと)」という名前をつけた。これが後の乃木希典である。
五年遅れて、乃木十郎希次にまともや男の子が生まれた。今度のは丈夫そうだった。「無人が育ったのだから運が直ってきたのかもしれん。今度こそ、本当に人になるに違いない」というので、無人の弟には「真人(まこと)」と名前をつけた。
乃木真人は、後に玉木文之進の養子になり、玉木正誼(たまき・まさよし)となった。子供のない玉木文之進が乃木十郎希次に懇望して真人をもらいうけたのだった。そして吉田松陰の実兄、杉民治の娘、お豊を、正誼の妻として迎えた。玉木文之進は吉田松陰の叔父であった。
その後も、乃木十郎希次には、男の子の「集作」、女の子の「とめ子」、「いね子」が次々に生まれて、皆無事に成人している。
乃木十郎希次は、宇治川の先陣で名高い近江源氏・佐々木四郎高綱を先祖に持ち、長府毛利家、つまり長門萩にある毛利元就の本家ではなく、元就の四男、元清を先祖とする分家の、長門府中(長府藩)五万石の毛利家の家臣だった。