この間に、先発していた第五師団の各部隊は北上して平壌(ぴょんやん)に迫っており、元山(うぉんさん)に先発していた第三師団の一部部隊も半島を横断して、平壌の背面をめざし進撃した。
明治二十七年九月十五日、平壌の戦いが開始され、日本軍は激しい戦闘の後、翌日十六日には、清国軍が退却した。第五師団は、平壌を占領した。
この戦闘は、第一軍司令部が軍司令官・山縣大将とともに出陣し、また第三師団の主力も京城に到着したにもかかわらず、山縣軍司令官の命令を待たず、第五師団が攻撃を急いで開始したものだった。
第五師団長は野津道貫(のづ・みちつら)中将(鹿児島・鳥羽伏見の戦い・会津戦争・函館戦争・維新後藩兵三番大隊付教頭・御親兵・陸軍少佐<三十歳>・二番大隊付・中佐<三十一歳>・陸軍省第二局副長・大佐<三十三歳>・近衛参謀長心得・征討第二旅団参謀長・少将<三十七歳>・第二局長・東京鎮台司令長官・大山巌陸軍卿外遊随行・子爵・中将<四十四歳>・広島鎮台司令官・第五師団長・第一軍司令官・大将<五十四歳>・伯爵・功二級・近衛師団長・東部都督・教育総監・軍事参議官・第四軍司令官・元帥<六十五歳>・侯爵・正二位・大勲位菊花大綬章・功一級・レジオンドヌール勲章コマンドゥ―ル等)だった。
この平壌の戦いは、第五師団長・野津中将が、功名を焦る感情が作用して、攻撃を急いだものと、思われた。桂中将も第三師団を率いて平壌攻撃に参加したかったのである。
桂中将は、後年、この平壌の戦いについて、「第五師団長は、軍の到着を知りつつ、平壌を攻撃し、苦戦の後、辛うじて平壌を占領するを得たり」と述べており、野津中将の行動に批判的な言葉を残している。
十月に入って、第三師団は平壌を出発して北進し、十月下旬には第一軍の全軍が鴨緑江(おうりょっこう)岸に到着した。
鴨緑江渡河作戦の第一陣は第三師団が担い、十月二十四日、架橋を成功させ、翌朝から次々に対岸に渡り、清国領土内に進出、たちまち虎山(こざん・遼寧省)を占領した。
この渡河作戦の前夜に詠んだ桂太郎中将の次の一首が残されている。
「をちこちの敵の砦は燈も消えて かわかぜさむく身にしみにけり」。
十月下旬の朝鮮半島の北端で、国境の大河鴨緑江河畔の夜は、すでに冬の寒さだった。桂中将にとって、清国領土へ進攻する第一陣の指揮官として、身の引き締まる思いを歌に託した。
清国領土内の進撃は、山縣軍司令官は、第五師団を戦線の左方に配置し、九連城(きゅうれんじょう)攻撃を命じ、第三師団を右方に配置、北上することを命じた。
だが、この配置の進撃では、「第三師団は、決戦に参加できず、後方守備の駐屯部隊にまわることになる」と桂中将は考え、不満が増してきた。
九連城はほとんど清国軍の抵抗なく占領したため、第五師団の一部は通天溝(つうてんこう)に向かって進撃を続けた。またしても野津道貫中将の第五師団に先を越された。遂に桂中将は、左方に突っ切る決心をした。
桂中将は、第三師団主力を持って、安東(あんとう)県目指して進撃を開始した。これにより、第五師団と第三師団の位置が交差して、第三師団は戦線の左方に進出することになった。
これは命令違反だった。この変化を修正するため、第一軍司令部は、命令を伝達したが、第三師団長・桂中将は、予定を変更せずに、安東県へ進撃を続けた。
第一軍司令部では、この桂中将の独断変更を憤慨する者が多かったが、軍司令官・山縣大将は、平壌攻撃時の野津中将の第五師団独断攻撃を容認していたので、今回の桂中将の命令無視も、罰することができなかった。
この第三師団の行動について、当時、第三師団参謀長心得だった木越安綱(きごし・やすつな)中佐(金沢・陸士旧一・西南戦争・陸軍少尉<二十三歳>・陸軍士官学校教官・中尉<二十六歳>・ドイツ陸軍大学卒業・歩兵大尉<二十九歳>・陸軍大学校教授心得・監軍部参謀・少佐<三十四歳>・近衛歩兵第四連隊附・陸軍外山学校教官・第三師団参謀・中佐<三十九歳>・第三師団参謀長心得・日清戦争・大佐<四十歳>・第三師団参謀長・軍務局軍事課長・少将<四十四歳>・台湾陸軍補給廠長・台湾総督府陸軍幕僚参謀長・軍務局長・歩兵第二三旅団長・兼韓国臨時派遣隊司令官・中将<五十歳>・後備第一師団長・第五師団長・アメリカ出張・男爵・第六師団長・第一師団長・陸軍大臣・貴族院議員・男爵・従二位・勲一等旭日大綬章・功二級・レジオンドヌール勲章コマンドゥ―ル等)は、後に次のように回顧している。
「各所からの攻撃が非常であって、軍司令部からも睨まれ、一時は立場もない位で……」。
明治二十七年九月十五日、平壌の戦いが開始され、日本軍は激しい戦闘の後、翌日十六日には、清国軍が退却した。第五師団は、平壌を占領した。
この戦闘は、第一軍司令部が軍司令官・山縣大将とともに出陣し、また第三師団の主力も京城に到着したにもかかわらず、山縣軍司令官の命令を待たず、第五師団が攻撃を急いで開始したものだった。
第五師団長は野津道貫(のづ・みちつら)中将(鹿児島・鳥羽伏見の戦い・会津戦争・函館戦争・維新後藩兵三番大隊付教頭・御親兵・陸軍少佐<三十歳>・二番大隊付・中佐<三十一歳>・陸軍省第二局副長・大佐<三十三歳>・近衛参謀長心得・征討第二旅団参謀長・少将<三十七歳>・第二局長・東京鎮台司令長官・大山巌陸軍卿外遊随行・子爵・中将<四十四歳>・広島鎮台司令官・第五師団長・第一軍司令官・大将<五十四歳>・伯爵・功二級・近衛師団長・東部都督・教育総監・軍事参議官・第四軍司令官・元帥<六十五歳>・侯爵・正二位・大勲位菊花大綬章・功一級・レジオンドヌール勲章コマンドゥ―ル等)だった。
この平壌の戦いは、第五師団長・野津中将が、功名を焦る感情が作用して、攻撃を急いだものと、思われた。桂中将も第三師団を率いて平壌攻撃に参加したかったのである。
桂中将は、後年、この平壌の戦いについて、「第五師団長は、軍の到着を知りつつ、平壌を攻撃し、苦戦の後、辛うじて平壌を占領するを得たり」と述べており、野津中将の行動に批判的な言葉を残している。
十月に入って、第三師団は平壌を出発して北進し、十月下旬には第一軍の全軍が鴨緑江(おうりょっこう)岸に到着した。
鴨緑江渡河作戦の第一陣は第三師団が担い、十月二十四日、架橋を成功させ、翌朝から次々に対岸に渡り、清国領土内に進出、たちまち虎山(こざん・遼寧省)を占領した。
この渡河作戦の前夜に詠んだ桂太郎中将の次の一首が残されている。
「をちこちの敵の砦は燈も消えて かわかぜさむく身にしみにけり」。
十月下旬の朝鮮半島の北端で、国境の大河鴨緑江河畔の夜は、すでに冬の寒さだった。桂中将にとって、清国領土へ進攻する第一陣の指揮官として、身の引き締まる思いを歌に託した。
清国領土内の進撃は、山縣軍司令官は、第五師団を戦線の左方に配置し、九連城(きゅうれんじょう)攻撃を命じ、第三師団を右方に配置、北上することを命じた。
だが、この配置の進撃では、「第三師団は、決戦に参加できず、後方守備の駐屯部隊にまわることになる」と桂中将は考え、不満が増してきた。
九連城はほとんど清国軍の抵抗なく占領したため、第五師団の一部は通天溝(つうてんこう)に向かって進撃を続けた。またしても野津道貫中将の第五師団に先を越された。遂に桂中将は、左方に突っ切る決心をした。
桂中将は、第三師団主力を持って、安東(あんとう)県目指して進撃を開始した。これにより、第五師団と第三師団の位置が交差して、第三師団は戦線の左方に進出することになった。
これは命令違反だった。この変化を修正するため、第一軍司令部は、命令を伝達したが、第三師団長・桂中将は、予定を変更せずに、安東県へ進撃を続けた。
第一軍司令部では、この桂中将の独断変更を憤慨する者が多かったが、軍司令官・山縣大将は、平壌攻撃時の野津中将の第五師団独断攻撃を容認していたので、今回の桂中将の命令無視も、罰することができなかった。
この第三師団の行動について、当時、第三師団参謀長心得だった木越安綱(きごし・やすつな)中佐(金沢・陸士旧一・西南戦争・陸軍少尉<二十三歳>・陸軍士官学校教官・中尉<二十六歳>・ドイツ陸軍大学卒業・歩兵大尉<二十九歳>・陸軍大学校教授心得・監軍部参謀・少佐<三十四歳>・近衛歩兵第四連隊附・陸軍外山学校教官・第三師団参謀・中佐<三十九歳>・第三師団参謀長心得・日清戦争・大佐<四十歳>・第三師団参謀長・軍務局軍事課長・少将<四十四歳>・台湾陸軍補給廠長・台湾総督府陸軍幕僚参謀長・軍務局長・歩兵第二三旅団長・兼韓国臨時派遣隊司令官・中将<五十歳>・後備第一師団長・第五師団長・アメリカ出張・男爵・第六師団長・第一師団長・陸軍大臣・貴族院議員・男爵・従二位・勲一等旭日大綬章・功二級・レジオンドヌール勲章コマンドゥ―ル等)は、後に次のように回顧している。
「各所からの攻撃が非常であって、軍司令部からも睨まれ、一時は立場もない位で……」。