陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

240.山下奉文陸軍大将(20)「将軍はなぜハラキリをしないのか」

2010年10月29日 | 山下奉文陸軍大将
 昭和二十年八月十五日、終戦を迎え、九月二日、山下大将は山を降りて、キャンガンに向った。降伏調印式は、九月三日、バギオの高等弁務官別荘で行われた。

 九月三日午前九時三十分、山下大将は武藤参謀長、海軍側の南西方面艦隊司令官・大川内傳七中将(海兵三七・海大二〇)と参謀長・有馬馨少将(海兵四二・海大二五)とともに席に着いた。

 だが、入ってきた連合国軍側の一人を見て眼をみはった。シンガポール攻略戦で、降伏したパーシバル中将がいた。

 パーシバル中将は捕虜として日本にいるはずである。戦争終結により釈放されたのであろうが、フィリピン戦線の降伏調印式に出席するのは場違いである。山下大将は驚き、隣に座る武藤参謀長も肩をそびやかせた。

 パーシバル中将はジョナサン・ウェインライト中将(バターン半島コレヒドール要塞の米軍指揮官)とともに、マッカーサー元帥により、東京湾での降伏調印式に招かれ参列した。そのあと、やはりマッカーサー元帥の計らいでバギオの降伏調印式に招かれたのだ。

 そのときの感想を後にパーシバル中将は次のように書き残している。

 「山下が部屋に入ってきた時、私は、彼の一方の眉が上がり、そして驚きの表情がその顔をかすめたのを見た。しかし、それはほんの一瞬だった」

 「彼の顔はすぐ、全ての日本人に特有な、あのスフィンクスのような、謎の表情に再び戻った。そして彼はそれ以上、何らの関心も示さなかった」

 山下大将は降伏調印後マニラ南方三十マイル、リサール県モンテルパ町にあるニュー・ビリビッド刑務所に捕虜として収容された。

 そこには、すでに十人以上の将官が分住していた。二、三人ずつの同居形式だが、山下大将は個室をあてがわれた。待遇はよかった。廊下伝いに並ぶ他の将官室との往来も自由だった。

 だが、様子がおかしい。パーシバル中将の存在は山下大将に衝撃を与えた。パーシバル中将はマッカーサー元帥の特命で、終戦直後に捕虜収容所からフィリピンに送られたのだった。

 だが、フィリピン戦の降伏調印式出席には、パーシバル中将は何の関係もない。理由があるとすればただひとつ・・・・・・かつての敗将の前に頭を下げさせる、という露骨な報復意識意外には無い。

 屈辱の念が山下大将を襲った。それがいかに激しく、耐え難く感じられたか。「私はあのとき、自決をしようとさえ思った」と、山下大将は後に処刑の直前、森田教戒師に述懐している。

 ある日、アメリカの記者が山下大将に質問した。「将軍はなぜハラキリをしないのか」。後にアメリカ人弁護人の一人も東條英機大将の自決未遂に関連して、同様な疑問を表明した。

 山下大将は「陛下は自決せよとはご命令になっていない」と答え、東條大将については、「責任を回避しようとしたのであり、不忠と思う」と、語気鋭く、キッパリと述べた。

 昭和二十年九月二十五日、山下大将は戦犯として裁判にかけられる旨の通告を受けた。起訴状には次のように述べられていた。

 「日本帝国陸軍大将山下奉文は、一九四四年十月九日より一九四五年九月二日の間、マニラおよびフィリピン群島の他の場所において、米国およびその同盟国と戦う日本軍司令官として、米国民およびその同盟国民と属領市民とくにフィリピン市民にたいする部下の野蛮な残虐行為とその他の重大犯罪を許し、指揮官として部下の行動を統制する義務を不法に無視し、且つ実行を怠った。ゆえに彼、山下奉文は戦争法規に違反した」

 十月八日、マニラ市の高等弁務官邸ホールで、軍事裁判の第一回公判が開かれた。その後公判は進み、十二月八日午後二時、山下大将に「絞首刑」の判決言い渡しが行われた。わずか十五分だった。

 「絞首刑」の判決が言い渡されたとき、山下大将ははっきり聞き取れなかった様子で、左横の浜本通訳に首を傾けて、「なに」と聞いた。

 浜本通訳が小声で「首をくくるんですよ」と言うと、山下大将は「お、そうか」とうなずき、武藤参謀長、宇都宮参謀副長とともに法廷を去った。

 昭和二十一年二月二十二日午後十一時、山下大将は収容所テントから自動車でマニラ郊外ロス・パニョスの処刑場に送られた。処刑の宣告を受けたのは、ほかに太田清一憲兵大佐、東地通訳の二人だった。

 二月二十三日午前三時二分、山下大将の絞首刑は実行された。絶命は午前三時二十七分と記録されている。享年六十歳だった。山下久子夫人が山下大将の正式死亡通知を受け取ったのは、さらにその三ヵ月後だった。

 いわば、山下大将の歩みには、つねに得意と失意が絡み合い、得意においても失意においても、山下大将の胸中には不本意の想いがよどみ、忍苦の歯がみが消えなかった。

 だが、持ち前の細心さと豪気に支えられ、時に応じての諦観がなかったら、その経歴はもっと早く断絶していたかもしれない。

(「山下奉文陸軍大将」は今回で終わりです。次回からは「山口多聞海軍中将」が始まります)

239.山下奉文陸軍大将(19) 少将と知って、バカヤロウと叫ぶのは誰か

2010年10月22日 | 山下奉文陸軍大将
 山下大将が配備したクラークフィールド飛行場を守る塚田理喜智中将(陸士二八・陸大三六)が指揮する建武集団も、一月末には崩壊した。二月に入ると積極的攻撃はできなくて、もっぱら防戦に苦慮する状況になった。

 バギオもすでに三度の大空襲を受け、山下大将は山腹の防空壕に移った。山下大将はこの頃、本来の持久構想に戻り、作戦の指導は武藤参謀長にゆだねていた。

 山下大将は率先して対空警戒に注意を払った。防空壕の偽装でも、入口のまわりに松葉をちりばめている曹長達に、「おい、その枝はこっち・・・・・・いかん、いかん。その枝の置き方は不自然だ」などと、細かい指示をした。

 西村敏雄少将(陸士三二・陸大四一恩賜)の内地転任のあとをうけ、駐フィリピン大使館武官兼参謀副長に任命された宇都宮直賢少将(陸士三二・陸大四二)は「大将の仕事じゃない。せいぜい大尉参謀の仕事ですよ。閣下はもっと野放図な方と想像していただけに、細心ぶりは意外でした」と後に述べている。

 ある日、午前五時頃、宇都宮少将が宿舎から司令部に向おうとしたときである。敵機は早くても午前八時頃、朝食後に飛来するのが慣例だったので、宇都宮少将はまだうす暗い焼け跡を安心して歩いていた。

 ものの二百メートルも来たかと思うと、前方に怒声がとどろいた。「そこへ行くのは誰だ、バカヤロウッ」。夜明け前とはいえ、人影の見分けはつくし、軍人なら宇都宮少将を知らぬはずはない。では、少将と知って、バカヤロウと叫ぶのは誰か。

 山下大将だった。豪の入口に立って、「豪の近くをうろうろしては敵機に発見される。キミみたいな立場の者が模範を示さにゃいかんじゃないか」と言った。

 宇都宮少将は「こんなに朝早くは来ませんよ」と言おうと思ったが、山下大将がすごい剣幕だったので、「どうも失礼しました」と言って副官と一緒に道端の垣根の横を腰をかがめて通った。

 戦後に、宇都宮少将は東京に設立された米軍日本地区語学校の教官になったが、学生の一人、ウオーカー少佐が、「戦時中バギオの山下司令部の爆撃を命じられて、毎日上空を飛んだが、遂に発見できなかった」と述懐した。

 宇都宮少将は「なるほど、あれを大尉参謀ぐらいがやっていたら、やはり大尉だけにどこかに手抜かりがあったかもしれない。山下大将が、おやりになってこそだ」と述べた。

 昭和二十年四月十六日、山下大将は、バギオを撤退して、バンバンの戦闘司令所に司令部を移すことに決め、自動車でバギオを離れた。

 バンバンは標高四百メートルの高地で、ジャングルを分け入ったマンゴー林のニッパ・ハウスが点々と並んでいるのが、バンバン戦闘司令所だった。

 上陸したアメリカ軍は、ルソン島のジャングル地帯に対しての攻撃は困難を極めた。進攻進度も停滞していた。

 攻撃してきたアメリカ第三十二師団長のW・ギル少将は「水不足、暑さ、ほこりという三重苦のうえに、洞穴から洞穴、タコ壺からタコ壺に飛び移って攻撃するという日本軍という最大の苦難に直面し、わが軍の前進は文字通りインチ単位のものでしかなかった」と回想している。

 一方、日本軍のバンバン戦闘司令所の責任者は小沼治夫少将(陸士三二・陸大四三)だった。小沼少将は、カガヤン河谷に集まる部隊を新編成しては前線に送り、敵の攻撃に対処した。

 おかげで、直接には、山下大将も武藤参謀長も、なにもすることがなかった。報告を聞くだけだが、その報告は、降雨による相次ぐ橋の流失か、でなければ、次々の陣地の失陥だった。

 五月八日、山下大将は全軍に「一致団結して、凱歌を奉せん」という趣旨の訓示を布告した。だが、各部隊は分散しており、連絡もとぎれがちになっていた。

 山下大将は、雨のふきこみを防ぐためにニッパ屋根の端を長くたらした薄暗い室内に黙居し、ぐらつくテーブルにとまるハエをハエたたきでたたいては、無聊をまぎらした。

 山下大将は、ハエたたきは常に離さず、報告に訪れる参謀に止まっていれば、顔、手をかまわず、無言でピシリとたたいた。

 「老将の蝿叩きをり卓ひとつ」と武藤参謀長が一句を献ずると、山下大将は「発句か」と無愛想に論評した。

 「とんでもない、俳句ですよ」と、大将のハエたたきと同様、芭蕉句集を座右から離さない武藤参謀長は憤然と言い、俳学の薀蓄を傾けて発句にあらざる所以を解説した。

 だが山下大将は「だが、ここには老将はおらんよ」とぷすりと言った。武藤参謀長は「私はあきれた。まだ老将ではないらしい」と記しているが、当時、山下大将は五十九歳。武藤参謀長は五十二歳だった。

 山下大将は読書もほとんどせず、まれに読めば講談本くらいだったという。ただ軍務一点張りで、他に趣味も無ければ道楽もない山下大将は、フィリピンの山中にあって、とくにバギオが陥落してからは敗報を聞くだけで何もすることがなかった。そんなとき、空襲の合間に小川の流や、野花の美しさをぼんやり眺めて、少年時代を懐かしんだという。

 苦戦していたアメリカ軍は、それでもルソン島の日本軍の重要拠点はほとんど占領した。米軍第三十七師団がバレテ峠からまっしぐらにバンバンに迫ってきた。山下大将は司令部移転を決定し、先行してキャンガンに向った。

 昭和二十年六月五日、宇都宮参謀副長ら第十四方面軍司令部要員は、山下大将の後を追って、バンバンを脱出して、キャンガンに向った。

 軍司令部要員がキャンガンに到着したのは一ヵ月後の七月五日だった。だが、キャンガンもアメリカ軍の攻撃が迫り、山下大将は次の軍司令部用地に向けて出発していた。

 山下大将が、ハバンガンからアシン河の渓谷を上下し、標高千五百メートルの断崖中腹に設けられた新司令部に到着したのは七月十二日だった。

 アメリカ軍のマッカーサー元帥はすでに、六月二十八日、ルソン島主作戦終了の声明を発表していた。

238.山下奉文陸軍大将(18) 一体何人殺せば作戦課は気が済むのか

2010年10月15日 | 山下奉文陸軍大将
 山下大将は、相手の航空兵力が何の損害を受けていないのに、決戦場をレイテ島に移すのは危険であり、ただ兵力を増派して勝利が得られると考えるのは甘い。また、それによる兵力の分散は、その後の戦力の衰退に陥ると考えた。

 そこで、命令を確認するため、武藤章参謀長(陸士二五・陸大三二恩賜)の提案で、参謀副長・西村敏雄少将(陸士三二・陸大四一首席)が、樺沢副官と共に南方総軍司令部に向かった。

 総軍司令部では、西村少将が寺内軍司令官に面会した。樺沢副官が、部屋の外で待っていると、寺内閣下の気に障ったとみえ、次第に声が高くなって、「とにかく、やれといったら、やれ」と言う、寺内閣下の声が聞こえてきた。結局、寺内元帥は山下大将の主張を突っぱねた。

 仕方なく山下大将はレイテ決戦に挑んだが、十月二十四日、二十五日のレイテ沖海戦でも海軍の連合艦隊は大損害を受けた。レイテ島では陸軍の第三十五軍も多大な損害を出した。

 山下大将は十一月九日、武藤章参謀長を南方総軍に派遣して、レイテ作戦の中止を進言させた。

 ところが、南方総軍はなお決戦続行の支持で応え、十一月十七日、サイゴンに司令部を移転した。だが、十二月十五日、ルソン島南部に隣接するミンドロ島サンホセに米軍が上陸してきた。

 この時点で、山下大将は、第三十五軍司令官・鈴木宗作中将(陸士二四・陸大三一恩賜)に対し、レイテ作戦中止と、第三十五軍のレイテ島撤退を許可する命令を出した。

 昭和十九年十一月下旬、第十四方面軍司令部の移転先として、武藤参謀長がルソン島西部の避暑地、バギオを選定し、同地区の守備隊に内示して準備を命じた。

 昭和十九年十二月三十一日、イポの戦闘司令所に山下大将と幕僚は陣取っていた。「大本営参謀の情報戦記」(堀栄三・文春文庫)によると、戦闘司令所の一隅の机をはさんで、年取った大尉が同僚数人と大声で話し合っていた。

 山下大将の司令部で情報主任参謀の職務をしていた堀栄三少佐(陸士四六・陸大五六)の耳にも、彼らの話が聞こえてきた。それは退職してからの恩給やら、退職金の額のことで、算盤をはじいて話しに花を咲かせていた。

 その声が少々大きいのと、戦場にふさわしい話とは受け取れなかったので、堀少佐は堪らなくなって、「おい、ここは戦場だぞ!」と怒鳴った。

 話は止んだ。山下大将は司令部の片隅の机から見ていたようだった。山下大将はしばらくして堀少佐を呼んだ。そして次の様に言った。

 「堀よ、お前はまだ若いから、ああいう話は承知ならんようだが、あの人たちには大事なことなのだ。怒ってはいけない。いまにお前にも判る時期が来る。それにあの人たちの中には赤紙一枚でもう何年も召集されている者もいるのだ。赤紙一枚で戦略の失敗の犠牲になっていった人が何百万といる」。

 山下大将は周囲に聞こえないように、静かにやわらかく、大将の机の端に手をついて耳を寄せるように聞いていた堀少佐の手の上に、山下大将は大きな手を重ねて、「わかったな」という目をした。

 昭和二十年元旦、山下大将は戦闘司令所の部下と共に、ダムの水煙をこえて、はるかに皇居にむかって遥拝した。部下たちが頭を上げても、山下大将はまだ頭を下げていた。

 一月二日、山下大将の第十四方面軍司令部は、桜兵営に戻り、一泊の後、バギオに向った。大本営も南方総軍も去った。もう誰も助けてくれない。

 「方面軍、大本営に殉ず」。武藤章参謀長はこう述べた。武藤参謀長は山下大将とともに当初のルソン決戦を主張し、レイテ決戦には始終反対だった。誤った戦略への批判を、そう表現したのである。

 武藤参謀長は無謀極まる捷一号作戦とレイテ決戦を計画指導した連中を名指して、「一体何人殺せば作戦課は気が済むのか」とも非難して激怒していた。第二十六師団がレイテ上陸に失敗して多数の海没者を出したことである。

 一月九日、米軍は二千百隻の上陸用舟艇をつらねてリンガエン湾に来攻した。二十万三千人の大部隊だった。

 山下大将はリンガエン地区を守備している師団長・西山福太郎中将(陸士二四・陸大三七)が指揮する第二十三師団と旅団長・佐藤文蔵少将(陸士二四)が指揮する独立第五十八旅団に攻撃を命じた。

 だが、砲爆撃の傘の下を進む米軍に対して反撃は困難だった。師団長・岩仲義治中将(陸士二六・陸大三七)の指揮する戦車第二師団隷下の第三旅団長・重見伊三雄少将(陸士二七)が連隊長・前田孝夫中佐の指揮する戦車第七連隊の一部を派遣して、一月十六日と十七日に攻撃を行った。

 だが、その結果は、日本軍が戦車九輛、人員二百五十人を失ったのに比べ、アメリカ軍の損害は、死傷八十五人、トラック三台にとどまった。

 その後も山下大将は、さらなる反撃を命令した。だが重戦車と火砲を揃えている米軍の攻撃に、防御がやっとだった。保有戦車の大部分を地中に半没して砲台化した戦車旅団も、ゲリラの通報により正確な空爆を受けた。

 その結果、半没していた旅団のほとんどの戦車は吹き飛ばされた。旅団長・重美少将も、米軍のシャーマン戦車の七五ミリ砲を受けて車体もろとも四散した。

237.山下奉文陸軍大将(17) 時来れば 古巣にかへる つばめかな

2010年10月08日 | 山下奉文陸軍大将
 昭和十九年九月三十日、山下大将は、第十四方面軍参謀副長に任命された西村敏雄少将(陸士三二・陸大四一首席)と樺沢副官を伴って、宮中に伺候した。

 「ゴ苦労デアル・・・帝国ノ安危ハ一ニ比島軍ノ肩ニカカッテイル・・・」。頭をたれる山下大将の肩に、ややかん高い、ゆっくりした天皇の声が流れた。

 山下大将は、侍従に教えられた作法通りに、静かに後ずさるように退出したが、扉口の手前で、ふと眼を上げて、はるかに端座する天皇を仰ぎ、深々と拝礼した。

 こうして山下大将はフィリピンに赴任する前に、やっと東京に帰ってきて天皇に拝謁することができた。このことは、「小倉庫次侍従日記」(文藝春秋・2007年4月号)に、九月三十日のところに、「陸軍大将山下奉文出征ニ付拝謁」と記してある。

 ただし、そのときの謁見は九時三十分から四十五分までとなっており、わずか十五分間だった。それでも山下大将は感涙にむせんだ。天皇の軍隊の陸軍大将として戦争をやって、天皇に尽くしながら、天皇に会えない。それが、やっと会えたのだから。

 十月三日の夜、久子夫人が偕行社に山下大将に会いにきた。雨のため、出発は一日延期になった。四日、山下大将は参謀本部で打ち合わせをした後、夫人と食事をした。夫人はさぞ、なにか話があるものと思ったが、山下大将は「空襲の時は気をつけろ」と、言っただけだった。

 不満気な夫人は、思いついて、「よその人にあげるだけでなく、家にも色紙の一枚ぐらい書いておいてほしい」とねだった。

 山下大将は承知した。「時来れば 古巣にかへる つばめかな」。「ずいぶん、優しいんですね」と夫人は言った。珍しいことと夫人は思い、ウフッと鼻で笑う大将に別れて鎌倉の実家に帰った。

 実家に帰ると夫人は、ひとり自室に閉じこもった。夫人は色紙に山下大将の雅号印「巨杉」を押すと、震える手をいつまでも押さえ続けた。

 「丸エキストラ戦史と旅・将軍と提督」(潮書房)所収「山下奉文の人間性」(沖修二)によると、当時、スマトラのメタンの近衛第二師団長・武藤章中将(陸士二五・陸大三二恩賜)は後日、山下大将の指揮する比島方面軍(第十四方面軍)の参謀長に任命される。

 山下大将が比島方面軍司令官に任命されたことを知ると、武藤師団長は「この処置は半年遅れた。今頃、山下大将をもっていってもだめだ」とはっきり言った。

 そして後日、自分がその参謀長任命を受けると、「私に課せられた命令は死の宣告であった。私の最後のご奉公だ。十分に山下大将を補佐せねばならぬと誓った」と武藤中将は手記に記している。

 「悲劇の将軍」(今日出海・中公文庫)によると、山下大将がマニラのニルソン飛行場に着いたのは昭和十九年十月六日で、それから一週間後にアメリカ航空母艦群が台湾沖に現れて、大空中戦が行われた。これが台湾沖航空戦である。

 また、山下大将が着任して十五日目にレイテ島タクロバン沖にアメリカ艦隊は姿を現し、強行上陸を開始し、守備に当たっていた垣兵団と激戦を展開しているとの電報を見て、さすがの山下大将も「遅かった」と思った。

 昭和十九年十月十二日から十六日にかけて行われた台湾沖航空戦は、フィリピンのレイテ島攻略をめざすアメリカ海軍空母機動部隊(空母十七隻、その他艦艇約八十隻)に対して、日本海軍の航空機が攻撃を行った。

 その結果日本の大本営は十月十九日、撃沈は空母十一隻、戦艦二隻、巡洋艦三隻など、撃破は空母八隻、戦艦二隻、巡洋艦四隻、その他十四隻、我が方の損害は飛行機未帰還三百十二機、と大本営発表を行った。

 日本では戦勝を祝して提灯行列が行われ、天皇陛下から、南方方面陸軍最高指揮官、連合艦隊司令長官、台湾軍司令官に対して「朕深ク之ヲ嘉尚ス」とお褒めの言葉が下った。

 小磯国昭首相も気を良くして、「次はフィリピン決戦だから、ここで敵を追い落とす」と演説した。

 大本営はもともとフィリピンのルソン島で決戦を計画していたが、台湾沖航空戦の後、変更してレイテ島決戦を行うと言い出した。

 フィリピンの第十四方面軍司令官・山下大将は、堀栄三郎少佐から台湾沖航空戦の大本営発表は信用できないとの報告を受けて、現時の状況からも、アメリカ海軍の機動部隊は殆ど損害を受けていないと判断した。

 ところが十月二十二日、突然、上級部隊である南方軍の総司令官・寺内寿一元帥(陸士一一・陸大二一)は、第十四方面軍司令官・山下大将に、「ナルベク多数ノ兵力ヲモッテ、レイテ島ニ来攻セル敵ヲ撃滅スベシ」と命令した。

236.山下奉文陸軍大将(16) 山下大将は吐き出すように叫んだ。「俺は郵便物じゃないぞ」

2010年10月01日 | 山下奉文陸軍大将
 だが、西山総裁が、ただ統制派、皇道派という旧式の軍閥類型を信じ、統制派、東條のあとは皇道派の天下と見込んで、山下大将の出馬応援運動を試みようとするのであれば見当違いだった。

 山下大将の観察では、軍部内の派閥に依存していては目下の困難は打開できず、だいいち、現状のように大量の将校が任用され、しかも昇進と移動が激しい環境にあっては派閥は構成しようがないのだった。

 「自分は、満州のおもしが一番似合っていると思います」。山下大将は首をふり、西山総裁は数回繰り返して意向を確かめるようだったが、そのうちにあきらめた様子で帰って行った。

 昭和十九年九月二十三日、山下大将はフィリピンの第十四方面軍司令官転補内命の電報を参謀長・四手井綱正中将(陸士二七・陸大三四恩賜)から受け取った。

 「そうか、きたか」。山下大将は、そう答えたが、その声には意外さの驚きがこもっていた。

 山下大将としては、すでに次々に南方に転出する指揮下師団の壮途を見送りながら、必ずや予期されるソ連との一戦に備える覚悟を固め、さもなければ梅津大将の練る重慶工作に渾身の手腕を振るうことを期待していたのだった。

 内命電は九月二十八日までに東京に着くようにと指示していた。山下大将の久子夫人は、前年八月、鈴木貞夫大尉に代わって副官となった樺沢寅吉大尉の夫人と共に、「内地に帰るよりは、牡丹江で留守を守る」と山下大将に申し出た。

 途端、山下大将は、ぎろっと双眼をむいて、低い声で久子夫人に「いかん。どうせ死ぬなら、親兄弟の土地のほうがよかろう」と言った。

 「えっ」と、久子夫人は、はじめて知らされる予想外の戦勢にびっくりしたが、大将の指示に逆らうわけにもいかなかった。久子は樺沢夫人とともに内地に引き揚げることになった。

 山下大将は樺沢副官とともに、九月二十七日午後一時、汽車で牡丹江を出発した。翌二十八日午前六時、新京に到着した。

 新京では、あわただしく満州国皇帝、梅津大将の後任の関東軍司令官・山田乙三大将(陸士一四・陸大二四)に挨拶をすませ、午前十一時、新京飛行場発のMC輸送機で立川に向った。

 立川飛行場に到着した山下大将は、出迎えの参謀、一戸公哉中佐(陸士三九)と田中光佑少佐(陸士四六・陸大五二)の二人と自動車で九段の偕行社に向った。

 車は青梅街道を走った。沿道の森に太鼓の音が鳴り響いていた。かねて勇名を聞き、初めて接する巨大な山下大将の風貌に圧倒されて、コチコチになっていた田中少佐が「今年からお祭りもにぎやかにやれるようになりました」と山下大将に話しかけた。

 「うむ・・・・・・祭りもやれんようじゃ、戦には勝てんよ」と、もそりと答えた山下大将は、気にかかっていた質問を田中少佐に尋ねた。「ところで、俺は何日くらい東京におれるんか」。

 田中少佐は「ハッ、十月一日ご出発の予定であります」と答えた。「なにィ」。ぐいっと身をねじ起こす山下大将の巨体の動きに、横に座っていた二人の参謀は、ごりっと窓際に押し付けられた。

 「十月一日・・・・・・それじゃ、あと二日しかないじゃないか。バカをいえ。俺は今度の戦さが始まって、初めて東京の土を踏むんだ。今度は二度と帰れん覚悟もしとる。二日じゃあ、打ち合わせも挨拶もできんじゃないか」と言い、山下大将は吐き出すように叫んだ。「俺は郵便物じゃないぞ」。

 車の中で山下大将は次の様に思った。

 「シンガポール攻略のあとの軍状奏上の機会消失は、東條の差し金とあきらめもしよう。だが、今の参謀総長は敬愛する梅津大将ではないか」

 「その梅津大将の決定だとすれば、梅津総長もまた、所詮は派閥のしこりを残して、わが最後の壮途を無味にしようとするのか」。

 山下大将は「よし、俺が話す。直接総長に話す」と、たぎる憤怒を抑えて言った。田中少佐はあわてて「わかりました。閣下のお心に添うよう善処致します。お任せ願います」と言った。山下大将はそれ以上何も言わなかった。

 九段の偕行社に着くと、三階の応接室で山下大将は樺沢副官に「オイ、樺沢、ウイスキーをくれ」と言って飲み始めた。

 第二十五軍当時の部下であり、再び大本営派遣参謀として山下大将の指揮下に入ることになった朝枝繁春少佐(陸士四五・陸大五二)が訪ねてきた。また、参謀本部の部長、課長も次々に訪れた。

 ところが、むすっとしてウイスキーのグラスをなめる山下大将は不機嫌だったので、皆、早々に退散した。

 だが、その翌日、三長官への挨拶を済ませ、参謀本部で服部卓四郎作戦課長(陸士三四・陸大四二恩賜)の説明を聞いて帰ると、田中少佐が、十月四日に出発延期の朗報をもたらした。

 それを聞くと、山下大将の顔は血色をとりもどした。さらに田中少佐は翌日の九月三十日、親補式挙行の通知もたずさえてきた。

235.山下奉文陸軍大将(15)山下、もし君に大命が降下したら、やる気があるか

2010年09月24日 | 山下奉文陸軍大将
 梅津大将を智将というなら、山下中将は勇将または政将、阿南中将は徳将の名がふさわしかった。さらに軍閥的区分は、梅津大将は新統制派、山下中将は皇道派、阿南中将は無色中立だった。

 また、山下中将と阿南中将は陸軍士官学校十八期の同期生である。山下中将がかつて陸軍の主流街道を突っ走ったのに対し、阿南中将は陸大入試を三回も失敗し、昇進はもたついた。

 だが、山下中将は、阿南中将とは不思議にウマがあい、阿南中将も山下中将に兄事する風情があった。第一方面軍司令官に山下中将が赴任途中、青島に到着すると、やはり第二方面軍編成に待機していた阿南中将が飛行場に出迎え、新京でもチチハルに向う阿南中将は出発を遅らせて、山下中将の牡丹江行きを見送った。

 この友誼に、山下中将の胸中のつかえは溶解した。満州協和会幹部の一人が、山下中将を訪ねて、三将軍の存在に触れ「陸軍の粋が集まりましたな。少し、もったいないみたいですな」と喚声を献呈した。

 すると山下中将は「南に阿南あり、新京に梅津閣下、東に山下がおる。満州はご安心ください」と答えたといわれている。

 昭和十八年二月六日、山下中将はハルピンに向かい、軍人会館で各師団長から初年兵教育に関する報告を受けた。

 その後、師団長達と会食をしようとするとき、山下中将に陸軍大将進級の内命電を受け取った。山下中将は、電報を開くと、失礼、と師団長一同に断って一室に入り、しばらく出てこなかった。

 なにごとか、と師団長達は私語をしていたが、現れた山下中将の「うれしい便りでした」の一言に、それとうなずきあった。

 山下中将の大将進級は当然に期待されていた。中将から大将になるには、中将を四年つとめねばならない。むろん中将を四年間過ごしたからといって、誰でもが大将になれるわけではない。

 だが、山下中将は過去の経歴、とくにシンガポール攻略の偉功を考慮すれば、大将有資格者の筆頭に数えられた。

 山下中将が、中将に進級したのは昭和十二年十一月。本来ならば、昭和十六年十一月にも大将になってもよく、少なくともシンガポール攻略直後に昇進するのは、自然だとみなされていた。

 昭和十七年中には必ずと誰しもが思っていただけに、その昭和十七年が暮れると、何とはなしに、山下中将の前途にたいする不吉な風聞がささやかれはじめた。

 いわく、山下中将はニ・二六事件の際に、反乱青年将校に味方したので、天皇の不興を買った。そのため、大将進級予定者の上奏名簿がお手許に届き、山下中将の名前があると、陛下は無言で名簿を伏せて御璽(ぎょじ)を捺印されないそうだ・・・・・・。

 それだけに、山下中将の感銘はひとしおだった。昭和十八年二月十日、正式発表とともに梅津関東軍司令官から大将の階級襟章一組、鯛一尾、酒一樽が届けられた。

 山下大将は親友、阿南中将の身上に想いをはせた。「今度は阿南の番だよ」。

 山下大将の言葉どおり山下大将の進級三ヵ月後の五月一日、阿南中将も大将に進んだ。山下大将は祝電を打ち、その四日後、関東軍総合演習視察のために遼陽に到着すると、真っ先に阿南大将を訪ねた。

 「やあ」「おう」。お互いに真新しい大将の襟章を眺めあいながら、二人の大将はニコリとうなずきあった。梅津大将もその側で微笑した。

 東條内閣が倒れたのは昭和十九年七月十八日だが、山下大将はその少し前、満州中央銀行の西山勉総裁の来訪を受けた。

 西山総裁はもっぱら東京の政情を詳しく語り続けた。西山総裁は別れ際に「山下、いずれ君も東京に出て大いに働いてもらわねばならんときが来るだろうよ」と言った。

 「・・・・・?」。山下大将が質問しようとすると、西山総裁はそのまま手を振って自動車に乗り込んだ。山下大将の胸中を東京から伝わってきていた「陸相候補説」がよぎった。

 だが数日後、意外にも西山総裁は再び牡丹江にやってきた。そして、言った。「山下、もし君に大命が降下したら、やる気があるか」。

 「大命・・・・・・」。さすがに驚く山下大将に、西山総裁は、おそらく十分な確信を持っているらしく、「近く東條内閣が瓦解する」と言った。そして付け加えた。「今度は皇道派の出番だろう」。

 「いや、いまさら統制派、皇道派、はありますまい」と山下大将は即答した。山下大将は、もし西山総裁の話がほかの根拠に基づいていたなら、あるいは胸奥は大きく波立ったかもしれない。

234.山下奉文陸軍大将(14)東條が山下中将の総理就任を恐れて左遷した

2010年09月17日 | 山下奉文陸軍大将
 井伏はシンガポールで「マレーの虎」に怒鳴りあげられたのだから災難といえば災難だった。井伏は日常、「猛禽類」と綽名されるほど激しく憤りを露にする人として知られていたそうだが、山下軍司令官閣下にかかってはかなわなかった。

 当時、山下軍司令官はマレー住民の食糧問題で危機に追い込まれる立場に立たされていた。糧食がどこからも来なくなって、住民の死活問題だと言われるようになった。

 インドの食糧が来れば暫くは助かるが、華僑協会がそれを援助するかどうか、二つに一つというところに来ているようだった。それで山下軍司令官は頭を痛めていたのだ。

 そのようなとき、北川冬彦が詩で、「マレー人の女が雑草を食べている」と書いた。しかも「宣伝班の食堂では、平気で雀にパンを食べさせている」と書いた。

 それで、山下軍司令官はカッとなったのではなかったか、と井伏は思った。宣伝班に来ると山下軍司令官はいきなり、敗戦国の人間が草を食うのは当然だというようなことを言ったのだ。

 「悲劇の将軍」(今日出海・中公文庫)によると、シンガポールの陥落は日本人を熱狂させた。この派手な攻略戦の軍司令官は覆面を脱ぐと、西郷南州にそっくりの山下奉文中将だった。

 敵将パーシヴァル中将との降伏調印の場面は、洋画家・宮本三郎画伯により描かれ戦争画にも載り、ニュース映画でも流された。あの無愛想に口をへの字に結んだ山下中将の巨体が、痩せたパーシヴァルを圧して、無条件降伏に「イエスかノーか」と迫った場面は当時、子供でも忘れられないものだった。

 シンガポールを陥落させた山下中将が、満州の第一方面軍司令官の内命を受けたのは、昭和十七年六月下旬、南方軍総司令官・寺内寿一元帥の一行のマレー視察の際であった。

 山下中将は、寺内司令官が囲碁を好むことを知り、鈴木副官に携帯碁盤を用意させた。おかげで、旅行は寺内司令官のニコニコ顔で始終し、随行の参謀連も司令官の上機嫌に便乗して、視察地の随所で「一行支那娘ト共ニ沈没」といった歓をつくした。

 山下中将が、満州に新設される第一方面軍転補の内命を受けたのは、そういう「歓楽旅行」の終わり頃だった。

 山下中将は七月一日、旅行を終えて帰ると、その夜、寺内司令官を主賓とする盛大な宴会を迎賓館で開いた。すでに内命を承知している山下中将としては、別離の宴のつもりだった。

 軍司令官は本来なら東京に帰ってきて、親任式で天皇に戦況報告をして、お言葉を頂いてから次の赴任地に行く。だが、山下中将はマレー作戦の功労者であるにもかかわらず、日本に帰ることは許されず直接満州に飛んだ。

 理由は「防諜のため」ということだった。いわゆる覆面将軍として赴任し、適当な時期に着任を発表するためだが、仮にもシンガポール攻略の英雄将軍である。

 その軍司令官が天皇に会えないという事態は異常なことだった。このように偶像視され、迷信的に信頼された将軍が大将に昇進したことだけは判ったが、再び覆面して満州の第一方面軍司令官になってソ満国境防衛に当たっていたことを知っている人は少なかった。

 また、知っている人も中央から敬遠されているのではないかと疑った。シンガポール陥落後、山下中将は総理大臣になるという噂も巷に伝わった。

 東條首相が山下中将を内地に帰らせなかったとも言われている。東條よりも陸士一期下の十八期生である山下中将は、東條の次の首相に予想されたのも無理は無かった。

 その山下中将が突然覆面に戻って消息を絶ったのだから、東條とソリが合わず、東條が山下中将の総理就任を恐れて左遷したのではないかと、暗黒政治に有識者は眉をひそめた。

 第一方面軍司令部は満州の首都、新京の東北方、小興安嶺の麓の牡丹江に置かれていた。この第一方面軍約三十万人の軍司令官に山下奉文中将(陸士一八・陸大二八恩賜)は就任した。

 また、新設された第二方面軍の軍司令官は阿南惟幾中将(陸士一八・陸大三〇)だった。そして満州を統督する関東軍司令官は梅津美治郎大将(陸士一五・陸大二三首席)だった。

 山下中将がシンガポール攻略後の処遇、特に天皇拝謁の機会を得られなかった不満を、満州の空に吹き散らしたかの如く晴れ晴れと赴任したのは、この満州における人的配置にあった。

 梅津大将、山下中将、阿南中将の三将を比較すれば、見事に三者三様である。梅津大将はその冷智をうたわれ、山下中将は政治的手腕を評価され、阿南中将は篤実さを強調される。

233.山下奉文陸軍大将(13) 軍人は礼儀が大事だ。こんなものは、内地に追い返してしまえ

2010年09月10日 | 山下奉文陸軍大将
 陣中新聞特集号に掲載された北川冬彦の「昭南島風物詩二篇」のもう一篇の詩は次のようなものだった。

 「生活の営み」
 静かにして華かな熱帯の空が明け初めてゐる
 住民の女たちが
 深い草原で
 雑草を摘んでゐる、半身朝露に濡れて
 あれは 朝餐の一部になるのに違ひない

 この新聞が発行された日に、山下軍司令官が宣伝班事務所にやって来て、大きな声で宣伝班長の阿野中佐を叱りつけた。

 班長の部屋は階下、井伏鱒二たち班員は四、五人ずつに分かれて二階の小部屋にいた。井伏は、初めは誰かが喧嘩しているのだろうと思っていたが、山下軍司令官が怒鳴り込んできたのだった。

 事務所の建物は廊下が広く、階下も窓も硝子戸がなくて扉も開け放しのため、階下の大声は二回に筒抜けだった。とにかく大きな声だった。

 「こんな文章を、軍人のための詩といわれるか。敗戦国の住民が、草を摘んで朝飯に混ぜて食う。それがどうしたというのだ。草でも木の実でも、何でもいい。食べられるものを食べる。そこに何の不思議があるか。軍人は、枝葉末節にこだわってはならん。軍人は毅然たるところがなくてはならん」

 北川冬彦は昭和四年に発表した詩集「戦争」で、軍部の興隆を痛烈に批判したことがあった。それを山下軍司令官は脳裏に置いていたのかもしれない。

 階下は静かになった。「あの喧嘩、やっぱり声の大きい議論家の方が勝ったらしい」と思いながら井伏が、煙草を吸いながら仕事をしていると、目前の机を隔てて井伏の対面に腰をかけていた三人の少年志願兵が申し合わせたようにサッと立ち上がって、直立不動の姿勢をとった。

 少年兵たちの視線は、戸口の方に向いていた。「少年兵諸君、どうしたのかね」と井伏が言いかけたとき、廊下のほうに多数の人の気配がした。

 井伏は戸口に背を向けて机に座っていたので山下軍司令官が部屋をのぞいて、また出て行った時、井伏は気づかずにいたのだ。

 井伏は煙草を口にくわえたまま、戸口から廊下に顔を出した。すると、ちょうど、廊下の突き当りから山下軍司令官が引き返してくるところだった。

 山下軍司令官の左右には、参謀肩章を着けた十人ばかりの将校が従って、宣伝班長の阿野中佐が先導を勤めていた。井伏はあわてて顔を引っ込めた。悪いものを見たと思った。

 結果としては軍司令官が巡視に来ても、井伏は振り向きもせず、立ち上がりもしないで、椅子に座ったまま煙草をふかしていて、軍司令官が廊下を引き返して来た時、くわえ煙草で顔を出して、覗き見たことになった。

 少年兵たちを見ると、とんだことになったというように、三人とも起立したきりになっている。井伏は運を天にまかせて、戸口からずっと離れたところに退いて、起立して待った。

 果たして、山下軍司令官が、つかつかと入って来た。参謀達はのっしのっしと入って来た。山下軍司令官は井伏に向って「これは何者だ」と大きな声を出した。

 井伏はとっさに声が出なかった。代わりに阿野中佐が、「これは宣伝班員であります」と答えた。山下軍司令官は井伏を睨みつけて怒鳴った。「軍人は礼儀が大事だ。こんなものは、内地に追い返してしまえ」。

 井伏は「はい」と答えた。井伏は「はい」と言った自分の声を情けなく思った。それは井伏が自分の家庭で中学一年生の長男を叱るとき、「はい」と答える長男の声そっくりであったのだ。

 参謀達は山下軍司令官を中心に、いつのまにか、回りに並び、参謀肩章を着けた胸を張って斜めに構えていた。なかにはちらりと薄笑いするのもいた。

 山下軍司令官は長々と叱り続けた。「軍人は礼儀が大事だ」。叱り続ける間に、この言葉を少なくとも三度は繰り返した。

 阿野中佐は井伏の傍に来て「軍人は礼儀が大事だ。司令官閣下がお見えになったときは、一同起立して、最年長者の号令で、敬礼しなくてはならん。軍人は礼儀が大事だ」と、参謀達に聞こえるほどの声で言った。

 「はい、軍人は礼儀が大事であります」と復唱して井伏は山下軍司令官に敬礼した。これで、山下軍司令官と参謀達は引き揚げて行った。

232.山下奉文陸軍大将(12)山下中将はドイツ語で「いや、予はトラにあらず」とライネ大尉を制した

2010年09月03日 | 山下奉文陸軍大将
 山下中将には、シンガポール攻略後、「マレーの虎」という異名が献呈された。だが、山下中将は、ひどくこの異名を嫌った。確かに山下中将の眼光は虎に似て鋭く、その体重は大虎のようだ。

 だが、繊細な神経と他人への思いやりに富む山下中将としては、単に猛獣にすぎぬ動物に類比されるのは、好ましくなかった。

 シンガポール陥落のあと、お祝いかたがた戦跡視察にやってきたドイツ武官一行の招宴のとき、一行のP・ライネ大尉が左手に酒杯を捧げ、右手を高く伸ばし、かかとを打ち鳴らして「ゲネラール・ティゲール!(トラ将軍よ)」と敬意の叫びをあげた。

 すると、山下中将は眼をむきドイツ語で「いや、予はトラにあらず」とライネ大尉を制した。それから、次のように解説した。

 「トラは結局、臆病な危険獣にすぎん。自分より弱い相手に、しかも背後から襲いかかることしかしない。常に、弱いものを追い求め、老いぼれて体が利かなくなると、一番動きが鈍い人間をねらって人食いトラになる。品格下劣なケダモノと申せましょう」

 おかげで、ライネ大尉は、しばし、献杯の処置に困って赤面することになったが、その後も、賞賛の意を込めて、山下中将をトラと見立てる風潮は衰えなかった。

 シンガポール攻略の戦果は大きかった。捕獲した各種火砲約七四〇門、乗用車およびトラック約一万台、重軽機関銃二五〇〇挺以上、小銃約六万挺、小銃弾約三三六万発をはじめ、厖大な物資、糧秣のほか、英軍(英本国軍、オーストラリア軍、インド軍、マレー義勇軍)十三万八千七百八人のうち、十三万人以上を捕虜とした。

 シンガポールの攻略は、英国自体に対する勝利と解釈された。二月十六日、シンガポールに到着した侍従武官は、山下中将に賞賛をこめた天皇の聖旨、皇后の令旨を伝達した。

 日本内地からはちょうちん行列、祝賀会開催の報が相次ぎ、一面識あるいは面識皆無の人からも祝状が殺到した。山下中将の故郷、大杉村からは、にわかに山下中将の生家を訪れる客が増えた、と便りが届いた。

 「ヤマシタ」の名は全世界に知られ、ドイツ陸軍士官学校の戦史教科書にマレー作戦が書き加えられた。

 だが、これら惜しみなく寄せられる栄誉と賛辞に対して、山下中将はひどく慎重にこたえていた。シンガポール攻略の祝賀式も、晴れの入場式も行わなかった。

 攻略後暫く、山下中将の脳裡を占めたのは、マレー、シンガポール戦に倒れた部下三五〇七人(ほかに戦傷六一五〇人)だった。

 「丸エキストラ戦史と旅・将軍と提督」(潮書房)所収「山下奉文の人間性」(沖修二)によると、山下中将は無礼講の席でよく若い将校から「閣下、ぜひマレー、シンガポール攻略戦の苦心談をひとつ」と言われた。そのとき、山下中将は次のように答えるのが常であった。

 「マレーの戦いは敵を軽く見ていたことが図に当たったんだ。シンガポールでは敵がこちらを過大視してくれた。それ以外は自慢するような苦心談はない」

 「戦争である以上、どこまでも勝たねばならん。が、わしは、あまり戦争は好きではない。できるだけ殺しあわずに敵に勝つことだね」

 「徴用中のこと」(井伏鱒二・講談社)によると、作家の井伏鱒二は昭和十六年四十三歳の時、陸軍徴用員としてマレーに派遣され、シンガポールに赴いた。同時期に徴用された石川達三が三十六歳、丹羽文雄が三十七歳だった。

 井伏鱒二は軍司令官・山下奉文中将が指揮する第二十五軍の宣伝班に配属された。軍宣伝班の陣中新聞「建設戦」の第百号記念の特集号を発行したのは、昭和十七年四月十六日だった。

 その第一面には、林の中に立つ山下中将の写真が出て、「前線のゴム林から英軍陣地を睥睨する山下マレー方面軍最高指揮官」という説明があった。

 また、この軍国調でいっぱいになっている新聞の第四面には、北川冬彦の「昭南島風物詩二篇」と題したポエチカルな次のような詩が掲載されていた。

「或る雀」
水鶏に似た鳥の鳴き声が
暁の空にそびえ立つ椰子の樹蔭から
聞こえてくる・・・くわく、くわく、くわく、・・・
一日の仕事の計劃に 思いをはせながら
ふと見れば いつ舞い込んだのか
一羽の雀が
卓の上の たべ残しの麺麭を
しきりに啄んでゐる、何の警戒の色もなく。

231.山下奉文陸軍大将(11)西村大佐が山下少将を危険人物視して憲兵を使いその身辺を監視させた

2010年08月27日 | 山下奉文陸軍大将
 シンガポール総攻撃」(岩畔豪雄・光人社NF文庫)によると、この、第二十五軍司令部と近衛師団司令部の感情的な対立は、開戦以来、慢性的に進行していたが、ジョホール水道渡河問題を契機として破局的な様相を呈するに至った。

 それは、軍司令官・山下中将と、近衛師団長・西村琢磨中将との間柄は、昭和十一年二月に勃発した二・二六事件以来悪化した。

 二・二六事件当時、陸軍省調査部長だった山下奉文少将が反乱軍に対して好意的であるという見方は、当時の陸軍中央部内に知れ渡っていた。

 陸軍省兵務課長の職にあり、軍規を取り締まり、憲兵を指導し、軍法会議の運営方針に参加していた西村大佐が山下少将を危険人物視して憲兵を使いその身辺を監視させたことがあった。

 西村大佐のこの措置は、西村大佐個人の感情や意思から発したものではなく、当時の陸軍中央部の空気を反映したものだった。過激な皇道派に対して、それを監視する軍中央幕僚の統制的な動きの一環だった。

 だが、これ以後、山下少将と西村大佐の感情のもつれは解けなかった。

 太平洋戦争開始と共に、近衛師団司令部は、まずタイ国に進入し、約四週間、バンコックに滞在した。昭和十六年十二月中旬頃、ビルマ作戦を担当する第十五軍司令部が、同市に前進してきた。

 第十五軍司令官・飯田祥二郎中将と西村中将は親交があった。西村中将は飯田中将をしばしば訪れて、山下将軍の隷下に入ることをこころよく思わず、近衛師団を第十五軍隷下に転属するよう飯田中将に具申したという噂が、近衛師団参謀長・今井大佐の口から漏れた。

 近衛師団長・西村中将と、師団参謀長・今井大佐も犬猿の仲であった。師団長と参謀長が話しているところを見た者はほとんどいなかった。参謀長が師団長に計画案を説明することも無かった。

 師団司令部がバンコックの工業学校の校舎に置かれたとき、長い建物の両端に師団長室と参謀長室が設けられた。通常は師団長室の近くに参謀長室は設置されるものだった。

 昭和十七年二月十五日、山下中将が指揮した二十五軍は、マレー作戦で、遂にシンガポールを陥落させた。

 シンガポールが陥落し、マレー作戦が終了後、山下軍司令官は隷下部隊に感状を授けたが、三個師団のうち、その栄誉から除外されたのは、近衛師団だけだった。

 その後間もなく、近衛師団の西村師団長は昭和十七年四月二十日に陸軍兵器本廠附になり、七月十五日予備役を仰せ付けられた。

 戦後、山下大将も、西村琢磨中将も、ともに戦犯容疑で軍事裁判にかけられ、山下大将は昭和二十一年二月二十三日、西村中将は昭和二十六年六月十一日、処刑された。

 「将軍はなぜ殺されたか」(イアン・ウォード・鈴木正徳訳・原書房)によると、山下大将がマニラの軍事法廷にかけられ昭和二十一年二月二十三日、絞首刑により処刑されたことで、オーストラリア軍高官らは、明らかに、西村琢磨中将を、マレー方面での戦争裁判で山下大将に代わる標的と見るようになった。

 西村中将は、彼らから見ると、天皇ヒロヒトのエリート軍隊である近衛師団の師団長だ。西村中将の指揮の下、近衛師団はジョホール西部のオーストラリア部隊を打ち破り、続いてシンガポールの北部防衛線を守っていたオーストラリア第二十七旅団を敗走させた。

 西村中将が裁判のためにパプアニューギニアのアドミラリティ諸島にあるロスネグロス島に到着すると、オーストラリアの新聞は西村中将を山下大将の「首席補佐官」「一番の腹心」と書くようになった。

 だが、事実は新聞と異なり、二人は長年のライバルだったし、二・二六事件以来、対立していた。当時、山下大将は皇道派であり、西村中将は東條英機の系列で統制派に属していた。

 従って、マレー作戦中も二人は対立していたのであり、新聞が報道した、「首席補佐官」「一番の腹心」などとはかけ離れた関係だった。

 だが、両者を意図的に結びつけることはマレー作戦の敵として、西村中将を責める上には役立った。オーストラリアの新聞は、やがて西村中将を「第二のマレーの虎」と書くようになった。

 裁判所が西村中将に絞首刑の判決を言い渡した次の日、メルボルン・ヘラルドが掲載した社説はよくオーストラリアの国民感情を言い表していた。「死刑判決は正しい」という見出しで、次のように書かれていた。

 「マレーで百四十五人の戦争捕虜を殺害した罪で、日本の西村中将に死刑判決が言い渡された。これは文明社会が十分正当化できるとみるに違いない」。