昭和十一年三月、今村少将は関東軍参謀副長として新京(現・長春)に着任した。このときは人事の大異動があり、寺内寿一大将(陸士一一・陸大二一・勲一等旭日大綬章・南方軍総司令官・元帥)が陸相に、植田謙吉大将(陸士一〇・陸大二一・戦後日本郷友連盟会長)が関東軍司令官に就任した。
今村少将が、新京駅に着いたのは午後九時ごろだが、駅で今村少将を出迎えた副官の永友大尉が「おもだった参謀たちが何かお話したいことがあるからと、司令部に近い料理屋でお待ちしています」と告げた。
今村少将は不快に感じたが、仕方なく「桃園」という店に行き、五人の参謀たちに会った。一人の大佐が「要職につかれる前に、関東軍の性格を率直に申し上げておくべきだと思い、おいでを願いました」と言い、さらに次の様に話した。
「満州国の建設はすでに日本の国策でありますが、これは関東軍あって初めて可能であり、万一にも満系、日系の官吏どもが事を軽視するようなことがあれば、満州国の建設や発展は望めません」
「彼らの指導者の代表である軍司令官、軍参謀長、そして参謀副長であるあなた、この三人の公私一切の言動は軽易に流れず、威重の伴うものでなければなりません。この点を了解しておいていただきたいものです」。
満州国官吏に対し「やたらに威張り散らす」という関東軍の悪評を、裏書するような言葉であった。
「今後の言動について、むろん私は十分気をつけます」と今村少将は答えた。そして次の様に語った。
「ただ私は明治大帝が軍人に下賜された勅諭五箇条のお教えの中で、礼儀の項だけでなく、武勇の項にさえ重ねて礼儀をお教えになっていることに深く感銘し、これを信念としております」。
ここで今村少将は軍人勅諭を暗誦した。それを長々と聞かされる参謀たちの、苦りきった顔が目に浮かんだ。今村少将は、さらに次の様に続けた。
「もし満州国官吏に対し威重を示せというのが形態上のことなら、私の信念に反しますから、せっかくのご忠言だが実行いたしません。人間の威重というものは、修養の極致に達し、自然と発するものなら格別、殊更につくろってこれを示そうと努めるぐらい滑稽であり、威重を軽からしめるものはないと思います」
「私が関東軍司令部にいることが軍の威重上好ましくないと思った時は、いつでも参謀長に意見を具申の上、軍司令官の決裁によって、私の職を免ぜられるようにされたい。では、これで失敬します」。
到着の夜にこの一幕があり、その後の今村少将は嫌われ者になるほかはなかった。今村少将の手記には五人の参謀たちの名は挙げていない。
だが、当時、田中隆吉中佐(陸士二六・陸大三四・少将・兵務局長)は、すでに関東軍参謀だった。また、同年六月から武藤章中佐(陸士二五・陸大三二恩賜・軍務局長・中将・近衛師団長・勲一等瑞宝章・第十四方面軍参謀長)が加わった。いずれも一騎当千と自負するクセの強い人物である
このときの関東軍の参謀長は板垣征四郎少将(陸士一六・陸大二八・陸軍大臣・大将・第七方面軍司令官)だった。着任の翌朝、今村均少将(陸士一九・陸大二七首席・後の大将)が参謀長室のドアを開けると、板垣少将はいきなり立ち上がって彼に近づき、しっかりと手を握って「おお、よかった! これからは、すべて安心してやれる。これからはすべて君にまかせるよ」と喜びの声をあげた。
着任後一ヶ月もたたないうちに、今村少将は板垣参謀長の同意を得て、満州国要人に対する軍のしきたりを次々に改めていった。
それまでの車の順序は軍司令官に始まり軍内各部長まですべて軍人が先発し、そのあとにようやく満州国総理大臣が続くことになっていた。
今村少将はそれを軍司令官、軍参謀長の次に総理大臣および各大臣とし、そのあとに参謀副長以下軍人が続くことに改めた。
次には、それまで参謀長、参謀副長と面談できるのは満州国の大臣級の人に限られていたのを、次官、局長級も公務用談の申し入れができるように改めた。
以上、いずれも、到着の夜に今村少将を招いた参謀たちの目には、甚だしく軍の威重を傷つける改革だった。
さらに六ヵ月後、今村少将は参謀・辻政信大尉(陸士三六首席・陸大四三恩賜・大佐・戦後衆議院議員)の意見を取り入れて、「公費による市中料亭の利用」を禁じた。
「幕僚が人を招待する必要ある時は、公費で軍人会館を利用せよ」と、付け加えてあった。今村少将の悪評はますます高まった。だが、一方、軍隊の将兵たちは大いに溜飲をさげた。毎夜のように公費で飲食、遊興を続ける軍の参謀たちは、彼らの憤慨の的になっていたのだ。
今村少将が、新京駅に着いたのは午後九時ごろだが、駅で今村少将を出迎えた副官の永友大尉が「おもだった参謀たちが何かお話したいことがあるからと、司令部に近い料理屋でお待ちしています」と告げた。
今村少将は不快に感じたが、仕方なく「桃園」という店に行き、五人の参謀たちに会った。一人の大佐が「要職につかれる前に、関東軍の性格を率直に申し上げておくべきだと思い、おいでを願いました」と言い、さらに次の様に話した。
「満州国の建設はすでに日本の国策でありますが、これは関東軍あって初めて可能であり、万一にも満系、日系の官吏どもが事を軽視するようなことがあれば、満州国の建設や発展は望めません」
「彼らの指導者の代表である軍司令官、軍参謀長、そして参謀副長であるあなた、この三人の公私一切の言動は軽易に流れず、威重の伴うものでなければなりません。この点を了解しておいていただきたいものです」。
満州国官吏に対し「やたらに威張り散らす」という関東軍の悪評を、裏書するような言葉であった。
「今後の言動について、むろん私は十分気をつけます」と今村少将は答えた。そして次の様に語った。
「ただ私は明治大帝が軍人に下賜された勅諭五箇条のお教えの中で、礼儀の項だけでなく、武勇の項にさえ重ねて礼儀をお教えになっていることに深く感銘し、これを信念としております」。
ここで今村少将は軍人勅諭を暗誦した。それを長々と聞かされる参謀たちの、苦りきった顔が目に浮かんだ。今村少将は、さらに次の様に続けた。
「もし満州国官吏に対し威重を示せというのが形態上のことなら、私の信念に反しますから、せっかくのご忠言だが実行いたしません。人間の威重というものは、修養の極致に達し、自然と発するものなら格別、殊更につくろってこれを示そうと努めるぐらい滑稽であり、威重を軽からしめるものはないと思います」
「私が関東軍司令部にいることが軍の威重上好ましくないと思った時は、いつでも参謀長に意見を具申の上、軍司令官の決裁によって、私の職を免ぜられるようにされたい。では、これで失敬します」。
到着の夜にこの一幕があり、その後の今村少将は嫌われ者になるほかはなかった。今村少将の手記には五人の参謀たちの名は挙げていない。
だが、当時、田中隆吉中佐(陸士二六・陸大三四・少将・兵務局長)は、すでに関東軍参謀だった。また、同年六月から武藤章中佐(陸士二五・陸大三二恩賜・軍務局長・中将・近衛師団長・勲一等瑞宝章・第十四方面軍参謀長)が加わった。いずれも一騎当千と自負するクセの強い人物である
このときの関東軍の参謀長は板垣征四郎少将(陸士一六・陸大二八・陸軍大臣・大将・第七方面軍司令官)だった。着任の翌朝、今村均少将(陸士一九・陸大二七首席・後の大将)が参謀長室のドアを開けると、板垣少将はいきなり立ち上がって彼に近づき、しっかりと手を握って「おお、よかった! これからは、すべて安心してやれる。これからはすべて君にまかせるよ」と喜びの声をあげた。
着任後一ヶ月もたたないうちに、今村少将は板垣参謀長の同意を得て、満州国要人に対する軍のしきたりを次々に改めていった。
それまでの車の順序は軍司令官に始まり軍内各部長まですべて軍人が先発し、そのあとにようやく満州国総理大臣が続くことになっていた。
今村少将はそれを軍司令官、軍参謀長の次に総理大臣および各大臣とし、そのあとに参謀副長以下軍人が続くことに改めた。
次には、それまで参謀長、参謀副長と面談できるのは満州国の大臣級の人に限られていたのを、次官、局長級も公務用談の申し入れができるように改めた。
以上、いずれも、到着の夜に今村少将を招いた参謀たちの目には、甚だしく軍の威重を傷つける改革だった。
さらに六ヵ月後、今村少将は参謀・辻政信大尉(陸士三六首席・陸大四三恩賜・大佐・戦後衆議院議員)の意見を取り入れて、「公費による市中料亭の利用」を禁じた。
「幕僚が人を招待する必要ある時は、公費で軍人会館を利用せよ」と、付け加えてあった。今村少将の悪評はますます高まった。だが、一方、軍隊の将兵たちは大いに溜飲をさげた。毎夜のように公費で飲食、遊興を続ける軍の参謀たちは、彼らの憤慨の的になっていたのだ。