「自伝的日本海軍始末記」(光人社)によると、大正元年八月、海軍兵学校の入試面接の時、「高木生徒は、どんな理由で本校を志願したのか?」と質問された。
高木は、おおよそ、こんなくだらぬ質問ほど答えにくいものはないと思ったという。まさか海兵生徒のジャケツに短剣姿のカッコいいのにあこがれて(実際はそうだったが)ともいえない。
そうかといって貧乏で高校へ行けないから(これも大いに事実だったが)とも答えられないし、「海が好きで、立派な海軍将校になり、海国日本のために貢献したいから」などと体裁のいい嘘をついてしまった。
大正元年九月九日、高木は海軍兵学校に入学した。新入生の「娑婆っ気ぬき」のための暴力制裁が始った。
ところが鉄拳をふりまわすようなのは、たいてい、成績劣等の野次馬に限られたという。入校早々の制裁でノイローゼになり、退学した級友が三名出てしまった。
高木もかなり自覚するほどのノイローゼになったが、退学までにはならなかった。しかし予習時間に何を読んでも覚えられず、記憶喪失症かと迷い、成績は落ちる一方であった。
入校三ヶ月で高木は海兵の教育にすっかり失望した。それでも赤貧洗うような実家にはアルコール中毒の父が胃潰瘍でろくな稼ぎも出来ないような事情では、官費の学校に踏みとどまるほかはなかった。
海兵の事実上の教育指導は教頭であった。在学中、加藤寛治、堀内三郎、正木義太の三大佐が順次着任した。
加藤大佐は十八期のトップという自惚れがあったかも知れぬが、散々なスパルタ式を強制した。堀内大佐は精神的な鍛錬に力をいれ親愛感をもたせる教頭だった。
高木が一番反発を感じたのは正木大佐だった。広瀬中佐と同じ第二回の旅順閉塞隊に加わり、武揚丸を指揮した勇士というだけで教育者ではなかった。
訓話を聞いても心の琴線に触れるものはなく、やったことは、校庭の美しいツツジを残らず引き抜いてどこかに移した位で、生徒に赤いものを見せるのは有害だという理由だったそうだ。
とりどりのツツジは生徒の目をよろこばすこと、桜とともに代え難いものであった。高木は正木教頭は天下の野暮天と思ったという。
日露戦争後からの教育の型式化、硬直化で、大正初期の海軍兵学校の教育は、想像も出来ない詰め込み丸暗記で、それも大砲、魚雷、機雷、航海兵器などの構造の暗記に大きな点数が予定され、物理、数学、英語などの基礎科目の点数は刺身のツマ扱いであった。
旧式六インチの砲のからくりなどで、「螺旋がまわれば螺輪がまわる。螺輪がまわれば~」という型の説明を下士官教員が汗だくで教えてくれたが、面白くもなければ、おかしくもない。
こんな構造を丸暗記しても、卒業して乗艦したら、こんな旧式砲を積んでいる艦はない。なぜ力学や、機械学の原理をもっとやらないのだろうと高木は思った。
有馬修一という鹿児島一中きっての秀才が、海軍兵学校で高木と机を並べたが、弥山登山では、高木は有馬を後ろから押す役だった。
遠洋航海の門出に、佐世保と有田間二十五キロの駆け足競争をやったが、それがもとで胸膜炎となり中尉で休職、二十六歳で早世した。これに似た実例は高木の同期生だけでも四、五名を数えたという。
高木は、おおよそ、こんなくだらぬ質問ほど答えにくいものはないと思ったという。まさか海兵生徒のジャケツに短剣姿のカッコいいのにあこがれて(実際はそうだったが)ともいえない。
そうかといって貧乏で高校へ行けないから(これも大いに事実だったが)とも答えられないし、「海が好きで、立派な海軍将校になり、海国日本のために貢献したいから」などと体裁のいい嘘をついてしまった。
大正元年九月九日、高木は海軍兵学校に入学した。新入生の「娑婆っ気ぬき」のための暴力制裁が始った。
ところが鉄拳をふりまわすようなのは、たいてい、成績劣等の野次馬に限られたという。入校早々の制裁でノイローゼになり、退学した級友が三名出てしまった。
高木もかなり自覚するほどのノイローゼになったが、退学までにはならなかった。しかし予習時間に何を読んでも覚えられず、記憶喪失症かと迷い、成績は落ちる一方であった。
入校三ヶ月で高木は海兵の教育にすっかり失望した。それでも赤貧洗うような実家にはアルコール中毒の父が胃潰瘍でろくな稼ぎも出来ないような事情では、官費の学校に踏みとどまるほかはなかった。
海兵の事実上の教育指導は教頭であった。在学中、加藤寛治、堀内三郎、正木義太の三大佐が順次着任した。
加藤大佐は十八期のトップという自惚れがあったかも知れぬが、散々なスパルタ式を強制した。堀内大佐は精神的な鍛錬に力をいれ親愛感をもたせる教頭だった。
高木が一番反発を感じたのは正木大佐だった。広瀬中佐と同じ第二回の旅順閉塞隊に加わり、武揚丸を指揮した勇士というだけで教育者ではなかった。
訓話を聞いても心の琴線に触れるものはなく、やったことは、校庭の美しいツツジを残らず引き抜いてどこかに移した位で、生徒に赤いものを見せるのは有害だという理由だったそうだ。
とりどりのツツジは生徒の目をよろこばすこと、桜とともに代え難いものであった。高木は正木教頭は天下の野暮天と思ったという。
日露戦争後からの教育の型式化、硬直化で、大正初期の海軍兵学校の教育は、想像も出来ない詰め込み丸暗記で、それも大砲、魚雷、機雷、航海兵器などの構造の暗記に大きな点数が予定され、物理、数学、英語などの基礎科目の点数は刺身のツマ扱いであった。
旧式六インチの砲のからくりなどで、「螺旋がまわれば螺輪がまわる。螺輪がまわれば~」という型の説明を下士官教員が汗だくで教えてくれたが、面白くもなければ、おかしくもない。
こんな構造を丸暗記しても、卒業して乗艦したら、こんな旧式砲を積んでいる艦はない。なぜ力学や、機械学の原理をもっとやらないのだろうと高木は思った。
有馬修一という鹿児島一中きっての秀才が、海軍兵学校で高木と机を並べたが、弥山登山では、高木は有馬を後ろから押す役だった。
遠洋航海の門出に、佐世保と有田間二十五キロの駆け足競争をやったが、それがもとで胸膜炎となり中尉で休職、二十六歳で早世した。これに似た実例は高木の同期生だけでも四、五名を数えたという。