戦後、軍事研究家・今岡豊(陸士三七・陸大四七・大佐・第七方面軍参謀・終戦・防衛庁戦史室・著書「石原莞爾の悲劇」芙蓉書房)は次の様に証言している。
昭和十三年六月、第一次近衛内閣で陸軍大臣・杉山元(すぎやま・はじめ)大将(福岡・陸士一二・陸大二二・国連空軍代表随員・歩兵大佐・陸軍省軍務局航空課長・軍務局軍事課長・少将・航空本部補給課長・国連空軍代表・陸軍省軍務局長・中将・陸軍次官・第一二師団長・陸軍航空本部長・参謀次長兼陸軍大学校長・教育総監・大将・陸軍大臣・北支那方面軍司令官・参謀総長・元帥・教育総監・陸軍大臣・第一総軍司令官・終戦・昭和二十年九月自決・享年六十八歳)が辞職した。
だが、これは陸軍大臣・杉山元大将の発意に基くものではなく、近衛首相が天皇に陸相更迭の希望を訴え、天皇がこれを支持されて実現したものだった。
この陸相更迭の舞台裏で工作したといわれた当時の内閣官房長官・風見章(かざみ・あきら・茨城・早稲田大学政治経済学部卒・朝日新聞記者・信濃毎日新聞主筆・衆議院議員・近衛内閣書記官長・司法大臣・農業・終戦・衆議院議員・社会党顧問・日ソ協会副会長・日中国交回復国民会議理事長・アジア・アフリカ連帯委員会代表委員・世界平和評議会評議員・昭和三十六年十二月死去・享年七十五歳・正三位・勲一等瑞宝章)は、その経緯を次の様に述べている。
近衛首相は昭和十三年一月十六日、「国民政府を相手にせず」の声明を出したが、これが誤りであると反省して、相手にする方針に切り替えようと決心し、それには内閣大改造の必要を認め、それにとりかかった。
まず陸相と外相の更迭を考えたが、その改造で一番大切なのは陸相の更迭だった。そして後任陸相としてあちらこちらに当たってみたが、結局取り上げたのが、板垣征四郎中将だった。
近衛首相の構想について、当時の参謀本部はこぞって陸軍大臣・杉山元大将排斥に傾いていた。
当時の参謀総長は、閑院宮載仁親王(京都・伏見宮邦家親王の第十六王子・閑院宮家六代目継承・陸軍幼年学校・フランス留学・サンシール陸軍士官学校・ソーミュール騎兵学校・フランス陸軍大学校・騎兵第一連隊長・奇兵大佐・欧州出張・少将・騎兵第二旅団長・中将・第一師団長・近衛師団長・大将・昌昭憲皇太后御大葬総裁・ロシア出張・元帥・議定官・大正天皇御大葬総裁・昭和天皇即位の大礼総裁・参謀総長・議定官・昭和二十年五月死去・享年七十九歳・大勲位菊花章頸飾・功一級)だった。
参謀総長・閑院宮載仁親王元帥は、「近衛のやりいいようにしてやるがよい」と近衛首相を支持したので、閑院宮元帥から直接辞職を勧告した。
ここで、陸軍大臣・杉山元大将も、四月二十三日、辞意を決意した。五月二十三日、第五師団長・板垣征四郎中将は陸相就任の承諾をした。
昭和十三年五月二十六日、近衛内閣は改造を行い、六月四日に、板垣征四郎中将を陸軍大臣として入閣させた。
以上の、陸軍大臣交代劇を、陸軍次官・梅津美治郎中将が妨害したとして、当時の内閣官房長官・風見章は、次の様に述べている。
陸相更迭工作は極秘裏に進めていたが、内閣所属記者団にかぎつかれた。だが、記者団から「陸相更迭はぜひ国家のためにやる必要があるので、協力する」といって秘密を守ることを約束した。
このような時、朝日新聞が、デカデカと陸相更迭を書き立てたので、内閣はこの新聞を発売禁止にした。
この経緯を探ってみると、陸軍省担当の朝日新聞記者が出したもので、記事の出どころは、陸軍次官・梅津美治郎中将だろうということが分かった。
そればかりか、陸軍次官・梅津美治郎中将は朝日新聞の記者に向かって次の様な趣旨を言って記事を書くことをそそのかしたと言われている。
「内閣が陸相更迭の陰謀をやっているとはちっとも気づかずにいた。気が付いた時は、徐州戦ではないが、八方ふさがりで、手も足も出なくなっていた。ひどいことをするもんだ。うんと書いてやれよ」。
しかし、陸軍次官・梅津美治郎中将が直接、朝日新聞の記者に記事を書かせたのは、平素の梅津中将の性格から見て、何処まで真実であろうか。
杉山陸軍大臣が更迭されて、その後任に板垣中将が就任することがほぼはっきりわかって来た昭和十三年五月末、梅津中将は陸軍次官を辞任した。後任には東條英機中将が補任された。
元来、大臣と次官が同時に交替することは、事務の渋滞を来すので、多くの場合避けてきたが、今回は、板垣中将が陸軍大臣になれば、梅津中将は板垣中将よりは先任なので、当然次官を辞めなければならないので、大臣の交替前に次官の交替が行われた。
昭和十三年六月、第一次近衛内閣で陸軍大臣・杉山元(すぎやま・はじめ)大将(福岡・陸士一二・陸大二二・国連空軍代表随員・歩兵大佐・陸軍省軍務局航空課長・軍務局軍事課長・少将・航空本部補給課長・国連空軍代表・陸軍省軍務局長・中将・陸軍次官・第一二師団長・陸軍航空本部長・参謀次長兼陸軍大学校長・教育総監・大将・陸軍大臣・北支那方面軍司令官・参謀総長・元帥・教育総監・陸軍大臣・第一総軍司令官・終戦・昭和二十年九月自決・享年六十八歳)が辞職した。
だが、これは陸軍大臣・杉山元大将の発意に基くものではなく、近衛首相が天皇に陸相更迭の希望を訴え、天皇がこれを支持されて実現したものだった。
この陸相更迭の舞台裏で工作したといわれた当時の内閣官房長官・風見章(かざみ・あきら・茨城・早稲田大学政治経済学部卒・朝日新聞記者・信濃毎日新聞主筆・衆議院議員・近衛内閣書記官長・司法大臣・農業・終戦・衆議院議員・社会党顧問・日ソ協会副会長・日中国交回復国民会議理事長・アジア・アフリカ連帯委員会代表委員・世界平和評議会評議員・昭和三十六年十二月死去・享年七十五歳・正三位・勲一等瑞宝章)は、その経緯を次の様に述べている。
近衛首相は昭和十三年一月十六日、「国民政府を相手にせず」の声明を出したが、これが誤りであると反省して、相手にする方針に切り替えようと決心し、それには内閣大改造の必要を認め、それにとりかかった。
まず陸相と外相の更迭を考えたが、その改造で一番大切なのは陸相の更迭だった。そして後任陸相としてあちらこちらに当たってみたが、結局取り上げたのが、板垣征四郎中将だった。
近衛首相の構想について、当時の参謀本部はこぞって陸軍大臣・杉山元大将排斥に傾いていた。
当時の参謀総長は、閑院宮載仁親王(京都・伏見宮邦家親王の第十六王子・閑院宮家六代目継承・陸軍幼年学校・フランス留学・サンシール陸軍士官学校・ソーミュール騎兵学校・フランス陸軍大学校・騎兵第一連隊長・奇兵大佐・欧州出張・少将・騎兵第二旅団長・中将・第一師団長・近衛師団長・大将・昌昭憲皇太后御大葬総裁・ロシア出張・元帥・議定官・大正天皇御大葬総裁・昭和天皇即位の大礼総裁・参謀総長・議定官・昭和二十年五月死去・享年七十九歳・大勲位菊花章頸飾・功一級)だった。
参謀総長・閑院宮載仁親王元帥は、「近衛のやりいいようにしてやるがよい」と近衛首相を支持したので、閑院宮元帥から直接辞職を勧告した。
ここで、陸軍大臣・杉山元大将も、四月二十三日、辞意を決意した。五月二十三日、第五師団長・板垣征四郎中将は陸相就任の承諾をした。
昭和十三年五月二十六日、近衛内閣は改造を行い、六月四日に、板垣征四郎中将を陸軍大臣として入閣させた。
以上の、陸軍大臣交代劇を、陸軍次官・梅津美治郎中将が妨害したとして、当時の内閣官房長官・風見章は、次の様に述べている。
陸相更迭工作は極秘裏に進めていたが、内閣所属記者団にかぎつかれた。だが、記者団から「陸相更迭はぜひ国家のためにやる必要があるので、協力する」といって秘密を守ることを約束した。
このような時、朝日新聞が、デカデカと陸相更迭を書き立てたので、内閣はこの新聞を発売禁止にした。
この経緯を探ってみると、陸軍省担当の朝日新聞記者が出したもので、記事の出どころは、陸軍次官・梅津美治郎中将だろうということが分かった。
そればかりか、陸軍次官・梅津美治郎中将は朝日新聞の記者に向かって次の様な趣旨を言って記事を書くことをそそのかしたと言われている。
「内閣が陸相更迭の陰謀をやっているとはちっとも気づかずにいた。気が付いた時は、徐州戦ではないが、八方ふさがりで、手も足も出なくなっていた。ひどいことをするもんだ。うんと書いてやれよ」。
しかし、陸軍次官・梅津美治郎中将が直接、朝日新聞の記者に記事を書かせたのは、平素の梅津中将の性格から見て、何処まで真実であろうか。
杉山陸軍大臣が更迭されて、その後任に板垣中将が就任することがほぼはっきりわかって来た昭和十三年五月末、梅津中将は陸軍次官を辞任した。後任には東條英機中将が補任された。
元来、大臣と次官が同時に交替することは、事務の渋滞を来すので、多くの場合避けてきたが、今回は、板垣中将が陸軍大臣になれば、梅津中将は板垣中将よりは先任なので、当然次官を辞めなければならないので、大臣の交替前に次官の交替が行われた。