陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

688.梅津美治郎陸軍大将(28)陸軍大臣交代劇を、陸軍次官・梅津美治郎中将が妨害した

2019年05月31日 | 梅津美治郎陸軍大将
 戦後、軍事研究家・今岡豊(陸士三七・陸大四七・大佐・第七方面軍参謀・終戦・防衛庁戦史室・著書「石原莞爾の悲劇」芙蓉書房)は次の様に証言している。

 昭和十三年六月、第一次近衛内閣で陸軍大臣・杉山元(すぎやま・はじめ)大将(福岡・陸士一二・陸大二二・国連空軍代表随員・歩兵大佐・陸軍省軍務局航空課長・軍務局軍事課長・少将・航空本部補給課長・国連空軍代表・陸軍省軍務局長・中将・陸軍次官・第一二師団長・陸軍航空本部長・参謀次長兼陸軍大学校長・教育総監・大将・陸軍大臣・北支那方面軍司令官・参謀総長・元帥・教育総監・陸軍大臣・第一総軍司令官・終戦・昭和二十年九月自決・享年六十八歳)が辞職した。

 だが、これは陸軍大臣・杉山元大将の発意に基くものではなく、近衛首相が天皇に陸相更迭の希望を訴え、天皇がこれを支持されて実現したものだった。

 この陸相更迭の舞台裏で工作したといわれた当時の内閣官房長官・風見章(かざみ・あきら・茨城・早稲田大学政治経済学部卒・朝日新聞記者・信濃毎日新聞主筆・衆議院議員・近衛内閣書記官長・司法大臣・農業・終戦・衆議院議員・社会党顧問・日ソ協会副会長・日中国交回復国民会議理事長・アジア・アフリカ連帯委員会代表委員・世界平和評議会評議員・昭和三十六年十二月死去・享年七十五歳・正三位・勲一等瑞宝章)は、その経緯を次の様に述べている。

 近衛首相は昭和十三年一月十六日、「国民政府を相手にせず」の声明を出したが、これが誤りであると反省して、相手にする方針に切り替えようと決心し、それには内閣大改造の必要を認め、それにとりかかった。

 まず陸相と外相の更迭を考えたが、その改造で一番大切なのは陸相の更迭だった。そして後任陸相としてあちらこちらに当たってみたが、結局取り上げたのが、板垣征四郎中将だった。

 近衛首相の構想について、当時の参謀本部はこぞって陸軍大臣・杉山元大将排斥に傾いていた。

 当時の参謀総長は、閑院宮載仁親王(京都・伏見宮邦家親王の第十六王子・閑院宮家六代目継承・陸軍幼年学校・フランス留学・サンシール陸軍士官学校・ソーミュール騎兵学校・フランス陸軍大学校・騎兵第一連隊長・奇兵大佐・欧州出張・少将・騎兵第二旅団長・中将・第一師団長・近衛師団長・大将・昌昭憲皇太后御大葬総裁・ロシア出張・元帥・議定官・大正天皇御大葬総裁・昭和天皇即位の大礼総裁・参謀総長・議定官・昭和二十年五月死去・享年七十九歳・大勲位菊花章頸飾・功一級)だった。

 参謀総長・閑院宮載仁親王元帥は、「近衛のやりいいようにしてやるがよい」と近衛首相を支持したので、閑院宮元帥から直接辞職を勧告した。

 ここで、陸軍大臣・杉山元大将も、四月二十三日、辞意を決意した。五月二十三日、第五師団長・板垣征四郎中将は陸相就任の承諾をした。
 
 昭和十三年五月二十六日、近衛内閣は改造を行い、六月四日に、板垣征四郎中将を陸軍大臣として入閣させた。

 以上の、陸軍大臣交代劇を、陸軍次官・梅津美治郎中将が妨害したとして、当時の内閣官房長官・風見章は、次の様に述べている。

 陸相更迭工作は極秘裏に進めていたが、内閣所属記者団にかぎつかれた。だが、記者団から「陸相更迭はぜひ国家のためにやる必要があるので、協力する」といって秘密を守ることを約束した。

 このような時、朝日新聞が、デカデカと陸相更迭を書き立てたので、内閣はこの新聞を発売禁止にした。

 この経緯を探ってみると、陸軍省担当の朝日新聞記者が出したもので、記事の出どころは、陸軍次官・梅津美治郎中将だろうということが分かった。

 そればかりか、陸軍次官・梅津美治郎中将は朝日新聞の記者に向かって次の様な趣旨を言って記事を書くことをそそのかしたと言われている。

 「内閣が陸相更迭の陰謀をやっているとはちっとも気づかずにいた。気が付いた時は、徐州戦ではないが、八方ふさがりで、手も足も出なくなっていた。ひどいことをするもんだ。うんと書いてやれよ」。

 しかし、陸軍次官・梅津美治郎中将が直接、朝日新聞の記者に記事を書かせたのは、平素の梅津中将の性格から見て、何処まで真実であろうか。

 杉山陸軍大臣が更迭されて、その後任に板垣中将が就任することがほぼはっきりわかって来た昭和十三年五月末、梅津中将は陸軍次官を辞任した。後任には東條英機中将が補任された。

 元来、大臣と次官が同時に交替することは、事務の渋滞を来すので、多くの場合避けてきたが、今回は、板垣中将が陸軍大臣になれば、梅津中将は板垣中将よりは先任なので、当然次官を辞めなければならないので、大臣の交替前に次官の交替が行われた。









687.梅津美治郎陸軍大将(27)第一部長・石原莞爾少将は、徒にヒステリックに「支那の戦争は止めよう」と叫ぶばかりであった

2019年05月24日 | 梅津美治郎陸軍大将
 その時、石原莞爾中将は、知人に発送した挨拶の中で、支那事変勃発について、次の様に述べている。

 「今次支那事変勃発の時、作戦部長の重職にあった私は、申し上げようもない重任を感じております。『事変はとうとう君の予言の如くなった』とて、私の先見である如く申す人も少なくありません」

 「そう言われて私はますます苦しむ以外ありません。当時、部内を統制する徳と力に欠けていた我が身を省みて、身のおき所に苦しむ次第であります」。

 正に彼の告白の如く、彼は部下であった参謀本部作戦課長・武藤章(むとう・あきら)大佐(熊本・陸士二五・陸大三二恩賜・関東軍第二課長・歩兵大佐・参謀本部作戦課長・中支那方面軍参謀副長・北支那方面軍参謀副長・少将・陸軍省軍務局長兼陸軍省調査部長・中将・近衛師団長・近衛第二師団長・第一四方面軍参謀長・終戦・戦犯で絞首刑・享年五十五歳・ドイツ鷲勲章功労十字星章ほか)などの議論を制し得なかった。

 また、陸軍省では、軍務局軍事課長・田中新一大佐以下の一撃論をも無視することができず、参謀本部第一部長・石原莞爾少将は、徒にヒステリックに「支那の戦争は止めよう」と叫ぶばかりであった。

 このことから、逐次、参謀本部のエリートたち、陸軍次官・梅津美治郎中将を頂点とする陸軍省のエリートたちの信頼を失いつつあった。

 次第に参謀本部第一部長・石原莞爾少将に代わって、ヘゲモニーは、冷静にしてソの心中をはかり知ることを得ない典型的官僚である陸軍次官・梅津美治郎中将の握るところになりつつあった。

 このような状況になり、参謀本部第一部長・石原莞爾少将は、自らが参謀次長として招いた多田駿中将の眼にも、その困憊(こんぱい=困って疲れ果てること)と疲労が目立つようになった。

 そして彼自らが希望したか、又は参謀次長・多田駿中将、或いは陸軍次官・梅津美治郎中将いずれの主導性かは別として、人事的に参謀本部を追われる運命になった。

 昭和十三年六月、近衛文麿首相が、板垣征四郎(いたがき・せいしろう)中将(岩手・陸士一六・陸大二八・第一〇師団司令部附・支那出張・歩兵大佐・歩兵第三三連隊長・関東軍高級参謀・関東軍第二課長・少将・満州国執政顧問・欧州出張・満州国軍政部最高顧問・関東軍参謀副長・関東軍参謀長・中将・第五師団長・陸軍大臣・支那派遣軍総参謀長・大将・朝鮮軍司令官・第一七方面軍司令官・第七方面軍司令官・終戦・昭和二十三年十二月戦犯で絞首刑・享年六十三歳・勲一等・功三級・ドイツ鷲勲章大十字章)を陸軍大臣に迎える方針を強行した。

 板垣中将よりも先任序列の陸軍次官・梅津美治郎中将(大分・陸士一五・陸大二三首席)としては、陸軍次官に留任する訳には行かなかった。

 そこで、後任の東條英機(とうじょう・ひでき)中将(岩手・陸士一七・陸大二七・陸軍省整備局動員課長・歩兵大佐・歩兵第一連隊長・参謀本部編制動員課長・少将・軍事調査委員長・軍事調査部長・陸軍士官学校幹事・歩兵第二四旅団長・関東憲兵隊司令官兼関東局警務部長・中将・関東軍参謀長・陸軍次官・兼航空本部長・航空総監・陸軍大臣・大将・内閣総理大臣・内閣総理大臣兼参謀総長・予備役・終戦・昭和二十三年十二月戦犯で絞首刑・享年六十四歳・従二位・勲一等・功二級・ドイツ鷲勲章大十字章等)に席を譲った。

 東條英機中将がこの時次官に就任したことは、将来の大東亜戦争への道にもつながる重要人事であった。

 その点から、この時の梅津中将から東條中将への陸軍次官の交代が、いかなる経緯だったのか、極めて重要な問題なので、考察されなければならない。

 当時の陸軍省人事局長・阿南惟幾(あなみ・これちか)少将(大分・陸士一八・陸大三〇・侍従武官・歩兵大佐・近衛歩兵第二連隊長・東京幼年学校長・少将・陸軍省兵務局長・陸軍省人事局長・中将・第一〇九師団長・陸軍次官・第一一軍司令官・第二方面軍司令官・大将・航空総監兼航空本部長・陸軍大臣・自決・終戦・勲一等・功三級)は次の様に述べている。

 「東條次官は、磊落な板垣新陸相が、“自分は陸軍省のことは一切分からないので、練達の東條を次官に迎えよ”と言った」。

 しかし、他の一説として、梅津中将が、板垣中将が陸軍大臣に着任する前に、東條中将を決定し、いわば満州派に対抗する統制派として布石を打ったと言われている。




686.梅津美治郎陸軍大将(26)陸軍次官・梅津美治郎中将は、参謀本部作戦課長・石原莞爾大佐の批判派へと転じた

2019年05月17日 | 梅津美治郎陸軍大将
 昭和十二年十月、軍務局長には、町尻量基(まちじり・かずもと)少将(東京・伯爵壬生基修の四男・妻は賀陽宮邦憲王の第一王女由紀子女王・陸士二一・陸大二九恩賜・侍従武官・砲兵大佐・近衛野砲連隊長・軍務局軍事課長・少将・侍従武官・軍務局長・北支那方面軍参謀副長・第二軍参謀長・軍務局長・第二軍参謀長の時作戦文書紛失のため停職・軍務局長・中将・第六師団長・化兵監・印度支那駐屯軍司令官・予備役・終戦・昭和二十年十二月死去・享年五十八歳・勲一等・功三級)が就任した。

 稲田正純元中将は、当時の陸軍次官・梅津美治郎中将と軍務局長・町尻量基少将について、つぎのように述べている。

 「梅津次官の千慮の一失とも言えるのは、有能な君子人、町尻軍務局長と政務に関し、次官と局長の権限の問題につき論争をして、町尻軍務局長を異動させたことであったと言えよう。彼の本領は政治ではなく官僚の典型であった筈である」。

 昭和十三年四月、陸軍次官・梅津美治郎中将は、軍務局長の後任に中村明人(なかむら・あけと)少将(愛知・陸士二二・陸大三四恩賜・陸軍大学校教官・歩兵大佐・陸軍省人事局恩賞課長・歩兵第二四連隊長・少将・関東軍兵事部長・関東軍臨時兵站監・陸軍省軍務局長・陸軍省兵務局長・中将・第五師団長・留守第三師団長・憲兵司令官・泰国駐屯軍司令官・第三九軍司令官・第一八方面軍司令官兼第三九軍司令官・終戦・A級戦犯で巣鴨プリズン拘留・不起訴釈放・日南産業社長・昭和四十一年九月死去・享年七十七歳・著書に「ほとけの司令官-駐タイ回想録」がある)を就任させた。

 だが、これ以降、陸軍次官・梅津美治郎中将と陸士同期で、石原系の参謀次長・多田駿中将に、陸軍次官・梅津美治郎中将は手こずることになった。

 支那事変は参謀本部においては、第一部長・石原莞爾少将、陸軍省においては、次官・梅津美治郎中将を中心として、血のにじむような論争と不拡大の努力を続けたが、中国側の積年の怨恨に基く抵抗は意外に堅く事態は悪化の一途をたどった。

 日本側のあのような拡大の遠因を見る時、軍内の良識ある両巨頭、参謀本部第一部長・石原莞爾少将と陸軍次官・梅津美治郎中将がどうして固く手を結んで善処できなかったのか。

 あの難局で、両巨頭が歩調を合わせて中国との平和を図ることができなかったのは、日本国家にとって、不幸な現象だった。

 昭和十二年九月、参謀本部第一部長・石原莞爾少将は、作戦部長の職を去り、関東軍参謀副長に孤影悄然と赴任したが、この人事に、陸軍次官・梅津美治郎中将が全然無関係であったとは考えにくい。

 陸軍次官・梅津美治郎中将は参謀本部作戦課長・石原莞爾大佐着任当初のうちは、参謀本部作戦課長・石原莞爾大佐の政策を支持していた。

 だが、参謀本部作戦課長・石原莞爾大佐が次第にその自我と鬼才を発揮し、特に満州派による陸軍部内専断の態勢への足固めと見られる数々の人事や政策が強行されるに及んで、陸軍次官・梅津美治郎中将は、参謀本部作戦課長・石原莞爾大佐の批判派へと転じた。

 宇垣一成大将の内閣は、参謀本部作戦課長・石原莞爾大佐の方針により、共に協力、阻止した二人であったが、林銑十郎大将の内閣組閣に当たっては正に反対の立場に立つようになった。

 内政問題の場合はまだよかったが、遂に対支政策においても、対立的な面を持つに至った。基本的に、二人は共に不拡大方針であったことは間違いない。

 だが、参謀本部第一部長・石原莞爾少将の口癖である「支那の戦争は止めよう」という悲願にもかかわらず、結局、四回に渉る動員決定と中止を繰り返した上、対北支派兵に踏み切り、戦果が上海にも及ぶに至った。

 参謀本部第一部長・石原莞爾少将のこの作戦方針に、陸軍次官・梅津美治郎中将は批判的であったと言われている。

 昭和十六年三月、第一六師団長・石原莞爾中将は陸軍大臣・東條英機中将により罷免され待命、八月に予備役に編入された。




685.梅津美治郎陸軍大将(25)同意。ぜひ、そう願いたい。が、それは総理に相談し総理の自信を確かめた上でのことか

2019年05月10日 | 梅津美治郎陸軍大将
 参謀本部第一部長・石原莞爾少将の反対意見の要旨は次の通り。

 「日本陸軍の動員の可能師団は三十個師団にとどまり、そのうち、どうやりくりをつけても、十五個師団しか中国大陸には派遣できない。日中全面戦争となれば、わずか十五個師団では中国大陸を制覇することはおぼつかない」

 「しかも、閣下。ひとたび派兵すれば全面戦争化の危険は大であり、その結果はあたかもスペイン戦争におけるナポレオン同様、底なし沼にはまることになる。この際の解決策、いや、日本を救う道はただ一つしかないと確信します」

 「その方策は、北支の全日本軍を山海関の満州国境まで撤退させ、近衛首相が南京に飛んで蒋介石と直接交渉することです」。

 陸軍大臣室には、陸軍次官・梅津美治郎中将と、軍務局軍事課長・田中新一(たなか・しんいち)大佐(新潟・陸士二五・陸大二五・軍務局兵務課高級課員・歩兵大佐・兵務局兵務課長・軍務局軍事課長・駐蒙軍参謀長・少将・参謀本部第一部長・中将・第一八師団長・緬甸<ビルマ>方面軍参謀長・東北軍管区司令部附・終戦・著書「大戦突入の真相」元々社1955年・昭和五十一年九月死去・享年八十三歳)がいた。

 陸軍次官・梅津美治郎中将は、参謀本部第一部長・石原莞爾少将の言葉が終わると、次の様に言った。

 「同意。ぜひ、そう願いたい。が、それは総理に相談し総理の自信を確かめた上でのことか。また、その場合は、華北の邦人多年の権益財産は放棄するのか。満州国はそれで安定しうるのか」。

 これに対し、参謀本部第一部長・石原莞爾少将は、ぐっと詰まり、沈黙した。

 実は、参謀本部第一部長・石原莞爾少将は、近衛文麿首相に対して、すでに蒋介石との直接交渉を提案し、近衛首相も関心を示していた。

 現に、前日の七月十八日に近衛首相は、西園寺公私設秘書・原田熊雄(東京・京都帝国大学・男爵・日本銀行・加藤高明首相秘書官・住友合資会社・西園寺公私設秘書・貴族院男爵議員・終戦工作に従事・脳血栓で倒れる・終戦・昭和二十一年二月二十六日死去・享年五十七歳・著書「西園寺公と政局」岩波書店1950年)に、「広田外相か自身が南京に出向いてもよい」と告げている。

 だが、近衛首相が本心から、熱意をもって、政府や陸軍部内の反対を押し切っても、南京行きの決意を固めているかどうかは、参謀本部第一部長・石原莞爾少将にもわからなかった。

 また、近衛首相が出かければ必ず蒋介石との間に話し合いがまとまるという保証もなかったのである。

 参謀本部第一部長・石原莞爾少将は、陸軍次官・梅津美治郎中将の反駁(はんばく=論じ返す)に対して、それ以上の意見を述べず、内地師団の派兵は閣議で決定された。

 この論議から推察できるが、陸軍次官・梅津美治郎中将は、断乎としての同意でもなく、また全然不同意でもない。

 与えられた条件の下で、あくまで合理性を貫こうとする冷徹な能吏として、重要局面の役割を果たしているのである。

 この論点で、重要なことは、不拡大派が拡大派に比べて、即ち、参謀次長・多田駿(ただ・はやお)中将(千葉・陸士一五・陸大二五・北京陸軍大学校教官・砲兵大佐・野砲第四連隊長・第一六師団参謀長・満州国軍政部最高顧問・少将・野重砲第四旅団長・支那駐屯軍司令官・中将・第一一師団長・参謀次長兼陸軍大学校長・第三軍司令官・北支那方面軍司令官・大将・軍事参議官・予備役・終戦・A級戦犯指定・昭和二十三年十二月胃がんで死去・享年六十六歳・功二級・ドイツ鷲勲章大十字章)や参謀本部第一部長・石原莞爾少将が、陸軍大臣・杉山元大将や陸軍次官・梅津美治郎中将に比べて、より平和的で、より非侵略的であったという訳ではないということである。

 まして、これ以後、本格的な日中戦争から太平洋戦争へと広がっていく戦争の結果的責任を、拡大派の策謀であって、いわゆる皇道派や皇道派と強調しようとした近衛ら宮廷グループの意思ではなかったとするような見方は、歴史の偽造である。

 昭和十二年九月、参謀本部第一部長・石原莞爾少将は関東軍参謀副長に転出させられた。


684.梅津美治郎陸軍大将(24)争点は実にその根本において蒋介石政権をいかに観るかにあった

2019年05月03日 | 梅津美治郎陸軍大将
 以上から、拡大派・不拡大派、その積極と慎重と、多少の差はあったものの、何れも対支紛争の発生を避けねばならぬという点においては一致していた。

 そして、万一事件が起こった場合、これを局限せねばならぬという考えは、拡大派と言えども不拡大派と変わりはなかったし、また、どうしても対支協調ができなければ、不拡大派と言えども拡大派と同じく、対支一撃の必要を認めざるを得なかったのである。

 つまり、拡大派・不拡大派論争の争点は、たんに出兵論とか対支一撃論とかにあったのではなかった。争点は実にその根本において蒋介石政権をいかに観るかにあったのである。

 即ち、蒋介石政権が満州国を承認し、日本は冀東政権を返還し、日支提携して逐次東亜連盟の方向に進みうると考えていた石原莞爾少将らの主張。

 蒋介石政権の抗日政策は満州回復まで不変であると見た喜多誠一少将らの意見。

 これが当時における陸軍中央部の対支政策に現れてくる、いわゆる「拡大派・不拡大派」論争なるものの争点の根本を形成していた。

 この状況下において、陸軍次官・梅津美治郎中将の立場は、どのようなものであったか。

 昭和十二年七月十九日に、三個師団派兵について、陸軍省と参謀本部が会合し建議された。その時、陸軍次官・梅津美治郎中将と参謀本部第一部長・石原莞爾少将が発言している。

 それについて、「天皇3 二・二六事件」(児島襄・文春文庫・1981年)が、次の様に述べている(要約・軍歴等一部加筆)。

 だが、現実には事態は急転して悪化の方向をたどり、その急変にはたぶんに近衛首相の姿勢が影響していた、といえるのである。

 第二十九軍・宋哲元(そう・てつげん)軍長(清山東省・武衛右軍随営武備学堂卒・第二五混成旅旅長・国民軍第一一師長・西路総司令・国民革命軍第四方面軍総指揮・蒋介石軍に敗れる・第二九軍軍長・冀察政務委員会委員長・平津衛戍司令・第一集団軍総司令・引退・一九四〇年四月病死・享年五十六歳・陸軍上将・叙第一級)と支那駐屯軍との交渉は七月十八日、無事妥結が確認された。

 当日、宋軍長が、支那駐屯軍司令官・香月清司(かづき・きよし)中将(佐賀・陸士一四・陸大二四・陸軍大学校教官・歩兵大佐・歩兵第六〇連隊長・歩兵第八連隊長・陸軍大学校教官・陸軍省軍務局兵務課長・少将・歩兵第三〇旅団長・陸軍大学校教官・陸軍大学校幹事・陸軍歩兵学校幹事・中将・陸軍歩兵学校長・第一二師団長・近衛師団長・教育総監部本部長・支那駐屯軍司令官・第一軍司令官・予備役・昭和二十五年一月死去・享年六十八歳・勲一等瑞宝章・功五級)を訪ねて、次の様に遺憾の意を表明したのである。

 「自分は今回の事変についてはなはだ遺憾に思う。今後については、香月軍司令官の指導を仰ぎたいと思う」。

 しかし、その翌日、七月十九日には、南京政府外交部は、「事態は両国の中央政府の間で解決すべきこと、また国際仲裁裁判にかけて裁定を求めるべきである」と言明した。

 また、蒋介石は、「平和的解決を求めるが、我々は一個の弱国であっても、“最後の関頭”に到ったならば、全民族の生命を投げうってでも、国家の生存を求め、一致して抗戦する」と長文の声明を出した。(「関頭」とは、物事の重大きな分かれ目。大切な時、瀬戸際。)

 中国内部では、中国共産党の指導もあって、抗日意識は日増しに高揚していた。この蒋介石の「最後の関頭」の声明がラジオで放送されると、北平(北京の旧称)市内では市民がラッパを吹き鳴らし、太鼓とドラを打って喚声をあげた。

 当然、日本側は反発した。参謀本部と陸軍省はこれまでの意見の分裂を一挙に解消した形で、停止されていた内地三個師団の派兵が建議された。

 参謀本部第一部長・石原莞爾少将は、陸軍大臣・杉山元(すぎやま・はじめ)大将(福岡・陸士一二・陸大二二・参謀本部附<国連空軍代表随員>・歩兵大佐・陸軍省軍務局航空課長・軍務局軍事課長・少将・陸軍航空本部補給課長・国連空軍代表・陸軍省軍務局長・中将・陸軍次官・第一二師団長・陸軍航空本部長・参謀次長兼陸軍大学校校長・教育総監・大将・陸軍大臣・北支那方面軍司令官・参謀総長・元帥・教育総監・陸軍大臣・第一総軍司令官・終戦・昭和二十年九月自決・享年六十八歳)に反対意見を献言した。