陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

670.梅津美治郎陸軍大将(10)長い滞欧生活で、ますます合理的な生活態度なり考え方を身につけた

2019年01月25日 | 梅津美治郎陸軍大将
 東京の軍上層部においてさえ決断しかねて説得工作に時を移しているのに対し、地方各師団長よりの電報もまたいろいろに受け取られるものが逐次到着した。

 その内で、白眉の電報は、第二師団長・梅津美治郎中将の意見具申電報だった。

 その内容は「大義名分を説いて速やかに討伐然るべし」との堅い信念を現し、「何時でも上京出発準備を整え待機の姿勢にある」といったもので、居合わせた有末少佐ら幕僚は、特に感激を覚えた。

 事件鎮定直後、昭和十一年三月九日、寺内寿一(てらうち・ひさいち)大将(山口・陸士一一・陸大二一・ドイツ駐在・歩兵大佐・近衛歩兵第三連隊長・近衛師団参謀長・少将・歩兵第一九連隊長・朝鮮軍参謀長・中将・第五師団長・第四師団長・台湾軍司令官・大将・陸軍大臣・教育総監・北支那方面軍司令官・南方軍総司令官・元帥・終戦・昭和二十一年マレーシアで拘留中に病死・享年六十七歳・伯爵・勲一等旭日大綬章・功一級)が陸軍大臣に就任した。

 寺内寿一大将は、寺内正毅(てらうち・まさたけ)元帥(山口・奇兵隊・戊辰戦争・函館戦争・維新後陸軍少尉・陸軍大臣秘書官・歩兵大佐・陸軍士官学校長・第一師団参謀長・参謀本部第一局長・大本営運輸通信部長官・少将・第三旅団長・教育総監・中将・参謀本部次長・陸軍大臣・兼教育総監・大将・陸軍大臣兼朝鮮総督・元帥・内閣総理大臣・大正八年死去・享年六十七歳・伯爵・従一位・大勲位菊花大綬章・功一級・フランスレジオンドヌール勲章グラントフィシェ・ロシア白鷲勲章等)の長男。

 三月二十三日の人事異動で、寺内陸軍大臣は、第二師団長・梅津美治郎中将を陸軍次官に起用した。梅津中将は五十四歳だった。

 陸軍次官に就任した、梅津中将は、陸士一五期きっての秀才だったが、軍事課長、参謀本部総務部長以後、中央の要職についていなかった。

 梅津中将は、当然、軍の中枢部に進むべき素質を持っていたが、梅津中将自身の本来の地味な性格から、自己主張が少なかったからであろうと言われている。

 大正十四年二月、梅津中将がまだ四十三歳で大佐の時、妻・清子が結核で病死、以後梅津は一生独身で通した。

 「最後の参謀総長・梅津美治郎(梅津美治郎刊行会・上方快男編・芙蓉書房・681頁・昭和51年)に、梅津中将の長女と長男の回想が載っている。
 
 長女・梅津美代子氏(財団法人枝光会理事・学校法人枝光学園理事長)の回想は次の通り(要旨抜粋)。

 父は、母を失った子供の父親として教育を一人でやらなければならなかったので、家庭では教育的なことを話題とした。

 無駄をしないということについて、厳しく言われた。例えば、マッチでも一度使ったマッチの棒を取っておけば、次のコンロに火をつける時、新しいマッチをすらないで、消えた軸木で火を移すことができる、と言われた。

 そして、西欧における合理的な生活について話した。生来の几帳面な性格か、第一次世界大戦前からの長い滞欧生活で、ますます合理的な生活態度なり考え方を身につけたようだ。

 日記はつけなかった。手紙には必ず返事を出した。父が新京に在り、私共は東京にいたが、父はお前たちのことを心配しているのだから音信を必ず寄こすようにと言われ、時に怠ると催促を受けた。

 手紙のことでは、日付を書かずに出して、手紙には必ず日付を書くのだと叱られたことを思い出す。

 着流しで人に会うことをしなかった。母方の祖父が来ても袴をつけて応接間で会い、居間に通すことはしなかった。「取りつきにくい」と言う人もあった。

 ラジオの放送をするというので、何度も練習をし、中学生の私共に聞かせて批判させた。新京でも元旦年頭の挨拶を行うのに何度も練習し、それを聞かされた。

 昭和十七年、父の新京時代、私はカトリック教の洗礼を受けたいと思って父に話した。父はキリスト教に反対ではあったが、「信仰は個人の自由である」と言って、私の信仰を許した。


669.梅津美治郎陸軍大将(9)梅津中将は「鈴木君はどこかに変えて、ぜひ重田を姫路にやってくれ」と執拗にねばった

2019年01月17日 | 梅津美治郎陸軍大将
 その部分を自ら再考三考すると共に、なり振りかまわず尋ね回ってようやく自信を得、命令案を直して持って行ったら直ぐ判を押して、「苦労したな」と言われた。

 頭の冴えと軍令、軍政に一番詳しい方とは洩れ聞いてはいたが、「こちらの自信のない所がどうして分かるのか」と、不審とともに畏敬の念に打たれた。

 寒稽古納めで、司令部の将校が紅白に分かれ、勝ち抜き試合をした。後から四番目にいた鈴木が、半分より前の敵と対戦することになった。

 飛び込んでの面や胴で敵の全員を倒し、命ぜられて味方の残りにも勝ってしまったら、梅津閣下が大谷智子お裏方からもらわれた袱紗を賞として頂戴し、家に送った。仏教信者の母は大喜びして家宝にすると言ってきた。

 お目にかかったついでにこの事を報告して御礼申し上げたら、「それは良かったな。お前も案外やるんだな」とニコヤカに言われた温顔は、今に忘れられない。

 昭和十年八月一日、支那駐屯軍司令官として北支に勤務すること一年四か月で、梅津美治郎中将(昭和九年八月一日進級)は、仙台の第二師団長に親補された。

 昭和十一年初頭、参謀本部庶務課高級部員・富永恭次(とみなが・きょうじ)中佐(長崎・陸士二五・陸大三五・参謀本部庶務課長代理・歩兵大佐・参謀本部作戦課長・関東軍第二課長・近衛歩兵第二連隊長・少将・参謀本部第四部長・参謀本部第一部長・陸軍省人事局長・中将・陸軍次官・第四航空軍司令官・予備役・第一三九師団長・終戦・シベリア抑留・帰国・昭和三十五年死去・享年六十八歳・功三級)が第二師団司令部に出張した。

 富永中佐は、参謀人事についての連絡のため仙台に出張してきたのだ。第二師団長・梅津中将は、富永中佐に、一つの要望を出した。

 それは、第二師団高級参謀・重田徳松(しげた・とくまつ)砲兵中佐(千葉・陸士二四・陸大三五・野砲第一〇連隊長・砲兵大佐・第六師団参謀長・少将・野重砲第一旅団長・野砲兵学校長・中将・第三五師団長・砲兵監・第七二師団長・第五二軍司令官・昭和三十四年死去・享年六十八歳・功三級)についてだった。

 当時、重田中佐は体をこわしており、梅津中将は、「重田中佐を、ぜひとも気候の良い所へ転出させることはできないか」と富永中佐に要望したのだ。

 富永中佐は「気候がよくて野砲兵連隊長の空く予定は姫路(野砲第一〇連隊長)しかありませんが、そこにはすでに予定者がいますので、これを他に転ずることは難しゅうございます」と率直に答えた。

 姫路への転出予定者は、参謀本部作戦課長・鈴木率道(すずき・よりみち)大佐(広島・陸士二二・陸大三〇首席・フランス駐在・陸軍大学校教官・参謀本部作戦班長・参謀本部作戦課長・砲兵大佐・支那駐屯砲兵連隊長・少将・第二軍参謀長・航空本部総務部長・中将・兼航空総監部総務部長・兼航空本部第一部長・航空総監代理兼航空本部長代理・航空兵団司令官・第二航空軍司令官・予備役・昭和十八年死去・享年五十三歳・従三位・勲一等・功三級)だった。

 ところが、富永中佐から、「野砲連隊長のポストは、難しゅうございます」と言われても、今回は、梅津中将は、なかなか後に退かなかった。

 梅津中将は「鈴木君はどこかに変えて、ぜひ重田を姫路にやってくれ」と執拗にねばった。そして富永中佐に同意させようとした。

 富永中佐も、困ってしまったが、その場は引き下がらざるを得なかった。だが、丁度、その直後、天津に野砲連隊が新設された。

 それで、鈴木大佐は天津に、重田中佐は姫路に行くことに決定された。

 昭和十一年二月二十六日、二・二六事件突発当時、有末精三少佐は陸軍省軍務局課員として、九段の九段の憲兵司令部に屯(たむ)ろしていた。

 有末少佐の主務は、外国関係であったが、治安、戒厳、警備等主任の軍事課員と同室だったので、自然当時の雰囲気、状況、処置などを知り得た。

 宮中に在る陸軍大臣やこれを取り巻く軍事参議官等の蹶起動機に関する同情や、皇軍相撃を起こさないかの杞憂等による各種の布告、命令の齟齬やデリケートな各種説得工作の経緯など、統帥命令のスッキリした発動までに相当の時間を空費したのは事実だった。


668.梅津美治郎陸軍大将(8)梅津少将は、勝手な行動を取る現地の幕僚に対して深い憤りを感じていた

2019年01月11日 | 梅津美治郎陸軍大将
 また、梅津少将は総務部長更迭には内心不満であった。総務部長として、満州事変(昭和六年九月)に遭遇して、最も心を砕いて、中央部の決定した不拡大方針が、現地の暴走によって常に覆され、その後始末に翻弄されたことだった。

 ところが現地のやり方が、たまたま幸運にも良い結果をもたらし、中央はその事実を追認する形となった。

 ことに、君国百年のためとの信念に発したとはいえ、満州事変勃発時、現地の次の二人の幕僚が、中央の統制に従わなかったことは、事実だった。

 関東軍高級参謀・板垣征四郎(いたがき・せいしろう)大佐(岩手・陸士一六・陸大二八・中支那派遣隊参謀・歩兵大佐・歩兵第三三連隊長・関東軍高級参謀・関東軍第二課長・少将・満州国執政顧問・満州国軍政部最高顧問・関東軍参謀副長・関東軍参謀長・中将・第五師団長・陸軍大臣・支那派遣軍総参謀長・大将・朝鮮軍司令官・第一七方面軍司令官・第七方面軍司令官・終戦・昭和二十三年A級戦犯で刑死・享年六十三歳・正三位・勲一等旭日大綬章・功二級・ドイツ鷲勲章大十字章)。

 関東軍作戦主任参謀・石原莞爾(いしわら・かんじ)中佐(山形・陸士二一・六番・陸大三〇次席・関東軍作戦主任参謀・関東軍作戦課長・歩兵大佐・ジュネーヴ会議随員・歩兵第四連隊長・参謀本部作戦課長・参謀本部戦争指導課長・少将・参謀本部第一部長・関東軍参謀副長・舞鶴要塞司令官・中将・第一六師団長・予備役・立命館大学講師・戦後山形県高瀬村に転居・公職追放・昭和二十四年病死・享年六十歳・正四位・勲一等瑞宝章・功三級)。

 満州事変が政治・戦略的に大きな成果を得たとはいえ、中央部の幕僚や、外地の軍幕僚の多数に不良な作用をし、以後、下克上の風潮が広まった。梅津少将は、この点を深く憂いたのである。

 さらに、現地の関東軍のこれらの幕僚が栄転して、中央の要職を占めた。その入れ代わりに、関東軍を中央の統制下に把握しようと努めた中央の幕僚(梅津少将もその一人)は、殆ど、中央から追い出したような人事が行われた。

 梅津少将は、国軍の将来について、このような風潮を一掃しなければならないと思いながら、総務部長の椅子を去ったのである。

 昭和九年三月、梅津美治郎少将は、支那駐屯軍司令官に補せられ、天津に赴任した。その年の八月一日、陸軍中将に進級した。

 「最後の参謀総長・梅津美治郎(梅津美治郎刊行会・上方快男編・芙蓉書房・681頁・昭和51年)によると、梅津少将が支那駐屯軍司令官として天津に赴任した当時は、満州事変、満州国の誕生に伴う余震が、華北を揺り動かしていた時期だった、

 当時、大尉だった、鈴木康生元陸軍大佐(大尉・支那駐屯軍司令官秘書官・大佐・第八八師団参謀長)は、支那駐屯軍司令部に赴任した。

 鈴木康生元陸軍大佐は、「樺太防衛の思い出・最終の総合報告(第八十八師団参謀長)」(鈴木康生・私家版・454頁・昭和62年)を出版している。
 
 その鈴木康生元大佐は、次の様に回想している(要旨抜粋)。

 私は、梅津将軍には二度お仕えしました。第一回は支那駐屯軍で、昭和九年春から約一年三か月。第二回目は関東軍で、昭和十四年二月から昭和十六年三月までで、後の一年は秘書官を勤め、格別のご指導、ご薫陶を頂き、忘れ得ぬ思い出が多い。

 昭和九年春、支那駐屯軍の軍司令部に着任したら、主任参謀不在のため、早速駐屯軍部隊の「派遣交代に関する命令」の起案を命ぜられた。

 まだ実務になれない大尉(鈴木康生大尉)は、昨年の命令、派遣交代要領、同細則、本園の交代要領の研究から始めたが、要領は昨年のと幾分変わっており、細則は後れて交代部隊に携行させるとの話なのでいろいろ分からぬ点が出てきた。

 関係者にも伺ってみたが、結論が出ない。仕方なく何とか作り上げ、関係課や上司の判を貰い、司令官室に入り、案をご覧に入れ、目を通されるのをビクビクしながら見つめた。

 確信の無い条項の所へ来たら「これはどういうつもりかね」やはりと思ったら胸がドキドキして、即座には答えが口から出ない。

 ようやく意見を述べたら「もう一度考えたまえ」「ハイ」。また自信のない所で「この意味は?」「再考致します」。室の外に出たら汗ビッショリ。






667.梅津美治郎陸軍大将(7)梅津少将としては、この両者の抗争を、国軍のため、苦々しく思っていた

2019年01月04日 | 梅津美治郎陸軍大将
 真崎甚三郎中将が参謀本部を離れるに際して、もっとも心痛したのは、当時、省部会議の結論である仮想敵国の問題をめぐる、次の二人の対立がことごとに激化して、今やその極点に達しようとしていたことであった。

 参謀本部第二部長・永田鉄山(ながた・てつざん)少将(長野・陸士一六首席・陸大二三次席・陸軍省整備局動員課長・歩兵大佐・歩兵第三連隊長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・参謀本部第二部長・歩兵第一旅団長・陸軍省軍務局長・昭和十年相沢三郎中佐に斬殺される・享年五十一歳・中将)。

 参謀本部第三部長・小畑敏四郎(おばた・とししろう)少将(高知・陸士一六恩賜・陸大二三恩賜・参謀本部作戦課長・歩兵大佐・歩兵第一〇連隊長・歩兵学校研究主事・陸軍大学校教官・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第三部長・近衛歩兵第一旅団長・陸軍大学校幹事・陸軍大学校長・中将・予備役・留守第一四師団長・国務大臣・昭和二十二年死去・享年六十一歳・ロシア神聖アンナ釼付第二等勲章)。

 永田鉄山中将と小畑敏四郎中将は、岡村寧次(おかむら・やすじ)大将(陸士一六・陸大二五・支那駐在・歩兵大佐・歩兵第六連隊長・参謀本部戦史課長・陸軍省人事局補任課長・上海派遣軍参謀副長・少将・軍事調査委員長・関東軍参謀副長・参謀本部第二部長・中将・第二師団長・代一一軍司令官・大将・北支那方面軍司令官・第六方面軍司令官・支那派遣軍司令官・戦後日本郷友連盟会長・昭和四十一年死去・享年八十二歳・勲一等旭日大綬章・功一級)とともに、陸士官学校一六期の同期で、「陸軍三羽烏」と呼ばれていた。

 大正十年十月、スイス公使館附武官・永田鉄山少佐、ロシア大使館附武官・小畑敏四郎少佐、参謀本部部員・岡村寧次少佐は、ドイツ南部の温泉地バーデン=バーデンで、陸軍の薩長閥除去を目指す「バーデン=バーデンの密約」を行い固い結束を誓い合った。翌日には、ドイツ駐在武官・東條英機少佐も加わった。

 永田鉄山少佐と小畑敏四郎少佐は、固い結束で同志として順調に陸軍中枢を歩んできたが、小畑敏四郎大佐が真崎甚三郎中将の腹心として皇道派の中核と目されるようになった頃から、永田鉄山大佐と亀裂が生じてきた。

 参謀本部第二部長・永田鉄山少将と参謀本部第三部長・小畑敏四郎少将は対支那、対ソ連戦略を巡って鋭く対立するようになった。

 特に、昭和八年六月の陸軍全幕僚会議において、対ソ準備を説く小畑少将に対して、永田少将は対支一撃論を主張して譲らず、大激論になった。

 この論争が、皇道派と統制派確執の発端となり、以後両派は激しく対立するようになった。その対立は、やがて、昭和十一年二月二十六日の二・二六事件まで引き起こすことになる。

 真崎甚三郎中将は、昭和八年八月の定期異動で参謀本部を離れるにあたり、永田少将と小畑少将の対立を深く憂いた。

 当時の陸軍大臣は、荒木貞夫(あらき・さだお)中将(東京・陸士九・陸大一九首席・ハルピン特務機関・歩兵大佐・浦塩派遣軍参謀・歩兵第二三連隊長・参謀本部支那課長・少将・第八旅団長・憲兵司令官・参謀本部第一部長・中将・陸軍大学校長・第六師団長・教育総監部本部長・陸軍大臣・大将・軍事参議官・予備役・文部大臣・内閣参議・終戦・昭和四十一年死去・享年八十九歳・男爵・従二位・勲一等・ペルーソレイユ勲章グランクロア)だった。

 真崎中将は陸軍大臣・荒木中将に「僕のいる間はどうにか納まっていたが、自分が去った後の両者の関係は心配だから、何とか代えて欲しい」と要請した。

 そこで陸軍大臣・荒木中将は、参謀本部の部長の大部を更迭することにし、喧嘩両成敗の意味もあって、永田少将は歩兵第一旅団長、小畑少将は近衛歩兵第一旅団長に転出させた。また、総務部長・梅津少将を参謀本部附として待機の姿勢をとらせた。

 梅津少将の後任の総務部長は、橋本虎之助(はしもと・とらのすけ)少将(愛知・陸士一四・陸大二二・一三番・在ロシア大使館附武官・騎兵大佐・騎兵第二五連隊長・参謀本部欧米課長・東京警備参謀長・少将・参謀本部第二部長・関東軍参謀長・関東憲兵隊司令官・参謀本部総務部長・中将・陸軍次官・近衛師団長・予備役・満州国参議府議長・満州国祭祀府総裁・終戦・ロシアに逮捕・昭和二十七年ハルピンで病死・享年六十八歳)を就任させた。

 総務部長時代の梅津少将は、永田、小畑両少将の華々しい対立抗争の影にかくれ、地味な性格も手伝ってか、「梅津さんは影が薄いようだ」とささやく者もいた。

 梅津少将としては、この両者の抗争を、国軍のため、苦々しく思っていたが、超然としてこの抗争の圏外に立っていた。