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陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

700.梅津美治郎陸軍大将(40)父は参謀総長に就任した時、「また後始末だよ」と私に秘かに洩らした

2019年08月23日 | 梅津美治郎陸軍大将
 同じく東久邇宮稔彦王・大将の十二月二十九日(金)の日記には次の様に記してある(前略)。

 午後三時、梅津参謀総長来たり、昨日私が提示した硫黄島防備の件について、次の様な問答をした。

 梅津「硫黄島の防備が不完全であることはよくわかっているが、いまこれを陸軍の手に移すことは、現在陸軍と海軍の間がうまくいっていないので、海軍の感情を刺激するから、今すぐ実行することはできない」

 私「今、わが本土が危険な状況にあるさい、陸軍とか海軍とかいっている場合ではない。あなたは、わが本土が敵の空襲で全滅してもかまわないというのか」

 梅津「どうも現状においては仕方がない」

 以上が東久邇宮稔彦王・大将の日記の抜粋である。

 昭和二十年八月十五日終戦後、九月二日、参謀総長・梅津美治郎大将は、東京湾上のアメリカの戦艦「ミズーリ」の甲板上で調印された、降伏文書調印式に出席した。

 参謀総長・梅津美治郎大将の長男、梅津美一(うめづ・よしかず・東京帝国大学在学中に学徒出陣・第四期防備専修予備学生・海軍少尉・第九根拠地隊分隊士・終戦・東京裁判で父の副弁護人)の手記によると、次の様に記されている(一部抜粋)。

 父、梅津美治郎の生涯を見ると、三つの重要な節がある。日本の転機とも云うべき時に、いつも責任ある地位に就き、後始末の役をしていることである。いつも責任ある地位に就き、後始末の役をしていることである。

 第一は、昭和十一年二・二六事件後の舞台裏にあって、陸軍次官として後始末の任に当たっていることである。

 第二に、昭和十四年関東軍司令官として、ノモンハン事件後の関東軍と満州国の対ソ連静謐の政策を実行している。

 第三には、昭和十九年敗色濃い大東亜戦争の終末期に参謀総長として作戦の統轄にあたり、あの歴史的調印式に参加している。

 父は参謀総長に就任した時、「また後始末だよ」と私に秘かに洩らした。自分の運命を嘆いていたように感じられた。

 これは丁度、父が着任直後、昭和十九年七月過ぎ、当時久里浜にあった海軍対潜学校で訓練を受けつつあった私を、外出許可の限界であった鎌倉に訪れてくれたときにぽつりと洩らした感懐で、この一言によって、私は、他の人々より一年も前に、「ああ、戦争はもう終わりだな」と気付くもととなった。

 そして、父の参謀総長就任は、少なくとも父としては、あくまで最初から「終戦」が目的で、問題はいかにしてその「終戦」を邦国のために最も無理なく、かつ出来れば有利に導くかが父の参謀総長就任当初からの課題であったろうと思う。

 世上、終戦の御前会議において、阿南陸軍大臣と梅津参謀総長の二人が、最も強硬な戦争継続論者であったといわれるが、この点、「終戦」を予期し、或いはこれをこそ自らの課題としていた筈の父として不可思議なことと思われたので、後日、何気なく問いただしたところ、「バカ、いやしくも全日本陸軍の作戦の総責任者として、もう戦争は出来ません、などという無責任な発言が出来ると思うか」と一笑に附された。

 参謀総長・梅津美治郎大将の長男、梅津美代子氏は、「父の最期」と題して、次の様に述べている(要旨抜粋)。

 父は、三年余りの獄中生活で、徐々に健康を害していたようであった。そして遂に昭和二十三年二月に蔵前の米軍の陸軍病院(旧同愛病院)に入院し、裁判には出られないようになってしまった。

 そして父は、昭和二十三年十二月十七日、同病院で倒れ、危篤状態に陥った。私は知らせを受けて駆け付けたが、危篤状態を脱し、話ができるようになっていた。

 私は、以前から父に話している信仰のことを話した。その後、毎日病院を訪ねて話した。父が最も感銘深く思った言葉は「地上の裁きは決して正しくない。神が正しく裁いてくれる」という言葉であったろう。

 昭和二十三年十二月二十四日、私の誕生日に、スガモプリズンのチャブレン・ウォルシュ神父が病院に来られて、父は洗礼を受けた。

 昭和二十四年一月八日夜半、看護婦から私に、父が亡くなったとの、電話が来た。父の死因は急性肺炎であった。ガンはひどくはなっていなかった。

 病床から「幽窓無暦日」と書いた紙片を発見した。父が母を早く失って、一人で私共を育ててくれたことを私はとても感謝している。

 私共のためによかれと考えて再婚には踏み切れなかった父である。母のない子として躾が不十分になってはいけないと思って細かいことまで気を使って躾をしてくれたと思う。躾は厳しかったが、温かい思いやりのある人であった。

 以上が、梅津美代子氏の回顧談である。

 ちなみに、「幽窓無暦日(ゆうそうむれきじつ)」は、「幽窓に暦日なし。牢獄には時が流れない」という意味である。

(今回で「梅津美治郎陸軍大将」は終わりです。次回からは「野村吉三郎海軍大将」が始まります)













699.梅津美治郎陸軍大将(39)決したようでもあり、決しないようでもあり、但書きだけ多い決済振りの性癖

2019年08月16日 | 梅津美治郎陸軍大将
 統帥の最高責任者である、参謀総長・梅津美治郎大将に対しては、大陸用兵問題で、その慎重不決断についての不満が、次長、第一部長、第二課長等から出ていた。

 当時の参謀本部次長は河辺虎四郎(かわべ・とらしろう)中将(富山・陸士二四・陸大三三恩賜・関東軍作戦主任・砲兵大佐・関東軍第二課長・近衛野砲連隊長・参謀本部戦争指導課長・航空兵大佐・参謀本部作戦課長・浜松飛行学校教官・少将・在独国大使館附武官・第七飛行団長・防衛総参謀長・中将・航空本部総務部長・第二飛行師団長・第二航空軍司令官・航空総監部次長・参謀次長・終戦・GHQ軍事情報部歴史課に特務機関「河辺機関」を結成・内閣調査室シンクタンク「世界政経調査会」・昭和三十五年六月死去・享年六十九歳)だった。

 当時の参謀本部第一部長(作戦)は、宮崎周一(みやざき・しゅういち)中将(長野・陸士二八・陸大三九・陸軍大学校教官・歩兵大佐・第一一軍作戦課長・歩兵第二六連隊長・陸軍大学校教官・少将・第一七軍参謀長・参謀本部第四部長・陸軍大学校幹事・第六方面軍参謀長・中将・参謀本部第一部長・終戦・第一復員省調査部長・昭和四十四年十月死去・享年七十四歳・功三級)だった。

 七月十三日、第一部長(作戦)・宮崎周一中将は、「戦争終末の転換を指導するための情勢判断」を述べている。

 それは、わが国が東及び南からの米英、西の重慶及び延安(中国共産党)、北のソ連による包囲圏内に圧迫せられんとしつつ状況の中で、如何に対策を講ずべきかを判断したものだったが、最後に次のように結んでいた。

 「軍は事態の正当深刻なる認識と無欲の境地に立ち、果断決行することのみ能くこの窮地を脱し己を全うし得る唯一の道である」。

 果断決行するということは多分に謀総長・梅津美治郎大将を意識して書かれたものと思われる。

 翌日の七月十四日、参謀本部第一部長(作戦)・宮崎周一中将は、参謀本部次長・河辺虎四郎中将に、この情勢判断を述べ、「かつこれを実行するためには、○○の更迭を要する」と説明した。参謀本部次長・河辺虎四郎中将も同意したと記されている。

 この○○が、参謀総長・梅津美治郎大将を指していることは明らかである。

 参謀本部次長・河辺虎四郎中将も、参謀総長・梅津美治郎大将の慎重さには慊(あきた)らぬものと見えて、七月十三日の日誌に次のように述べている。

 参謀本部第一部長(作戦)・宮崎周一中将が、参謀本部次長・河辺虎四郎中将の部屋に来て、「戦争指導、作戦指導ともに、ぐずぐずして動かず、作戦上の事務は、下僚が手間取るのではなく、決裁容易に下らず渋滞している」と強調した。

 これに対して、参謀本部次長・河辺虎四郎中将は、「予自身の直言的輔佐不十分なのを自覚しない訳ではないが、朗々淡々として下と談笑討議することもなく、決したようでもあり、決しないようでもあり、但書きだけ多い決済振りの性癖に対しては、進んで言うの勇気を殺がれるというのが実情であり、これはどうしようもない」。

 参謀本部第一部長(作戦)・宮崎周一中将の参謀総長・梅津美治郎大将に対する不満は、大陸用兵問題が特に影響していると思われる。

 だが、参謀本部第一部長(作戦)・宮崎周一中将が、この非常時期における第一部長の重職に登用されたことは、異色の人事と言われていた。

 参謀本部第一部長(作戦)・宮崎周一中将は、中央部勤務の経験が不足しており、第一線の作戦指導の経験は豊富であるが、戦争指導については全く乏しかった。

 作戦一本鎗の参謀本部第一部長(作戦)・宮崎周一中将と、全局から戦争指導を考えている参謀総長・梅津美治郎大将とでは、肌が合わないばかりか、考案の次元が異なっているので、同調できなかったと言われている。

 東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや・なるひこおう)・大将(久邇宮朝彦王の第九王子・陸士二〇・陸大二六・フランス陸軍大学卒・歩兵大佐・近衛歩兵第三連隊長・少将・歩兵第五旅団長・中将・第二師団長・第四師団長・航空本部長・第二軍司令官・大将・防衛総司令官・軍事参議官・内閣総理大臣兼陸軍大臣・終戦・予備役・貴族院皇族議員辞職・公職追放・皇籍離脱・日本文化振興会初代総裁・平成二年一月死去・享年一〇二歳・従二位・大勲位菊花大綬章・功一級)の昭和十九年十二月二十八日(木)の日記には次の様に記してある。

 午後一時半、参謀本部に行き、梅津参謀総長に会い、国土防衛上のことにつき協議したが、そのさい硫黄島防備について、私は次のごとく提議した。

 「敵がサイパン島に基地を持ち、B-29が連日連夜わが本土に来襲しているが、わが方が撃破したB-29は、途中海上に墜落し、その乗員は潜水艦によって救助されているようである」

 「しかし、もしわが本土とサイパン島との中間点にある硫黄島が、敵のものとなるならば、B-29は硫黄島に不時着もできるし、油の補給もでき、今日よりもっと大規模な編隊で来襲するにちがいない」

 「またその度も多くなるだろう。そこで、硫黄島の防備を海軍から陸軍に移し、敵の攻略を受ける前に、強固なる陣地をつくっておかなければならない」

 「これが敵にとられたならば、本土防衛は非常に困難になる」。

 梅津は、「明日返事をする」といった。





698.梅津美治郎陸軍大将(38)米内大将が総理か副総理なら、私は陸軍大臣を断ります

2019年08月09日 | 梅津美治郎陸軍大将
 これを聞くと、陸軍大臣・東條英機大将は、次の様に言い出した。
 
 「米内大将が総理か副総理なら、私は陸軍大臣を断ります。米内大将は私が総理時代、国務大臣として入閣をすすめたところが、彼は応じなかった、私は彼の下で大臣を務めることはできない」。

 そして、陸軍大臣・東條英機大将は、「杉山元帥に、やっていただいたらどうですか」と提案した。

 これに対して、教育総監・杉山元元帥は、「私は断りたい」と答えた。だが、結局、陸軍大臣を不承不承に受諾した。
 
 昭和十九年七月二十二日、小磯内閣が成立したが、その前途には幾多の難関が待ち受けていた。

 参謀総長・梅津美治郎大将は、七月二十四日、大本営陸海軍部で「陸海軍爾後の作戦指導大綱」を策定し、参謀総長、軍令部総長同時に上奏允裁を得た。その後も、参謀総長として、多忙のうちに明け暮れた。

 昭和十九年八月、軍事参議官会同が三宅坂の陸軍大臣官邸で開かれた。最高戦争指導会議によって決定した内容についての連絡を主とした非公式な会議だった。

 戦況不利となりつつあったので、軍事参議官も戦局の推移については不安の気持ちで眺めていた頃だった。

 まず、参謀総長・梅津美治郎大将から概略の防衛方針について説明したが、あまり明確な説明ではなかった。

 これを聞いた軍事参議官・朝香宮鳩彦王(あさかのみや・やすひこおう)大将(東京・久邇宮朝彦親王の第八王子・陸士二〇・陸大二六・歩兵第一連隊大隊長・陸軍大学校附・歩兵中佐・歩兵大佐・陸軍大学校教官・少将・歩兵第一旅団長・中将・近衛師団長・上海派遣軍司令官・軍事参議官・大将・終戦・貴族院議員を辞職・皇籍を離脱・公職追放・東京ゴルフクラブ名誉会長・昭和五十六年四月死去・享年九十三歳・大勲位菊花大綬章・功一級)は憤然として口を開いて、顔も声も亢奮して次のように詰問した。

 「一体あなた方は、どこで、どんなにして敵を禦ぐつもりですか?」。

 これに対し、陸軍大臣・杉山元元帥は、二言、三言、言い始めた。隣に座っていた陸軍次官兼人事局長事務取扱・富永恭次中将は、陸軍大臣・杉山元元帥の袖を引っ張って、小さい声で、「閣下の領分ではありませんよ」と囁いた。

 そこで、陸軍大臣・杉山元元帥は、ハッと気がついたように発言を止めて、参謀総長・梅津美治郎大将の方を見た。

 陸軍大臣・杉山元元帥は、教育総監から陸軍大臣になったばかりであり、しかも数か月前までは、参謀総長として作戦の最高責任者だったので、つい錯覚を起こしてうっかり作戦上の質問に対して、自ら答弁しようとしたのだった。

 代わって、参謀総長・梅津美治郎大将が立ち上がって、軍事参議官・朝香宮鳩彦王大将の質問に答えたが、そばで聞いていた者も声が小さくて聞きづらかったという。

 陸軍次官兼人事局長事務取扱・富永恭次中将は、陸軍大臣・杉山元元帥と参謀総長・梅津美治郎大将の人物評について、次の様に述べている。

 「杉山元帥は清濁併せ呑み、春風駘蕩(しゅんぷうたいとう=温和でのんびりした人柄)。人を引きつけて人に嫌われず、部下を愛する好好爺で、何といっても高邁なる達識と千万人といえども我往かんの気魄と迫力を欠く。そしてボン帳面で正直で、たまにはせいて騒ぐ。その終わりの欠点の一部面を思わず顕したのが、あの情景であった」

 「参謀総長・梅津美治郎大将は、緻密周到、物事を諸般の角度から考察し、慎重中正、識見高く、よく先を見透す眼力があり、事務的才幹においてはおそらく東條大将と並んで陸軍の双璧であろう」

 「しかし決断力、また無私の温情というような点になるとあまり良い点数はつけられぬ。一般的に親しみ近づきにくく、自分と同じ型のものを側に置きたがり、少し独断的な傾向のある者、とくに秩序を乱して事を運ばんとする風を持つ者を極端に排撃し、正面から堂々とやらず、悪く言えば陰険なところが難点であった」。

 昭和二十年七月頃になると、大東亜戦争もいよいよ終末の段階を迎えんとしていた。このような国家国軍の悲況にあって、軍中央部の空気も目立って上下左右の不信不和の傾向が台頭してきた。これは、戦況不利に対する焦慮が基盤となって発生したものだ。

 軍大臣が阿南惟幾大将になって中堅将校はその人格に敬仰していたが、時局の苛烈さが増すにつれて、温情人事や情勢認識の甘さ、作戦面について一部から疑念が持たれていた。





697.梅津美治郎陸軍大将(37)東條君が陸軍大臣をやられると、部外から陸軍を破壊される虞(おそれ)がある

2019年08月02日 | 梅津美治郎陸軍大将
 また、人事局長の資格で、陸軍次官兼人事局長事務取扱・富永恭次(とみなが・きょうじ)中将(長崎・陸士二五・陸大三五・ソ連駐在・参謀本部庶務課長代理・歩兵大佐・参謀本部作戦課長・関東軍第二課長・近衛歩兵第二連隊長・少将・参謀本部第四部長・公主嶺戦車学校長・陸軍省人事局長・中将・陸軍次官兼人事局長事務取扱・第四航空軍司令官・待命・予備役・第一三九師団長・終戦・シベリア抑留・帰国・昭和三十五年一月死去・享年六十八歳)が陪席した。

 会議では、しばらく誰も発言する者がなかったので、発言資格がないのを承知で、陸軍次官兼人事局長事務取扱・富永恭次中将が次のように問題を切り出した。

 「この際、陸軍に与える動揺を少なくするために、依然大臣に東條大将を残した方がよいのではないでしょうか」。

 すると、参謀総長・梅津美治郎大将が、平素の慎重なのに反して、次の様に陸軍次官兼人事局長事務取扱・富永恭次中将の意見に対して反対意見を述べた。

 「東條君は総理をやったことだし、陸軍を支援するためには陸軍以外の地位からやってもらいたい。東條君が陸軍大臣をやられると、部外から陸軍を破壊される虞(おそれ)がある」。

 そのあと、しばらくして、参謀総長・梅津美治郎大将は、「阿南大将はどうだろう」と切り出した。

 これは、陸軍大臣は参謀総長と二者一体となって戦局打開に邁進しなければならないので、参謀総長・梅津美治郎大将としては、最も気心が分かっており、かつ最も信頼している阿南大将を推薦したものと思われる。

 ところが、阿南惟幾大将は当時第二方面軍司令官として、豪北方面にあって対米作戦に専念していた。

 この参謀総長・梅津美治郎大将の提案に対して、陸軍大臣・東條英機大将が、次のように述べて、反対した。

 「阿南君は最も適任と思うが、先に寺内元帥の首相就任のため内地に帰すことを断ったのと同じ理由で、いま阿南君を帰す訳にはいかない」。

 そこで、参謀総長・梅津美治郎大将は、「山下君はどうだろう」と提案した。

 山下奉文(やました・ともゆき)大将(高知・陸士一八・陸大二八恩賜・陸軍大学校教官・在オーストリア国公使館附武官・歩兵大佐・軍事調査部・歩兵第三連隊長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・陸軍省権次調査部長・歩兵第四〇旅団長・支那駐屯混成旅団長・中将・北支那方面軍参謀長・第四師団長・航空総監兼航空本部長・遣ドイツ視察団長・関東防衛軍司令官・第二五軍司令官・第一方面軍司令官・大将・第一四方面軍司令官・終戦・マニラ軍事裁判で死刑判決・昭和二十一年二月二十三日刑死・享年六十歳・従三位・勲一等旭日大綬章・功三級・勲一位景雲章等)は、当時第一四方面軍司令官だった。

 これに対しても、陸軍大臣・東條英機大将は、次のように述べて反対した。

 「かつて山下大将を蒙疆(もうきょう=内モンゴルの蒙古連合自治地域)の軍司令官に奏請(そうせい=天皇に決定を求める)したとき、陛下は二・二六事件に関係があったのではないかとの御下問もあり、私としては同意できない」。

 その後、二、三の名前が出たが、いずれも一致するに至らず、結局、陸軍大臣・東條英機大将が留任することに内定した。

 その時、秘書官が入って来て、組閣の大命が、次の二人に降下したことを告げた。

 朝鮮総督・小磯國昭(こいそ・くにあき)大将(栃木・陸士一二・陸大二二・航空本部部員(欧州出張)・歩兵大佐・陸軍大学校教官・歩兵第五一連隊長・参謀本部編制動員課長・少将・陸軍大学校教官・航空本部総務課長・陸軍省整備局長・陸軍省軍務局長・中将・陸軍次官・関東軍参謀長・朝鮮軍司令官・大将・待命・予備役・拓務大臣・朝鮮総督・内閣総理大臣・内閣総辞職・終戦・A級戦犯・終身禁錮・昭和二十五年十一月巣鴨拘置所内で食道がんにより死去・享年七十歳・従二位・勲一等旭日大綬章・功二級・南洲国勲一位竜光大綬章)。

 軍事参議官・米内光政(よない・みつまさ)大将(岩手・海兵二九・六八番・海大一二・海軍大学校教官・軍令部参謀(欧州出張)・大佐・ポーランド共和国駐在員監督・装甲巡洋艦「春日」艦長・装甲巡洋艦「磐手」艦長・戦艦「扶桑」艦長・戦艦「陸奥」艦長・少将・第二艦隊参謀長・軍令部第三班長・第一遣外艦隊司令官・中将・鎮海警備府司令長官・第三艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官・第二艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・連合艦隊司令長官・海軍大臣・大将・軍事参議官・議定官・予備役・内閣総理大臣・現役復帰・海軍大臣・終戦・昭和二十三年四月肺炎で死去・享年六十八歳・従二位・勲一等旭日大綬章・功一級・ドイツ鷲章大十字章等)。




696.梅津美治郎陸軍大将(36)自分はこの対米英戦争には最初から反対の意見であったから、この任務を受けたくない

2019年07月26日 | 梅津美治郎陸軍大将
 それにともない、関東軍司令部は総司令部に昇格された。したがって、梅津美治郎大将は、関東軍総司令官となり、対ソ戦に備えて戦力増強が図られた。

 このような状況下において、関東軍総司令官・梅津美治郎大将は、日ソ開戦について、次の様に考えていた。

 「対ソ開戦は、全国民の北方問題解決の総意に基づき、帝国軍主力を指向するのでなければ発動することはできない」。

 これは、もはやソ連が夏にはソ連軍の態勢は欧州で不敗となり、極東ソ連軍の防衛もいよいよ強化されてきたので、もはや熟柿主義的にソ連軍の崩壊を期待する甘い希望的判断は認めることが出来なくなった。従って、日ソ開戦となれば、国力の全勢力を傾注して行わなければ勝算がないことを自認しての発言であったと思われる。

 昭和十九年7月9日、サイパン島が玉砕後、首相と陸軍大臣を兼任し、さらに参謀総長にも就任していた東条英機陸軍大将の内閣に不安を覚えた政界上層部は、政変的な動きを活発化させてきた。

 彼らは、次の三条件を東條首相に提示した。

 一、総長と大臣を切り離して、統帥を独立させること。二、海軍大臣を更迭させること。三、重臣を入閣させて、挙国一致内閣をつくること。

 東條首相は、この三条件が重臣層の総意を反映していることを知り、まず最もやり易い陸軍部内の改革、即ち、自ら参謀総長を辞任して、後任者を選定することから始めた。

 昭和十九年七月十七日、関東軍総司令官・梅津美治郎大将は、東京の陸軍省から、直接電話により、参謀総長就任の内命を受けた。

 偶然、その場に、居合わせたのは、関東軍参謀副長・池田純久(いけだ・すみひさ)少将(大分・陸士二八・陸大三六・東京帝国大学経済学部卒・陸軍省資源局企画部第一課長・企画院調査官・歩兵大佐・歩兵第四五連隊長・奉天特務機関長・関東軍参謀・少将・関東軍第五課長・関東軍参謀副長・中将・内閣総合計画局長官・終戦・歌舞伎座サービス会社社長・エチオピア顧問団長・第五回参議院議員通常選挙で落選・昭和四十三年四月死去・享年七十三歳)だった。

 その場にいた、関東軍参謀副長・池田純久少将は、関東軍総司令官・梅津美治郎大将が電話を受けたので、席を外した。

 後で、関東軍総司令官・梅津美治郎大将は、関東軍参謀副長・池田純久少将に、「自分はこの対米英戦争には最初から反対の意見であったから、この任務を受けたくない」と述べた。

 さらに「もはや状況を好転させるべき参謀総長としてのなす述もないのだから、なんとかして、辞退することはできまいか」と相談したという。

 だが、すでに内奏もされており、七月十八日午後、関東軍総司令官・梅津美治郎大将は新京から飛行機で上京した。

 七月十八日午後十時、新参謀総長・梅津美治郎大将の親補式が行われた。同時に次の二人の親補式も執り行われた。

 新教育総監・杉山元(すぎやま・はじめ)元帥(福岡・陸士一二・陸大二二・国連空軍代表随員・歩兵大佐・陸軍省軍務局航空課長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・陸軍航空本部補給部長・国連空軍代表・陸軍省軍務局長・中将・陸軍次官・第一二師団長・陸軍航空本部長・参謀次長兼陸軍大学校長・教育総監・大将・陸軍大臣・北支那方面軍司令官・参謀総長・元帥・教育総監・陸軍大臣・第一総軍司令官・終戦・自決・享年六十八歳)。

 新関東軍司令官・山田乙三(やまだ・おとぞう)大将(長野・陸士一四・陸大二四・騎兵第二六連隊長・騎兵大佐・朝鮮軍参謀・参謀本部通信課長・少将・陸軍騎兵学校教育部長・第四旅団長・陸軍通信学校長・参謀本部第三部長・参謀本部総務部長・中将・参謀本部総務部長兼第三部長・陸軍士官学校長・第一二師団長・第三軍司令官・中支那派遣軍司令官・教育総監・大将・教育総監兼防衛司令官・関東軍司令官兼駐満州国特命全権大使・終戦・捕虜としてシベリアに十年間抑留・昭和四十年七月死去・享年八十三歳)。

 昭和十九年七月十九日、東條内閣は戦局最も困難な時期に、組閣以来二年九か月余にして遂に倒れた。

 やがて陸軍大臣詮衡の三長官会議が開かれ、教育総監・杉山元元帥、参謀総長・梅津美治郎大将、陸軍大臣・東條英機大将が出席した。









695.梅津美治郎陸軍大将(35)関東軍司令官・梅津美治郎大将は「この戦争はもう駄目だ。日本帝国は敗戦の道をたどらねばなるまい」と嘆声を洩らした

2019年07月19日 | 梅津美治郎陸軍大将
 その時、関東軍司令官・梅津美治郎中将が、次の様に強く意見を述べた、

 「どうも中央補給機関が満州にあるのは具合が悪い。関東軍司令官の隷下に入るように改編する必要がある」。

 これに対して、最新参者であった関東軍参謀部作戦課兵站班長・今岡豊少佐は、関東軍司令官・梅津美治郎中将に次の様に述べた。

 「閣下、それは閣下が陸軍次官の時、強力な補給機関を満州に推進するに方り、参謀本部としては関東軍の隷下に入れる案であったが、梅津閣下がどうしても中央機関にしなければ出さないとのことで、このように決定したと思っておりますが」。

 すると、関東軍司令官・梅津美治郎中将は、次の様に答えた。
 
 「たしかに次官の時は、陸軍大臣管轄のものにした方が強力なものとなって良いと思ったが、関東軍司令官の立場から見ると、満州に陸軍省の機関が進出すれば、他の各省が満州にいろんな機関を出すのを拒絶する訳には行かなくなる。そうなると駐満大使として、一元的に満州国を指導している態勢が崩れることになる」。

 関東軍参謀部作戦課兵站班長・今岡豊少佐は、これを聞いて「ハイ、よく判りました」と答えたのだが、このような深い理由があるとは思わなかった。後に、ある部長から「君は思い切ったことを言ったものだなあ」と、冷やかされた。

 昭和十五年八月一日、関東軍司令官・梅津美治郎中将は大将に進級した。

 昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃により、太平洋戦争が開戦した。真珠湾攻撃や、マレー上陸作戦の成功で、国民は、湧き上がって歓喜していた。

 だが、関東軍司令官・梅津美治郎大将は、この戦争の推移がどうなるか、長期的見通しについて深く憂慮していた。

 当時の関東軍第一課長(作戦)は、田村義富(たむら・よしとみ)大佐(山梨・陸士三一・陸大三九恩賜・フランス駐在・軍務局軍事課編制班長・北支那方面軍作戦主任・歩兵大佐・北支那方面軍作戦課長・少将・関東軍作戦課長・少将・関東軍補給監部参謀長兼関東軍参謀副長・大本営参謀兼中部太平洋方面艦隊参謀副長・第三一軍参謀長・昭和十九年八月十一日グアム島で自決・享年四十七歳・中将)だった。

 関東軍司令官・梅津美治郎大将は、お気に入りの第一課長・田村義富大佐に「この戦争はどうなるだろうか」と質問してみた。

 第一課長・田村義富大佐は即座に「この戦争は、勝目がないように思います」と答えた。

 関東軍司令官・梅津美治郎大将は、「自分も、そのように思う」と言って、第一課長・田村義富大佐の意見に同意したと言われている。

 昭和十七年六月五日~七日に行われたミッドウェー海戦は日本海軍の敗北に終わった。

 この報告を受けた、関東軍司令官・梅津美治郎大将は、「この戦争はもう駄目だ。日本帝国は敗戦の道をたどらねばなるまい」と嘆声を洩らした。

 昭和十七年七月四日、関東軍の指揮組織を改編強化するとともに、これに伴う人事が次のように発令された。

 新設された第一方面軍の軍司令官には山下奉文(やました・ともゆき)中将(高知・陸士一八・陸大二八恩賜・陸軍大学校教官・オーストリア大使館兼ハンガリー公使館附武官・歩兵大佐・歩兵第三連隊長・陸軍省軍事課長・少将・陸軍省軍事調査部長・歩兵第四〇旅団長・支那駐屯混成旅団長・中将・北支那方面軍参謀長・第四師団長・航空総監兼航空本部長・ドイツ派遣航空視察団長・関東防衛軍司令官・第二五軍司令官・第一方面軍司令官・大将・第一四方面軍司令官・マニラ軍事裁判で死刑判決・昭和二十一年二月刑死・享年六十歳・従二位・功三級・勲一等旭日大綬章・五等オーストリア共和国功績勲章等)が親補された。

 第二方面軍の軍司令官には阿南惟幾(あなみ・これちか)中将(大分・陸士一八・二四番・陸大三〇・一八番・侍従武官・歩兵大佐・近衛歩兵第二連隊長・東京陸軍幼年学校長・少将・陸軍省兵務局長・陸軍省人事局長・中将・第一〇九師団長・陸軍次官・第一一軍司令官・第二方面軍司令官・大将・航空総監・陸軍大臣・昭和二十年八月十五日自決・享年五十八歳・勲一等旭日大綬章・功三級)が親補された。

 また、吉林省の延吉(えんきつ)に第二軍が、吉林省の四平街(四平市=しへいし)に機甲軍がそれぞれ新設された。




694.梅津美治郎陸軍大将(34)「では大邸だ。大邸へ行け」と関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、操縦士に命じた

2019年07月12日 | 梅津美治郎陸軍大将
 「今、どこを飛んでいるのだ」と聞くと、操縦士は「判りません」と答えた。これは大変だ、どうしてこんなことになったのか。通信士もいるだろうに……。

 関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、一まず、関東軍司令官・梅津美治郎中将の横を通って、自席に戻ろうとした。

 その時、関東軍司令官・梅津美治郎中将が「菅井参謀、左に海が見えるネ!」と一言、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、恐縮してしまった。

 自席に戻るのを止めて、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、操縦席に行った。そして、高度を下げさせて、地上を見据えた。

 鉄道線路が走っている。さらに高度を下げさせて、駅のプラットホームにある看板で、駅名を見ようとした。だが、無駄だった。あっという間に飛び去って、駅名の判読はできない。
 
 操縦士に「油は大丈夫か?」と聞くと、「もう少ししかありません」と操縦士が答えた。

 そこで、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、どこか河原でもあったら、不時着しようと思った。燃料が亡くなってからでは、着陸もできないだろうと思ったのだ。

 しばらく行くと、ちょっとした市街が見え、そのはずれに正方形の土塁に囲まれ、その中に四棟の建物があり、土塁の一角に小さな正方形の土塁が突出していた。

 「ここは大田である」と関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、判断した。すなわち歩兵一個大隊が分駐している兵営に違いあるまい。

 操縦士に対して、「大田だよ、大田だ、間違いない」と関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、言うと、操縦士は「え?大田ですか?」と腑に落ちない返事をした。

 大田とすると、京城に引き返すか、大邸に飛ぶしかない。「油は大丈夫か、京城へ引き返せるか」と聞くと、操縦士は「京城へは無理です」という返事だった。

 「大邸へはどうだ?」と聞くと、「大邸なら何とか……」と答えた。「では大邸だ。大邸へ行け」と関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、操縦士に命じた。

 軍司令官専用機は低空で大邸を目指して飛んだ。途中、山脈を越えねばならなかった。かろうじて、峠をすれすれに越したら、遙かに、大邸飛行場が見えた。

 あとは、空中滑空で、大邸飛行場に滑り込んだ。ちょうど、この日は日曜日で、飛行場には宿直の者しかいなかった。

 予定もなく、予告もなく、飛行場に飛び込んで来た飛行機に、宿直勤務者はびっくりしていた。

 全く命拾いをしたのだが、不時着をして、関東軍司令官・梅津美治郎中将、さらに東久邇宮盛厚王殿下に事故でも起きたら大変だった。

 軍司令官専用機は、大邸飛行場で給油をして、夕方、無事、福岡に着陸した。

 この緊迫した機内の状況下で、関東軍司令官・梅津美治郎中将は、「菅井参謀、左に海が見えるネ!」との一言だけで、他には一切何も言わなかった。

 すべて、部下に任せてという、大度量であったと、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、尊敬の念を抱いた。

 昭和十五年初頭、大本営作戦課課員から関東軍参謀部作戦課兵站班長に就任した今岡豊少佐(陸士三七・陸大四七)は、奉天の後方部隊の検閲に、関東軍司令官・梅津美治郎中将に随行した。

 他の随行官は、関東軍参謀副長・遠藤三郎(えんどう・さぶろう)少将(山形・陸士二六・陸大三四恩賜・陸軍砲工学校高等科二三優等・陸軍大学校教官・野重砲第五連隊長・砲兵大佐・参謀本部教育課長・少将・浜松飛行学校教官・関東軍参謀副長兼在満州国大使館附武官・第三飛行団長・陸軍航空士官学校幹事・中将・陸軍航空士官学校長・陸軍航空本部総務部長・軍需省航空兵器総局長官・終戦・戦犯容疑で巣鴨プリズン入所・農業・参議院選挙で落選・日中友好元軍人の会結成・著書「日中十五年戦争と私・国賊・赤の将軍と人はいう」・昭和五十九年死去・享年九十一歳)を初め、兵器・経理・軍医・獣医の各部長。

 奉天には、関東軍の後方機関のほかに、中央補給機関が陸軍大臣管轄の下に進出していたので、これらの機関を検閲する権限はないので査閲した。

 当日、関東軍司令官・梅津美治郎中将を囲んで、随行官だけで、打ち解けて昼食をとった。








693.梅津美治郎陸軍大将(33)東久邇宮盛厚王殿下一行が待ち構えていたので、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は非常に意外に思った

2019年07月05日 | 梅津美治郎陸軍大将
 関東軍司令官・梅津美治郎中将は、これに対して同感であり、次の様に答えた。

 「ここの参謀も急に多くが更迭され、そのような者はもう内地にかえされている筈だが、よく訓戒し逸脱行為に出ないようにする」。

 昭和十四年十一月下旬、ノモンハン事件の後始末の目安がついたので、関東軍司令官・梅津美治郎中将は、軍状上奏のため上京することになった。

 梅津美治郎中将は、第一軍司令官として北京在勤から直接関東軍司令官に親補されたため、第一軍司令官としての軍状上奏が行われていなかったためだった。

 関東軍司令官・梅津美治郎中将の上京には、松山秘書官と、関東軍参謀・菅井斌麿(すがい・としまろ)中佐(徳島・陸士三三・陸大四三・関東軍参謀・参謀本部教育課高級課員・参謀本部教育課長・陸軍省兵備局兵備課長・砲兵大佐・陸軍省高級副官・第一七方面軍参謀副長・少将)が随行することになった。

 当時、東久邇宮盛厚王(ひがしくにのみや・もりひろおう)殿下(東京・東久邇宮稔彦王第一王子・貴族院議員・陸士四九・砲兵少尉・陸軍砲工学校普通科・陸軍野砲兵学校附・大尉・少佐・陸大五八・第三六軍情報参謀・終戦・免貴族院議員・皇籍離脱・公職追放・東京大学経済学部・帝都高速度交通営団幹事・日本狆<ちん>クラブ会長・昭和四十四年二月死去・享年五十一歳・勲一等旭日大綬章)は、北満の重砲兵連隊付き少尉だった。

 だが、十二月一日に陸軍砲工学校入学のため、東京に帰られることになっていたので、殿下のお付武官から、関東軍司令官・梅津美治郎中将の上京の特別機に同乗方の申し入れがあった。

 関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、婉曲に断った。その理由は、関東軍司令官兼満州国駐在大使である者が、短期間にしろ、任地を離れる場合は、満州国側にも通告しなければならないのだ。

 だが、今回は黙って秘密裏に上京することにしたため、もし、宮殿下が同乗の場合は、秘密が露見する公算が濃厚であると思われた。

 ところが、翌早朝、新京飛行場に来てみると、東久邇宮盛厚王殿下一行が待ち構えていたので、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は非常に意外に思った。

 後で、お付武官に聞くと、その前夜、殿下の一行は関東軍司令官・梅津美治郎中将の官舎に一泊し、夕食を共にした席上で、東久邇宮盛厚王殿下が直接、関東軍司令官・梅津美治郎中将に話をされ、同意を得られたとのことだった。

 新京飛行場を離陸した軍司令官専用機は、一路、朝鮮京城飛行場に向かった。通常のコースは奉天経由だったが、奉天に着陸すると、関東軍司令官・梅津美治郎中将の乗っていることが暴露するので、京城へ直行し給油の後、福岡へ飛ぶ計画だった。

 機内での弁当、飲物も携行し、朝鮮軍にも関東軍司令官・梅津美治郎中将が乗っていることなど一切秘密にしてあった。

 関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、二十万分の一の地図を開いて、時々窓下を見ながら、機の位置を確かめていた。

 朝鮮と満州の国境は鴨緑江の遙か上流で通過したことを確認し、あと何十分位で京城上空に達するものと予期し得て安心していた。

 大体予定の時間が過ぎたので、また地上を見た。ほぼ京城上空のはずであるのに、それらしくなかった。依然として山岳地帯である。

 おかしいと思ったので、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、操縦席へ行って「今どこを飛んでいるのか?」と尋ねたが、操縦士は「ちょっと待ってください」と言うのみで、どこの上空かを言わなかった。

 関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、やむなく、自席に戻って窓の外を見つめていたが、どことも見当がつかなかった。

 ニ十分も飛んだであろうか、機の左方に海が見える。そこで、関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、また操縦席へ行って尋ねた。

 操縦士は、相変わらず「ちょっと、待ってください」と言う。しばらくすると、また左に海が見える。おかしい。

 京城着の予定時間はかなり過ぎ去っている。飛行機が迷っているに違いない。関東軍参謀・菅井斌麿中佐は、再び操縦席に行った。







692.梅津美治郎陸軍大将(32)新聞に伝えるような者を大臣にもってきても自分は承諾する意思はない

2019年06月28日 | 梅津美治郎陸軍大将
 昭和十五年初頭、大本営作戦課課員・今岡豊(いまおか・ゆたか)少佐(陸士三七・陸大四七・関東軍参謀・大佐・第七方面軍高級参謀・終戦)は、梅津関東軍司令官隷下の参謀部作戦課兵站班長として転任した。

 梅津美治郎中将が関東軍司令官に親補された経緯について、昭和十四年九月当時、大本営作戦課課員であった今岡豊少佐は、次の様に述べている。

 昭和十四年八月二十七日、平沼内閣は独ソ不可侵条約の成立による「複雑怪奇」の言を残して総辞職し、その後継内閣は、内大臣の推薦によって阿部信行陸軍大将に組閣の大命が下された。

 そして天皇は、阿部大将に対して、「陸軍大臣は梅津(美治郎中将)、畑(俊六大将)のなかから選ぶように」とのお言葉があった。

 当時の内大臣は湯浅倉平(ゆあさ・くらへい・山口・旧制山口高等学校・東京帝国大学法科大学政治学科卒・内務省・岡山県知事・静岡県知事・内務省警保局長・貴族院議員・警視総監・内務次官・朝鮮総督府政務総監・会計検査院長・宮内大臣・内大臣・昭和十五年肺気腫で死去・享年六十六歳・正二位・旭日桐花大綬章)だった。

 この辺りのことを内大臣・湯浅倉平は、八月三十一日朝、原田熊雄(はらだ・くまお・学習院高等科・京都帝国大学卒・男爵・日本銀行・加藤高明総理大臣秘書官・住友合資会社・西園寺公望私設秘書・貴族院男爵議員・昭和二十一年脳血栓で死去・享年五十七歳・男爵・従三位・勲三等)に次の様に話をしている。

 「総理親任の時に(親任は誤りで、組閣を命ぜられた時)、陛下は非常に陸軍のよくないことをつくづく慨歎されたあとで……『新聞に伝えるような者を大臣にもってきても自分は承諾する意思はない』と仰せられ極めて厳粛な御態度で『どうしても梅津か畑を大臣にするようにせよ。たとえ陸軍の三長官が議を決して自分の所にもってきても、自分にはこれを許す意思はない。なお政治は憲法を基準にしてやれ』と仰せられた」。

 この時は、陸軍大臣には畑大将が選ばれた。どうして畑大将になったかは明らかではないが、梅津将軍が戦地の軍司令官をしていることも幾分関係があったのかも知れない。

 梅津美治郎中将が、関東軍司令官兼駐満州国大使に着任して間もない、昭和十四年九月十日、支那大陸からノモンハン事件のため満州に転用された第五師団長が関東軍司令官・梅津美治郎中将に申告に来た。

 その第五師団長は今村均(いまむら・ひとし)中将(宮城・陸士一九・陸大二七首席・軍務局課員・歩兵大佐・軍務局徴募課長・参謀本部作戦課長・歩兵第五七連隊長・習志野学校幹事・少将・歩兵第四〇旅団長・関東軍参謀副長兼在満州国大使館附武官・歩兵学校幹事・陸軍省兵務局長・中将・第五師団長・教育総監部本部長・第二三軍司令官・第一六軍司令官・第八方面軍司令官・大将・終戦・戦犯・釈放・昭和四十三年死去・享年八十二歳)だった。
 
 関東軍司令官・梅津美治郎中将は、第五師団長・今村均中将に次の様に述べた。

 「第五師団はご苦労様です。自分も急に転職の電命を受け、一昨日山西から飛行機でここに着き、戦況の大体は承知し得た」

 「かつてお互いに心配し合った関東軍参謀たちの気分は満州事変の時のものが、まだ残っていたのか、こんな不準備のうちにソ連軍に応じてしまい。関東軍以外の君の師団までも煩わさなければならないことに導いてしまった」

 「中央は重光駐ソ大使に訓電の上、彼我停戦して各旧態勢に復帰することを提議している。同大使の折衝が成功すればよいと祈っている」

 「しかし万一、彼がこれに応ぜず攻勢を続ける場合は、断乎応戦する決意を示すことが、彼を自重させ停戦協定に応ぜしめることにもなる」

 「第五師団は戦力を統一し、敵に大打撃を与えるよう速やかに戦闘態勢を整えられたい。ともかく早く参謀を交戦中の蘇州軍司令部に派遣し、必要の連絡を取ることにし給え」。

 これに対し、第五師団長・今村均中将は、関東軍司令官・梅津美治郎中将に、幕僚の作戦指導について、次の様にお願いした。
 
 「ただ一点お願いしておきたいことは、先遣した連絡参謀の言によれば、第一線軍または師団の責任指揮官をさしおき、関東軍参謀が挺身第一線に進出する事はよいとして、これが部隊に直接攻撃を命じたり、叱咤したりして、多くの損害をこうむらしめていると前線の責任者は痛憤している、とのことである」
 
 「もしそのようなことが真であり、私の師団にもやって来て職分でないことを致しましたら、私はこれを取り押さえて軍司令部に送り届ける決意をしているので、この点諒承ありたい」。













691.梅津美治郎陸軍大将(31)あの緻密な頭でビシビシやられたらたまったものではない。これからの毎日が思いやられる

2019年06月21日 | 梅津美治郎陸軍大将
 飯田祥二郎少将が第一軍参謀長に就任した、昭和十三年一月当時の第一軍司令官は、香月清司(かつき・きよし)中将(佐賀・陸士一四・陸大二四・陸軍大学校教官・歩兵大佐・歩兵第六〇連隊長・歩兵第八連隊長・陸軍大学校教官・陸軍省軍務局兵務課長・少将・歩兵第三〇旅団長・陸軍大学校教官・陸軍大学校幹事・中将・陸軍歩兵学校長・第一二師団長・近衛師団長・教育総監部本部長・支那駐屯軍司令官・第一軍司令官・予備役・昭和二十五年一月死去・享年六十八歳・勲一等瑞宝章・功二級)だった。

 昭和十三年五月三十日、第一軍司令官・香月中将は、参謀本部附となり、梅津美治郎中将が第一軍司令官に着任した。

 戦後、飯田祥二郎元中将は、第一軍参謀長時代を回顧して、次の様に述べている。

 前司令官の香月中将は、怒りっぽい性格で、雷を落とすことが少なくなかった。例えば、方面軍の処置が気に入らないと、これを基礎にした幕僚の案まで、決裁を受けられなかったことが度々あった。

 しかし、翌朝になると、軍司令官の気分が一変し、「万事委す」といって決済されるのが通例であった。

 だが、平素は幕僚の仕事がやり易いように配慮したり、司令部内の空気を明るくしようと冗談を飛ばすことも再々あった。

 香月将軍は、私の士官学校生徒時代の区隊長であり、私が歩兵学校教官当時の校長という因縁があり、お互い特別親しい間柄であった。

 雷の鳴らない香月将軍など淋しい位の気持ちだったので、香月軍司令官当時の参謀長の職務は、むしろ明朗な日々であったというのが実情だった。

 このような時に、新軍司令官とし、梅津将軍を迎えたのだ。「これは大変なことになった。あの緻密な頭でビシビシやられたらたまったものではない。これからの毎日が思いやられる」というのが、偽らざる当時の感想だった。

 ところが事実はこれと全く反対で、かような心配は皆無であったばかりか、参謀長としてはむしろ理想的という生活が待ち受けていた。

 梅津司令官が着任したのが昭和十三年五月末であり、私(飯田祥二郎少将)が転出したのが同年十一月初めであるから、軍参謀長として梅津軍司令官の下に勤務したのは正味五か月ということになる。

 この間において第一軍の戦況は大きな作戦はなく、大体において守備勤務という状態であった。強いて言えば、南部山西における第二十師団の作戦位のものである。

 我々は暇さえあればボーとして頭を休めているが、雑事に負われると他を顧みる余裕のないのが一般であり、大局からの視察がとかく不足がちなのが通例だが、梅津軍司令官は絶えず軍司令官としての立場からの頭の働きが並大抵でなかった。

 以上のように梅津軍司令官の下における軍参謀長の仕事は、誠に平静な日々であったということが出来る。

 身辺日記の八月三日の一節に次のような記録がある。

 「本日は頗る暑さ激し、夕食後、官邸広間扇風機の下にて軍司令官と雑談十時半に至る。最も涼しき位置なり」。

 軍司令官との雑談が暑気を一掃し、涼風満喫という光景が想像される。これは梅津軍司令官と参謀長との日常の接触の光景と思えば如何に幸福な日々であったかを想像することが出来る。

 梅津軍司令官を理想的な戦場の将軍と推奨するのは当然であろう。

 昭和十四年九月七日、第一軍司令官・梅津美治郎中将は、関東軍司令官兼駐満州国大使に親補された。

 元来関東軍司令官は満州事変終了後、現役陸軍大将中の最古参者を送り込むのが例であったが、梅津は未だ中将であり、平素の序列によれば実に、二十名近くの人々を飛び越えて抜擢されたのだということであった。

 そして十九年七月、東條英機総理兼参謀総長が統帥と政務の分離を余儀なくされ、かつ部内の幕僚の要望によって梅津を参謀総長に呼び戻すまで、実に五年間に近く関東軍司令官の職にあった。