陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

350.辻政信陸軍大佐(10)あれ程東條さんに叱られた私が何故、東京に呼び出されたのであろうか

2012年12月06日 | 辻政信陸軍大佐
 「安藤参謀来りて予に辻中佐収容方を懇請す。総軍参謀部難色ありたるも、予は好漢愛すべきを知る。板垣総参謀長は、山西作戦に於いて辻参謀の先陣を知る。乃ち予は総参謀長に謀りて辻中佐を収容し、課するに思想部門を以ってす」。

 「漢口為に脅威を感ず」とは大袈裟のようだが、辻少佐は自動車の運転手まで手なずけ、軍幹部の夜の非行を探った。

 そのため自決に追い込まれた高級将校がいたほどである。辻少佐の引取りを第十一軍が要請したのは、よくよくの事だったにちがいない。

 このことについて、「政治家辻政信の最後」(生出寿・光人社)によると、「第十一軍司令部の軍紀風紀係参謀になった辻少佐は、高級将校らの夜の遊興、女関係などを洗いざらい調べまくって彼らを恐れさせ、経済参謀の山本浩一少佐(陸士三七・陸大四六)を自殺に追い込むほどのことをやらかした」と記してある。

 記録では、山本浩一少佐は、第十一軍参謀として、昭和十五年八月十二日死去となっている。

 堀場中佐の好意ある計らいが実を結び、「補支那派遣軍総司令部附」の辞令が出たのは昭和十五年二月十日だった。

 かねて慕っていた板垣征四郎中将(陸士一六・陸大二八・岩手県出身・関東軍参謀長・中将・第五師団長・陸軍大臣・那派遣軍総参謀長・大将・朝鮮軍司令官・第七方面軍司令官・戦犯死刑)のもとで勤務するのだから、辻少佐にとっては本望だった。

 堀場中佐は辻少佐と同じ名古屋幼年学校卒(台賜の銀時計)で辻少佐より二年先輩だった。中国ソ連にも駐在、視野も広く学究肌の軍人だった。辻少佐に対しては好意的であった。

 昭和十六年六月二十二日、ついに独ソ戦は火蓋を切った。「補参謀本部部員」の電報辞令を辻政信中佐(昭和十五年八月進級)が受け取ったのは、六月二十四日だった。

 この辞令について、「シンガポール」(辻政信・東西南北社)において、辻自身は、その心境を次のように記している。

 「あれ程東條さんに叱られた私が何故、東京に呼び出されたのであろうか。恐らく北か南かの何れかに対して、戦う準備を進められているのだろう」

 「関東軍で数年対ソ作戦を研究準備し、ノモンハンの体験を持っているために、北面して起つ場合にも使い途があり、また僅か半年ではあるが、専心南方研究に熱中していることは、国軍が南に向かって動く場合の道案内にも役立つだろう」。

 辻政信中佐は、昭和十六年七月十四日、参謀本部作戦課兵站班長に着任した。服部卓四郎中佐(八月大佐)は七月一日にすでに作戦課長の椅子についていた。

 参謀本部の中枢、作戦課が、かつての関東軍作戦課同様、再び、服部・辻のコンビで占められた。二人とも、ノモンハンでの左遷以来、二年とたたないのに、早くも返り咲いた。

 当時の参謀本部作戦部長は田中新一少将(陸士二五・陸大三五・新潟県出身・中将・第一八師団長・ビルマ方面軍参謀長)だったが、その直属だった作戦課長の土居明夫大佐(陸士二九・陸大三九恩賜・高知県出身・少将・第三軍参謀長・第一三軍参謀長・中将)が急に転出することになった。

 七月一日付で土居大佐は関東軍第三軍参謀副長に転出した。これは定期異動ではなかった。その後に作戦課長に就任したのが作戦班長・服部中佐だった。この更迭には種々の憶測を生んだ。

 土居明夫中将が死去したのは昭和五十一年五月十日だが、死の直前に書き残したメモが発見された。死後、昭和五十五年に発刊された、「一軍人の憂国の生涯・陸軍中将土居明夫伝」(土居明夫伝記刊行会編・原書房)には次のように記されている。

 「柴田芳三庶務課長(陸士三二・陸大四三・三重県出身・少将・第一三方面軍参謀長)は余を追い出す陰謀ありと注意してくれた」

 「昭和十六年三~四月の頃、作戦課参謀・高瀬啓治少佐(陸士三八・陸大四八首席・静岡県出身・大佐・陸軍大学校教官)に独ソ戦が起きた時の作戦課としての意見と、また、兵站班長・櫛田正夫中佐(陸士三五・陸大四四・大佐・南方軍参謀)に日満一体経済による大作戦支援の計画を命じたが共にやらなんだ」

 「服部の反対だったろうと思う。課内の空気としては余排撃が余自身にひしひし感ぜられた。この大事の秋と思い部長帰還(満州より)後、田中部長に「余を出すか服部を出せ」といったところが、田中部長は省部出先軍に対し影響力のある服部を残し余を出した」

349.辻政信陸軍大佐(9)ノモンハンの最前線で、辻少佐と黒崎大尉は偶然に出会った

2012年11月30日 | 辻政信陸軍大佐
 この戦況を速やかに軍司令官に報告し、新しい手を講じなくてはならないと、辻政信少佐は十日夜、師団長に別れ、ハイラルに引き揚げた。

 辻少佐は兵站宿舎に数時間まどろんでいたが、隣室の騒ぎがひどくて寝付かれなかった。土建屋が芸妓を揚げて、酒池肉林の中に気焔を吐いていた。

 「戦争が起こったらまた金儲けができるぞ。軍人の馬鹿どもが儲かりもしないのに、生命を捨ておる。阿呆な奴じゃ……」

 襖一重のこの乱痴気騒ぎを、辻中佐は、ついに黙視することができなかった。いきなりその室に入って、何も言わず、数名のゴロツキ利権屋に鉄拳を見舞った。

 兵隊が一枚の葉書で召集せられ、数年間北満の砂漠に苦しみながら、故郷に残した老父母や妻子に、一円の仕送りさえできず、血戦死闘の戦場で散ってゆく姿を思い、その背後で戦争成金が贅を尽くしているのを見ると、辻少佐は、体内の全血管が爆発しそうになるのを抑えることができなかったのだ。

 昭和十四年九月初旬、ノモンハンの戦場、二〇八高地付近に第一師団が進出した。その第一連隊右側に陣取ったのが第三独立守備隊第十五大隊だった。

 この第十五大隊の中隊長に黒崎貞明大尉がいた。折りしも第六軍の反撃指導に現れたのが、関東軍の参謀・辻政信少佐だった。

 このノモンハンの最前線で、辻少佐と黒崎大尉は偶然に出会った。その瞬間、いきづまるような緊張が走った。先に声をかけたのは辻少佐だった。

 「黒崎大尉、元気でやっているナ。頼りにしているぞ」と辻少佐は愛想笑いを浮かべ、握手を求めてきた。

 戦後、黒崎は回想している。「あまりに馬鹿丁寧なんだ。普通なら鼻もひっかけない男だろうからね。僕もとまどったが、見ていた兵隊のほうがよっぽどびっくりしていたよ」。

 そのとき、黒崎大尉は「役者だな」と思ったが、「ここは戦場だ、復讐を考える場所ではない」と思い返し、「やります」と言って、答礼を返した。

 ノモンハン事件後、昭和十四年九月十五日、辻政信少佐は中支・漢口の第十一軍司令部に飛ばされた。

 「参謀辻政信・伝奇」(田々宮英太郎・芙蓉書房)によると、軍司令官は岡村寧次中将(陸士十六・陸大二五恩賜・東京出身・関東軍参謀副長・参謀本部第二部長・中将・第二師団長・第十一軍司令官・勲一等旭日大綬章・大将・北支那方面軍司令官・第六方面軍司令官・支那派遣軍総司令官・戦後日本郷友連盟会長)だった。

 また、参謀長は青木重誠少将(陸士二五・陸大三二恩賜・石川県出身・陸相秘書官・第二軍参謀副長・第十一軍参謀長・少将・陸軍習志野学校長・中将・南方軍総参謀副長・第二〇師団長。戦病死)だった。

 第十一軍に着任したこの日の心境を辻政信は、「亜細亜の共感」(辻政信・亜東書房)で、次のように記している。

 「敗残の落武者を迎えた司令部の空気は予想の通りである。軍司令官は浴衣がけで、手に講談倶楽部を持ちながら、この札付きの少佐の申告を受けられた(略)」

 「参謀本部部員とか、陸軍省課員の身分で訪れたら、勲章をつけた軍服姿で、下にも置かずもてなすであろうこの将軍には、今満身創痍の一少佐を、厄介視こそすれ、一片の同情、一介の好意を寄せるような気持ちは、微塵も見出すことが出来なかったのである」。

 参謀肩章を吊り、肩で風を切っていた作戦参謀時代とは一変、ここでは、部付の一少佐に過ぎない。しかし、司令官への腹癒せに、着任当日、いち早く戦場へ飛び出す芸当もやってのけている。

 当時の状況について興味深い資料がある。支那派遣軍総司令部政務課にいた堀場一雄中佐(陸士三四・陸大四二恩賜・愛知県出身・ソ連駐在・航空兵中佐・支那派遣軍参謀・大佐・飛行第六二戦隊長・第五航空軍参謀副長)の秘録、「支那事変戦争指導史」(堀場一雄・時事通信社)に、次のように記してある。

 「辻中佐(ママ)はノモンハンの責任に坐し、第十一軍司令部附として楽しまず。偶々青木参謀長課する軍紀風紀係を持ってす。辻中佐本領を発揮し、深夜街頭に自動車を停め料亭に臨検し、漢口為に脅威を感ず」

348.辻政信陸軍大佐(8)辻とワシの曲直を明らかにしなければ死ぬにも死ねない

2012年11月23日 | 辻政信陸軍大佐
 辻政信氏の返書の続きは次の通り。

 「慰霊祭の席上では、私はビールの件は取り消しておきました。軍旗の件も、軍司令部ではカンカンに怒ったものでした。以上があなたの真面目なお手紙に対する私の回答です」

 「但しこの御手紙を読んで、当時の当番の貴殿にかくも慕われている須見さんを見ると、私の過去の観察を修正しなければならぬと考えています」

 「別に個人的な感情の問題ではありません。不悪御諒察下されたし。右不取敢御礼傍々御返事申し上げます」。

 当時の辻政信は参議院議員で、戦犯的な過去にもかかわらず、旧軍人に対し勢威をふるっていた。返書の内容も、それを反映していかにも高姿勢である。

 なお、「辻政信・その人間像と行方」(堀江芳孝・恒文社)によると、戦後、著者の堀江芳孝氏は、元連隊長の須見新一郎氏から「ぜひ自分が経営する三楽荘(温泉ホテル)に遊びに来てくれ」とのことなので、三楽荘に旧部下の別所氏とともに出かけた。

 須見氏はまず、真崎甚三郎大将の話を始めた。そのあと、堀江氏が「須見さん、この辺で、歩二の昔話でも聞かせていただきたいですね」と言うと、「ノモンハンの話をしたい」と言い出し、須見氏は「ビール事件」のことを次のように話した。

 自分はあんなメチャクチャな戦で、しかも辻という悪漢にめぐり合わせたせいで、現場でクビにされたもので、今なお闘争中である。

 隣の敵から蹂躙された某連隊が後退中だが、敵の追撃が停止したので、兵数名と食事を取っていた。当番兵が川の水をビールビンに汲んで来たので、その水を飲んでいた。

 ちょうどその時辻参謀が通りかかった。辻は「この戦況下に連隊長がビールを傾けつつ食事とは何ごとですか」と言うから「これは川の水だよ」と答えると、辻は去っていった。

 辻は最寄の電信所で電報を打ちやがったのだ。東京宛てか新京の関東軍司令部宛てか分からんが、早速関東軍司令部に出頭せよとの電報が来て、関東軍司令部付、ついで予備役に編入されてしまったのだ。

 ワシだって病気してしばらく休校し陸士卒業の時は、青木重政が一番となり、ワシが二番になったが、ワシだって恩賜だ。

 大佐で現地作戦中の連隊長が即時のクビになるなんて馬鹿な話は考えられない。あんな悪党の電報を受けて交戦中の連隊長を調査もせずにクビにするなんて中央部もなっていないと思うが、とにかく何か自分よりも階級の高い者の弱点を見つけて上の方に報告し、手前の点数を上げようとする自己顕示の欲望に燃えた奴だったね……。

 以上が、須見新一郎氏が堀江氏に語った「ビール事件」の顛末だった。

 須見氏は当時の当番兵の他、一緒に食事をしていた兵士たちの証言をまとめて印刷し、これを旧陸軍と一般社会に配布し、「辻とワシの曲直を明らかにしなければ死ぬにも死ねない」と意気込んでいた。

 須見氏はさらにノモンハン事件と辻政信について、次のように語った。

 何しろ制空権をアチラが持っていて、砲兵と戦車を数え切れないほど駆使し、歩兵だってアチラが五倍も六倍も多いのだから、あっという間に日本軍は分断されたのだ。

 所謂圧倒殲滅された訳だ。捕虜が出るのは当然の帰結だ。逆に言えば日本側の判断が悪く作戦計画がなっていなかったのだ。

 どういうわけか実情は分からなかったが、モスクワの休戦交渉がスピードを掲げていたことは確かのようだ。そしてその休戦交渉の結果、多数の将兵がアチラ側から帰されて来たのだ。

 辻は将校が入院している病院に手榴弾を持ち込み、武士の恥をそそげと自殺を強要したのだ。手前の判断と作戦計画の拙劣を棚に上げて、不可抗力に陥った者、特に重傷乃至人事不省で捕まった者に自殺を強要するなどということは常人にはできない。本当に悪質な奴だ。

 「ノモンハン秘史」(辻正信・毎日ワンズ)によると、七月初旬、ハルハ河右岸し進出しているソ連軍に安岡支隊が攻撃を行った。だが、攻撃は挫折し、七月十一日以降は敵と睨み合ったまま、滞陣状態に陥った。

347.辻政信陸軍大佐(7)ノモンハン慰霊祭には、衆の面前で私を罵倒されました

2012年11月16日 | 辻政信陸軍大佐
 これに対し、「参謀辻政信・伝奇」(田々宮英太郎・芙蓉書房)によると、当時連隊長だった、須見新一郎氏の手記が、昭和三十年八月七日号「週刊読売」に次のように記されている。

 「辻氏一流の筆法でこっぴどく、たたきのめされている。第一回の戦闘で安達大隊は、私の指揮下から切り離され、小松原兵団長の直接指揮に入ったのであった」

 「私はゆうゆうとビールをのんでいたのではなかった。渇病患者の出る戦闘の毎日のうち、何よりもほしいのは水だ」

 「たしか、七月四日の午後、連隊の書記をしていた中野軍曹が、ハルハ河の水を入れたビールびんをもってきて食事をすすめていったことがある。一口、ビールびんに口をつけて、あとは砂地に立てておいたものだった」。

 以上の須見新一郎氏の手記の原型と見られるものが、戦時中の昭和十九年七月十五日発行の須見大佐回顧録「実戦寸描」に次のように記されている。

 「生き残った書記の中野軍曹が三上伝令と哈爾哈(ハルハ)河の水を入れたビール瓶を添へて予に食事を勧めて呉れた」

 「自分は無言で之を食べた。今や何を語るべき……偶然にも生き残った一本松は唯黙々として部隊の指揮に務めて居た」。

 以上のことから、当時の差し迫った戦況や、須見大佐が下戸であったことなどから、それが、ビールではなく、ハルハ河の水であったと見るのが妥当だろう。

 辻政信参謀自身、時には水筒に酒をつめていたといわれていることから、今回の事件は辻参謀の僻目のさせる邪推だったのではないだろうか。

 ところで、辻政信氏の「ノモンハン」(亜東書房・昭和二十五年)を読んだ当時の当番兵、外崎善太郎氏が、昭和三十五年三月、生き証人としてビール云々は事実無根だと抗議の手紙を辻氏に出している。

 だが、須見大佐の手記には、外崎当番兵の名前は出てこない。そこで「参謀辻政信・伝奇」(田々宮英太郎・芙蓉書房)の著者、田々宮英太郎氏は青森県に健在な外崎氏に照会の手紙を出した。すると、次のような回答が来た。

 「中野軍曹のこと、連隊付書記軍曹で、私にハルハ河に行って水を汲んで来るよう命じられました。途中ビールの空き瓶をひろい、河の水を汲み中野軍曹の塹壕まで持って来て、二人でかんぱんとビール瓶の水を連隊長の塹壕まで持って置いて来ました」

 「然し、三日までの当番兵(三上伍勤上等兵)が戦死し四日から私が当番兵となったゆえ、この事実は中野軍曹しか知らなかったと思う。但し中野軍曹は、八月二十七日夕景、七八〇高地の戦闘で約五メートル離れた場所で戦死しました」

 「なぜ空き瓶があったか。それにガソリンを入れ敵戦車に投げつける火炎瓶をつくるためでした。サイダー瓶が適当でしたが、ビール瓶も使ったのです」。

 昭和三十五年四月十九日付けで、外崎氏の抗議に対する辻政信氏の返書が、送られてきた。便箋四枚にペン字で書かれた全文の内容は次のように記されていた。

 「御手紙を拝見しました。旧上官の須見さんを思わるる御純情に心を打たれました。私の著書の中にビール云々と書いた事を須見さんは今でも怒られ、去年末のノモンハン慰霊祭には、衆の面前で私を罵倒されました」

 「私は弁解しようとは思いませんが、当時安達大隊が重囲の中にあり連隊長は当然これを救出しなければなりませんのに、見捨てられる様な気配がありましたので、当時連隊本部にいた他の大隊長と話した処、連隊長がその気がない、陣中なのにビールを飲んでいると非常に憤慨していたのを耳にしたのです」

 「あのとき飲んでおられたのがビールでなかったとは、あなたの手紙で判りましたが、当時の大隊長は連隊長の安達大隊に対するやり方に怒っておられたのは事実でした」

 「須見さんは退役なさったのは、私がやったのだと感じておられるようですが、それは誤解です。然し特務機関長時代の色々の事が中央部で問題になったまでです。今さら二十年前の事を荒立てる必要もありませんが」

346.辻政信陸軍大佐(6)右から左から、正面から十数輌の敵戦車が突入してきた

2012年11月09日 | 辻政信陸軍大佐
 そもそも、辻少佐が、怒鳴りつけたのは、その場の感情的なものではなかった。辻少佐は、七月二日夜、服部参謀の同期生、横田千也少佐とともに前線に出た。

 横田少佐はハルハ河の第一回渡河の援護部隊の大隊長だった。部隊は、後続部隊の先陣として、横田大隊長指揮のもとに、十隻の折畳船で五十メートルの河を渡り、ソ連軍の第一線の敵地に突入した。

 辻少佐も横田大隊長とともに、敵陣に突入した。そこに敵戦車が攻撃してきた。「豪に入れ、肉薄攻撃準備!」と、辻少佐の隣に立っていた横田大隊長が怒鳴った瞬間に斃れた。

 横田大隊長は頭部貫通で戦死したのだ。右から左から、正面から十数輌の敵戦車が突入してきた。戦場は修羅場となった。手榴弾が飛び、機関銃が火を噴いた。

 三十分の戦闘で、敵戦車二輌を火炎瓶で焼き、一輌を砲塔に飛び乗って捕らえた。太陽が昇るとともに、歩兵第七一連隊、第七二連隊が駆けつけた。

 辻少佐はその後も戦場にいた。小松原師団長も前線に出てきた。だが、敵航空機と戦車の圧倒的な攻撃で、日本軍は押されてきた。

 そのような過酷な戦闘のあと、七月四日、「須見連隊長ビール事件」が起きた。この事件について、辻政信はその著書「ノモンハン秘史」(辻政信・毎日ワンズ)で次のように記している。

 午後三時頃であった。悲痛な顔をした須見連隊の将校が、部隊の危機を訴えるように報告している。「火炎瓶と地雷を下さい」。声が慄えている。

 師団長はたったいま参謀長を失ったばかりのところへ、またしても前岸の急を訴えられ、苦悩の色がさすがに濃い。

 師団参謀は手不足で、前岸に行く余裕はまったくなさそうだ。またお手伝いしようと思って副長に申し出た。異論はない。

 師団長は柔和な瞳で、「君、行ってくれるか、御苦労ですが……」と、心からいたわり、喜んで申し出を承認された。

 「護衛兵を連れて行け」と言われたが、白昼、敵砲弾下を潜るには一人に限る。敵がどんなに弾薬が豊富であったにしても、まさか一人の目標に対して大砲を向けることもあるまいと考えながら、砲弾の合間を縫いながら、再びハルハ河を渡った。

 昨日からの渇きを癒すのはただこのときだ。橋板の上に腹ばいになって水筒で河水を汲み、たちまち二本を飲み干した。師団長にも、兵にも飲ませてやりたい……。

 ハラ高地の連隊本部に辿り着いたとき、まだ陽が高いのに連隊長は夕食の最中であった。不思議にもビールを飲んでいる。

 この激戦場でどうしたことだろう、ビールがあるとは……。飲まず食わずに戦っている兵の手前も憚らないで……。不快の念は、やがて憤怒の情に変わった。

 「安達大隊はどうなっていますか?」

 「ウン……安達の奴、勝手に暴進して、こんなことになったよ。仕方がないねえ……今夜斥候を出して連絡させようと思っとる」

 部下の勇敢な大隊長が、敵中に孤立して重囲の中に危急を伝えているとき、連隊長が涼しい顔をしてビールを飲んでいるとは――。これが陸大を出た秀才であろうか。

 ついに階級を忘れ、立場を忘れた。

 「安達大隊を、何故軍旗を奉じ、全力で救わないのですかッ、将校団長として見殺しにできますかッ」

 側にいた第二、第三大隊長も、連隊副官も、小声で連隊長に対する不満を述べている。軍旗はすでに将軍廟に後退させていたのである。

 連隊と生死を共にせよとて、三千の将兵の魂として授けられた軍旗を、事もあろうに、数里後方の将軍廟に後退させるとは何事か。

 食事を終わった連隊長は、さすがに心に咎めたらしく、重火器だけをその陣地に残して、歩兵の全力で夜襲し、ついに安達大隊を重囲から救出した。

 安達少佐以下約百名の死傷者を担いで、夜半過ぎ渡河を開始した。その最後尾の兵が橋を渡り終わるのを見届けてから、ハルハ河を渡った。

 以上が、辻政信の「ノモンハン秘史」に記されている「ビール事件」の記事である。

345.辻政信陸軍大佐(5)激怒し、階級を忘れて、須見大佐を怒鳴りつけた

2012年11月02日 | 辻政信陸軍大佐
 士官学校事件に連座した村中孝次大尉、磯部浅一一等主計が「粛軍に関する意見書」を理由に免官されたのは、昭和十年八月二日である。

 これに憤慨したのが当時、撫順にあった満州独立守備歩兵第六大隊の黒崎貞明中尉(陸士四五・陸大五五・軍務局課員・中佐)だった。

 村中大尉とはただならぬ先輩同志として結ばれていた。士官学校では隣の区隊長だったが、革新運動の手ほどきを受けたのが村中大尉だった。

 黒崎中尉は、在満革新将校の中心的な存在になっていた。「村中、磯部が免官なら、元凶の辻こそ免官になるべきだ」と憤慨が収まらなかった。

 程なく満州に現れたのが、水戸二連隊付の辻政信大尉で、十名ばかりの一行にまじっていた。この機を逸してはならぬと考えたのが黒崎中尉だった。

 「事件を捏造した張本人がのさばるようでは、革新将校は犠牲にされるばかりだ。やがて奴らが軍の中枢に座った日には、日本の革新はどうなるんだ」。こう思いつめると、辻と刺し違える覚悟を決めた。

 撫順の一流料亭「近江亭」の夜は、弦歌のさざめきで賑わっていた。その玄関口へ堂々と現れたのが一人の青年将校である。帯剣のほかに、白鞘の短剣も握っている。

 その青年将校こそ、黒崎中尉だった。折から廊下に現れたのが、久門有文大尉(陸士三六・陸大四三恩賜・大本営作戦課航空班長・殉職・大佐)だった。当時軍務局課員だった久門大尉は辻大尉の親友で満州へ同行していた。

 久門大尉が、トイレに行くためにたまたま通りかかり、黒崎中尉は、やにわに組み敷かれてしまった。腕力にかけては久門大尉のほうがはるかに優っていた。

 「ここでは辻を刺したって、どうにもなりゃせんよ。日本の将来を思うなら、辻よりも偉くなれ」と久門大尉は諭した。

 この一件は、当然、辻大尉の耳に入った。以来、辻大尉と、黒崎中尉の間には対決の情念が渦巻くこととなった。

 昭和十四年五月、満州国とモンゴル人民共和国の国境線をめぐって、日本軍とソ連軍が衝突したノモンハン事件が起きた。

 当時、辻政信少佐は関東軍第一課(作戦)の作戦参謀だった。上司の作戦主任は、服部卓四郎中佐(山形・陸士三四・陸大四二恩賜・フランス駐在・中佐・関東軍参謀・陸大教官・参謀本部作戦課長・歩兵第六五連隊長・戦後GHQ勤務・復員局資料整理課長)だった。

 「辻政信・その人間像と行方」(堀江芳孝・恒文社)によると、ノモンハン事件勃発後の七月三日午後、ハルハ河左岸のハル高地に、第二三師団長・小松原道太郎中将(神奈川・陸士一八・陸大二七・ソ連駐在武官・少将・近衛歩兵第一旅団長・中将・第二三師団長・予備役・病死)と、その幕僚が陣取っていた。

 また、関東軍参謀副長・矢野音三郎少将(山口・陸士二二・陸大三三恩賜・歩兵第四九連隊長・少将・関東軍参謀副長・北支那派遣憲兵隊司令官・中将・第二六師団長・陸軍公主嶺学校長・予備役)、服部中佐、辻政信少佐らも小松原中将とともにいた。

 協議の結果、三日夜暗を利用して、第二三師団主力を、ハルハ河右岸地区に後退させようということになった。小松原師団長は同意した。

 小松原師団長は師団主力を後退させるため、須見連隊(歩兵第二六連隊)に白銀チボ台地に留まらせ、主力の戦場離脱援護に当たらせる処置をとった。

 七月四日払暁までに師団主力の大部分が後退した。須見連隊と他の連隊の一部が左岸に踏みとどまっていた。

 この日の昼、連隊長・須見新一郎大佐(長野・陸士二五次席・陸大三四・歩兵第二六連隊長・予備役)が昼食を取っている時、偶然、辻政信少佐が通りかかった。

 辻政信少佐は、連隊長・須見新一郎大佐が、前線で、昼食時にビールを飲んでいるのを見て、激怒し、階級を忘れて、須見大佐を怒鳴りつけた。

 須見大佐は、ビールではなく、ハルハ河の水をビールの空き瓶に入れたものだと、反論したが、須見大佐は、解任、予備役となった。これが「須見連隊長ビール事件」である。

344.辻政信陸軍大佐(4)教官殿の講義内容は図書館で閲覧し、全ての解答も暗記しております

2012年10月26日 | 辻政信陸軍大佐
 昭和四年九月、辻中尉は小学校の頃の校長の媒酌で大阪の官吏の娘、青木千歳と結婚した。

 辻中尉は陸軍大学校在学中、図書館で日露戦争に際し、重要な戦闘を、戦後に研究反省した戦術書を読んだ。

 その戦術書には、満州各地で行われたロシア陸軍との戦闘について、細かく検討分析し、日本軍がもしこのように戦えば、より少ない犠牲によって勝利を勝ち得たであろうと説明が記されていた。

 その内容は試験問題と答案集のような型式で列挙されていた。辻中尉は強い興味に駆られ、その答案をすべて暗記した。

 ところがある教官が講義に際し、その戦術書を種本として講義を始めた。学生たちは参謀本部の衆智を集めて検討した、完璧な内容についての講義を、熱心に聴講し、ノートをとった。

 教官は講義を始めると同時に、その種本の閲覧を禁止した。教官は講義のあいだに、種本に記されている戦闘の一つを問題として、その場合にとるべき措置、戦闘方針についての答案を生徒に書かせることにした。

 辻中尉は白紙の答案を提出した。教官は彼を呼び、叱りつけ、次のように述べた。

 「あの問題は、君が書けないような内容ではない。白紙解答を提出するのは、教官を侮辱するものではないか」。

 すると辻中尉は落ち着いて次のように答えた。

 「教官殿の講義内容は図書館で閲覧し、全ての解答も暗記しております。それを読まざるがごとくよそおい、答案を書きしるすのは、良心の許さないところであります」。

 教官は顔色を失い、絶句した。こののち、この教官は、事あるごとに辻中尉につらくあたるようになったという。

 昭和九年八月、辻政信大尉は陸軍士官学校の中隊長に就任した。その年の十一月、陸軍士官学校事件(十一月事件)が起きた。

 陸軍士官学校中隊長の辻政信大尉の密告によりクーデター計画が発覚、皇道派の村中孝次大尉、磯部浅一一等主計ら青年将校と陸軍士官学校生徒五人が逮捕された。

 堀江氏によると、昭和十年四月、陸軍士官学校の第一中隊と第二中隊の生徒二名が退校になり、辻大尉の歩兵第二連隊への転勤が発令された。

 この事件について、当時士官学校生徒の堀江氏たちは、なにが起こったのか皆目わからなかったし、何も知らされなかった。

 昭和十一年六月二十九日、堀江氏は陸軍士官学校本科を卒業して水戸に帰り見習士官になった。その後十月一日、陸軍歩兵少尉に任官した。

 しばらくして、堀江少尉に電話がかかってきた。当時士官学校第二中隊長で、今は仙台の第二師団兵器部長の古宮正次郎中佐(陸士二八・ガダルカナル歩兵第二十九連隊長・自決・少将)だった。

 「今、駅前の太平館にいるから昼食を一緒にしよう。ご馳走するよ」ということであった。おそらく日曜日の朝の電話だった。堀江少尉は早速他の二名に連絡し、十一時過ぎ太平館に行った。

 剣道五段のでっぷり太った古宮中佐は、大変なご機嫌だった。おおばんふるまいだった。「ところで、君らの卒業前にとも考えたが今まで、我慢していたのだ」と話を始め、次のように述べた。

 「君らの知っている通り第一中隊でS、第二中隊でMの二人の候補生が退校になった。あれは、辻がSとMに村中や磯部のところに行かせて反乱の計画を探らせ、郷里出身の橋本虎之助陸軍次官(愛知県出身・陸士一四・陸大二二・ロシア大使館附武官・参謀本部第二部長・関東軍参謀長・関東憲兵隊司令官・参謀本部総務部長・中将・陸軍次官・近衛師団長)に内報した事件だ」

 「だいたい彼(辻大尉)は天保銭を笠に着て、先輩であるわれわれを侮辱するところあり、しかも自分の部下の候補生をスパイに使い、士官学校の職員でありながら、系統上の上官に報告することなく、郷里の先輩のところに情報を持ち込んだのだ」

 「はなはだもって怪しからん奴だ。今後絶対に彼に接触するな。危険だ。犠牲になるぞ」。

 古宮正次郎中佐の話は以上のようなものであった。堀江少尉はびっくりした。そしてせっかくのご馳走がまずくなってしまった。

343.辻政信陸軍大佐(3)試験官は「貴様のような者は、落第させてやる」と断言した

2012年10月19日 | 辻政信陸軍大佐
 辻少尉は、師団長が気をよくするようにうまく話のいとぐちを切り出した。

 「まず皆に聞こう。皆は入営する前に、軍隊はよく品物が紛失するところだと聞いていただろう。入隊以来、今日まで所持品を失ったことのある者は、手をあげよ」。

 兵隊は思いがけない質問にうろたえた様子で、誰も手を挙げない。辻少尉は彼らにすすめた。

 「所持品を紛失した者はないのか。靴下、石鹸、剃刀、刷毛など、なんでもかまわない。師団長閣下、連隊長殿がおられても遠慮することはない。隠さないで手をあげよ」。

 数人が挙手をした。

 「それぐらいではないだろう。もっといるにちがいない」。

 うながすうちに、小隊全員が手をあげた。辻少尉は一人ずつ、失ったものをたずねた。靴下、刷毛、襦袢、袴下、靴などさまざまの物を盗まれたと兵たちは答えた。

 「よろしい。紛失の原因は一人が盗むことから始まる。軍隊では下給品を紛失すると叱られるので、一人が盗まれると他の者の品を盗む」

 「盗まれた者はまた他の者の品を盗むので、隊内の者が全部同じことをしないわけにいかなくなる。これが内務班の悪習だ。今後そのようなことがあれば、ただちに班長に報告せよ。班長は叱らずに失った品を補充してやれ」。

 辻少尉は軍隊生活のもっとも切実な問題を、するどく指摘した。吉冨連隊長は、師団長が気分を害しないかと顔色を失っていたが、辻少尉は平然と話を続けた。

 「本日は営庭は見たとおり、きれいに片付いているが、道路際のあちこちに縄を張っているのは何のためか」。

 兵隊が手をあげ、答えた。

 「あれは近道をするため、芝生を横切る者が多いので、踏ませないようにしているのであります」。

 「公聴心に欠けているから、そういうことをするのだ」。

 辻少尉は兵舎内の清掃、衛生など十項目について、同じように質疑応答を行った後、訓話を切り上げた。

 「教官がいま話したことは、さっきも言ったとおり、検閲のためではない。真剣にうけとめて、ただちに実行せよ」。

 辻少尉は師団長に向かい、一場の談話を願った。

 「閣下は先頃まで外国に駐在しておられたと聞き及んでおります。つきましては、外国人の公聴心についてのご教示を、この際ぜひお願いいたします」。

 外国から帰ったばかりの師団長は、辻少尉に頼まれると、いい気分になって外国での見聞を披露した。師団長が講演をするという、前例のない検閲が滞りなく終わったので、吉富連隊長はようやく安心した。

 辻政信少尉は昭和二年十月、陸軍歩兵中尉に進級した。翌年辻中尉は陸軍大学校を受験した。二十六歳だった。

 その陸大受験の砲兵科試験官に面接したとき、試験官の感情を害するような答弁をして、叱責されたあげくに、次のように言われた。

 「貴様は内甲では優秀な成績となっているが、提出した答案の内容ではだめだ」。

 辻中尉は理由をその試験官に問いただし、強硬な態度で反論した。ますますいきりたった試験官は「貴様のような者は、落第させてやる」と断言した。

 受験に失敗したと辻中尉は思い込み、旅館に戻ると受験書類をすべて焼き捨て、第七連隊で同期の田辺新之中尉の家に「シケンヤメタヤドタノム」と電報を打った。

 翌日の試験には出席しないで、辻中尉は金沢に帰るつもりでいたが、田辺中尉が急報したのであろう、石川県出身で陸軍省軍務局にいた青木少佐が、辻中尉を説得して受験を続けさせた結果、合格。昭和三年十二月、陸軍大学校(四三期)に入校した。

342.辻政信陸軍大佐(2)あの馬鹿者が東亜連盟とか何とか語って辻をオダテ、子分にしたのだ

2012年10月12日 | 辻政信陸軍大佐
 堀江芳孝氏は、戦後、荒木大将と会った時の話を次のように語っている。

 終戦後、狛江に住む荒木貞夫大将より、中村明人中将を通じ親戚の松村大佐の令息の就職を依頼して来たので、早速お世話した。

 すると、正月に御礼の意味で昼食を御馳走したいから、右の松村の令息同道御出でを乞うという招待状を受けた。

 行ってみると、羽織に袴、赤飯に鯛、大変な御馳走の山、神経痛で手のふるえる奥さんと二人で大サービスである。

 ある程度酒が廻ったところで、「予科入校直後閣下と辻さんの御講演を承って非常に感激しました。その後軍内では閣下が辻さんをオダテたのでつけ上がるようになったと噂していますがどうですか」と質問の矢を放った。

 すると、荒木大将は堀江氏に次のように語った。

 「オダテたのはワシではない。石原だ。あの二・二六の時の軍事参議官の陸軍大将に向かって“アナタどなたですか”なんて傲慢無礼な言葉を発した奴のことを知っているだろう」

 「あの馬鹿者が東亜連盟とか何とか語って辻をオダテ、子分にしたのだ。しかし石原や辻よりももっと悪どい奴がいた。宇垣だ。軍縮の宇垣だ」

 「自己の権威を誇り、総理の栄冠を狙った宇垣だ。近衛にぜひと頼まれてワシが内閣参議になったら宇垣と隣り合わせになった」

 「宇垣のせいで軍備がほそり、日本が敗北したのだが、ワシと奴が仲の悪いのを承知の上で二人を鉢合わせにする近衛という男もしたたかなものだね」

 「もっと気の利いた男だと当初思っていたが、その宇垣をだよ、外相にするなんて間の抜けた男だったね」。

 大正十三年七月、辻政信は陸軍士官学校(三六期)を首席で卒業した。大正十四年八月、辻政信少尉は歩兵第七連隊第一中隊附だった。

 「八月の砲声」(津本陽・講談社)によると、第九師団長の随時検閲のとき、第七連隊第一中隊に対し、「中隊兵員に対して中隊附将校の行う精神教育」という課題が与えられた。

 中隊長・空閑大尉は、辻少尉に師団長の面前での教育実習を命じた。通常、課題を提示された各隊は、あらかじめ教育計画と話題の内容を、中隊長を通じ連隊長に報告しておく。

 それは師団長の臨席のもとで、将校が兵隊とあらかじめ定めておいた内容を問答する、あたりさわりのない筋書きであった。

 だが、辻少尉は空閑中隊長に、「現状に即した公聴心」という標題のみを報告して、内容についてはまったく触れなかった。

 他の小隊長であれば、兵隊との問答の内容を詳しく中隊長に告げ、師団長から良好な講評を与えられるよう、手順などについて相談するものであったが、辻少尉は何も言わない。

 空閑大尉は、俊英として知られている彼のことだから、任せておいても間違いはないだろうと、詳しく問わなかった。

 当日、師団長が多くの幕僚を連れ、営庭に張られた天幕のなかの席に着いた。吉冨連隊長は緊張した顔つきであった。ひと癖ある辻少尉が、どんな精神教育をはじめるのか、気にかかっていたためである。

 辻少尉は師団長を前にして、気後れする様子もなく、話し始めた。普段と変わらない、落ち着いた口ぶりである。

 「只今より、皆に講話をする。本日は師団長閣下をはじめ、多くの方々がご臨席されているが、教官のいうところは、検閲のために見ていただくための講話ではない」

 「現在我々が営内で日常的に行っていることについて、話そうではないか。我々自身、公聴心につき反省するところはないか。やってはならないことをしていないか」

 「師団長閣下は長い間外国に駐在しておられ、外国人の公聴心がどのようなものか、詳しくご存知であられる。その点についてのお考えもお持ちであろうと思うので、あとでご意見を伺うことにする」。

341.辻政信陸軍大佐(1)まあ、なんと、大臣が一中尉に敬語を使うとは(?)

2012年10月05日 | 辻政信陸軍大佐
昭和七年四月半ば、陸軍士官学校本科大講堂で、講演会が行われた。「辻政信―その人間像と行方」(堀江芳孝・恒文社)によると、著者の堀江芳孝氏は当時陸軍士官学校予科に入校して二週間だった。

 堀江芳孝(ほりえ・よしたか・陸士四八・陸大五六・少佐・第一〇九師団参謀)氏は、昭和二十年、硫黄島で指揮官・栗林忠道中将(陸士二六・陸大三五次席・一〇九師団長・小笠原兵団長・大将)の参謀として硫黄島防衛の作戦計画に従事したが、その後派遣参謀として硫黄島を離れ、父島に渡り、終戦を迎え生還した。

 堀江氏は、「闘魂・硫黄島―小笠原兵団参謀の回想」(光人社NF文庫)、「悲劇のサイパン島」(原書房)、「闘魂・ペリリュー島」(原書房)などの著書や「チャンドラ・ボースと日本」(原書房)など翻訳書が多数ある。

 陸軍士官学校本科大講堂で行われた講演会には、入校直後の堀江氏ら四八期から四四期までの生徒・職員約一六〇〇名が聴講した。

 大講堂には大きな白い垂幕が下がっていた。それは次のように記されていた。

 演題「一、皇道精神」、弁士「陸軍大臣、陸軍中将 荒木貞夫」。
演題「二、上海事件の体験」、弁士「歩兵第七連隊中隊長 陸軍歩兵中尉 辻 政信」。

 入校直後の堀江氏の目には、陸軍大臣と中隊長の間には、否中将と中尉の間には、天地の差があるものと見えた。

 最初に陸軍大臣・荒木貞夫中将(陸士九・陸大一九首席・陸大校長・第六師団長・陸軍大臣・大将・男爵・文部大臣)が講演を行った。

 荒木大臣は「おそれ多くも殿下を頂く(当時四五期に朝香宮と李偶公、四八期に三笠宮の三殿下がいた)諸君の道は、殿下の御馬前で一身を投じて皇基を守護するを本務とすることを中核として日出る国に生を得た民草の心掛けについて長広舌をぶった。話の内容は平泉澄博士の講義と大同小異だった。

 だが、講演の最後に、次の弁士の方を一瞥した荒木大臣は「諸君がここに上海の歴戦勇士、辻君を迎えてその御話を承る機会を得られたことは喜びに堪えない」と結んだのには、堀江氏は驚いた。

 まあ、なんと、大臣が一中尉に敬語を使うとは(?)というのが堀江氏のびっくりしたところだった。中将と中尉では格差があり過ぎるという感じを持っていたからだった。

 次に演壇に立ったのは、まさに辻政信中尉だった。第十九路軍との血戦、屍山をなす惨烈悲壮の肉弾戦、林連隊長の壮烈な戦死、夜襲戦における空閑少佐(大隊長)の人事不省、捕虜として拉致せられたが、捕虜交換協定で送り返された後の天晴れな自決の状況、その快刀乱麻を断つ弁舌のさわやかさ、急所をついて聴衆をアッと言わせる迫力、すべてが先の弁士の及ぶところではなかった。

 両弁士の右胸についた大学徽章(天保銭)燦然と、大講堂一帯に輝き渡った。堀江氏には強烈な刺激が与えられた。

 講演を聞いて、びっくりしたのは堀江氏だけではなかった。その後区隊でも中隊でも、食堂においても、県の下宿に行っても「凄い人がいるものだね、中尉で陸軍大臣顔負けとは」という辻中尉礼賛の話に花が咲いた。

<辻政信(つじ・まさのぶ)陸軍大佐プロフィル>
明治三十五年十月十一日、石川県江沼郡山中町(現在の加賀市山中温泉)生まれ。父亀吉(農業・炭焼き)、母もと次男。兄妹は六人。
大正四年(十四歳)三月東谷奥村村立尋常小学校卒(首席)。四月山中町立尋常小学校高等科入学。
大正六年(十六歳)九月一日名古屋陸軍地方幼年学校入学。
大正九年(十九歳)三月二十四日名古屋陸軍地方幼年学校卒業(四十八名中首席)。四月陸軍中央幼年学校本科(陸軍士官学校予科と改称)入学。
大正十一年(二十一歳)三月陸軍士官学校予科卒業(首席)。十月歩兵第七連隊(金沢)隊付。十月陸軍士官学校本科入校。
大正十三年(二十三歳)七月陸軍士官学校本科卒業(三六期・首席)。歩兵第七連隊第一中隊見習士官。十月歩兵少尉。
昭和二年(二十六歳)十月歩兵中尉。
昭和三年(二十七歳)十二月陸軍大学校入校。
昭和四年(二十八歳)九月青木千歳と結婚。
昭和六年(三十歳)十一月陸軍大学校卒業(四三期・恩賜三番)。歩兵第七連隊付。
昭和七年(三十一歳)二月動員下令・歩兵第七連隊第二中隊長。上海事変に出征。六月金沢歩兵第七連隊に凱旋復員。八月歩兵大尉。九月参謀本部付。十二月参謀本部部員。
昭和九年(三十三歳)八月陸軍士官学校本科生徒隊中隊長。
昭和十年(三十四歳)二月陸軍士官学校付。十一月事件の疑にて重謹慎仰せ付けられる。四月水戸歩兵第二連隊付。
昭和十一年(三十五歳)四月関東軍司令部付。
昭和十二年(三十六歳)八月北支那方面軍参謀。十一月関東軍参謀。
昭和十三年(三十七歳)三月歩兵少佐。
昭和十四年(三十八歳)ノモンハン事件(前線で作戦指導)。九月中支漢口第十一軍司令部参謀。
昭和十五年(三十九歳)二月支那派遣軍総司令部付(南京)。八月歩兵中佐。十一月台湾軍研究部部員。
昭和十六年(四十歳)七月参謀本部部員。兼兵站総監部参謀。九月第二十五軍参謀。十二月マレー・シンゴラ上陸(マレー攻略戦に参加)。
昭和十七年(四十一歳)二月シンガポール戦。三月参謀本部作戦班長。七月南方戦線に出張(ラバウル・ガダルカナル島に参戦、戦傷)。
昭和十八年(四十二歳)一月肺炎・黒水病にて入院。二月陸軍大学校兵学教官。八月歩兵大佐。支那派遣軍参謀。
昭和十九年(四十三歳)七月ビルマ第三十三軍参謀。
昭和二十年(四十四歳)五月戦傷。五月タイ駐屯第三十九軍参謀。七月第十八方面軍参謀。八月終戦。地下潜行(軍司令官・中村明人中将の諒解を得てタイ・仏印・中国に潜伏)。英国から戦犯容疑を受ける。
昭和二十三年(四十七歳)五月帰国。
昭和二十五年(四十九歳)三月戦犯解除となる。五月著書出版。
昭和二十七年(五十一歳)十月衆議院議員第一回当選。
昭和二十八年(五十二歳)四月衆議院議員第二回当選。
昭和三十年(五十四歳)三月衆議院議員第三回当選。
昭和三十三年(五十七歳)五月衆議院議員第四回当選。
昭和三十四年(五十八歳)六月参議院全国区議員当選。
昭和三十六年(六十歳)四月東南アジアへ羽田空港出発。ラオスにて消息不明となる。
昭和四十四年六月二十八日東京家庭裁判所が昭和四十三年七月二十日付での死亡(六十七歳)を宣告、国籍上故人となる。

 著書は「ノモンハン」(亜東書房)、「十五対一」(酣燈社)、「1960年」(東都書房)、「ズバリ直言」(同)、「世界の火薬庫をのぞく」(同)、「亜細亜の共感」(亜東書房)、「自衛中立」(同)、「ガダルカナル」(養徳社)、「この日本を」(協同出版)、「これでよいのか」(有紀書房)、「シンガポール」(東西南北社)、「潜行三千里」(亜東書房)、「ノモンハン秘史」(毎日ワンズ)、「私の選挙戦」(同)などがある。