「安藤参謀来りて予に辻中佐収容方を懇請す。総軍参謀部難色ありたるも、予は好漢愛すべきを知る。板垣総参謀長は、山西作戦に於いて辻参謀の先陣を知る。乃ち予は総参謀長に謀りて辻中佐を収容し、課するに思想部門を以ってす」。
「漢口為に脅威を感ず」とは大袈裟のようだが、辻少佐は自動車の運転手まで手なずけ、軍幹部の夜の非行を探った。
そのため自決に追い込まれた高級将校がいたほどである。辻少佐の引取りを第十一軍が要請したのは、よくよくの事だったにちがいない。
このことについて、「政治家辻政信の最後」(生出寿・光人社)によると、「第十一軍司令部の軍紀風紀係参謀になった辻少佐は、高級将校らの夜の遊興、女関係などを洗いざらい調べまくって彼らを恐れさせ、経済参謀の山本浩一少佐(陸士三七・陸大四六)を自殺に追い込むほどのことをやらかした」と記してある。
記録では、山本浩一少佐は、第十一軍参謀として、昭和十五年八月十二日死去となっている。
堀場中佐の好意ある計らいが実を結び、「補支那派遣軍総司令部附」の辞令が出たのは昭和十五年二月十日だった。
かねて慕っていた板垣征四郎中将(陸士一六・陸大二八・岩手県出身・関東軍参謀長・中将・第五師団長・陸軍大臣・那派遣軍総参謀長・大将・朝鮮軍司令官・第七方面軍司令官・戦犯死刑)のもとで勤務するのだから、辻少佐にとっては本望だった。
堀場中佐は辻少佐と同じ名古屋幼年学校卒(台賜の銀時計)で辻少佐より二年先輩だった。中国ソ連にも駐在、視野も広く学究肌の軍人だった。辻少佐に対しては好意的であった。
昭和十六年六月二十二日、ついに独ソ戦は火蓋を切った。「補参謀本部部員」の電報辞令を辻政信中佐(昭和十五年八月進級)が受け取ったのは、六月二十四日だった。
この辞令について、「シンガポール」(辻政信・東西南北社)において、辻自身は、その心境を次のように記している。
「あれ程東條さんに叱られた私が何故、東京に呼び出されたのであろうか。恐らく北か南かの何れかに対して、戦う準備を進められているのだろう」
「関東軍で数年対ソ作戦を研究準備し、ノモンハンの体験を持っているために、北面して起つ場合にも使い途があり、また僅か半年ではあるが、専心南方研究に熱中していることは、国軍が南に向かって動く場合の道案内にも役立つだろう」。
辻政信中佐は、昭和十六年七月十四日、参謀本部作戦課兵站班長に着任した。服部卓四郎中佐(八月大佐)は七月一日にすでに作戦課長の椅子についていた。
参謀本部の中枢、作戦課が、かつての関東軍作戦課同様、再び、服部・辻のコンビで占められた。二人とも、ノモンハンでの左遷以来、二年とたたないのに、早くも返り咲いた。
当時の参謀本部作戦部長は田中新一少将(陸士二五・陸大三五・新潟県出身・中将・第一八師団長・ビルマ方面軍参謀長)だったが、その直属だった作戦課長の土居明夫大佐(陸士二九・陸大三九恩賜・高知県出身・少将・第三軍参謀長・第一三軍参謀長・中将)が急に転出することになった。
七月一日付で土居大佐は関東軍第三軍参謀副長に転出した。これは定期異動ではなかった。その後に作戦課長に就任したのが作戦班長・服部中佐だった。この更迭には種々の憶測を生んだ。
土居明夫中将が死去したのは昭和五十一年五月十日だが、死の直前に書き残したメモが発見された。死後、昭和五十五年に発刊された、「一軍人の憂国の生涯・陸軍中将土居明夫伝」(土居明夫伝記刊行会編・原書房)には次のように記されている。
「柴田芳三庶務課長(陸士三二・陸大四三・三重県出身・少将・第一三方面軍参謀長)は余を追い出す陰謀ありと注意してくれた」
「昭和十六年三~四月の頃、作戦課参謀・高瀬啓治少佐(陸士三八・陸大四八首席・静岡県出身・大佐・陸軍大学校教官)に独ソ戦が起きた時の作戦課としての意見と、また、兵站班長・櫛田正夫中佐(陸士三五・陸大四四・大佐・南方軍参謀)に日満一体経済による大作戦支援の計画を命じたが共にやらなんだ」
「服部の反対だったろうと思う。課内の空気としては余排撃が余自身にひしひし感ぜられた。この大事の秋と思い部長帰還(満州より)後、田中部長に「余を出すか服部を出せ」といったところが、田中部長は省部出先軍に対し影響力のある服部を残し余を出した」
「漢口為に脅威を感ず」とは大袈裟のようだが、辻少佐は自動車の運転手まで手なずけ、軍幹部の夜の非行を探った。
そのため自決に追い込まれた高級将校がいたほどである。辻少佐の引取りを第十一軍が要請したのは、よくよくの事だったにちがいない。
このことについて、「政治家辻政信の最後」(生出寿・光人社)によると、「第十一軍司令部の軍紀風紀係参謀になった辻少佐は、高級将校らの夜の遊興、女関係などを洗いざらい調べまくって彼らを恐れさせ、経済参謀の山本浩一少佐(陸士三七・陸大四六)を自殺に追い込むほどのことをやらかした」と記してある。
記録では、山本浩一少佐は、第十一軍参謀として、昭和十五年八月十二日死去となっている。
堀場中佐の好意ある計らいが実を結び、「補支那派遣軍総司令部附」の辞令が出たのは昭和十五年二月十日だった。
かねて慕っていた板垣征四郎中将(陸士一六・陸大二八・岩手県出身・関東軍参謀長・中将・第五師団長・陸軍大臣・那派遣軍総参謀長・大将・朝鮮軍司令官・第七方面軍司令官・戦犯死刑)のもとで勤務するのだから、辻少佐にとっては本望だった。
堀場中佐は辻少佐と同じ名古屋幼年学校卒(台賜の銀時計)で辻少佐より二年先輩だった。中国ソ連にも駐在、視野も広く学究肌の軍人だった。辻少佐に対しては好意的であった。
昭和十六年六月二十二日、ついに独ソ戦は火蓋を切った。「補参謀本部部員」の電報辞令を辻政信中佐(昭和十五年八月進級)が受け取ったのは、六月二十四日だった。
この辞令について、「シンガポール」(辻政信・東西南北社)において、辻自身は、その心境を次のように記している。
「あれ程東條さんに叱られた私が何故、東京に呼び出されたのであろうか。恐らく北か南かの何れかに対して、戦う準備を進められているのだろう」
「関東軍で数年対ソ作戦を研究準備し、ノモンハンの体験を持っているために、北面して起つ場合にも使い途があり、また僅か半年ではあるが、専心南方研究に熱中していることは、国軍が南に向かって動く場合の道案内にも役立つだろう」。
辻政信中佐は、昭和十六年七月十四日、参謀本部作戦課兵站班長に着任した。服部卓四郎中佐(八月大佐)は七月一日にすでに作戦課長の椅子についていた。
参謀本部の中枢、作戦課が、かつての関東軍作戦課同様、再び、服部・辻のコンビで占められた。二人とも、ノモンハンでの左遷以来、二年とたたないのに、早くも返り咲いた。
当時の参謀本部作戦部長は田中新一少将(陸士二五・陸大三五・新潟県出身・中将・第一八師団長・ビルマ方面軍参謀長)だったが、その直属だった作戦課長の土居明夫大佐(陸士二九・陸大三九恩賜・高知県出身・少将・第三軍参謀長・第一三軍参謀長・中将)が急に転出することになった。
七月一日付で土居大佐は関東軍第三軍参謀副長に転出した。これは定期異動ではなかった。その後に作戦課長に就任したのが作戦班長・服部中佐だった。この更迭には種々の憶測を生んだ。
土居明夫中将が死去したのは昭和五十一年五月十日だが、死の直前に書き残したメモが発見された。死後、昭和五十五年に発刊された、「一軍人の憂国の生涯・陸軍中将土居明夫伝」(土居明夫伝記刊行会編・原書房)には次のように記されている。
「柴田芳三庶務課長(陸士三二・陸大四三・三重県出身・少将・第一三方面軍参謀長)は余を追い出す陰謀ありと注意してくれた」
「昭和十六年三~四月の頃、作戦課参謀・高瀬啓治少佐(陸士三八・陸大四八首席・静岡県出身・大佐・陸軍大学校教官)に独ソ戦が起きた時の作戦課としての意見と、また、兵站班長・櫛田正夫中佐(陸士三五・陸大四四・大佐・南方軍参謀)に日満一体経済による大作戦支援の計画を命じたが共にやらなんだ」
「服部の反対だったろうと思う。課内の空気としては余排撃が余自身にひしひし感ぜられた。この大事の秋と思い部長帰還(満州より)後、田中部長に「余を出すか服部を出せ」といったところが、田中部長は省部出先軍に対し影響力のある服部を残し余を出した」