陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

290.鈴木貫太郎海軍大将(10)八代海相の勇断を称える者、妄断を憤る者、部内は騒然となった

2011年10月14日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 事件の進展に刺戟されるかのように、打倒山本内閣の火の手は議院の内外に燃え盛り、三月二十四日、同内閣は瓦解した。

 後任首相として大隈重信に大命が下った。大隈の支柱をなすものは、立憲同志会総裁・加藤高明(東大法学部・首席・首相・伯爵)だった。

 加藤高明は使いを舞鶴鎮守府司令長官・八代六郎中将(海兵八・海大選科・大将・男爵)の許に出し、大隈内閣の海軍大臣に就任するよう勧説した。

 加藤と八代は同郷で、少年時代から相許した仲だった。未曾有の不祥事件を起こした海軍を建て直すには、剛毅不屈の八代を措いて人はないと信じたのだった。

 大隈内閣は大正三年四月十六日に成立した。八代海軍大臣は次官に秋山真之少将(海兵一七)の就任を勧説した。

 秋山少将は鈴木貫太郎少将より兵学校三期も後輩だった。日本海海戦の名参謀と謳われ、力量は次官としても十分だった。

 だが、秋山少将は、「次官が局長よりも後輩であっては、人事行政上面白くないから」と自分は固辞し、鈴木人事局長の昇格を極力推薦した。

 さらに秋山少将は、人事は公正な、どこにも縁故のない者でなければいかぬ。日露戦争での鈴木少将の勲功と、正確なる戦況報告、始終正直一途に辿ってきた行動等を挙げ、その起用を説いた。八代海相も鈴木少将の人物を知っていたので、それではそうしようと決めた。

 秋山少将からこの話を聞いた鈴木少将は、とんでもないという面持ちで「とうていその任ではない。君がなったほうがよい」と承諾しなかった。

 鈴木少将が次官ともなれば政治的な動きをしなければならないが、自分にはとてもそのような芸当は勤まらないというのを、秋山少将は強引に押し付けた。

 その頃、鈴木少将の父、由哲は再起の危ぶまれる病床に就いていた。鈴木少将はとうとう、父にどうしたものだろうかと、相談した。父は「海軍のために討ち死にする覚悟でやりなさい」と答えた。

 これで、鈴木少将の心が決まった。四月十七日、鈴木貫太郎は海軍次官に就任した。同時に秋山少将は軍務局長になった。 

 問題が残されていた。山本権兵衛大将、斉藤実大将の処遇である。二人とも海軍の功労者である。特に山本大将は海軍の最大の功労者だった。

 シーメンス事件では、両大将は直接関係のあるわけではなく、監督不行届であったに過ぎない。新海相、八代中将はこれを如何に裁くか、部内も世間も注視していた。

 八代海相は鈴木次官、秋山軍務局長を呼んで、「山本、斉藤両大将に対しては、遺憾ながら待命をお願いするつもりだ。これまでの功績も、海軍の名誉には替えられない」。

 五月十一日、八代海相は、山本、斉藤両大将を予備役に、当時次官だった財部彪(たからべ・たけし)中将(海兵一五・海大丙号・海相・大将)を待命に発令した。

 両大将に対しては一時待命にしておいて、時期が来ればまた現役に復するのだろうと見ていた多くの者は、電撃的に予備役に編入されたのを知って、八代海相の勇断を称える者、妄断を憤る者、部内は騒然となった。

 井上良馨元帥と東郷平八郎元帥は、八代海相を海軍省に訪ね、両大将を予備役に編入した理由を質した。

 八代海相は、特に鈴木次官をこの席に立ち会わせて、次の様に説明した。

 「予備役編入には三つの理由がある。第三十一議会において、衆議院は海軍予算に若干の修正を加えて通過させた。然るに貴族院では、議会終了後政府が総辞職するなら、予算案だけは通過させようと申し入れた」

 「山本首相はこれを拒絶したため、予算は不成立となり、結局総辞職の已む無きに至った。予算不成立は、国防上重大な問題であるにも拘らず、首相は内閣の存続のみに腐心して、海軍に対しては極めて不親切な処置をとった」

 「次に松本中将は、両大将の最も信任していた人である。その人が収賄の非行を敢えてし、海軍の名誉を毀損したことは、人を用いるの明を欠いでいたと言わねばならぬ」

 「第三には貴族院で村田保氏は、首相に対し罵詈讒謗、聴くに堪えないことを言った。これに対し首相は、何等の抗辯をもしなかった。軍人の威信を傷つけること甚だしいといわねばならぬ。以上の理由によって、海軍部内における信頼は地を払い、現役に留めておくわけにゆかぬと認めたので、こんどの処置をとったのである」。

 この説明を聞いて、東郷元帥は「いやよく分かりました」と慇懃に挨拶して席を立った。だが、井上元帥は釈然としないものがあったように見受けられた。

289.鈴木貫太郎海軍大将(9)大臣になったときの準備に収賄したとは、あまりに単純な発想だった

2011年10月07日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 明治四十四年十二月一日、鈴木貫太郎大佐は、戦艦敷島(一四八五〇トン)艦長に就任した。

 大正元年八月中旬第一艦隊は訓練を終え、戦艦敷島は伊勢湾に入港した。そのとき、鈴木艦長の許に、とよ夫人の重態の知らせが届いた。

 とよ夫人は、第一艦隊司令長官・出羽重遠大将の夫人の妹である。十八歳にして鈴木に嫁し、姑によく仕え、一男二女の母として家政を預かり、鈴木をして後顧の憂いのないようにした賢夫人だった。

 出羽司令長官も「とにかく一度帰って様子を見たほうが良い」と勧めるので、鈴木大佐は東京の自宅に戻った。

 とよ夫人は腎臓炎から尿毒症を起こしていた。あらゆる治療の手を尽くしたが、その甲斐なく様態は日毎に悪化した。

 十月の大演習には敷島艦長として活躍することを期していたが、海軍省でも事情を汲んで、横須賀の予備艦筑波艦長に鈴木大佐を転補した。

 その後九月十八日、とよ夫人は鈴木大佐以下家族の見守る中、他界した。享年三十三歳だった。葬儀万端を済まして傷心の鈴木大佐は予備艦筑波に乗った。

 大正二年十二月二十六日に開かれた第三十一議会は、年末年始の休会に入り、大正三年一月二十一日に再開された。

 山本権兵衛(やまもと・ごんべえ)首相(海兵二・伯爵)の施政方針演説に対する野党の質問戦が開始され、議会は論戦が華やかに始まった。

 ところが、一月二十三日のロイター電報は、日本海軍の高官がドイツのシーメンス・エント・シュッケルト会社から、多額の贈賄を受けていると報じた。シーメンス事件の発端であった。

 時事新報は、この意外な重大ニュースを半信半疑のまま報道した。軍人は清廉潔白だという先入観のある国民は、兵器購入に当たって軍人が収賄するなど夢想だにしない時代だった。

 「まさか」と思っていたのであるが、山本内閣に恨みを含む立憲同志会ではよき獲物と直ちにこれに食いついた。山本内閣の与党的立場だった政友会でも驚いた。

 この事件は旋風のように海軍を包んだ。山本首相、斉藤実(さいとう・まこと)海相(海兵六・首相・子爵)のいずれもこの事実を知らなかった。そこで事実を究明すべく出羽重遠大将を委員長とする査問委員会を設置した。

 調べが進むにつれ、艦政本部第四部長・藤井光五郎機関少将(旧海軍機関学校四期・英国グラスゴー大学)、呉鎮守府司令長官・松本和(まつもと・かず)中将(海兵七・海大一)らが、収賄していたことが明るみに出てきた。

 これに関連して、三井物産の岩原謙三、飯田義一、山本条太郎も検挙された。

 当時、鈴木貫太郎少将は人事局長だったが、犯罪事実がほぼ確実なのを認め、斉藤海相に松本中将らの待命を進言した。

 斉藤海相はこれに同意し山本首相に相談した。だが、山本首相は、取調べの進展を見た上でも遅くはないだろうといい、発令はされなかった。

 鈴木人事局長は査問委員会から取り調べの内容について報告を受けており、世論の激昂しないうちに、先手を打って行政処分をしたほうが良いと考えた。

 だが、山本首相は多年海軍の大御所として多数の部下を扱ってきており、自らやましいところがないので、日ごろの切れ味に似ず遷延したのだ。

 ところが、取調べは急速に進展し、二月二十八日、呉鎮守府司令長官の官舎が家宅捜索を受け、松本中将は起訴収容されるに至った。こうなれば、もう行政処分では追いつかぬことになってしまった。

 松本中将は収容される直前、鈴木人事局長を局長室に訪ね、次の様な告白をして行った。

 「実は周囲の者から次の海軍大臣だとおだてられ、自分もついその気になった。海軍には機密費が少ない。これでは政界に出ても活動できないから、大臣になったときのため、予め機密費を用意しておくため贈賄を取った」

 「自分の懐を肥やすためにやったのではない。これだけは君に了解して貰いたい。全く申し訳のないことをした」。

 松本中将は山本権兵衛大将から特に目をかけられ、明治四十一年横須賀海軍工廠長から艦政本部長に起用され、大正二年十二月一日、鈴木貫太郎少将が人事局長になったとき、呉鎮守府司令長官に親補された。

 それにしても、大臣になったときの準備に収賄したとは、あまりに単純な発想だった。鈴木少将は候補生時代、練習艦筑波で航海長・松本大尉の指導を受けた。

 その先輩が孤影悄然と局長室を出て行く後姿を見て、鈴木少将は感慨なきを得なかった。

288.鈴木貫太郎海軍大将(8)今日は君のために祝盃を挙げる。今度は君にカブトを脱ぐ

2011年09月30日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 「鈴木貫太郎傳」(鈴木貫太郎傳記編纂委員会)によると、明治三十八年六月、日本海海戦直後、鈴木貫太郎中佐の指揮する第四駆逐隊が対馬の尾崎湾に入港した。

 第三戦隊旗艦の防護巡洋艦千歳(乗員四三四名・四七六〇トン)も入港していた。第三戦隊司令官・出羽重遠(でわ・しげとお)中将(海兵五・大将)に挨拶するため、鈴木中佐は千歳を訪問した。出羽中将は鈴木中佐の結婚の媒酌人であった。

 千歳には第四戦隊司令官・瓜生外吉(うりゅう・そときち)中将(海軍兵学寮・アナポリス海軍兵学校卒・男爵・大将)も来ていた。明治三十三年、鈴木少佐が軍務局勤務の時、魚雷攻撃法で対立した軍令部に、当時の当瓜生大佐がいた。

 瓜生中将は、鈴木中佐の顔を見るや、起き上がってグラスを鈴木中佐にさし、「いいところに来てくれた。今日は君のために祝盃を挙げる。今度は君にカブトを脱ぐ。君の先見の明に叩頭(こうとう)するよ」と言いながらシャンペンを注ぎ、出羽中将と三人で乾杯した。

 そして瓜生中将は「君が軍務局にいたとき、我輩は軍令部にいた。水雷のことはよく分からんが、部下がマカロフ戦術に共鳴して意見を出したところ、君は極力これに反対した。そのときは随分頑固なひどい奴だと思った。ところが、今度の戦争では全く君の言った通りだ。特に君のために祝盃を挙げるんだ」と言った。

 出羽中将も傍らでわが意を得たというふうに、ニヤニヤ笑いながら盃を重ねた。鈴木中佐も司令官に誉められて、大いに面目をほどこしたが、過ちを覚れば後輩にでもあっさりカブトを脱いだのが当時の軍人だった。

 明治四十一年九月一日、鈴木貫太郎大佐は第二艦隊旗艦の防護巡洋艦明石(乗員三一〇名・二七五八トン)艦長に就任した。

 その一年後の明治四十二年十月一日、練習艦隊の巡洋艦宗谷(乗員五七〇名・六五〇〇トン)艦長になった。

 練習艦隊の僚艦は一等巡洋艦阿蘇(乗員五七〇名・七七二六トン)で、艦長は鈴木大佐の兵学校同期生の佐藤鉄太郎大佐(海兵一四・中将・舞鶴鎮守府司令長官・貴族院議員)だった。

 「聖断」(半藤一利・文藝春秋)によると、明治四十三年二月、練習艦隊は阿蘇を旗艦とし、宗谷とともに横須賀を出航した。

 海軍兵学校(三十七期)を卒業した候補生を乗せて、オーストラリア方面への遠洋航海だった。航程一万四千六百浬、百五十三日間の航海だった。

 宗谷艦長・鈴木大佐の教育方針は、座学は兵学校で十分に教わっているだろうから、実施を主とせねばならない、というものだった。

 航海は士官としての素質に磨きをかけ、軍人としての魂を練成する道場であるとして、鈴木艦長みずから身をもって垂範した。

 候補生指導官たちも、この方針に従い、さあ、俺について来いという積極さを示し、艦が一つになって乗組員の魂と魂が結ばれていくような活気のある航海が続いた。

 指導官には高野五十六(たかの・いそろく)大尉(後の山本五十六・海兵三二・海大一四・連合艦隊司令長官・元帥)、指導官付には古賀峯一(こが・みねいち)中尉(海兵三四・海大一五・連合艦隊司令長官・元帥)がいた。

 そして宗谷には、井上成美(いのうえ・しげよし・海兵三七・海大二二恩賜・海軍次官・大将)、草鹿任一(くさか・じんいち・海兵三七・海大一九・中将)、小沢治三郎(おざわ・じさぶろう・海兵三七・海大一九・中将・連合艦隊司令長官)、大川内伝七(おおかわち・でんしち・海兵三七・海大二〇・中将)らの候補生が乗組んでいた。山本、古賀、井上、小沢らの初の出会いと結びつきは、このときに発していた。

 鈴木艦長は航海中に、候補生たちに「奉公十則」を示した。それは、海軍に身を投じてよりこの日までの、その間に二度の戦いに生命を捨ててかかった体験をも織り込んだ、鈴木艦長自身の生き方でもあった。

 航海中のある日、船酔いしたある候補生が、後艦橋の端に走っていって、胃の中の物を一気に吐くという不始末をおかした。

 吐いた場所が風上で、艦が反対側へ傾くときであったからたまらない、吐しゃ物は飛散して高く舞い上がり、後甲板で散歩中の鈴木艦長の頭に降りかかった。候補生は青くなった。

 このとき、鈴木艦長は、「風に向かって吐くものではないよ」と、近くにいた仲間の候補生に、何事もなかったように言い、静かに艦内に降りていった。

287.鈴木貫太郎海軍大将(7)シソイベリキーは俺のところでやったんだとの文句が出た

2011年09月23日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 日露戦争は、明治三十七年二月八日、旅順港のロシア旅順艦隊に対する日本帝国海軍の駆逐艦隊の攻撃から始まった。

 鈴木貫太郎中佐の初陣は八月十日の黄海海戦だった。日本軍の旅順砲撃を受けて、ロシアの旅順艦隊は旅順港を出撃した。

 その旅順艦隊と司令長官・東郷平八郎大将(英国商船学校卒・軍令部長・元帥・大勲位・功一級・侯爵)率いる日本帝国海軍連合艦隊との間で黄海海戦が行われた。鈴木中佐は装甲巡洋艦春日(乗員五六二名・七七〇〇トン)の副長として参戦した。

 春日は第一会戦で敵巡洋艦アスコリートを砲撃、撃破し戦列を離れさせた。第二会戦でロシア旅順艦隊は大損害を受け支離滅裂に遁走した。

 黄海海戦後、九月一日、鈴木中佐は第二艦隊所属の第五駆逐隊司令に転補した。第五駆逐隊は旗艦不知火(三二六トン)以下四隻で編成されていた。四隻とも三〇〇余トンの三等駆逐艦だった。

 鈴木中佐は裏長山泊地で連合艦隊司令長官・東郷平八郎大将に転補の申告をし、参謀長・島村早雄(しまむら・はやお)少将(海兵七・軍令部長・元帥・勲一等・功二級・男爵)に挨拶した。

 鈴木中佐が、「何か訓令を受けることはありませんか」と伺うと、島村少将は鈴木中佐の手を握り、「別に何もないが全予て君の説通り十分やって貰いたい」と言った。

 そのあと参謀室に行った鈴木中佐は、有馬良橘(ありま・りょうきつ)大佐(海兵一二・大将・教育本部長・枢密顧問官・明治神宮宮司)、秋山真之(あきやま・さねゆき)中佐(海兵一七首席・中将)、松村菊勇(まつむら・きくお)大尉(海兵二三・海大五・中将・石川島造船社長)らに会って、島村少将の話をすると、「それにはこんな理由がある」と説明してくれた。

 彼らの説明によると、駆逐艦も水雷艇も甚だ成績が悪い。それは先年、軍令部が水雷の射程を延ばして速力を落としてしまったので、既に海軍所持の水雷の半分以上も使い果たしたのに、一向成績が上がらない。

 そこで軍事課にいたときの鈴木説が漸く人々の記憶から甦り、鈴木を起用して再び日清戦争のときの「鬼貫太郎」の面目を発揮させねばならぬということになったのだという。

 つまり、小さな駆逐艦や水雷艇で巨艦を屠(ほふ)ろうというのだから、一種の肉弾戦法である。遠距離から身の安全を期して発射する魚雷がうまく命中するはずはない。

 これを聞いて鈴木中佐は、一本の魚雷が寒気のため発射できなかったのに責任を感じ自刃する程、真剣な気持ちで日清戦争時代には戦ったのだ。よし、もう一度水雷に生命を吹き込んでやろうと、深く期することがあって司令艦に戻った。

 明治三十八年一月十四日、鈴木中佐は第四駆逐隊司令に転補され、五月二十七日~二十八日の日本海海戦に参加した。

 鈴木中佐は駆逐艦四隻を率いて、敵艦に水雷攻撃を行いロシアのバルチック艦隊旗艦、戦艦スワロフに魚雷を命中させ。そのほか一隻を魚雷攻撃で撃沈、もう一隻に魚雷を命中させた。

 日本海海戦は、日本帝国海軍の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を壊滅させ、日本の大勝利に終わった。ロシアの海上勢力はほとんど全滅した。

 鈴木中佐は駆逐隊を率いて五月三十日、佐世保に入港、東郷連合艦隊司令長官に戦争の経過を報告した。

 東郷司令長官は鈴木中佐の報告を聞くと「いや、あなたの攻撃されている状況はよく見ていました」と言った。それから東郷司令長官は三十分位、諄諄(じゅんじゅん)と戦争の経過を語った。

 鈴木中佐は、東郷司令長官は、いつも黙っている人なのだが、実際は雄弁な人だなと思った。東郷司令長官は海軍大学校長をしていたことがある。鈴木中佐はその頃学生だったから、親しみを一層感じられたのかもしれないと思った。

 とにかく、先にも後にも、こんなに喜んで雄弁に語った東郷司令長官を見たことはなかった。鈴木中佐には忘れられない感激だった。

 東郷司令長官に報告後、秋山参謀に会うと、鈴木中佐に次の様に言った。

 「君の報告でシソイベリキー、ナバリンの二隻をやったことは明瞭だ。然し、会議の席上、シソイベリキーは俺のところでやったんだとの文句が出た」

 「皆で攻撃したのだから嘘ではあるまい。君のところだけで二隻は多すぎる。一隻は他へ裾分けしたから承知してくれ」

 これを聞いて、鈴木中佐は、秋山参謀らしい言い分だったので、「宜しい」と言った。

286.鈴木貫太郎海軍大将(6)こんな馬鹿な扱いをする海軍には、もういる気はなくなった

2011年09月16日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 次に鈴木少佐はコロンスタットに行った。軍港の視察を願い出ると、鎮守府長官・マカロフ提督は喜んで許可し、「今新造の軍艦があるから是非見ていってくれ」と言った。

 その軍艦は「スワロフ」だった。艦内に大きな部屋があるので、鈴木少佐が「これは何のために作ったのか?」と訊くと、「ダンスをするため」と答えた。

 鈴木少佐は、「これならロシア艦隊も恐れるには当たらぬ」と直感した。ダンスなどやりながら戦技訓練ができるものではない。

 また、こんな豪華な部屋を取っている以上、どこか攻撃、防禦に手薄な所があるに違いない。この「スワロフ」は後に旅順港外で海底の藻屑になった。

 明治三十六年九月二十六日付で鈴木貫太郎は中佐に進級した。進級の報を受けたのは、露都からベルリンに帰ってきて間もなくだった。

 そこで発表された中佐に進級した顔ぶれを見ると、財部彪(たからべ・たけし・海兵一五・海大丙号・大将・海軍大臣)、竹下勇(たけした・いさむ・海兵一五恩賜・海大一・大将・大日本相撲協会会長)、小栗孝三郎(おぐり・こうざぶろう・海兵一五・海大二・大将)の次に鈴木貫太郎(海兵一四・海大一・大将・軍令部長・侍従長・首相・男爵)となっていた。

 財部は山本権兵衛の女婿であり、それ相当の力量もあるから、これは致し方ないとしても、竹下、小栗は、鈴木よりも一期あとである。

 特に小栗は海軍大学校で師弟の関係にあった。それが自分より右翼の序列で進級しているのには、温厚な鈴木も腹の虫が納まらなかった。

 日清戦争では金鵄勲章も貰っていない後輩から追い抜かれたとあっては、憤懣やる方がない。滝川大佐の本省への報告が悪かったにせよ、こんな人事をするような海軍には、一日もいられない。

 伊藤乙次郎中佐(海兵一三・海大将校科一恩賜・中将・神戸製鋼所社長)に話すと「自分も嘗てそんな目にあったことがある。君の場合についても何ともいうことはできない」と沈痛な面持ちをした。その当時のことを自伝で鈴木は次の様に述べている。

 「こんな馬鹿な扱いをする海軍には、もういる気はなくなった。国家にご奉公するのは、何も海軍に限ったことではない。盲目の下で働くよりも、明るい空気の中で働きたいおれは海軍を御免蒙る。病気と称して帰国しようと思うと、伊藤君に言って別れた」

 「そして下宿に戻ってみると、父から手紙が来ている。無心であるから中佐になった喜びの手紙で、日露の国交が切迫したから、この時こそ大いに国家の為に尽くさねばならぬというのである」

 「この手紙を見た刹那、鉄棒ででも殴られたような気がした。進級が遅いなどと小さなこというのは間違っている。自分が海軍に入ったのは、こういう場合国家のために尽くすためではなかったか」

 「父の手紙を見ていかにも自分の至らないのに気がついて、自分の不心得は一ぺんに飛んでしまった。あのとき一時の怒りに駆られて帰って来ていたなら、今日の鈴木貫太郎はいなかったことになったであろう。無心に書かれた父の手紙によって、私は救われた」

 鈴木の人生行路のうちで、これも危険な時期だった。だが、中央部にも盲目ばかりがいたのではない。大佐に進級するときは。鈴木は正当な序列に戻っていた。

 日清戦争によって、日本が清国から割譲を受けた遼東半島は、その後ロシアによって横奪された。ロシアは東清鉄道のハルピンから、旅順、大連への支線を敷設し、旅順には堅固な要塞を築城し、東洋艦隊の根拠地としてしまった。

 これでロシアは浦塩(うらじお)と呼応して日本海、勃海(ぼっかい)湾の制海権を確立した。さらにロシアは明治三十三年の義和団事件に出兵した兵力を事件が解決した後も満州に駐留させ、南北満州は事実上ロシアの傘下に入れてしまった。

 その上、ロシアは爪牙(そうが・ツメとキバ)を北朝鮮に伸ばして、朝鮮をも併合しようとする野心が露骨に見えてきた。

 これでは、日本はまるで煮え湯を呑まされた格好である。フランスも、ドイツも、そしてイギリスまで中国の要地を租借名義で占領したのだから、日本人の憤激はその極に達した。

 その中で、イギリスは、ロシアの野望を早く破砕しておかねばならぬと、明治三十五年、日本と日英同盟条約を締結した。このようにして、日露の衝突は必至の情勢となった。

 東洋制覇を目指すロシアの南下で、日本は一刻の猶予をも許さないギリギリのところに追い詰められていた。

 ロシアは日本に鎧袖一触(がいしゅういっしょく・一撃で簡単に敵を負かす)、遮二無二挑戦してきた。回避しようとすれば日本は完全にロシア帝国の一部にされる危険にさらされていた。

 それでも、明治天皇以下政府も軍部も一体となって対露政策に慎重を期し、かりそめにも軽率の謗りを受けないように準備してきた。

 大事をとって戦争に突入したが、ロシアは世界最強の陸軍国、海軍も日本帝国海軍を凌駕する大勢力を持っていた。

285.鈴木貫太郎海軍大将(5)スパイをやれという命令は受けていない

2011年09月09日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 その後、幾度かの実験をした結果、鈴木説が正しいということが軍令部のほうにも分かってきた。だが、急に転向するわけにもゆかず、日露戦争まで血のにじむような研究が続けられた。だが、結局鈴木説の当否は、戦場において審判されるようになった。

 ともかく、軍務局長以下の不同意の重要書類が、大臣、次官によって決済されたということは、前代未聞であった。

 明治三十四年七月二十九日付けで、鈴木貫太郎少佐はドイツ国駐在を命ぜられた。任務は「ドイツ海軍の教育を取り調べよ」というものだった。

 九月七日、郵船会社の「丹波丸」で、ドイツに向け出発、十月三十日ベルリンに到着した。滞在中は、支給される年額手当ては三千五百円だった。当時文部省の留学生などは千八百円だった。

 当時は二百円あれば十分生活できる時代だったので、三千五百円あれば遊ぼうと思えば、派手に遊ぶことができた。

 だが鈴木少佐は、遊びには興味を持たず、ドイツ国内はもちろん、イギリスを初め、欧州各国を根気よく視察旅行し、人情、風俗から国民性の相違まで、自分の眼で見て回った。

 明治三十五年五月、公使館付武官として滝川具和大佐(海兵六・海大一・少将)が、ベルリンに赴任してきた。

 しばらくして、滝川大佐は鈴木少佐に「キール軍港に行って語学の勉強をしながら海軍の状況を偵察せよ」と申し渡した。

 鈴木少佐は「それは最初の任務とは違う。ドイツ海軍の教育の調査に来ている、スパイをやれという命令は受けていない」と拒絶した。

 当時ドイツは新興国として、英国に追いつき追い抜けと、非常な勢いで海軍の拡張を行っていた。どのように海軍拡張を進めているか、滝川大佐は知りたかった。

 だが、鈴木少佐に正面から拒絶されて、滝川大佐は鼻白らむ思いだった。それから鈴木少佐に対する態度が冷たくなった。

 鈴木少佐は滝川大佐の思惑など気にせず、相変わらず視察旅行を続けていたが、ベルリンに帰ってみると、伊藤乙次郎(いとう・おとじろう)中佐(海兵一三・海大選科・中将・呉工廠長・神戸製鋼所社長)、田所広海(たどころ・ひろみ)少佐(海兵一七・海大三・中将・鎮海警備府司令長官)、筑土次郎(つくど・じろう)大尉(海兵二四・海大六・少将)が着任していた。

 日本海軍の中央部でもドイツに並々ならぬ関心を寄せていることが分かった。鈴木少佐は、キールと並んで最大の軍港であるウイルヘルムに行った。

 そして表玄関から堂々と軍港の視察を願い出た。ところがドイツ海軍は喜んで親切に案内してくれた。規模は広大で軍紀も厳正だった。

 次にキール軍港に行った。鈴木少佐は鎮守府長官・チスター元帥やモルトケ参謀長に会って、「軍港の施設を見学させてもらいたい」と申し込んだ。

 すると「軍港内を見学したいなら、いちいち案内人はつけないから、自由に見学して宜しい。一日、二日では本当のことは分かるものではない。ゆっくり見学して行け」と大歓迎してくれた。

 この軍港には造船所、兵学校、海兵団、弾薬庫、火薬庫、魚雷製造工場、民間の造船所等、広大な施設があった。海軍の魚雷工場以外は見学させてくれて、行く先々で鈴木少佐にビールのご馳走をしてくれた。

 キールでもウイルヘルムでも、鈴木少佐は本省にも公使館付武官にも、報告書は一切書かなかった。手紙は全部ハガキで済ませた。

 ドイツの海軍は盲目ではない。外国の海軍武官が毎日どんなことをしているかは、恐らく百も承知していた。それだけの目は光っていると思わなければならない。

 だから、鈴木少佐はスパイなどの嫌疑をかけられぬよう用心に用心をしていた。同地に二ヶ月ばかり滞在していたが、不愉快な思いをしたことは一度もなかった。

 ドイツ海軍としては、日本の海軍をたいしたことはないと思っていたかも知れないし、一方では、ドイツ海軍の威容を誇示したいと、鈴木少佐に充分の視察を許したものと思われた。

 当時、三国干渉で恨み骨髄に徹している日本は、いつかロシアを叩かねばならぬと、軍備の拡張を行っていた。

 そこで、鈴木少佐もロシア海軍についても視察したいと思い、デンマーク、ノルウェー、フィンランドなどを回って、ロシアの首都、ペテルスブルグ(サンクト・ペテルブルグ)に行った。

 ここには駐在武官の川原袈裟太郎(かわはら・けさたろう)少佐(海兵一七・中将・旅順警備府司令長官)がいて、鈴木少佐に親切にいろんな情報をくれた。

284.鈴木貫太郎海軍大将(4)貴様、因業なことを言わずに、印を押して早く通せ

2011年09月02日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 明治三十二年二月、鈴木貫太郎少佐は軍令部を免じられて、軍務局軍事課専補となった。同時に陸軍大学校兵学教官にもなった。

 その後鈴木少佐は、五月末に海軍大学校教官に兼補され、七月には学習院の教授兼務を嘱託された。

 この時の軍務局軍事課長は加藤友三郎大佐(海兵七・海大甲号一・大将・海軍大臣・総理大臣・子爵)だった。

 鈴木少佐は、軍務局勤務をしながら、三つの学校で教えるとは、随分ひどいことをするなと思った。だが自分の修養にもなるし、やるだけやってみろと、続けた。

 だが、時間の経済から、家から出るにも人力車を雇って出なければならなかった。経済上有難くないことだし、骨が折れることも一層だったが、黙ってやっていた。

 明治三十二年の暮れ、加藤友三郎課長が「君は家から出る時に自分の車に乗って来るそうだ、そりゃ困るだろう」と鈴木少佐に言った。

 鈴木少佐は「困ります」と正直に答えた。その年から陸海軍の交換教官には賞与を与えることになった。これが車代となって残った。加藤課長の発案だった。

 明治三十三年初頭、軍令部の発案で、甲種魚雷と称し、千メートル進行の魚雷の調整弁に修正を加え、速力を著しく減じて、その代わり到達距離を三千メートルに延長し、遠距離より敵艦を攻撃する計画を立て、軍令部長から海軍大臣に提出された。

 これはロシアの戦術家、マカロフ海軍大将(戦術の権威・日露戦争で戦死)の戦術書から由来されたものだった。

 この問題の解決は、軍務局員である鈴木少佐の主務に属するものだった。鈴木少佐は、直ちにこの計画に反対した。その理由は次の様なものだった。

 「このような十二、三ノットばかりの速力の遅い魚雷は、昼間敵艦進行中に襲撃しても、直ぐ回避される恐れがある。また、当たっても今の爆発装置では発火しない。発火するためには敵艦の速力よりも五ノット以上の速力を保たなければならない」

 「また、夜間碇泊艦を襲撃するにしても、二千メートルや三千メートルの遠距離よりからは敵艦を認識することはできない。少なくとも、五、六百メートル以内に接近しなければ確実な成功は期せられない」

 「いずれにしても、このような計画は有害無益で、いたずらに我が勇敢な軍人を卑怯者にするばかりである。マカロフ将軍は尊敬すべき戦術家であるが、この問題についてはおそらく机上の考案に過ぎず、我々は、日清役実戦の経験より、とうていこれに賛成できぬのである」。

 以上のように鈴木少佐が反対すると、軍令部から鈴木少佐の友人で海兵同期の高島万太郎少佐(海兵一四・大佐)が来て「貴様、因業なことを言わずに、印を押して早く通せ」と言った。

 鈴木少佐は「そうはいかぬ。これは将来我が海軍に必ず累を及ばすから、軍令部でこの書類を引っ込めたらどうか」と言ってどうしても承知しなかった。

 そこで軍令部から瓜生外吉(うりゅう・そときち)大佐(海軍兵学寮・アナポリス海軍兵学校卒・男爵・大将)や外波内蔵吉(となみ・くらきち)中佐(海兵一一・海大二・少将)が軍事課長・加藤友三郎大佐に交渉すると、加藤課長は「鈴木の言うことが正しい」と言って承知しなかった。

 それに軍務局長・諸岡頼之(もろおか・よりゆき)少将(海兵二・常備艦隊司令官・中将)も同様なので、軍令部は大いに困却した。

 ついに軍令部次長・伊集院五郎少将(海兵五・英国海軍大学校・軍令部長・元帥・男爵)が「一少佐の分際で生意気な」と怒って、海軍大臣・山本権兵衛中将(海兵二・大将・総理大臣・伯爵)に談じ込んだ。

 軍令部長・伊東祐亨(いとう・すけゆき)大将(神戸海軍操練所・元帥・伯爵)は山本海軍大臣より先輩であり、伊集院軍令部次長も山本海軍大臣と同じ鹿児島出身である。

 山本海軍大臣も困って、次官・斉藤実(さいとう・まこと)大佐(海兵六・大将・総理大臣・子爵)に一切の処置を命じた。軍務局長、軍事課長、主任官が真っ向から反対しているので、斉藤次官も弱った。

 斉藤次官は鈴木少佐を呼んで「君の主張はよく分かった。しかし大臣がこれを決裁されることになれば、君はどうするか」と訊いた。

 鈴木少佐は「私は海軍将来のために自説を固執しているのですから、大臣の方でそれはいかんと言って軍令部案には同意せられるのなら、何も文句はありません」と答えた。

 それなら書類をすぐ官房のほうに回せと命じ、官房から次官、大臣の決裁を経て、軍令部案を一応承認することになった。

283.鈴木貫太郎海軍大将(3)いやしくも参謀がこんなことを言うとは何事だ

2011年08月26日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 その年の十一月二十一日、鈴木貫太郎少尉は海軍大尉に昇進した。当時は中尉の階級が無かったので、少尉からいきなり大尉になった。

 明治二十八年一月、鈴木大尉は、水雷艇六号艇長として日清戦争の威海衛攻撃に参加した。

 日清戦争終戦後、五月二十三日、鈴木大尉は三等海防艦海門(鉄骨木皮スループ・乗員二一〇名・一三八一トン)の航海長に任命された。

 「日本人の自伝12」(鈴木貫太郎・平凡社)によると、その年の七月、海防艦海門は台湾攻略戦に参加して、明治二十九年三月、佐世保にやっと凱旋入港した。

 ところが。凱旋入港したのだが、歓迎はなかった。「一番後まで働いた者は忘れられてしまったのだろう」と鈴木大尉は思った。

 佐世保鎮守府から参謀が来たので、鈴木大尉が「歓迎に来た」と思って出向いたら、「海門はどこから来たか?」と問う始末だった。

 鈴木大尉は、いやしくも参謀がこんなことを言うとは何事だと癪に障った。

 それで、その参謀に「日本の軍艦では最後の凱旋だ。我らはどうでも良いが艦長だけはうんと歓迎してもらいたい。長官にそう言ってくれ」と言ったが、結局歓迎会ひとつもやらなかった。だが、艦長だけは長官に招かれてご馳走になった。

 昭和二十九年四月、三等海防艦比叡(乗員三〇八名・二二五〇トン)の航海長兼分隊長に任命された。比叡は練習艦隊として候補生を乗せて遠洋航海に出ることになった。

 その年の十二月、比叡は遠洋航海に出発することになった。その時になって、鈴木大尉は航海長をやめさせられ、分隊長となった。

 遠洋航海に出たときは、「君達は先に威海衛で働いたから、今に駆逐艦ができるから、その時の回航委員に是非やってやる」という有難い話だった。

 だが、専門の人がその方に行って、鈴木大尉達にはお鉢が回って来なかった。遠洋航海にやって、つまりイギリスに行くことを帳消しにするのではないかと疑惑を持った。

 航海長であってこそ練習艦隊の練習にもなる。分隊長は練習候補生の教育関係であるが、伴食の分隊長で甚だつまらないと鈴木大尉は厭に感じた。

 そこで鈴木大尉は、艦長に露骨に言うこともできないので、海軍大学校に入りたいので志願するから、やっていただきたいと申し出てみた。

 ところが艦長は、「海軍大学校は試験が厳格だ、君は確実だろうが、学校に入ってもつまらんから遠洋航海に行ったほうが良い」と言って、しきりに留めた。

 鈴木大尉は、「(伴食の分隊長で)つまらんと思った時は、むしろ学問した方が良い。いやな航海をしているのはなおいやだ、大学校に入れる入れないは時の運だから」と、聞かなかった。それで艦長は進達した。

 それで、鈴木大尉は十二月に三等海防艦金剛(乗員二八六名・二二五〇トン)の航海長を命ぜられ、しばらく呉に残ることになった。

 その後翌年まで金剛にいるうちに、海軍大学校の試験を受けた。その試験の中で「艦隊に於ける最良の戦闘陣形を論断せよ」という問題が出た。この対策が判っていれば艦隊の長官になれるということだった。

 一ヶ月の猶予のある問題だったが、鳥海にいる時に暇にまかせて戦術を研究していたものが役に立ち、鈴木大尉は三日で仕上げて提出した。

 鈴木大尉は海軍大学校の試験に合格した。対策は「鈴木大尉のが一番良かった」と海軍大学校教官・島村速雄少佐(海兵七・軍令部長・男爵・元帥)から誉められた。

 鈴木大尉は「鳥海のときに、つまらん時には本を読んだが、その読んだものが、時が経ってからとんでもない用をするものだ。まさか大学校に入るに役立とうとは思いもかけぬことだ」と思った。

 明治三十年四月、鈴木大尉は三十歳で出羽重遠(でわ・しげとお)大佐(海兵五・大将)の媒酌により大沼とよ(十八歳)と結婚。四月二十九日海軍大学校に入校した。

 海軍大学校では最初に一年間砲術の専門を学んだ後、鈴木大尉は明治三十一年四月、甲種学生に採用された。六月二十八日海軍少佐に昇進した。

 海軍大学校甲種学生は参謀やその他要職にあてるための教育だった。これは規定では二年間だったが、鈴木少佐は、初めから砲術の専科を終了していた。

 それで、その年の十二月十九日、海軍大学校甲種学生一期生として卒業した。卒業後、軍令部第一局員、海軍省軍務局軍事課員となった。

282.鈴木貫太郎海軍大将(2)相撲なら誰にも負けないが、ゆったり落ち着いた鈴木にはどうかわからんぞ

2011年08月19日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 明治二十二年九月三十日、鈴木貫太郎少尉は巡洋艦高雄(乗員二二〇名・一七五〇トン)に分隊士として乗組んだ。

 高雄の艦長は山本権兵衛(やまもと・ごんべえ)大佐(海兵二・海相・大将・首相・伯爵)、副長は斉藤実(さいとう・まこと)中佐(海兵六・海相・大将・首相・子爵)だった。

 「聖断」(半藤一利・文藝春秋)によると、山本艦長は暇なときには必ず若い士官と談笑し、海軍を語り、軍人精神を語った。山本艦長の次の様な言葉が残っている。

 「武士は金銭を軽蔑するが、武士も人間だ。霞を食っては生きていけまい。時と場合によっては、上司と意見を異にして辞めなければならんこともある。治にいて乱を忘れずは武士のたしなみだ。平素からその日のことを考えておかねばならん。散財して大人物ぶるのは馬鹿のやることである」。

 一生を通して、鈴木貫太郎は山本艦長の訓えをよく守った。質素にし、治にいて乱を忘れぬ人間を、鈴木は自ら造り上げていった。

 また、山本艦長の言葉として次の様な言葉も残っている。

 「俺は相撲なら誰にも負けないが、ゆったり落ち着いた鈴木にはどうかわからんぞ」。

 たくましい体、はちきれそうな若さ、あふれるような温容を持つ鈴木貫太郎の青年士官時代が、この山本艦長の言葉から思い描ける。

 少年時代から心優しさを鈴木は持ち続けていた。常に両親への送金は忘れなかった。遠洋航海から帰ってきた時、誰もが残った手当てを酒などで散財するのに、鈴木は母、きよに銘仙のかすりを買って送った。

 明治二十四年八月六日、鈴木貫太郎少尉は砲艦鳥海(乗員104名・六〇二トン)分隊長心得になった。二十四歳だった。

 「終戦時宰相・鈴木貫太郎」(小松茂朗・光人社)によると、明治二十五年、朝鮮の済州島(チェジュとう・さいしゅうとう)で、日本の漁夫が殺されるという事件が起きたので、その談判の命令を受けた仁川(インチョン・じんせん)領事の林権助を砲艦鳥海に乗せて行った。

 いざ出帆というのに、数ヶ月も碇泊していたので、船の周りには全面、牡蠣がついてしまって、船の速力は三ノットしか出なかった。だから潮時を考えて運航しないと、岩にぶっつけるし、途中で嵐にやられたり、散々な目にあった。

 艦長の伊藤常作少佐(海兵三・砲術練習所長・少将)は、これではとても目的地に近づくことはできないからといって、所安島(ソアントウ)に碇泊し、海岸の砂地を見つけていいところに船を乗り上げた。

 この辺りは潮がよく引くから、潮時の三メートル前後のところで、天然のドックにいれ、水兵全員で牡蠣落としをやり、一番ひどかったところの牡蠣を、全部かき取った。

 翌朝、済州島に向け出発した。速力は七ノットも出た。当時の船としては、それが全速力だった。済州島に着いて、船を寄せ、上陸することになった。

 鈴木貫太郎少尉は護衛として、二十人の兵を連れて出発することになった。群衆が敵意の強い、燃えるような目をして上陸地点に近寄ってきた。

 鈴木少尉は、指揮刀を持っていたが、抜けば刃がないのが分かってしまうと思って、心細いが抜かずにいた。

 兵には上陸するとすぐ着剣させた。銃を先方へ向けてかまえた。いつでも戦える体勢である。多数の群集がスーと道の両側によけたので、林領事たち三人のほかに、参判という高い地位の朝鮮政府の役人一行を上陸させた。

 そうして役所のほうへ進んで行くと、朝鮮の兵隊が飴屋のラッパで迎えに来た。旗も立てていたが、昔のままの兵隊で、鉄砲は銃身の長いものだった。

 青龍刀を持って、いかにも伝統そのままの様子だった。着衣も青い空色のが一番の頭、兵隊は赤い色と色分けしてあった。

 役所に着いたら、大門を閉じて、くぐり門から入れ、と言う。大門は制限があって容易には開けないらしかった。

 談判の中で、朝鮮の大官も来ている。鈴木少尉は、日本の天皇陛下の代理で来ているのだ。「開けろ。開けなければ、談判をやらずに、このまま帰って朝鮮政府に報告する」と脅したら、飛んで行って知事に訴え、あわてて大門を開け、驚くほど丁寧になった。

 その間、鈴木少尉は二十人の兵隊に銃をかまえさせて、脅したり、今にも鉄砲を撃ちそうなポーズをとらせた。

 さすがに驚いたのであろう。当方の望みどおりになった。三日ほど考証して、漁夫を殺した事情を調べ、賠償金を出させた。

281.鈴木貫太郎海軍大将(1) 海軍軍人になって「鬼貫太郎」と異名をつけられた

2011年08月12日 | 鈴木貫太郎海軍大将
 「聖断~天皇と鈴木貫太郎」(半藤一利・文芸春秋)によると、鈴木貫太郎は父・鈴木為輔(維新後に由哲と改名)、母・きよの長男として慶応三年に生まれた。由哲には四男四女があった。

 鈴木為輔は、安政年間に老中を勤めた久世大和守広周の警護役であったが、元治元年に代官として泉州(和泉国)に移った。

 代官の鈴木為輔は、その寛仁さで領民に慕われた。あるとき、農村を巡察中に、百姓が肥桶をひっくり返し、代官である鈴木為輔の衣服を汚すという事件が起きた。

 当然にお手討ちを覚悟した百姓に、鈴木為輔は、かたわらの小川で衣服を洗い、「これできれいになった。心配せずともよい」と笑って言ったという。

 貫太郎の母、きよは、栃木県佐野の修験道場総本山の住職の三女で、躾は厳しく教育熱心であった。その甲斐あって、子は例外なく英才であった。

 母の教育により長男、貫太郎は明治という折目正しい時代においても特に折目正しい男として育った。親孝行で、礼儀正しく、長幼の序をわきまえ、心のうちの規律がきっちりしていた。

 貫太郎は外へ出て菓子か何かを貰ってくると、「ただいま帰りました」と手をついて挨拶してから、その包みをそのまま母親に差し出した。母が「お前がお上がり」と言っても、母が手をつけないかぎり決して食べなかったという。

 貫太郎は幼い時から心の中に則を定め、それを超えようとはしない律気を持っていた。己に対しては厳しく、親切で優しかった。

 だが鈴木貫太郎は後に、海軍軍人になって「鬼貫太郎」と異名をつけられた。それほど激しい闘志を持った人物に成長した。

<鈴木貫太郎海軍大将プロフィル>

慶応三年十二月二十四日和泉国大鳥郡久世村(大阪府堺市)生まれ。関宿藩士(代官)の父・鈴木為輔(維新後に由哲と改名・久世家和泉領代官)、母・きよの長男。由哲には四男四女があり、長男の貫太郎の上の三人は女子、次男は鈴木孝雄陸軍大将、三男は鈴木三郎(久邇宮家御用係)、四男は永田茂陸軍中佐、それに妹がいた。
明治六年(六歳)三月千葉県関宿の久世小学校に入学。
明治十年(十歳)父・由哲の群馬県庁(十四等出仕)就職に伴い群馬県前橋市に転居。桃井小学校に転校。
明治十四年(十四歳)三月桃井小学校卒業。利根中学校(後の群馬中学校)入学。
明治十六年(十六歳)十一月群馬中学校を退学、上京し近藤塾(攻玉社の前進)に入塾(海軍兵学校受験のため)。
明治十七年(十七歳)九月四日海軍兵学校(東京築地)入校。十四期生で六十名。
明治二十年(二十歳)七月五日海軍兵学校卒業(十四期)、少尉候補生。九月二十四日巡洋艦筑波(コルベット・乗員三〇一名・一九四七トン)で遠洋航海(アメリカ・メキシコ・パナマ・南洋タヒチ・ハワイ)。
明治二十一年(二十一歳)八月一日巡洋艦天龍(コルベット・乗員二一〇名・一五二五トン)乗組。
明治二十二年(二十二歳)五月十五日防護巡洋艦高千穂(乗員三二五名・三六五〇トン)乗組。六月二十二日海軍少尉。砲艦天城(木製スループ・乗員一五九名・九一一トン)分隊士。九月三十日巡洋艦高雄(乗員二二〇名・一七五〇トン)分隊士。
明治二十三年(二十三歳)十二月十五日水雷練習生として水雷練習艦迅鯨(じんげい・コルベット・乗員一七〇名・一四六五トン)乗組み。
明治二十四年(二十四歳)七月二十三日海防艦金剛(装甲コルベット・乗員二八六名・二二五〇トン)分隊士。八月六日砲艦鳥海(乗員104名・六〇二トン)分隊長心得。
明治二十五年(二十五歳)十一月二十一日海軍大尉(当時官制には中尉はなかった)。砲艦鳥海分隊長。
明治二十六年(二十六歳)十一月八日横須賀水雷隊攻撃部艇長。
昭和二十七年(二十七歳)七月二十一日三等水雷艇六号(乗員十六名・五四トン)艇長として対馬警備に従事。八月一日日清戦争開戦。十月二日常備艦隊第三水雷艇隊編入。十一月旅順攻略に出動。
明治二十八年(二十八歳)一月日清戦争で水雷艇六号艇長として威海衛攻撃に参加。三月日清戦争終戦。三月二十三日三等海防艦海門(鉄骨木皮スループ・乗員二一〇名・一三八一トン)航海長。四月十七日日清講和条約。七月台湾攻略戦参加。
明治二十九年(二十九歳)三月海門佐世保入港。四月三等海防艦比叡(金剛型装甲コルベット・巡洋艦・二番艦・乗員三〇八名・二二五〇トン)航海長兼分隊長。十二月三等海防艦金剛(装甲コルベット・乗員二八六名・二二五〇トン)航海長。
明治三十年(三十歳)四月六日大沼とよ(十八歳)と結婚。四月二十九日海軍大学校将校科(砲術)入校。
明治三十一年(三十一歳)五月二日海軍大学校将校科卒業、海軍大学校甲種教程入校。六月二十八日海軍少佐。十二月十九日海軍大学校甲種教程卒業(一期)。軍令部第一局局員、海軍省軍務局軍事課課僚。
明治三十二年(三十二歳)二月一日陸軍大学校兵学教官(兼務)。五月二十五日海軍大学校教官(兼務)。七月二十二日学習院教授(兼務)。
明治三十四年(三十四歳)七月二十九日ドイツ駐在を命ぜられる。九月七日ドイツに向け出発。ヨーロッパ各地を視察。
明治三十六年(三十六歳)九月二十六日海軍中佐。十二月三十日装甲巡洋艦春日(乗員六〇〇名・七六二八トン)回航委員として帰国命令。
明治三十七年(三十七歳)一月八日装甲巡洋艦春日を回航、帰国へ。二月六日日露戦争開戦。二月十六日横須賀帰国、装甲巡洋艦春日副長。九月十二日第五駆逐隊司令。
明治三十八年(三十八歳)一月十四日日露戦争に第四駆逐隊司令として従軍、黄海海戦、五月二十七日~二十九日日本海海戦に参加。九月五日日露講和条約成立。十一月二十一日海軍大学校教官。
明治三十九年(三十九歳)二月七日陸軍大学校兵学教官(兼務)。四月一日日露戦争の功により功三級金鵄勲章並びに年金七百円及び勲三等旭日中綬章。十月二十二日海軍教育本部部員(兼務)。
明治四十年(四十歳)九月十八日海軍大佐。
明治四十一年(四十一歳)九月一日防護巡洋艦明石(乗員三一〇名・二七五八トン)艦長。
明治四十二年(四十二歳)十月一日練習艦隊、巡洋艦宗谷(乗員五七一名・五六〇〇トン)艦長。
明治四十三年(四十三歳)七月二十五日海軍水雷学校長。
明治四十四年(四十四歳)十二月一日戦艦敷島(一四八五〇トン)艦長。
大正元年(四十五歳)九月十二日巡洋艦筑波(一九四七トン・第二予備艦)艦長。九月十八日とよ夫人逝去、享年三十三歳。
大正二年(四十六歳)五月二十四日海軍少将。八月十日第二艦隊司令官。十一月十五日舞鶴水雷隊司令官。十二月一日海軍省人事局長。
大正三年(四十七歳)四月十七日海軍次官。
大正四年(四十八歳)六月七日足立タカと再婚。
大正五年(四十九歳)四月一日勲一等旭日大綬章。
大正六年(五十歳)六月一日海軍中将。九月一日練習艦隊司令官。
大正七年(五十一歳)十二月一日海軍兵学校長。
大正九年(五十三歳)十二月一日第二艦隊司令長官。
大正十年(五十四歳)十二月一日第三艦隊司令長官。
大正十一年(五十五歳)呉鎮守府司令長官(十四代)。
大正十二年(五十六歳)八月三日海軍大将。
大正十三年(五十七歳)一月二十七日第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官(旗艦長門)。
大正十四年(五十八歳)四月十五日海軍軍令部長。
昭和四年(六十二歳)一月二十二日予備役編入、侍従長に就任。二月十四日枢密院顧問官(兼任)。
昭和九年(六十七歳)勲一等旭日桐花大綬章。
昭和十一年(六十九歳)二月二十六日、2.26事件で青年将校に銃撃されるも一命は取り留める。十一月侍従長辞任。勲功により男爵を賜る。
昭和十四年(七十二歳)二月から昭和十九年八月まで、二十六回にわたり、青木常盤を相手に「鈴木貫太郎自伝」を語る。
昭和十五年(七十三歳)六月二十四日枢密院副議長。
昭和十九年(七十七歳)八月十日枢密院議長就任。
昭和二十年(七十八歳)四月七日天皇の懇望により内閣総理大臣就任。八月十五日玉音放送のあと内閣総辞職。十二月十五日枢密院議長(再任)。
昭和二十一年(七十九歳)六月三日公職追放冷の対象になり枢密院議長を辞職。八十歳につき天皇より鳩杖を賜う。故郷の千葉県関宿に帰る。故郷では農事研究会などを組織して、農業・略脳の発展に尽くした。
昭和二十三年四月十七日死去。享年八十一歳。関宿町(現・野田市)の実相寺に葬られた。遺灰の中に2.26事件の時に銃撃された弾丸が残っていた。
昭和三十五年終戦に関する功績により従一位を贈位される。
昭和三十八年故郷の千葉県野田市関宿町に鈴木貫太郎記念館が建設された。