事件の進展に刺戟されるかのように、打倒山本内閣の火の手は議院の内外に燃え盛り、三月二十四日、同内閣は瓦解した。
後任首相として大隈重信に大命が下った。大隈の支柱をなすものは、立憲同志会総裁・加藤高明(東大法学部・首席・首相・伯爵)だった。
加藤高明は使いを舞鶴鎮守府司令長官・八代六郎中将(海兵八・海大選科・大将・男爵)の許に出し、大隈内閣の海軍大臣に就任するよう勧説した。
加藤と八代は同郷で、少年時代から相許した仲だった。未曾有の不祥事件を起こした海軍を建て直すには、剛毅不屈の八代を措いて人はないと信じたのだった。
大隈内閣は大正三年四月十六日に成立した。八代海軍大臣は次官に秋山真之少将(海兵一七)の就任を勧説した。
秋山少将は鈴木貫太郎少将より兵学校三期も後輩だった。日本海海戦の名参謀と謳われ、力量は次官としても十分だった。
だが、秋山少将は、「次官が局長よりも後輩であっては、人事行政上面白くないから」と自分は固辞し、鈴木人事局長の昇格を極力推薦した。
さらに秋山少将は、人事は公正な、どこにも縁故のない者でなければいかぬ。日露戦争での鈴木少将の勲功と、正確なる戦況報告、始終正直一途に辿ってきた行動等を挙げ、その起用を説いた。八代海相も鈴木少将の人物を知っていたので、それではそうしようと決めた。
秋山少将からこの話を聞いた鈴木少将は、とんでもないという面持ちで「とうていその任ではない。君がなったほうがよい」と承諾しなかった。
鈴木少将が次官ともなれば政治的な動きをしなければならないが、自分にはとてもそのような芸当は勤まらないというのを、秋山少将は強引に押し付けた。
その頃、鈴木少将の父、由哲は再起の危ぶまれる病床に就いていた。鈴木少将はとうとう、父にどうしたものだろうかと、相談した。父は「海軍のために討ち死にする覚悟でやりなさい」と答えた。
これで、鈴木少将の心が決まった。四月十七日、鈴木貫太郎は海軍次官に就任した。同時に秋山少将は軍務局長になった。
問題が残されていた。山本権兵衛大将、斉藤実大将の処遇である。二人とも海軍の功労者である。特に山本大将は海軍の最大の功労者だった。
シーメンス事件では、両大将は直接関係のあるわけではなく、監督不行届であったに過ぎない。新海相、八代中将はこれを如何に裁くか、部内も世間も注視していた。
八代海相は鈴木次官、秋山軍務局長を呼んで、「山本、斉藤両大将に対しては、遺憾ながら待命をお願いするつもりだ。これまでの功績も、海軍の名誉には替えられない」。
五月十一日、八代海相は、山本、斉藤両大将を予備役に、当時次官だった財部彪(たからべ・たけし)中将(海兵一五・海大丙号・海相・大将)を待命に発令した。
両大将に対しては一時待命にしておいて、時期が来ればまた現役に復するのだろうと見ていた多くの者は、電撃的に予備役に編入されたのを知って、八代海相の勇断を称える者、妄断を憤る者、部内は騒然となった。
井上良馨元帥と東郷平八郎元帥は、八代海相を海軍省に訪ね、両大将を予備役に編入した理由を質した。
八代海相は、特に鈴木次官をこの席に立ち会わせて、次の様に説明した。
「予備役編入には三つの理由がある。第三十一議会において、衆議院は海軍予算に若干の修正を加えて通過させた。然るに貴族院では、議会終了後政府が総辞職するなら、予算案だけは通過させようと申し入れた」
「山本首相はこれを拒絶したため、予算は不成立となり、結局総辞職の已む無きに至った。予算不成立は、国防上重大な問題であるにも拘らず、首相は内閣の存続のみに腐心して、海軍に対しては極めて不親切な処置をとった」
「次に松本中将は、両大将の最も信任していた人である。その人が収賄の非行を敢えてし、海軍の名誉を毀損したことは、人を用いるの明を欠いでいたと言わねばならぬ」
「第三には貴族院で村田保氏は、首相に対し罵詈讒謗、聴くに堪えないことを言った。これに対し首相は、何等の抗辯をもしなかった。軍人の威信を傷つけること甚だしいといわねばならぬ。以上の理由によって、海軍部内における信頼は地を払い、現役に留めておくわけにゆかぬと認めたので、こんどの処置をとったのである」。
この説明を聞いて、東郷元帥は「いやよく分かりました」と慇懃に挨拶して席を立った。だが、井上元帥は釈然としないものがあったように見受けられた。
後任首相として大隈重信に大命が下った。大隈の支柱をなすものは、立憲同志会総裁・加藤高明(東大法学部・首席・首相・伯爵)だった。
加藤高明は使いを舞鶴鎮守府司令長官・八代六郎中将(海兵八・海大選科・大将・男爵)の許に出し、大隈内閣の海軍大臣に就任するよう勧説した。
加藤と八代は同郷で、少年時代から相許した仲だった。未曾有の不祥事件を起こした海軍を建て直すには、剛毅不屈の八代を措いて人はないと信じたのだった。
大隈内閣は大正三年四月十六日に成立した。八代海軍大臣は次官に秋山真之少将(海兵一七)の就任を勧説した。
秋山少将は鈴木貫太郎少将より兵学校三期も後輩だった。日本海海戦の名参謀と謳われ、力量は次官としても十分だった。
だが、秋山少将は、「次官が局長よりも後輩であっては、人事行政上面白くないから」と自分は固辞し、鈴木人事局長の昇格を極力推薦した。
さらに秋山少将は、人事は公正な、どこにも縁故のない者でなければいかぬ。日露戦争での鈴木少将の勲功と、正確なる戦況報告、始終正直一途に辿ってきた行動等を挙げ、その起用を説いた。八代海相も鈴木少将の人物を知っていたので、それではそうしようと決めた。
秋山少将からこの話を聞いた鈴木少将は、とんでもないという面持ちで「とうていその任ではない。君がなったほうがよい」と承諾しなかった。
鈴木少将が次官ともなれば政治的な動きをしなければならないが、自分にはとてもそのような芸当は勤まらないというのを、秋山少将は強引に押し付けた。
その頃、鈴木少将の父、由哲は再起の危ぶまれる病床に就いていた。鈴木少将はとうとう、父にどうしたものだろうかと、相談した。父は「海軍のために討ち死にする覚悟でやりなさい」と答えた。
これで、鈴木少将の心が決まった。四月十七日、鈴木貫太郎は海軍次官に就任した。同時に秋山少将は軍務局長になった。
問題が残されていた。山本権兵衛大将、斉藤実大将の処遇である。二人とも海軍の功労者である。特に山本大将は海軍の最大の功労者だった。
シーメンス事件では、両大将は直接関係のあるわけではなく、監督不行届であったに過ぎない。新海相、八代中将はこれを如何に裁くか、部内も世間も注視していた。
八代海相は鈴木次官、秋山軍務局長を呼んで、「山本、斉藤両大将に対しては、遺憾ながら待命をお願いするつもりだ。これまでの功績も、海軍の名誉には替えられない」。
五月十一日、八代海相は、山本、斉藤両大将を予備役に、当時次官だった財部彪(たからべ・たけし)中将(海兵一五・海大丙号・海相・大将)を待命に発令した。
両大将に対しては一時待命にしておいて、時期が来ればまた現役に復するのだろうと見ていた多くの者は、電撃的に予備役に編入されたのを知って、八代海相の勇断を称える者、妄断を憤る者、部内は騒然となった。
井上良馨元帥と東郷平八郎元帥は、八代海相を海軍省に訪ね、両大将を予備役に編入した理由を質した。
八代海相は、特に鈴木次官をこの席に立ち会わせて、次の様に説明した。
「予備役編入には三つの理由がある。第三十一議会において、衆議院は海軍予算に若干の修正を加えて通過させた。然るに貴族院では、議会終了後政府が総辞職するなら、予算案だけは通過させようと申し入れた」
「山本首相はこれを拒絶したため、予算は不成立となり、結局総辞職の已む無きに至った。予算不成立は、国防上重大な問題であるにも拘らず、首相は内閣の存続のみに腐心して、海軍に対しては極めて不親切な処置をとった」
「次に松本中将は、両大将の最も信任していた人である。その人が収賄の非行を敢えてし、海軍の名誉を毀損したことは、人を用いるの明を欠いでいたと言わねばならぬ」
「第三には貴族院で村田保氏は、首相に対し罵詈讒謗、聴くに堪えないことを言った。これに対し首相は、何等の抗辯をもしなかった。軍人の威信を傷つけること甚だしいといわねばならぬ。以上の理由によって、海軍部内における信頼は地を払い、現役に留めておくわけにゆかぬと認めたので、こんどの処置をとったのである」。
この説明を聞いて、東郷元帥は「いやよく分かりました」と慇懃に挨拶して席を立った。だが、井上元帥は釈然としないものがあったように見受けられた。