陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

310.本間雅晴陸軍中将(10)本間軍司令官は「こんなひどい格好を誰がさせたか」と言った

2012年03月02日 | 本間雅晴陸軍中将
 本間中将はもともと米英と戦争するなぞは馬鹿の骨頂であると胸底に信じていた(本間中将は英国で勉強しその不屈の潜勢力を知っていた)ので、その心証が反抗的な言動に出た。

 本間中将は言葉を返して「だが、敵の守備兵力を知らなければ、一定期日内にマニラ攻略の御約束は困難ではないでしょうか」と言った。

 杉山参謀総長は「困難は君だけのことではない。お国が困難の最中なのだ」と答えた。

 本間中将は「予備兵力はあたえられますか」と訊いた。

 すると杉山参謀総長は「そんな余裕はない。君は厭なのか」と言い返した。

 本間中将は「任命に厭応はありません。ただ、五十日期限に確信の根拠がないので、も少し確かめたいと思ったまでのことです」と答えた。

 そこで、今村中将と山下中将が話を引き取って、とにかく全力を尽くしてやってみようではないか、ということでケリがついた。参謀総長室は、かつて見たことのない暗い空気につつまれた。

 参謀長室を出た廊下で、他の二人の将軍は、「本間、いいことを言ってくれた。俺も質そうと思っていたのだ」と肩を叩いた。だが、杉山参謀総長の無上の不快感は、ひとり本間中将の上にそそがれた。

 この際の軍司令官拝命は、軍人最高の名誉として歓喜雀踊すべきところを、条件らしいものを云々するとは、生意気な奴だ、という印象が深く杉山総長の心に根を降ろした。

 「悲劇の将軍」(今日出海・中公文庫)によると、著者の今日出海氏(東京帝大仏文科卒・明治大学教授・直木賞・小説家・初代文化庁長官・勲一等瑞宝章・文化功労者・「天皇の帽子」)は、昭和十六年十一月、太平洋戦争の始まる一ヶ月前に、徴用令書を貰い、広島から御用船で台湾の台北に連れて行かれた。

 高雄から「帝海丸」という船に乗り組み、比島(フィリピン)派遣軍とともに、フィリピンに向かった。十二月八日ラジオで宣戦の詔勅を聞いた。

 今氏は広島で着ている服を剥ぎ取られ、軍夫の作業着みたいなものを着せられていた。

 大本営はドイツの宣伝中隊を真似て、同じ組織を急造した。その中で、作家としては、今氏と、尾崎士郎(早稲田大学政治科中退・小説家・文化功労者・「人生劇場」)、石坂洋二郎(慶應義塾大学国文科卒・中学教師・小説家・菊池寛賞・「青い山脈」)の三人だけだった。

 今氏が比島派遣軍総司令官・本間雅晴中将と始めて会ったのは、この「帝海丸」の甲板だった。本間中将はずんぐり肥って、丈は高く、猫背で、いかにも軍司令官らしい偉丈夫であった。大きな眼で、眉毛が長く、達磨大師の顔そっくりだった。

 今氏は船内にじっとしていると運動不足になり、食欲不振に陥った。そこで毎朝毎夕上甲板にのぼり、体操をしたり、お百度を踏むようにぐるぐる歩き回った。

 そのとき、本間軍司令官とばったり出会った。今氏は直立不動の姿勢をとって敬礼をした。胸に幼稚園の生徒みたいに名前をはりつけてあるのを見て、本間軍司令官は「君が今日出海君か…」と、すでに姓名を知っているようであった。

 さらに本間軍司令官は「こんなひどい格好を誰がさせたか」と言った。

 今氏が「さあ、広島で一様に着せられましたが…」と答えた。

 すると、本間軍司令官は「比島に着いてもそんな格好をしていたら、笑われるぞ」と言った。

 いかに笑われても、軍隊というところは勝手に服装をかえるわけにはいかぬし、比島に着いても、私物の背広を買い整えたが、夕方宿舎に帰ってからでないと、着ることは許されなかった。

 「戦争と人間の記録バターン戦」(御田重宝・徳間書店)によると、本間雅晴中将の率いる第一四軍(第四八師団・第一六師団)がフィリピンのルソン島に上陸したのは、昭和十六年十二月二十二日(リンガエン湾)と二十四日(ラモン湾)だった。

 フィリピンは、四〇〇年に及ぶスペイン支配の後、一八九八年、米西戦争に勝利したアメリカの植民地になった。以来フィリピンはアメリカの統治の下にあった。

 上陸した日本軍を歓迎したのは、アメリカからの独立を求めて戦ってきた民族主義者たちだった。彼らは日本軍に協力し、マッカーサーに敵対した。

 当時、ダグラス・マッカーサー大将(昭和十六年十二月十八日付けで大将に昇進)はアメリカ極東軍司令官の職にあり、フィリピン防衛の最高指揮官としてマニラに司令部を置いていた。

309.本間雅晴陸軍中将(9)杉山参謀総長の顔は見る間に変わり、温顔が苦虫を噛みつぶしたようなった

2012年02月24日 | 本間雅晴陸軍中将
 陸軍省では、軍務局高級課員・鈴木貞一中佐(陸士二二・陸大二九・中将・第三軍参謀長・貴族院議員・国務大臣企画院総裁・大日本産業報国会総裁)が脱退強硬論者だったが、荒木陸相はむしろ脱退に賛成していなかった。

 このとき、新聞班長である本間大佐が強硬論を唱えたことは、陸軍部内を脱退に引きずって行った強い力となった。

 この前年の十月二日に、リットン調査団の報告書が発表された。二部送られてきたリットン・レポートの一部は、外務省で十数名かかって、徹夜で翻訳された。

 その夜、本間大佐は陸軍省の憲兵宿直室のベッドに寝転んで、夜通し、あとの一部のレポートを読破した。

 その翌朝、徹夜のため目を真っ赤にした本間大佐が、毎日新聞の岡田益吉記者に「英国はダメだね」とポツンと言った。

 国際連盟で、満州問題を取り上げ、英国が日本をギュウギュウ言わしているとき、外務省の霞倶楽部の記者たちが一斉に筆をそろえて英国攻撃をやった。

 当時、本間大佐は英国にいたが、帰朝して、「あのときの日本の新聞の英国攻撃は、英国外務省に最も効果的だったよ。英国はあれで、すっかり日本いじめをやめたからね」と述懐していた。本間大佐は決して単純な親英論者でも排英論者でもなかった。

 本間大佐が英国に三年間滞在して帰国した大正十年、参謀総長・上原大将に呼ばれ、「英国の長所と短所は如何」と質問され、散々に絞られた。このことから、本間大佐は国際情勢の甘い判断は禁物であると、認識していた。

 その後、本間雅晴は、昭和十年陸軍少将に昇進、歩兵第三二旅団長、ヨーロッパ出張。昭和十三年陸軍中将に昇進し、第二七師団長。次に昭和十五年、台湾軍司令官を務めた。昭和十六年十一月、第一四軍司令官。

 そしていよいよ、太平洋戦争に突入し、第一四軍司令官・本間中将は、米国の著名な軍人、マッカーサー将軍と対戦することになる。

 「帝国陸軍の最後1進攻・決戦篇」(伊藤正徳・光人社)によると、昭和十六年十一月上旬、参謀総長・杉山元大将(陸士一二・陸大二二・元帥・教育総監・陸軍大臣・第一総軍司令官)は、山下奉文中将(陸士一八・陸大二八恩賜・大将・第一四軍司令官)、今村均中将(陸士一九・陸大二七恩賜・第八方面軍司令官・大将)、本間雅晴中将(陸士一九・陸大二七恩賜・参謀本部付・予備役)の三人を極秘裏に参謀総長室に集めた。

 杉山大将と本間中将は、参謀総長と台湾軍司令官という上下の差は別として、親交も信頼感も持ち合わせなかった。本間中将は、杉山大将の将器を高く評価していなかった。

 杉山大将は参謀長室に集めた三人の将軍に、対米英戦争の切迫を語り、三人に軍司令官の大任を託す内命を下した。

 杉山大将は戦争の不可避を述べ、マレー、蘭印、比島の攻略作戦計画の大要を説明し、各軍が攻略に要する予定日数を内示し、順を追うて比島におよび「マニラの攻略は作戦発起後五十日以内とする」旨を指示した。

 それこそ厳粛無比の戦争計画密議であって、杉山参謀総長の態度にも、おのずから昂然たる威勢が溢れて見えた。

 すると、本間中将が、躊躇なく反問し、次のように述べた。

 「敵の勢力も戦備の程度も不明であるのに、二個師団程度の限定兵力を持って、五十日以内にマニラを攻略せよと言われても、それは無理な注文ではなかろうか。彼我の兵力と戦備形勢一般を検討した上で、軍司令官の目算を徴せられるのが至当ではなかろうか」。

 杉山参謀総長の顔は見る間に変わり、温顔が苦虫を噛みつぶしたようなった。手がふるえて、憤怒の色が明らかにうかがわれた。

 杉山参謀総長は「これは参謀本部の研究の結論である」と吐き出すように言った。

 本間中将はかかる場合に、自説をさっさとひるがえして調子を合わせるような世渡りの術は持っていなかった。

308.本間雅晴陸軍中将(8)本間大尉は完璧までにやっつけられて「雷おやじめ」と思いながら退散した

2012年02月17日 | 本間雅晴陸軍中将
 今村大尉が「さようであります」と答えると、

 上原元帥は「わしはフランスと違った編制にしている英軍は、いかなる理由で、そのようにしたかを聞いているのだ」と言った。

 今村大尉が「両軍の主義を確かめてはおりません」としぶしぶ答えると、

 上原元帥は「日本軍の将来の歩兵隊編制をどうすべきかに考え及んだなら、すぐにこの点を聞き出しておくべきだった。それを確かめなかったのは手落ちだ。さて、疑問の第二点は……」と、二時間も絞られ、今村大尉はほうほうの態で逃げ出した。

 次の日曜日には、本間大尉が上原別荘に呼びつけられた。その翌日、本間大尉は参謀本部の今村大尉を訪ねた。

 今村大尉が「どうだった。無事に済んだか」と問いかけると、

 本間大尉は「無事でなんかあるものか。ひどい目にあわされた。俺の報告書の“戦車隊運用”についての質問だったが……」と詳しく話し出した。

 その報告書は英軍雑誌記事の要点を訳したものだった。

 本間大尉は「榴弾が近くで炸裂したとき、戦車内の兵員は振動でどんな衝撃を受けるか?なんて聞かれたって、戦車に乗ったこともない俺にわかるはずがない」と今村大尉に語った。

 だが、その前日、上原元帥は「英軍は君を戦車隊にはつけなかったかも知れんが、英軍将校にただすなりして、戦車に対する敵砲兵の威力を確かめることはできたはずだ」と本間大尉を叱責している。

 また上原元帥は「三年間の駐在で、英国の最もよい点と感じたところ、最も悪い点と感じたところは、何だった?」と本間大尉に質問した。

 本間大尉は「よい点は紳士道といいましょうか、実に礼儀正しいことです。悪いところと申せば、保守主義で、他国のことを学ぼうとしないことです」と答えた。

 すると上原元帥は「君は三年もおって、まるで逆に見ている。英国の紳士道という礼儀は国内だけの話、国際間のことになると完全に非紳士的だ」

 「目の前の香港をどうして手に入れたか。インドをどう統治しているか。敗将ナポレオンをどう取り扱ったか。アフリカ土人をいかに奴隷として売りさばいたか。君はそれでも英国民は紳士的だというのか」

 「また、英国の悪いところは保守だという。英国は外に対しては、あのようにおおっぴらに無作法な利己主義を振舞いながら、国内では全英人の団結保持のため、おおいに国粋と民族の優越性とを説いてやまない」

 「この保守こそ、大英帝国を堅持している唯一の強味といえる。しかも保守の内容を検討して見給え。英国のような進歩的な民族が、どこにいる。蒸気機関の発明、鉄道の建設、社会施設の改良、議会制度など、みな他国より一歩も二歩も先に進んでいる」

 「現に将来列国軍がそうなるであろう軍の機械化などでさえ、英国は先鞭をつけているではないか。君はもう一ぺん、英国の歴史や英民族の性格を研修しなおさなけりゃいかん」。

 本間大尉は完璧までにやっつけられて、「雷おやじめ」と思いながら退散した。だが、今村大尉も本間大尉も上原元帥は結局、「偉いおやじだ」という結論を出した。

 一方上原元帥は、本間大尉を陸軍大学校の教官に任じ、戦車戦術の教育に当たらせた。また、今村大尉は、この三年後、参謀総長の職を辞したあと軍事参議官となった上原元帥の副官に任命されている。

 昭和六年、満州事変が勃発、翌七年に、本間雅晴大佐は陸軍省新聞班長になった。「丸エキストラ戦史と旅28将軍と提督」(潮書房)所収「非情の将軍・本間雅晴」(岡田益吉)によると、本間大佐は名新聞班長で、うるさい新聞記者連中も慈父のごとく本間大佐を慕っていた。

 当時、反軍的傾向も残っており、軍の強行的な満州政策に対しても、本間新聞班長は言論界に対するオブラートの役目を果たしていた。

 陸軍大臣は荒木貞夫中将(陸士九・陸大一九首席・大将・勲一等旭日大綬章・男爵・文部大臣)、陸軍次官は柳川平助中将(陸士一二・陸大二四恩賜・第一〇軍司令官・司法大臣・国務大臣)、軍務局長は山岡重厚少将(陸士一五・陸大二四・中将・第一〇九師団長・勲一等旭日大綬章・善通寺師管区司令官・高知県恩給権擁護連盟委員長)という、わからず屋が控えている中で、本間大佐はいつもニコニコして、軍部の真意を諒解させるよう努力していた。

 ところが、不思議なことが起こった。昭和八年三月二十七日、日本は国際連盟を脱退して、外交上孤立してしまった。

 このとき、英国に長くいて、親英派とか、その人柄から国際協調派と思われていた、本間新聞班長が、強硬に国際連盟脱退を支持したのである。

307.本間雅晴陸軍中将(7)「君は、なんと言う馬鹿か……」と言って、唖然とした

2012年02月10日 | 本間雅晴陸軍中将
 本間大尉は仲人の鈴木荘六中将に智子との復縁を頼みに行ったが、噂を聞いていた鈴木中将は本間大尉を痛烈に非難して断った。

 本間大尉は、親友今村大尉にも智子との仲介を頼んだが、今村大尉も断った。本間大尉はあきらめきれずにいた。

 本間大尉は子供たちの顔を見せたら智子の気持ちもやわらぐかと、佐渡から呼び寄せた、道夫、雅彦兄弟に、ロンドンみやげの服を着せ、公園で智子に会わせた。

 だが、これも本間大尉のみじめさの上塗りをしただけで、効果はなかった。そのころの本間大尉は、豊満な頬の肉はそがれ、笑いはまったくなかった。

 大正十年十二月、本間大尉は智子夫人と協議離婚した。本間大尉は智子の実家、田村家の要求どおり千円とも三千円ともいう金を支払った。

 本間大尉は仲人の鈴木中将に会い、金を払った上での離婚を報告した。鈴木中将は「腰抜けめ。そんなだらし無しだから、鼻毛を抜かれたんだぞ」と散々に本間大尉を罵倒した。

 本間大尉は親友の今村均大尉にも報告した。これを聞いた今村大尉も、「君は、なんと言う馬鹿か……」と言って、唖然とした。

 だが、本間大尉は「俺が金を払ったのは、七年間慰めてくれた恋の死屍(しかばね)の葬式費用のつもりだ」と答えて、涙を流した。

 この言葉を聞いた、今村大尉は、本間大尉の独特の性格に心を打たれて、「……馬鹿だなんて言った失敬な言葉を許してくれ給え。友人の多くは、仲人の中将同様、君をあざ笑うだろう。だが、今の今、僕は君の純情に心から敬服した」と感動に目を潤ませて答えた。

 大正十一年八月、本間雅晴大尉は陸軍少佐に昇進した。陸軍大学校の優秀な兵学教官ではあったが、上官、同僚からひそかに“腰抜け”と呼ばれていた。智子との離婚のいきさつが広く知れ渡っていた。

 「昭和陸海軍の失敗」(文藝春秋)の中で、半藤一利と保阪正康が本間雅晴将軍について、次の様に述べている。

 (半藤)軍人にならないほうが良かった軍人がいるとすれば、まさに本間でしょう。周囲からは「文人将軍」と言われ、たるんでいたと思われていた。

 (保阪)「西洋かぶれ」「腰抜け将軍」とも言われていたようです。評判が悪かったのは最初の夫人の問題もあるでしょう。日露戦争前に活躍した大物軍人・田村恰与造(たむら・いよぞう・旧制2期)の娘と結婚したのですが、これがまた奔放な女性で、本間が英国へ単身赴任している間に、女優として舞台にあがるは、作家の永井荷風と浮名をながすわと、軍人の妻らしからぬ振る舞いが多かった。荷風の「断腸亭日乗」にも交際相手として名前が出てきますよ。

 (半藤)そんな妻をたたき出すこともできないとは、軍人の風上にも置けない腰抜けだと散々な言われようだったそうですね。

 「私記・一軍人六十年の哀歓」(今村均・芙蓉書房)によると、大正十年、英国から帰って間もない頃、本間雅晴大尉と今村均大尉が、上原勇作元帥に徹底的に鍛えられたことが記してある。

 上原勇作元帥(陸士旧三)は当時、子爵で陸軍参謀総長の職にあった。上原元帥は東京帝国大学の前身である大学南校を中退して幼年学校、陸軍士官学校に入り、首席で卒業した。フランスに留学、フォンテブロー砲工学校に入り五年間フランスに滞在した。

 明治四十年男爵、師団長を経て、明治四十五年陸軍大臣に就任。その後大正三年教育総監、同四年陸軍大将、陸軍参謀総長になり、大正十二年までその職にあった。

 その間、大正十年四月に子爵、元帥になった。非常に勉学好きで、軍事の読書に励み、軍事学の権威でもあった。

 上原元帥は、陸軍大臣、教育総監、参謀総長の陸軍三長官をすべて勤めた。陸軍史上、三長官を歴任したのは上原元帥と杉山元(すぎやま・げん)元帥(陸士一二・陸大二二)のみだった。

 英国から帰国すると、日曜日に、まず、今村均大尉が鎌倉の上原別荘に呼びつけられた。

 上原元帥は「君が英国から中央に送ってきた駐在員報告を、わしはみな読んでおる。それについて……」と容赦なく質問を今村大尉に浴びせた。

 今村大尉が「それは、歩兵の突撃力を減ずるためと思います」と答えると、

 上原元帥は、「思いますというのは、君がそう思うという意味か」と突っ込まれた。

306.本間雅晴陸軍中将(6)四階の窓から飛び降りそうになった自殺未遂事件を起こした

2012年02月03日 | 本間雅晴陸軍中将
 九月末、本間大尉は従軍武官として英軍に配属されるため、西部戦線に向かった。本来なら今村大尉が従軍するはずだった。

 本間大尉は大使館付武官の補佐官になる予定だったが、朝から晩まで暗号を組み立てて電報を打ったり、暗号解読、旅行中の日本人の世話などの補佐官の仕事を見て、すっかり嫌気がさしていた。

 それで本間大尉は、世界大戦も終わろうとしている時、一度戦場を視察したいと思ったので、同郷、新潟出身の先輩、参謀本部作戦課長・大竹沢治大佐(陸士七・陸大一六恩賜・少将・参謀本部第一部長)に英軍に従軍することを頼んだ。

 本間大尉は、自分が従軍することになれば、補佐官の代わりが東京から派遣されると思い込んでいた。だが、結果は、本間大尉と今村大尉が入れ替って、今村大尉が補佐官を命ぜられた。

 東京で今村大尉は軍務局長・奈良武次中将(陸士一一・砲工学校高等科優等・陸大一三・侍従武官長・大将・男爵・勲一等旭日桐花大綬章)から「君は渡英後、従軍武官に指名されるはずだ。その時の研究項目は別に指令する」と言われていたので、補佐官に決まったと聞かされたときは、甚だ不満だった。

 そこで、今村大尉は、参謀本部の電報は間違いだろうと、訂正電報を待っていた。その今村大尉を本間大尉が食事に誘った。本間大尉は首をうなだれて、「君にあやまらねばならぬことがある」と、大竹大佐に依頼した事情を説明した。

 今村大尉は、「もし本間大尉が黙っていたら、あとになってその理由が分かったら、自分は彼を卑劣な奴と軽蔑しただろう」と述べて、素直に打ち明けた本間大尉を快く許した。

 三年後の大正十年春、ロンドンの本間大尉は、東京にいる陸軍士官学校同期の藤井貫一大尉(陸士一九・陸大三二・少将・対馬要塞司令官)から手紙を受け取った。

二人は新発田連隊で一緒に勤務、暮らした仲だった。藤井大尉からの手紙は、本間大尉の胸を刺した。それは次のような内容だった。

 「智子夫人の評判が非常に悪い。二人の子供は女中まかせで、着飾っては若い男と出歩いている。女優となって舞台に立っているらしく、家にもあやし気な男たちが出入りして、近所の話題になっている。軍人の名誉を傷つけることでもあり、君から厳重に注意されることを望む」。

 藤井大尉はこの手紙を書く前に、同期生の牧野正三郎大尉(陸士一九・陸大三一・少将・陸軍司政長官)とともに本間大尉の留守宅を訪れ、直接智子に忠告した。

 だが、とても二人の意見を聞く相手ではなかった。「何もやましいことはない。芸術家と交際してどこが悪いか。失礼なことを言うな」と逆にまくしたてられて、ほうほうの態で引き上げた。

 さらに、同期の舞伝男大尉から藤井は「本間の留守宅には行くな。悪い噂のある細君だから、うっかりすると、こちらまで人から変な目で見られるぞ」と忠告された。

 ロンドンの本間大尉から返信が藤井大尉へ来た。「家庭内のことに干渉してくれるな」という文面で、友情に感謝しているものの、「余計なおせっかい」と言わぬばかりだった。

 智子は自分の行動が夫にどのような影響をおよぼすか考えるような女ではなかった。二人の子供は佐渡のマツのところに引き取られた。

 そのあと智子は一人でアトリエのついた借家に引っ越した。こうして、ロンドンの本間大尉がそこへ帰る日を待ち焦がれた彼らの家庭は消滅した。

 本間と智子の次男、雅彦は、彼の手記「偉大なる腰抜け将軍―本間雅晴」の中に、「留守中、智子は若い画家と駆け落ちした」と書いている。

 ロンドンの本間大尉は妻の素行について藤井や母マツから知らされたとき、理性を失うほどの絶望状態に陥った。日本料理屋「日の出屋」の四階の窓から飛び降りそうになった自殺未遂事件を起こした。

 すぐにでも軍人をやめ、故郷に帰って子供を育てるという本間大尉を、今村均大尉はなだめすかして、予定通り柳川平助中佐と三人で二ヶ月間の欧州旅行を済ませ、マルセイユから郵船・北野丸で日本に向かった。

 三年ぶりで再開した夫婦は麹町の旅館で話し合った。元通りの生活に戻ってくれと哀訴懇願する本間大尉をかたくなに拒んで、智子は旅館を出た。

305.本間雅晴陸軍中将(5)恩賜の軍刀で卒業しないと離縁するぞ

2012年01月27日 | 本間雅晴陸軍中将
 戦後、七十六歳のとき智子は「結婚式に出席しなかったことで、姑は私に対する悪意を示しました。姑は雅晴の嫁にと、すでに佐渡の娘を選んでいたので都会育ちの私を受け入れたくなかったのです」と語っている。

 だが、これは智子の誤解だった。「マツは一人息子の結婚式に出席したかったのだが、夫、賢吉に連れて行ってもらえなかった」と本間朝之衛は述べている。

 賢吉は新発田連隊へさえ、姉を雅晴の母と偽って同伴したくらいだから、まして結婚式場で妻と並ぶことは避けたかったのだろう。

 だが、新婚時代の本間中尉は、智子を着飾らせて、これ見よがしに連れ歩いた。舞伝男は「ある劇場で、新婚間もない本間夫妻に会った。有名な田村家の娘である本間の妻を私は初めて見たのだが、小柄ながら評判通りの美しい人だった」と述べている。

 森鴎外が帝劇の一等席に並んでいる本間中尉と智子を見て「日本の軍人も変わったものだ」と言ったと伝えられている。

 「今村均大将回想録・第一巻・檻の中の獏」(今村均・自由アジア社・1960年)で、今村均は、この結婚が本間にとって決して有利なものでなかったことを、次のように述べている。

 「その時分の青年将校の間には―偏狭な考え方ではあったが―大物のところから嫁をとるのは、精神上いけないことに思われていた。それで多くの同輩はXをさげすみ、その新家庭に近づく者は多くなかった」。

 Xとは本間中尉のことである。本間より二期後輩の飯村穣(陸士二一・東京外国語学校・陸大三三・中将。東京防衛軍司令官・憲兵司令官)は、「嫁の里が“大物”であったり、特に金持ちであると、仲間から悪く言われたものだ」と述べている。田村家はこの両方に該当していた。

 本間中尉は、こうした人の目も意識することもできないほど、新妻に溺れたのである。当時の本間は妻の智子に「故田村将軍を岳父に持ったのだから、それにふさわしい軍人にならねば……」と語っている。

 新婚当時の本間中尉は四谷の借家に住んでいた。智子の里から付き添ってきた“ばあや”との三人暮らしだった。

 本間中尉は外出の度に智子を同伴したばかりでなく、家の中でも妻をそばから離さなかった。「料理などは女中まかせでいいと私を台所へも立たせず、夜の勉強時間は机の横にすわらせて読書をさせた」と智子は語っている。

 だが、悲劇的なことだが、本間中尉の溺愛・献身は、智子の心に伝わらなかったのである。智子は「夫は、物足りない人だった」というのだった。本間中尉は自分の感情に酔って、一人相撲をとっていたことになる。

 結婚の翌春、本間中尉の父、賢吉が結核治療のため上京した。賢吉は息子の新家庭に数日滞在した後、駿河台の病院に入院した。

 賢吉の病状は急速に悪化していった。本間中尉の度々のすすめも聞き入れず、賢吉は最後まで妻、マツを呼び寄せなかった。大正三年八月十九日、息子夫婦にみとられて、賢吉は息を引き取った。

 父の遺骨を持って、本間中尉は初めて智子を連れて佐渡へ帰った。だが、マツと智子は初対面の挨拶を交わす前から、それぞれの胸にしこりがあり、不仲だった。

 佐渡から戻って本間中尉は転居した。そしてその年の十二月二十五日、長男、道夫が誕生した。初孫を見に上京したマツと智子の間は相変わらず険悪で、本間中尉はその両方へ気を使い、なんとか円満な家族関係を築こうと苦慮した。

 大正四年十二月、本間中尉は三番という成績で陸軍大学校を卒業した。この年の恩賜の軍刀は五人で、首席の今村均が御前講演を行った。同期の東條英機の成績は十一番だった。

 戦後七十六歳のとき、智子は「本間をあれだけの偉い男にしたのは私です」と述べている。智子は徹夜で卒業試験に立ち向かう本間中尉のそばで勉強を手伝った。

 だが、陸大の同期生の間では「本間は妻に、恩賜の軍刀で卒業しないと離縁するぞ、とおどかされたので、必死に勉強した」という噂になっていた。

 大正七年、本間大尉は今村均大尉とともに、軍事研究のため英国駐在員を申し渡され、七月にロンドンに到着した。

 当時第一次世界大戦で、ドイツの敗色は明らかだったが、英国の国力は低下していた。首相のロイド・ジョージは「戦うイギリス」を指導していた。

304.本間雅晴陸軍中将(4)田村家のお嬢さんは、とても軍人の奥さんになれる人ではない

2012年01月20日 | 本間雅晴陸軍中将
 陸士を卒業した本間は新潟県の新発田連隊に配属された。本間の次男、雅彦は、昭和四十年四月に新潟日報に連載した「偉大なる越しぬけ将軍・本間雅晴」の中で、「若い頃の雅晴には、父・賢吉ゆずりの軟派性があった」と書いている。

 キザといわれるほどの本間少尉のおしゃれは、父親ゆずりのものだった。

 明治四十三年十一月十日付で本間少尉は中尉に進級した。その頃、本間の本家の跡取り息子、本間朝之衛が、修学旅行で新発田連隊の見学に行った。

 隊内を案内してくれる本間中尉が、腰の吊り紐をわざと緩めて、反りの強い指揮刀を地にひきずって歩く姿を、修学旅行の少年たちは感に耐えて眺めていた。

 だが、本間中尉は中学の後輩たちを将校集会所に入れて大福もちをおごり、その温かいもてなしに、引率の教師は感動した。

 大正元年十二月十三日、本間雅晴中尉は陸軍大学校(二七期)に入校した。このときの受験者は約八百人、合格者は六十人だった。

 士官学校(十九期)同期の、本間中尉と今村均中尉は、陸軍大学校でも同期生になった。板垣征四郎中尉(陸士一六・陸大二八・陸軍大臣・大将)、山下奉文中尉(陸士一八・陸大二八恩賜・大将・第十四方面軍司令官)もこの年に受験しているが、二人とも不合格だった。

 陸大在学中に、当時二十五歳の本間中尉は「僕は結婚しようと思うのだが」と今村中尉に相談した。そのことが今村の回想録に記されている。

 本間の相手について今村は「当時政府の顕要の地位にあった人の細君の妹」とだけ記しているが、それは当時すでに故人であった田村恰与造(たむら・いよぞう)中将(陸士旧二首席・ベルリン陸軍大学卒・参謀本部次長・中将)の末娘、智子(としこ)だった。

 智子の姉たちは、当時、参謀本部総務部長・山梨半造少将(陸士旧八・陸大八恩賜・陸軍大臣・大将・朝鮮総督)や、福島安正(開成学校中退・司法省・陸軍省文官・士官登用試験合格・陸軍中尉・参謀本部次長・中将・男爵・関東都督・大将)の息子に嫁いでいるという陸軍の名家だった。

 今村中尉はこの縁談に反対した。今村中尉は本間中尉に「その人のことは、よく我々仲間の話に出るが、家庭をよく調べたか」と言った。

 本間中尉は「母親が芸者だったということだろう。母親がそういう境遇だからといって、その娘までを軽蔑するのはいけないことだ……」と、本間中尉は今村中尉のあげる疑問点の一つ一つに反論して決意の固いことを示した。

 そして本間中尉は「君には理解されんかも知れんが、僕は一度の見合いで恋をしてしまった」とも言った。

 だが、陸士同期の舞伝男(陸士一九・陸大三一・中将・第三六師団長・勲一等旭日大綬章・勲一等瑞宝章)は次のように述べている。

 「士官学校に近い紺谷という洋服屋の二階を、我々は日曜合宿に使っていたが、そこの主人も本間が田村家の娘と見合いをしたと聞いて、あの人だけはおよしなさいと、とめていた。だが時すでに遅く、本間の決心はついていた」。

 紺谷洋服店の主人は「田村家のお嬢さんは、とても軍人の奥さんになれる人ではない」と、しきりに本間中尉を説得していたという。

 智子の母親が芸者だったという噂が陸大生の間に当時流れていたが、事実は違っていたようだ。だが、本間はこの噂を生涯信じていた。本間の結婚期間中、智子の感情を傷つけまいと一度も話題に出さなかったのではないかと推察される。

 智子は跡見女学校を卒業した十八歳の“御大家の令嬢”で、これという問題があったわけではないが、美貌、派手な身なり、軽い挙動など、良家の子女とは思われない色っぽさがあった。

 智子は姉たちと同じ学習院に入学したが、その教育内容に嫌気がさして跡見女学校に転校した。いったん「いやだ」となったら、矢もたてもたまらず行動に移す、わがままな性格だった。

 本間中尉と智子は大正二年十一月二十一日に結婚した。本間中尉と智子の新婚生活は限りなくロマンティックで、どこか遠い国の物語のようであった。智子が軍人の妻に相応しいかということは忘れ去られていた。

 だが、二人の結婚式に本間の母、マツが出席しなかったことが、智子が姑に悪感情を持つ発端だった。

303.本間雅晴陸軍中将(3)本間は「西洋かぶれ」「親英派」「腰抜け将軍」など悪評を被った

2012年01月13日 | 本間雅晴陸軍中将
 ところで、陸軍士官学校の外国語教育は英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、支那語の中から一科目選択するものだったが、中学卒業者にはすでに基礎のできている英語を習得させ、幼年学校出身者には他の外国語を学ばせた。

 後に本間雅晴が、駐英武官となり、ことさらに親英派と目されて、親独派から感情的な非難攻撃を受けるようになった遠因はこの制度にもあった。

 昭和二十一年、マニラの軍事法廷で、本間の証人の一人であった陸士同期生、舞伝男(まい・でんお)中将(陸士一九・陸大三一・第三六師団長・勲一等旭日大綬章・勲一等瑞宝章)は、本間雅晴と東條英機の確執について次のように述べている。

 「陸軍内部で、中学出と幼年学校出はとかく反目しがちだった。東條が幼年学校出身、本間が中学出身であったことも、二人の不仲の原因の一つ」。

 マニラ軍事法廷でのこの証言について「日本陸軍内部の恥をさらすものだ」との批判があったが、舞元中将は「日本破れ、陸軍も消滅した今となって、その名誉にこだわる必要があろうか。真実を述べることで、本間が有利になるならば……」と答えている。

 明治三十八年十二月陸軍士官学校に十九期生として入校した当時の本間雅晴の手記が、富士子夫人の手許に保存されている。

 字画の正しい達筆のペン字で、彼は「なんたる光栄……」と書き出し、感激に震えて、天皇への忠誠、国家への奉仕を誓い、入校の覚悟をうながしている。

 軍人勅諭の中の「朕は汝等軍人の大元帥なるそ されは朕は汝等股肱と頼み 汝等は朕を頭首と仰きてそ 其親は特に深かるへき」の一節に、本間ははるか遠い存在であった天皇と、いま軍人となった自分が直結していることを知った。

 この一体感は本間にとって青天の霹靂であった。その驚きと感激から、手記の「なんたる光栄……」がひきだされた。十八歳の本間に雷撃のように響いた“誠心”は、彼の一生を貫くことになる。

 のちに本間は「西洋かぶれ」「親英派」「腰抜け将軍」など悪評を被った。知識と思考を持った人間のなまぬるさの一面を批判されたのだが、本間は最後まで和平工作に努力を注いだ。

 指輪をはめ、長髪をポマードで光らせ、子供たちに「パパ」と呼ばせるなど、三十代までの本間には軍人らしからぬ時代があった。

 だが、そうした私生活上の好みは、本間の信条である「天皇への忠誠、国家への奉仕」を、何らさまたげるものではなかった。

 後年、日独伊三国同盟に反対し、戦争の早期終結を願った本間は、東條英機をはじめ強硬派の指導層に嫌われたが、彼は一身上の不利を承知の上で最後まで信念を貫いた。

 “文化将軍”と呼ばれ、表面は軍人らしからぬ点の多かった本間だが、奥底は、純粋で真正直な性格から、軍人勅諭のゆるぎない信奉者であった。

 陸士同期で本間と親友だった舞伝男元中将の話によれば、卒業間近に、同期生の一人が何か間違いを起こして処罰されることになった。

 本間はその男がかわいそうでたまらず、舞のところに「なんとかかばってやろう」と相談に来た。だが、舞は、その男の行為は罰を受けて当然と思っていたので断った。

 その後、本間と舞は陸軍大学校に入るまで疎遠になった。本間は舞が温情を示さなかったことが、ひどく不満だった。それほど本間は情に厚い男だった。

 舞は回想して「本間は能力の高い立派な男だったが、どちらかといえば、武より文の方面に進むべきではなかったか。とにかく軍人向きの生まれつきとはいえなかった」と述べている。
 
 明治四十五年五月、本間雅晴は陸軍士官学校を卒業した。入校以来一年六ヶ月の間に、百十五人が落伍していた。

 「マサハル二バン 三〇ニチシキ」という母・マツあての電報が、佐渡の生家に保存されている。同期生はみな本間が一番であろうと予測していたが、“目から鼻に抜けるような才子”と評された高野重治(のち柳下と改姓)が首席だった。

 本間は区隊長に売り込んで好印象を与えようなどということは一切しなかった。世渡りの下手さ、不器用さは彼の一生に付きまとっている。

302.本間雅晴陸軍中将(2)勇ましい少年雑誌に感激したのだ

2012年01月06日 | 本間雅晴陸軍中将
 「いっさい夢にござ候~本間雅晴中将伝」(角田房子・中央公論社)によると、本間雅晴は、新潟県佐渡郡畑野村大字後山(現在畑野町宮川)に、父・賢吉、母・マツの一人息子として生まれた。

 佐渡の本間家、本家から分家した二代目が本間賢吉である。分家したときに本家から分与された田畑は四町一反だった。

 雅晴の母・マツは分家の本間家より、はるかに豊かな家の跡取り娘だったが、その権利を放棄して賢吉と結婚した。マツが賢吉に惚れ込んで周囲の反対を押し切って結婚したのだった。

 マツは身長五尺二寸(一・六メートル)の当時としては大女で、骨格たくましく、男のような体つきだった。

 また、当時の農村の娘として珍しいことではないが、文盲だった。茶の湯、生け花などのたしなみもなかった。だが、男をしのぐ労働力の持ち主であった。

 このマツが情熱を傾けたのが賢吉で、身だしなみのいい、やさ男だった。おっとりと整った細面に微笑を浮かべて若々しかった。

 賢吉は趣味も豊かだった。賢吉が最も得意としたのも、幼少から稽古を積んだ能であった。そのほか茶の湯、生け花、囲碁、書道などみな一通り器用にこなした。

 結婚後も家業の農業を妻のマツにまかせて、村の収入役などを勤めたが、これも暇つぶし程度だった。賢吉は、マツのひたむきな恋情に押し切られて結婚したが、家庭に落ち着かず、小木港の遊郭に通って、女たちを相手に歌ったり、民謡、川柳、都都逸などをして、まさに明治のプレイボーイだった。

 こうした夫の放蕩を、マツは黙って耐えた。賢吉と争う声を聞いた者はなかった。「女と生まれて、他の女にもてないような男を亭主にしても張り合いがない」とマツは言っていたそうだが、負け惜しみでもあり、本音でもあったろう。

 マツは夫の気を引こうとする努力はしなかった。マツは質素倹約、一切の無駄を嫌い、身だしなみも構わず、垢じみた着物を平気で着続けた。破れた裾から糸を下げたまま人前に出た。

 このような両親の間に本間雅晴は生まれた。戸籍謄本によれば明治二十年十一月二十七日の誕生だが、これは陸軍士官学校入試受験のとき、年齢の不足をごまかした結果で、実際は父賢吉の謄本に記載されている通り、明治二十一年一月二十七日である。

 両親の仲の冷たさを示すように、雅晴には一人の弟妹もいない。一人息子だった。父のいない夜を、不機嫌な母と囲炉裏の前に座り、黙って箸を動かす本間少年の姿は寂しいものだった。その上家は不必要に広く、光の届かぬ暗がりが幾重にも彼を囲んでいた。

 本間は中学卒業までに、陸軍士官学校志望の決意を固めた。後年、妻・富士子が「どういうわけで軍人になる決心をしたのですか」と訊ねると、本間はテレ笑いを浮かべて「日露戦争の時だったので、勇ましい少年雑誌に感激したのだ」と答えている。

 少年時代から本間はものごとを斜めに見ることをしなかった。正座して正面から眺めるのだった。ひねった考え方もしなかった。

 常に表通りをまっすぐに歩こうとする人で、わき道、裏道を覗いてみようという気持ちさえ起こさない性格だった。

 本間は日露戦争が終わった明治三十八年九月五日の二ヵ月後、十二月に第十九期生として陸軍士官学校に入校した。

 明治三十八年は、日露戦争の火急の場に間に合わせるため、第十七期生が三月に、第十八期生が十一月に卒業した異例の年だった。

 日露戦争は終わったが、本間の第十九期の採用は一一八三名で、急増した第十八期の九六五名をさらに上回る採用人数だった。

 そして、幼年学校出身者と中学出身者の混成である十八期と、幼年学校出身者だけの二十期にはさまれた、本間たちの十九期は中学出身者だけを対象とする採用だった。

 同期生全員が中学卒業者だけというのは、陸軍士官学校の歴史を通して、十九期のただ一回だけのことだった。また十九期の採用人数が多かったことが、その後長く尾を引き、人事行政渋滞の原因となった。

301.本間雅晴陸軍中将(1)「北一輝の思想は劣等感から発している」と決め付けた

2011年12月30日 | 本間雅晴陸軍中将
 当時世界的にも著名で、輝かしい軍歴、栄光のエリート街道を飛ぶように経てきた、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥と対決し、彼をフィリピンで打ちのめし、バターンに敗退させ、コレヒドールから遁走させるという屈辱のどん底に陥れたのが、日本帝国陸軍の本間雅晴陸軍中将である。

 だが、それとは裏腹に、本間雅晴陸軍中将は、その人生と軍歴において、軍人としては異端で数奇、最後は悲劇的な運命をたどった。

 「文人将軍」「腰抜け将軍」と呼ばれる、その異端の萌芽は子供の頃から顕著だった。

 明治三十五年一月三十日、のちの本間雅晴が深い関心を持つことになる日英同盟が、ロンドンで調印された。

 だが、本間雅晴は当時十四歳の中学生で、まんじゅうを頬張りながら小説を読みふけっていて、このニュースには関心がなかった。

 中学に通う二里の道も、本間少年はいつも本を読みながら歩いた。二宮金次郎を真似たのではなく、読書が彼の唯一の楽しみだった。与謝野鉄幹・晶子や徳富蘆花を愛読した。

 読書は味気ない現実から離れることのできる唯一の方法でもあった。当時、本間少年の文学趣味はますますつのり、読書から、とうとう小説を書くまでになった。

 やがて佐渡の新聞の懸賞小説募集に匿名で応募した作品が当選して、紙上に連載された。「結婚」という題名で、失恋をテーマにしたストーリーだった。

 明治三十七年二月八日、日露戦争が始まり、日本軍は十一月三十日旅順を占領した。この報を聞いた佐渡の中学生は、校庭に集まって万歳をし、ちょうちん行列を行った。

 このとき彼らが行列しながら歌った「旅順占領の歌」は本間雅晴の作詞だった。中学卒業の四ヶ月前である。

 本間とほぼ同時代に佐渡から北一輝(2.26事件理論的首謀者・処刑)が出ている。本間は北一輝の弟、北吉(早稲田大学卒・ハーバード大学・大東文化大学教授・大正大学教授・帝国美術学校校長・衆議院議員)とは学友として親しく付き合ったが、兄の北一輝を嫌っていた。

 後年本間は「北一輝の思想は劣等感から発している」と決め付けた。北一輝が妻の神がかり状態の時の言葉を書きとめ、それに意味をつけて人を説くと聞いたときは、日頃の温厚な本間とは思えぬ怒り方をした。二・二六事件の後の話だった。

<本間雅晴陸軍中将プロフィル>

明治二十年十一月二十七日、新潟県佐渡郡畑野町(佐渡島・現佐渡市畑野)生まれ。父・本間賢吉(農業・大地主)、母・マツの長男。大地主の一人息子。
明治二十七年(七歳)四月畑野村の小学校に入学。
明治三十二年(十二歳)四月佐渡中学校入学。
明治三十八年(十八歳)三月佐渡中学卒業。十二月陸軍士官学校(一九期)入校。同期生は今村均、田中静壱、河辺正三、喜多誠一、塚田攻など。
明治四十年(二十歳)五月三十一日陸軍士官学校卒業(一九期)。卒業成績は首席が高野重治(柳下重治・陸大二六・独立混成第三旅団長・中将・勲一等旭日大綬章)で、本間雅晴は次席だった。同期の今村均は三十番位。十二月歩兵少尉、歩兵第一六連隊附。
明治四十三年(二十三歳)十一月歩兵中尉。
大正元年(二十五歳)十二月十三日陸軍大学校(二七期)入校。
大正二年(二十六歳)十一月二十一日鈴木壮六大佐(陸士一・陸大一二・大将・参謀総長・勲一等旭日桐花大綬章)の仲人で田村恰与造中将(陸士旧二首席・ベルリン陸軍大学卒・参謀本部次長)の末女・智子(十九歳)と結婚。
大正四年(二十八歳)十二月十一日陸軍大学校卒業(二七期)。卒業者五十六名中、首席は今村均中尉(陸士一九・大将)で、恩賜は三位の本間雅晴中尉(陸士一九次席・中将)、河辺正三中尉(陸士一九・大将)など五名だった。東條英機大尉(陸士一七・大将・陸軍大臣・首相)は十一位だった。
大正五年(二十九歳)八月参謀本部勤務。
大正六年(三十歳)八月歩兵大尉。参謀本部部員(支那課)。
大正七年(三十一歳)四月英国駐在。同時に英国に派遣された今村均大尉、河辺正三大尉とは親交があった。十一月から翌大正八年八月まで、第一次世界大戦でイギリス軍に従軍。
大正十年(三十四歳)六月陸軍大学校教官。十二月十六日智子夫人と協議離婚。
大正十一年(三十五歳)八月歩兵少佐。十一月インド駐剳(ちゅうさつ)武官。
大正十五年(三十九歳)八月歩兵中佐。十一月八日、王子製紙取締役・高田直屹の長女・富士子(二十三歳)と再婚。
昭和二年(四十歳)一月秩父宮御附武官。
昭和五年(四十三歳)六月三日英国大使館附武官。八月一日歩兵大佐。
昭和七年(四十五歳)八月八日陸軍省新聞班長。
昭和八年(四十六歳)八月一日歩兵第一連隊長。
昭和十年(四十八歳)八月一日陸軍少将。歩兵第三二旅団長。
昭和十一年(四十九歳)十二月一日ヨーロッパ出張。
昭和十二年(五十歳)七月二十一日参謀本部第二部長。
昭和十三年(五十一歳)七月十五日陸軍中将。第二七師団長。
昭和十五年(五十三歳)十二月二日台湾軍司令官。
昭和十六年(五十四歳)十一月六日第一四軍司令官。フィリピン攻略戦を指揮。
昭和十七年(五十五歳)八月参謀本部附を経て八月三十一日予備役編入。予備陸軍中将。フィリピン協会理事長。
昭和二十年(五十八歳)十二月十九日マニラ軍事法廷に召喚され、審理開始。
昭和二十一年二月十一日「バターン死の行進」の責任者として死刑判決。四月三日午前零時五十三分、マニラで銃殺刑。享年五十八歳。墓地は神奈川県川崎市、生田の春秋苑にある。