本間中将はもともと米英と戦争するなぞは馬鹿の骨頂であると胸底に信じていた(本間中将は英国で勉強しその不屈の潜勢力を知っていた)ので、その心証が反抗的な言動に出た。
本間中将は言葉を返して「だが、敵の守備兵力を知らなければ、一定期日内にマニラ攻略の御約束は困難ではないでしょうか」と言った。
杉山参謀総長は「困難は君だけのことではない。お国が困難の最中なのだ」と答えた。
本間中将は「予備兵力はあたえられますか」と訊いた。
すると杉山参謀総長は「そんな余裕はない。君は厭なのか」と言い返した。
本間中将は「任命に厭応はありません。ただ、五十日期限に確信の根拠がないので、も少し確かめたいと思ったまでのことです」と答えた。
そこで、今村中将と山下中将が話を引き取って、とにかく全力を尽くしてやってみようではないか、ということでケリがついた。参謀総長室は、かつて見たことのない暗い空気につつまれた。
参謀長室を出た廊下で、他の二人の将軍は、「本間、いいことを言ってくれた。俺も質そうと思っていたのだ」と肩を叩いた。だが、杉山参謀総長の無上の不快感は、ひとり本間中将の上にそそがれた。
この際の軍司令官拝命は、軍人最高の名誉として歓喜雀踊すべきところを、条件らしいものを云々するとは、生意気な奴だ、という印象が深く杉山総長の心に根を降ろした。
「悲劇の将軍」(今日出海・中公文庫)によると、著者の今日出海氏(東京帝大仏文科卒・明治大学教授・直木賞・小説家・初代文化庁長官・勲一等瑞宝章・文化功労者・「天皇の帽子」)は、昭和十六年十一月、太平洋戦争の始まる一ヶ月前に、徴用令書を貰い、広島から御用船で台湾の台北に連れて行かれた。
高雄から「帝海丸」という船に乗り組み、比島(フィリピン)派遣軍とともに、フィリピンに向かった。十二月八日ラジオで宣戦の詔勅を聞いた。
今氏は広島で着ている服を剥ぎ取られ、軍夫の作業着みたいなものを着せられていた。
大本営はドイツの宣伝中隊を真似て、同じ組織を急造した。その中で、作家としては、今氏と、尾崎士郎(早稲田大学政治科中退・小説家・文化功労者・「人生劇場」)、石坂洋二郎(慶應義塾大学国文科卒・中学教師・小説家・菊池寛賞・「青い山脈」)の三人だけだった。
今氏が比島派遣軍総司令官・本間雅晴中将と始めて会ったのは、この「帝海丸」の甲板だった。本間中将はずんぐり肥って、丈は高く、猫背で、いかにも軍司令官らしい偉丈夫であった。大きな眼で、眉毛が長く、達磨大師の顔そっくりだった。
今氏は船内にじっとしていると運動不足になり、食欲不振に陥った。そこで毎朝毎夕上甲板にのぼり、体操をしたり、お百度を踏むようにぐるぐる歩き回った。
そのとき、本間軍司令官とばったり出会った。今氏は直立不動の姿勢をとって敬礼をした。胸に幼稚園の生徒みたいに名前をはりつけてあるのを見て、本間軍司令官は「君が今日出海君か…」と、すでに姓名を知っているようであった。
さらに本間軍司令官は「こんなひどい格好を誰がさせたか」と言った。
今氏が「さあ、広島で一様に着せられましたが…」と答えた。
すると、本間軍司令官は「比島に着いてもそんな格好をしていたら、笑われるぞ」と言った。
いかに笑われても、軍隊というところは勝手に服装をかえるわけにはいかぬし、比島に着いても、私物の背広を買い整えたが、夕方宿舎に帰ってからでないと、着ることは許されなかった。
「戦争と人間の記録バターン戦」(御田重宝・徳間書店)によると、本間雅晴中将の率いる第一四軍(第四八師団・第一六師団)がフィリピンのルソン島に上陸したのは、昭和十六年十二月二十二日(リンガエン湾)と二十四日(ラモン湾)だった。
フィリピンは、四〇〇年に及ぶスペイン支配の後、一八九八年、米西戦争に勝利したアメリカの植民地になった。以来フィリピンはアメリカの統治の下にあった。
上陸した日本軍を歓迎したのは、アメリカからの独立を求めて戦ってきた民族主義者たちだった。彼らは日本軍に協力し、マッカーサーに敵対した。
当時、ダグラス・マッカーサー大将(昭和十六年十二月十八日付けで大将に昇進)はアメリカ極東軍司令官の職にあり、フィリピン防衛の最高指揮官としてマニラに司令部を置いていた。
本間中将は言葉を返して「だが、敵の守備兵力を知らなければ、一定期日内にマニラ攻略の御約束は困難ではないでしょうか」と言った。
杉山参謀総長は「困難は君だけのことではない。お国が困難の最中なのだ」と答えた。
本間中将は「予備兵力はあたえられますか」と訊いた。
すると杉山参謀総長は「そんな余裕はない。君は厭なのか」と言い返した。
本間中将は「任命に厭応はありません。ただ、五十日期限に確信の根拠がないので、も少し確かめたいと思ったまでのことです」と答えた。
そこで、今村中将と山下中将が話を引き取って、とにかく全力を尽くしてやってみようではないか、ということでケリがついた。参謀総長室は、かつて見たことのない暗い空気につつまれた。
参謀長室を出た廊下で、他の二人の将軍は、「本間、いいことを言ってくれた。俺も質そうと思っていたのだ」と肩を叩いた。だが、杉山参謀総長の無上の不快感は、ひとり本間中将の上にそそがれた。
この際の軍司令官拝命は、軍人最高の名誉として歓喜雀踊すべきところを、条件らしいものを云々するとは、生意気な奴だ、という印象が深く杉山総長の心に根を降ろした。
「悲劇の将軍」(今日出海・中公文庫)によると、著者の今日出海氏(東京帝大仏文科卒・明治大学教授・直木賞・小説家・初代文化庁長官・勲一等瑞宝章・文化功労者・「天皇の帽子」)は、昭和十六年十一月、太平洋戦争の始まる一ヶ月前に、徴用令書を貰い、広島から御用船で台湾の台北に連れて行かれた。
高雄から「帝海丸」という船に乗り組み、比島(フィリピン)派遣軍とともに、フィリピンに向かった。十二月八日ラジオで宣戦の詔勅を聞いた。
今氏は広島で着ている服を剥ぎ取られ、軍夫の作業着みたいなものを着せられていた。
大本営はドイツの宣伝中隊を真似て、同じ組織を急造した。その中で、作家としては、今氏と、尾崎士郎(早稲田大学政治科中退・小説家・文化功労者・「人生劇場」)、石坂洋二郎(慶應義塾大学国文科卒・中学教師・小説家・菊池寛賞・「青い山脈」)の三人だけだった。
今氏が比島派遣軍総司令官・本間雅晴中将と始めて会ったのは、この「帝海丸」の甲板だった。本間中将はずんぐり肥って、丈は高く、猫背で、いかにも軍司令官らしい偉丈夫であった。大きな眼で、眉毛が長く、達磨大師の顔そっくりだった。
今氏は船内にじっとしていると運動不足になり、食欲不振に陥った。そこで毎朝毎夕上甲板にのぼり、体操をしたり、お百度を踏むようにぐるぐる歩き回った。
そのとき、本間軍司令官とばったり出会った。今氏は直立不動の姿勢をとって敬礼をした。胸に幼稚園の生徒みたいに名前をはりつけてあるのを見て、本間軍司令官は「君が今日出海君か…」と、すでに姓名を知っているようであった。
さらに本間軍司令官は「こんなひどい格好を誰がさせたか」と言った。
今氏が「さあ、広島で一様に着せられましたが…」と答えた。
すると、本間軍司令官は「比島に着いてもそんな格好をしていたら、笑われるぞ」と言った。
いかに笑われても、軍隊というところは勝手に服装をかえるわけにはいかぬし、比島に着いても、私物の背広を買い整えたが、夕方宿舎に帰ってからでないと、着ることは許されなかった。
「戦争と人間の記録バターン戦」(御田重宝・徳間書店)によると、本間雅晴中将の率いる第一四軍(第四八師団・第一六師団)がフィリピンのルソン島に上陸したのは、昭和十六年十二月二十二日(リンガエン湾)と二十四日(ラモン湾)だった。
フィリピンは、四〇〇年に及ぶスペイン支配の後、一八九八年、米西戦争に勝利したアメリカの植民地になった。以来フィリピンはアメリカの統治の下にあった。
上陸した日本軍を歓迎したのは、アメリカからの独立を求めて戦ってきた民族主義者たちだった。彼らは日本軍に協力し、マッカーサーに敵対した。
当時、ダグラス・マッカーサー大将(昭和十六年十二月十八日付けで大将に昇進)はアメリカ極東軍司令官の職にあり、フィリピン防衛の最高指揮官としてマニラに司令部を置いていた。