陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

190.東條英機陸軍大将(10)わが輩は、東條の靴の紐を結ぶために代議士になったんじゃない

2009年11月13日 | 東條英機陸軍大将
 富永人事局長は「昨夜は少しひどすぎたなあ、大臣は作戦部長の気持ちは分かるが、あれでは困る、と言っていた。軍法会議などということには、俺は反対しておいたが、いずれにしても転出してもらわねばなるまい」と言った。

 田中作戦部長は「ホー、軍法会議、結構だ、大いに争おう」と怒って答えたが、「転出のことは昨夜総長にも解職方をお願いしておいた。だが、この際、軍職を退かしてもらおうと考えたのだが」と告げた。

 富永人事局長は「それもよかろうが、将官の自発的引退は、病気でない限り、勅許がないというのが慣例だ」と答えた。

 田中作戦部長は「それなら病気診断を、軍医に書いてもらおう」と言った。

 すると富永人事局長は「だが、君の体で、病気といえようか、仮に引退しても、すぐ召集ということになる」と答えて、「君のあとには、関東軍から綾部橘樹少将(陸士二七・陸大三六首席)というのが、総長の希望だ」と続けた。

 田中作戦部長は、杉山参謀総長から、重謹慎十五日の処分を言い渡され、十二月七日付で南方総軍司令部付に発令された。

 その後、田中中将は、牟田口廉也中将の後任として、菊兵団(第十八師団)の師団長になることが予定されていると富永人事局長が教えてくれた。

 田中中将は昭和十八年三月十八日、第十八師団長補職の命令を受けた。この三月十八日は田中中将の五十歳の誕生日だった。十八年と十八日と十八師団、よし俺の運命はここだったのかと、田中中将は確信を固めた。

 田中中将はその後、第十八師団長として勇敢に戦い、ビルマ方面軍参謀長に就任。その後内地の軍司令官要員になり、内地へ飛行機で帰還中に墜落、重症でサイゴン陸軍病院入院中に終戦。戦後、昭和五十一年九月二十四日に死去した。八十三歳だった。

 「東条英機暗殺計画」(森川哲郎・徳間書店)によると、昭和十七年四月三十日の総選挙は「大東亜戦争完遂」のため、政府・軍部に全面的に協力する翼賛議会の確立を目的としていた。

 東條はドイツのナチス流の一国一党ばりに日本の議会を翼賛議員一色にするつもりだった。

 代議士・中野正剛(五十六歳)が率いる東方会に対しても誘いをかけたが、中野は「このようなことは憲法の本義に反する」と語気鋭く拒絶した。

 選挙が始まると翼賛議員の看板を掲げない候補者に対する陰険、卑劣な妨害や選挙干渉をおこなわれた。史上悪名高い明治二十五年、時の内相・品川弥二郎が行った選挙大干渉と並ぶものだった。

 特に東方会選出の候補者に対する弾圧は露骨だった。その結果は前代議士十二名を含む四十七名の全候補者のうち、当選したのはわずかに六名に過ぎなかった。

 これに対し翼賛議員は、衆議院の定員百六十六名と同数の候補者を立てた。政府は彼らにあらゆる援助を行った。

 当時、陸軍省兵務局長だった田中隆吉少将は、戦後になって「当時翼賛候補者に対しては一人当たり五千円を軍事機密費から支給した」と暴露している。

 「生きている右翼」(永松浅造・一ツ橋書店)によると、当時、選挙が終わり、議会が召集された日に、著者の永松浅造(政治記者)が、翼賛議員の控え室へ立ち寄っていると、そこへ中野正剛がびっこを引きながら入ってきた。

 中野が憲政会にいたとき仲の良かった議員が「中野君、君は欲がないね。推薦議員(翼賛議員)で出たら、東方会からも二、三十名は大丈夫だったかもしれないよ。今度の議会は戦争が続く限り、解散はないし。惜しいことをしたもんだ」と言った。

 すると中野は「わが輩は、東條の靴の紐を結ぶために代議士になったんじゃない」と、吐き出すように言って、さっさと出て行ったという。

 昭和十七年十一月十日、代議士・中野正剛は母校の早稲田大学大隈講堂で学生を前に「天下一人を以って興る」の演題で東條首相を批判する大演説を行った。

 中野正剛は福岡県福岡市出身で明治四十二年早稲田大学政治経済学科を卒業。緒方竹虎と出会い意気投合した。卒業後、東京日日新聞を経て朝日新聞に入社した。大正二年三宅雪嶺の娘多美子と結婚。

 朝日新聞を退職後、大正六年衆議院議員に立候補するも落選。だが大正九年の総選挙で当選、以後八回当選する。以後各政党を渡り歩いた。

 大正十五年、中野正剛はびっこだった左足の手術をした結果、医師が血管の処置を誤り、左足を大腿下部から切断という結果になった。以来中野の左足は義足となり、常に竹のステッキをついて歩くようになった。

 昭和十七年十二月二十一日、中野正剛は、今度は日比谷公会堂の壇上に立ち、延々四時間もの東條批判の大演説を行った。

189.東條英機陸軍大将(9)田中作戦部長は「馬鹿者ども!」と叫んで、東條陸軍大臣らを罵倒した

2009年11月06日 | 東條英機陸軍大将
 東條陸軍大臣は船舶増徴について「政府の考えは、先程次長に示した通り。それ以上の要求に応ずることはできない」と言った。

 田中作戦部長は「いや、政府とおっしゃるが、参謀本部はこの問題を政府と折衝しているのではありません。陸軍省と交渉しているのです。総理でない陸軍大臣としての東條閣下の良識に訴えているのです」と言った。

 すると東條陸軍大臣は「陸軍省も政府も意見は、同じである」と答えた。

 田中作戦部長は「そうはいきません。陸軍大臣としては、総理とは別個の軍政的立場がある筈です。第一、統帥部長を交えた連絡会議が、なぜ開かれなかったのです。その配慮は、陸軍省でやるのが恒例です」と言った。

 さらに「大体船舶の割り当ては、閣議だけでは決定できない、統帥部長を加えた連絡会議で、決定することに決まっているのです。それ程船舶問題が重視されているのです。然るに次長に申し渡した閣下の数字は、連絡会議にかかっていない。なぜこのような異例を強行されるのです」と続けて述べた。

 ところが、東條陸軍大臣は「参謀総長はよく承知している」と言った。

 田中作戦部長はこれを聞いて「なんだ、杉山元参謀総長(陸士一二・陸大二二)も譲歩していたのか。俺はそれならとんだ道化役を演じているのではないか」と思ったが、にわかに信じられなかった。

 そこで田中作戦部長は「それは違いましょう。お示しの船舶ではガ島作戦は遂行できないと総長も認めているのです。今夕もそのことで、総長の意見をきいてきたのです」と反論した。

 すると東條陸軍大臣は「船舶不足というが、これ以上出しては、政府としては、物資動員の保証ができなくなる。戦争指導全体が、破綻するかも知れん。自分は陸軍大臣として、ガ島は恢復の作戦に同意したにはしたが、船舶量にも制限を付けておいたはずだ。現在のように予定外に、多くの船が消耗しては、作戦上の要求だとて、到底賄いきれるものではない」と答えた。

 これに対し田中作戦部長は「なるほど船舶の消耗については申し訳はない。しかしなぜこんなに消耗したか、また、今後の見透しがどうなるか、などについては、既に陸軍省へは、詳細に説明しておいたのですから、よくご承知のことと思います。今の閣下のお言葉には納得できません。次官閣下からか、ご報告をお受けにならなかったのですか」と反論した。田中作戦部長はかなり激してきた。

 東條陸軍大臣は「いや、そんなことは知らん」と答えた。

 田中作戦部長は「それはおかしい。次官閣下には、その都度よく説明してあるのです。次官閣下そうじゃないですか」と木村次官に矛先を向けた。

 木村次官は沈黙を守った。その表情は無責任な太々しさだった。

 田中作戦部長は、「陸軍大臣はご承知無いという。それは兼摂大臣だから無理もないが、次官が全責任を負うか、そうでないにしても重大なことはよく大臣に報告しておいてくれなければ駄目じゃないか。それで戦時の陸軍省をあずかり陸軍次官ですか」と言いながら、こんなことでは戦争はとってもやっていけないぞ、という激情が奔騰してきた。

 ついに田中作戦部長は「馬鹿者ども!」と叫んで、東條陸軍大臣らを罵倒した。

 すると東條陸軍大臣は、「何をいいますか」と、スックと立ち上がって、「本職の部下に対して、彼是批判することは許さん」と低い声ながら、叱咤するように言った。

 田中作戦部長も立ち上がって、「批判は自由です」と、応酬した。売り言葉に買い言葉の様相だった。

 この時、「言葉がすぎるぞ」と、たしなめるように田中作戦部長と士官学校同期の富永人事局長が言った。

 木村次官も立ち上がり、「もっと冷静になれ」と平素に似合わぬ大声で叫んだ。

 田中作戦部長は答えた。「いや私は冷静です」。

 やがて三人とも、自然に着席した。だが、座は全く白けてしまった。

 田中作戦部長は、最後だと思い、もう一度最初の作戦、戦略の問題を取り上げて東條陸軍大臣に迫った。だが東條陸軍大臣は「いや再考の余地はない」と拒否した。

 田中作戦部長は「それなら再研究だけでも命じてください」と言った。東條陸軍大臣は「それ程に言うなら、再研究だけを命じよう」と答えた。

 田中作戦部長は先ほど来の無礼を詫びて、論争を打ち切った。「船はとれるぞ、だが俺の参謀本部勤めもこれで終わったな」と思いながら、参謀総長の官邸に車を走らせた。

 翌日の十二月七日早朝、参謀本部作戦部長室に、富永人事局長が田中作戦部長を訪ねてきた。

 富永人事局長は、東條陸軍大臣の意向を伝えに来たのだった。田中作戦部長と陸軍士官学校同期の富永人事局長は、腹を割って話し始めた。

188.東條英機陸軍大将(8)佐藤軍務局長は「殴ったな!」と、田中作戦部長を殴り返した

2009年10月30日 | 東條英機陸軍大将
 特に、軍用船舶の割当は、陸海軍両統帥部長を含めた連絡会議で決定するというのが、開戦以来の厳重な申し合わせだった。それが無視されて、ただ閣議一存で、陸軍統帥部の要望が拒否されたことには断じて承服できないと田中作戦部長は申し入れた。

 すると鈴木総裁は「いや、あれは決定ではない。閣議の一案として、参謀次長に内報したにすぎない。もちろん連絡会議にかける」と釈明した。

 田中作戦部長は「企画院総裁として、陸軍統帥部の要望を容れるつもりかどうか」と問うたが、「考慮しよう」という言葉のみだった。

 これで大体の内閣の態度が分かったので、田中作戦部長は田辺次長と協議して、とりあえず佐藤賢了軍務局長(陸士二九・陸大三七)の来訪を求めて事情を質すことにした。

 昭和十七年十二月五日午後八時頃、佐藤軍務局長が参謀本部に来て閣議の内容を報告した。報告を受けた田中作戦部長は「何、十八万トンの解傭を陸軍に要求するとは、統帥干犯だ!」と怒鳴りつけた。

 東條首相も、佐藤軍務局長ら陸軍省も、ガダルカナル島から撤退することを主張しているので、輸送のための陸軍船舶を増徴することには反対だったのだ。

 田中作戦部長と佐藤軍務局長は、その場で議論になり、興奮した田中作戦部長が佐藤軍務局長を、いきなり殴った。

 すると佐藤軍務局長は「殴ったな!」と、田中作戦部長を殴り返した。田中作戦部長は士官学校の二期先輩だった。

 その場にいた田辺次長が「冷静になって、話し合うのだ」と中に割って入り、仲裁したが、「あなたは黙っておれ」と押し返され、田辺次長の参謀飾緒がちぎれ飛んだ。

 ほかの部員が田中作戦部長と佐藤軍務局長の二人を引き離したので、けんかはようやく収まった。

 このあと、田中作戦部長は、官邸に木村兵太郎陸軍次官(陸士二〇・陸大二八)を訪ねて、ガ島作戦の事情を説明して、船舶の増徴を懇請したが、全く暖簾に腕押しだった。

 田中作戦部長はこの夜遅く帰宅したが、痛憤の一夜を明かした。「こんな無責任な、祖国の運命、戦争の行く末に鈍感な当局には、一撃を加えておく外ない」と決意した。

 十二月六日夕刻、田中作戦部長のところへ、戦争指導課の種村佐孝参謀(陸士三七・陸大四七)が来て「今夜東條陸軍大臣から統帥部に対して、船舶増徴について申し渡しをするとのことです。ついてはその前に参謀本部で部長会議を開きますのでご出席ください」と告げた。

 田中作戦部長は種村参謀と参謀本部へ向う車の中で「そうか、東條総理は、いよいよ連絡会議にかけるという協定を無視して、閣議決定の船舶配分案を、押し付けるつもりだな。では昨夜の決定どおりにやる外ない」と思った。

 市ヶ谷の参謀本部から、田中作戦部長は田辺次長と総理官邸に向った。陸軍省からは、木村次官、佐藤軍務局長、富永恭次人事局長(陸士二五・陸大三五)が来ていた。

 東條陸軍大臣が会見するというので、田辺次長が二階に上がっていったが、「作戦部長はしばらく下で待っていてくれ」とのことだった。

 それから三十分後、二階から降りてきた田辺次長の姿は、全く悄然としていた。田中作戦部長が「どうしました」と訊くと「統帥部の要求とはかけ離れている」とのことだった。

 田中作戦部長が「抗議しましたか」と言うと、田辺次長は「いや、お話にもならんから黙って下がってきた」と答えた。

 田中作戦部長は「それじゃ困るではないですか、ガ島をどうするのです。よし、私が話をつけてきましょう」と言って、階段を昇っていった。田辺次長は困惑の色を浮かべたが、田中作戦部長の後に続いて来た。

 田中作戦部長は、ノックの応答も待たずにドアを開けた。室内の愉快げな高笑いが、急に途絶えたように感じられた。「何が愉快なのか、桜かざした長袖者が」と瞬間、癪に障った。

 室内には東條大臣、木村次官、佐藤軍務局長、富永人事局長が、長方形の大テーブルを囲んでいた。さっき田辺次長に申し渡した時もこの配置だったろう。

 統帥部を抑えつけた満足を、爆笑で笑っていたのだろうと田中作戦部長は苦々しく思った。

 突然入ってきた者に、一座は急にキットなった様子だったが、中作戦部長は、かまわず、東條大臣のすぐそばの席をとった。それは不敬な態度と、感じさせるものだった。

 田中作戦部長は統帥部の作戦上の要望と現地の窮状から、船舶増徴について再考されたしと懇請を続けた。だが東條陸軍大臣は冷然として物資動員上の理由から、一々拒否し続けた。

 田辺次長は末座を占めていたが、一言も発しなかった。

187.東條英機陸軍大将(7) 東條は先の見えない男だし、到底、宰相の器ではない

2009年10月23日 | 東條英機陸軍大将
 昭和十七年九月五日、ボルネオ守備軍司令官・前田利為中将(陸士一七・陸大二三恩賜)は、飛行機事故で死去し、陸軍大将に昇進した。

 前田大将は、旧加賀藩主、前田本家十六代目当主で侯爵だった。東條首相とは陸士同期だったが、在職中は東條批判派として東條からは敬遠されていた。

 「華族~明治百年の側面史」(講談社)によると、前田大将の長女、酒井美意子氏が、前田大将は東條に批判的であったと述べている。

 昭和十二年、前田中将は第八師団長で満州に出征していた。当時、関東軍の作戦計画が前田中将の考えと違うので、たびたび意見具申していた。

 関東軍は結局、前田中将の作戦計画に従ったが、当時の関東軍参謀長は東條英機中将だった。東條中将と前田中将は、机をたたいて激論を交わしたといわれている。

 前田中将が満州から帰り、東條が陸軍次官になると、昭和十四年一月三十一日、前田中将は予備役に編入された。

 前田中将は三国同盟に絶対反対の立場をとっていた。また、無謀な戦争は極力回避すべきと主張していた。前田中将は「東條は先の見えない男だし、到底、宰相の器ではない。あれでは国をあやまる」と言っていたという。

 酒井美意子氏によると、前田中将は昭和十七年九月五日、軍用機でラブアン島に作戦命令で飛行中に、ビンヅル沖の海に撃墜されたとのことだった。

 現地で軍葬が執り行われる直前に、「戦死という字を使わず、陣歿とせよ」という指令が内地からきたので、弔辞を書きかえたりして大騒ぎをしたそうである。飛行機事故であるが、墜落原因ははっきりせず、事故死と推定された。だが、後日、「戦死」と訂正発表された。

 一説には東條に批判的だったため、招集され、ボルネオ軍守備隊司令官として南方の激戦地に飛ばされたといわれている。だが、ボルネオ島はそれほど激戦地とはいえなかった。

 「作戦部長、東條ヲ罵倒ス」(田中新一・芙蓉書房)の著者、田中新一元陸軍中将(陸士二五・陸大三五)は、太平洋戦争開戦時、陸軍参謀本部第一(作戦)部長であった。田中中将は、昭和十五年十月から、昭和十七年十二月まで、作戦部長として中枢で戦争指導に当たった。

 太平洋戦争は昭和十六年十二月八日、日本の真珠湾攻撃で勃発した。その八ヵ月後の昭和十七年八月七日に米軍がガダルカナル島上陸して以来、ガダルカナル島の争奪をめぐり日米が死力を尽くして闘ってきた。

 日本の太平洋戦略において、ガ島の放棄は許されない状況で、日本軍は川口支隊、第二師団、第三十八師団と次々と兵力を投入した。

 第一次~三次ソロモン海戦、南太平洋海戦、ルンガ沖夜戦など海空の兵力も集中し、ガ島奪回に躍起になった。だが、戦局は好転せず、日々消耗戦の様相で、劣勢となっていった。輸送船舶の消耗もひどかった。

 昭和十七年十一月から十二月の初めにかけて、ガ島への船舶増徴の問題をめぐって、陸軍省と参謀本部が正面切って対決した。

 ガ島作戦の完遂こそが、太平洋作戦の勝利のきっかけであるという根本的見解を、参謀本部の田中新一作戦部長は東條陸軍大臣に対して説明、諒解をとりつけてあった。

 元々、ガ島への輸送用船舶は二十万トンと定められていたが、参謀本部は三十七万トンの増徴を陸軍省に要求していた。だが、政府はガ島方面でのこれまでの船舶消耗の実態を理由に、これに消極的だった。

 十二月五日の閣議で、ガ島方面への陸軍船舶について参謀本部の要望に応じられないとの閣議決定が行われた。当時の首相は陸軍大臣を兼務していた東條英機大将(陸士一七・陸大二七)だった。

 同日、企画院総裁・鈴木貞一中将(陸士二二・陸大二九)は、参謀本部次長・田辺盛武中将(陸士二二・陸大三〇)に電話で「会議の結果、陸軍統帥部の要望には応じられないことになった」と伝え、詳細について説明した。

 温厚な田辺中将は、強いて鈴木総裁と抗争することをしなかった。両中将が士官学校同期生という事情もあったのかもしれない。

 だが田中作戦部長は、急迫に急迫を告げているガ島の危機を思うと黙っていられなかった。田中作戦部長は「閣議が独断で、作戦の要求を無視する」ことについて鈴木総裁をなじった。

186.東條英機陸軍大将(6)あの東條のような大馬鹿者の言うことを聞くから、大きな間違いをする

2009年10月16日 | 東條英機陸軍大将
 東條英機の父、東條英教は陸軍大学校一期生でメッケルに師事し、陸大を首席で卒業、明治天皇から恩賜の軍刀一振りを賜った。ドイツにも留学し、作戦統帥の権威として頭脳明晰な英教は、当時、将来は陸軍大臣、陸軍大将と栄進するものと見られていた。

 だが、日露戦争で東條英教は旅団長として指揮に問題がありと烙印をおされた。また当時、長州閥が陸軍を支配していたため出世を妨げられ(山縣有朋ににらまれた)、日露戦争後、中将に昇進の上、予備役にされた。

 このような父の状況から、東条英機は、長州閥を敵視し、陸軍大学校に長州出身者を入学させないなど長州閥の解体に尽力した。

 昭和十六年十一月、寺内寿一陸軍大将(陸士一一・陸大二一)は、南方軍総司令官に就任した。寺内寿一は寺内正毅元帥(第十八代内閣総理大臣)の長男である。

 寺内正毅は長州出身で、東条英機の父英教が陸軍少将で参謀本部第四部長のとき、参謀次長だった寺内正毅により旅団長に左遷された。また、英教を予備役にしたとも言われている。

 このようなことから、寺内寿一大将は、東條首相にとっては父英教の仇敵の子供でもあり、長州出身であるから、当然敵視していたといわれる。

 一方、寺内寿一大将も、東條首相を愚物と見て頭から軽視していた。

 だが、当時寺内寿一大将は、閑院、梨本両元帥殿下につぐ陸軍最高の長老で、東條首相も露骨な排斥はできなかった。

 だが、太平洋開戦は、その格好の機会を与えた。東條首相は陸相も兼ねているので、寺内大将を南方軍総司令官として、遠く南冥の地に追いやったのである。

 寺内大将はシンガポール、サイゴンから一歩も動けない立場に置かれた。

 後に、インド独立軍のチャンドラ・ボースが、日本と共にインドへ進軍するために、日本軍の数と装備について、寺内大将のところへ調査に来たことがあった。

 ところが、そのあまりの兵力の乏しさ、装備のあまりの劣悪さに、チャンドラ・ボースは驚愕して顔色を変えて嘆いた。寺内大将はそのとき、次の様に言って笑ったと言われている。

 「フィリピンのラウレル大統領にしろ、君にしろ、あの東條のような大馬鹿者の言うことを聞くから、大きな間違いをするのだ」

 とにかく南方軍総司令官・寺内元帥(昭和十八年六月元帥に昇進)と東條首相との間柄は極めて不良だった。

 「東條英機」(上法快男編・芙蓉書房)によると、東條首相が南方視察のとき、陸軍の最長老である寺内元帥に対して不遜の振る舞いがあり、これが不和の原因であると伝えられていた。

 また、東條参謀総長が、奉勅命令により南方軍司令部の位置をマニラに指定したことが、この不和に輪をかけた。

 当時、戦略上は、司令部の位置はマニラに釘付けにする必要はなく、マニラには戦闘司令所を移せば事足りたのである。これで寺内元帥は激怒したと言われている。

 西尾寿造(としぞう)大将(陸士一四次席・陸大二二次席)は、参謀次長、教育総監を歴任し、昭和十六年には支那派遣軍総司令官として凱旋した当時高名な軍人だった。

 だが、西尾大将は、その歯に衣を着せず、ズバズバと物を言う性格から、東條のやり方には常に厳しい批判を行っていた人物で、東條にとっては目の上のたんこぶであった。

 昭和十六年三月一日に西尾大将は軍事参議官に就任した。その後、昭和十八年四月頃、西尾大将は関西を視察した。そのとき、記者団の質問に答えて、次の様に言った。

 「俺は何も話すことはないよ。話が聞きたかったら、あの男に聞いたらどうだ。よく関西に出て来ては、ステッキの先でゴミ箱をあさるような男がいるだろう、あいつに聞いたらいいじゃないか」

 当時、各新聞の記者が、東條首相の朝の散歩についてまわっては「首相電撃的視察」などの提灯記事を書きたてたことに対し、西尾大将は痛烈な皮肉を見舞ったのだった。

 これが、憲兵隊を通して東條首相の耳に入った。一ヵ月後、西尾大将の前に陸軍次官・富永恭次中将(陸士二五・陸大三五)が現れた。

 富永中将は、突然予想もしなかった「待命」の内命を西尾大将にもたらした。その翌日、西尾大将は予備役編入の辞令を受け取った。

 西尾大将は当時、元帥の最有力候補だっただけに、予備役編入の知らせを聞いた国民は驚いた。だが、西尾大将はその後、昭和十九年七月二十五日、東京都長官に就任した。

185.東條英機陸軍大将(5) 石原閣下がお前の友達? 二等兵のお前の?

2009年10月09日 | 東條英機陸軍大将
 毛呂清輝は突然召集令状を受け、二等兵として京都の第十六師団に入隊させられた。当時、毛呂は三十歳だったが、二等兵として班長ら上官から、徹底的にしごかれる運命にあった。

 だが、毛呂は、あることを思いついた。それは石原莞爾が京都師団の前師団長ということだった。毛呂は石原と会ったことがあった。当時、石原は東條により予備役にされていた。

 毛呂は、その石原に度々手紙を出した。石原は手紙を読んで、毛呂が召集されたと聞いて驚いたが、すばやく毛呂の意のあるところを察して、月に三、四回のわりで、毛呂をまるで友人扱いにした毛筆の手紙を毛呂に出した。

 すでに現役をひいたとはいえ、前師団長でもあり、高名な石原莞爾中将から、営内の二等兵にさかんに手紙が来る。驚いたのは中隊長をはじめ隊の幹部だった。

 不思議に思った中隊長は班長を呼んで調べさせた。班長は毛呂を呼んで「毛呂、お前は石原閣下とどういう関係か」「はい、石原閣下は、私の友人であります」。

 班長はもう一度聞きなおした。「石原閣下がお前の友達? 二等兵のお前の?」

 班長は、すっかり仰天してしまった。以来、班長や幹部の毛呂に対する態度は一変した。二等兵などは目にしたこともない、ご馳走を山盛り、班長が食べさせてくれた。

 石原中将は、東條とは、最後まで喧嘩したが、兵隊はいつも可愛がっていた。その石原からの手紙は、絶大な威力を発揮したのである。

 昭和十七年二月十五日、山下奉文陸軍中将(陸士一八・陸大二八恩賜)は第二十五軍司令官としてマレー作戦を指揮し、シンガポールを陥落させた。

 「東条英機暗殺計画」(森川哲郎・徳間書店)によると、その戦勝の功績がある輝く猛将、山下中将は昭和十七年七月一日付で北満州の第一方面軍司令官に飛ばされた。

 山下中将は、南方から北満に赴任する途中、当然、東京に立ち寄り、天皇に対してシンガポール攻略の報告をしたかった。そのため、御進講の用意までしていた。

 だが、東條首相はそれも許さず、任地への直行を命令した。山下は南方軍総司令官・寺内寿一大将(陸士一一・陸大二一)と、中央へも交渉したが、すでに決定した方針を盾にして中央はそれを拒否した。

 山下中将は、再びフィリピンの第十四軍司令官に任命される昭和十九年九月二十六日まで、一歩も内地に足を踏み入れることを許されなかった。

 昭和天皇が山下中将の拝謁を好まなかった(二・二六事件に関与したため)とされているが、東條首相の指示であったとも言われている。

 以前、シンガポールから山下中将は東京の親しい友人に手紙を書いた。その文中に少し東條批判を書いていた。それは些細なものだった。

 だが、この手紙が、どういうわけか、東條首相の手に渡っていた。東條はこのことから山下中将にますます不快感を抱くようになった。東條の狭量さがそうさせた。

 もともと東條は山下に脅威を感じていた。陸士も陸大も東條の一期後輩だが、山下は青年将校に人気があり、さらに多数の幕僚からも支持を受けており、将来は陸軍大臣の椅子に座っても当然の人物だった。

 だが、「山下は自分になびく男ではない」と東條は思っていた。山下は対米戦争反対論者だった。性格的にも山下中将は細事にとらわれない、豪放な男で、東條とは相容れないものがあった。山下は東條の出世上のライバルであった。

 そこで、昭和十五年七月二十二日に東條が第二次近衛内閣の陸軍大臣に就任すると、中央の航空総監であった山下中将をその年の十二月に、ドイツ派遣航空視察団長としてヨーロッパに追い出した。

 山下がヨーロッパに行っている間に、東條は全陸軍に手を伸ばし、掌握して地盤を固めた。

 さらに、山下中将が、ドイツから帰国すると、またもや、東條は山下中将を、マレー方面最高指揮官の任につかせ、開戦と同時に難攻不落といわれた、困難なシンガポール要塞攻略作戦を担当させた。

 だが、マレー作戦は大成功で、シンガポールも短期間で陥落した。こうなると山下中将の名前は、世界にとどろき、日本では三歳の童子も山下を知るに至った。

 こうして山下中将の人気は熱狂的なものになった。するとたちまち台頭したのが「山下内閣」の構想である。前線にも、東京にも、この噂は広がった。

 東條首相は、このような山下中将を極度に恐れていた。だから、東京に帰しては危ういと見て、北満に追いやったのである。山下中将はこのときつぶやいたという。「物取り強盗ではあるまいし、おれを昼間歩かしてはくれぬ」

184.東條英機陸軍大将(4)東條の失敗を期待して「それみたことか」と待ちかまえていた

2009年10月02日 | 東條英機陸軍大将
 昭和十六年十月十七日の夕刻、東條英機に首相の大命が降下した。丸別冊「日本陸軍の栄光と最後」(潮書房)の中の「人間東條英機」(亀井宏)によると、当時、すでに誰が首相の座にすわっても戦争をくいとめることは不可能に近い状態になっていた。

 翌日の十月十八日、閣員名簿を奉呈、午後四時親任式を終え、東條内閣は成立した。東條はこのとき五十八歳。陸軍中将であったが、組閣と同時に大将に昇進、とくに現役に列せられて陸相ならびに内相を兼任した。

 しかし、首相の座は東條自身が望んだものではなかった。宮中に呼ばれて、実際に大命の降下があるまで、全く予想もしていなかったらしく、あまりの意外さに東條は退出後も半ば茫然自失、顔面蒼白となっていたと、佐藤賢了ら当時の側近が語っていた。

 東條の首相を奏請したのは、皇族内閣に反対した木戸幸一内務大臣だった。その理由は、対米戦に強硬な陸軍を押さえられるのは東條しかいないと思ったのである。また、東條の天皇に対する忠誠心もその理由の一つだった。

 だが、東條内閣は、誰からも心底祝福されて成立したのではない。嫌っていたのは近衛文麿だけではなかった。たとえば、宇垣一成の「宇垣日記」には、東條の失敗を期待して「それみたことか」と待ちかまえていた連中が、同じ陸軍の上層部に多くいたことが分かる。

 当時「忠臣東條」は有名であった。しばしば内奏をし、閣議や統帥部の会議等を宮中で執り行った。そして、上奏の帰り車中で秘書官らに「今日もお上にやりこめられちゃった」などと言い、「私たちはいくら努力しても人格にとどまるが、お上はご生来神格でいられる」と述懐したという。

 木戸内府の思惑通り、事実、東條首相は対米交渉に望みをつないでいた。それは陸相時代とは違った顔であった。「参謀本部日誌」の中に、「東條の変節漢」などという文章が記録されている。

 昭和十六年十一月一日、内閣と大本営(陸海軍統帥部)との連絡会議において大激論がかわされた。激論は二日午前一時半まで、十七時間にわたって行われた。

 その席上次の様な応酬があった。

 参謀次長・塚田攻中将「統帥部の掛け値なしの要求をいいます。本日この席で『開戦を直ちに決す。戦争発起を十二月初頭とす』の二つを決めてもらいたい。外交はやってもよいが、作戦準備は妨害するな。外交の期日を十一月十三日と限定するよう重ねて要求する」

 外相・東郷重徳「十一月十三日は、あまりにひどい。海軍は先ほど十一月二十日といった」

 首相・東條英機大将「十二月一日にはならぬか。一日でも長く外交をやりたい」

 参謀次長・塚田攻中将「絶対に不可。十一月三十日以上は絶対にいかん。いかん」

 海相・嶋田繁太郎大将「塚田君、十一月三十日は何時までだ。夜十二時まではいいだろう」

 参謀次長・塚田攻中将「夜十二時まではよろしい」

 以上のようなやりとりが行われた。総理大臣が参謀次長に叱責され、大臣が伺いを立てている。当時、いかに統帥権というものの力が強かったかが分かる。

 十一月二日午後五時、杉山、永野陸海軍両統帥部長と列立した東條英機首相は、涙を流しながら、連絡会議における討議の経過および結論を天皇に上奏した。

 このとき、永野修身軍令部総長は、天皇から「海軍はこの戦争を通じての損害をどのくらいと見積もっているのか」と、問われて、

 「戦艦一隻、重巡洋艦二隻、軽巡洋艦四隻、飛行機千八百機ぐらいかと考えます」などと答えている。

 それにしても、その物的損害見込みの過小さには驚かされる。彼らが当初、いかに対米戦を小規模に考えていたか分かる。

 東亜連盟協会は反東條の旗を高く掲げた思想団体だった。石原莞爾中将が唱える東亜連盟論にもとづいて、木村武雄代議士らが中心になって結成した団体だった。

 また、東亜連盟協会と同じく、皇道翼賛青年連盟も、東條首相の独裁と戦争指導に対して反旗を翻していた。その中心人物は毛呂清輝であり、東條打倒工作を進めていた。

 ところが毛呂たちは、突然憲兵隊に検挙された。だが、証拠がなく、彼らは釈放された。ところが東條首相は彼らを、そのままにはしておかなかった。

183.東條英機陸軍大将(3)辻中佐は「断じて東條を刺し殺す」と言った

2009年09月25日 | 東條英機陸軍大将
 多田次長と板垣陸相は仙台幼年学校の同窓であり、多田次長のほうが一年先輩で、少年時代から極めて親しい間柄だった。

 このためか、従来行われていた三長官会議は有名無実となった。さらに、次官、次長および本部長三者会談の上、それぞれ長官に報告して決裁されることになっていた従来のやり方も、これまた有名無実となってしまった。

 即ち、多田次長は東條次官を抜きにして、直接陸相官邸に板垣大臣を訪ね、二人で相談、話し合いをすることが多くなったのである。

 このため、東條陸軍次官が浮き上がってしまった。その上、統帥部が政治家との交流ができることは、政治家が統帥部に容喙できるルートを作ることであり、邪道であると、東條次官は強く心配していた。

 当時、日独伊三国協定が強化されたため、軍の発言権が強くなっていたので、次第にそれが事実となって表面に出てきた。

 そこで、航空士官学校卒業式参列の後、東條次官は辞表を懐にして強硬に板垣陸相に意見具申した。ところが、その結果、次長と次官ともに異動することになった。

 昭和十三年十二月、多田次長は第三軍司令官に、東條次官は初代航空総監に転じた。そして次官には山脇正隆中将(陸士一八・陸大二六恩賜)が新任された。

 その後、公の席で、東條、山脇両将軍が同席する機会がしばしばあったが、東條航空総監は、専属の副官がいるのに、「おい、赤松~」と次官秘書官である赤松大佐に用事を命じたという。そんなとき、温厚な、山脇次官は、黙って笑いながら、赤松秘書官の慌てているのを眺めていたという。

 後に東條が陸軍大臣になると、昭和十六年七月七日、多田駿中将は大将に昇進し、軍事参議官に補せられ、待命、九月には予備役に編入された。

 以後、多田大将は農業生活に入ったが、昭和二十年十二月二日、A級戦犯に指定された。だが昭和二十三年十二月十六日胃癌で死去した。

 「東條英機」(上法快男編・芙蓉書房)によると、この多田中将を予備役にしたのは東條であった。軍事参議官に補せられたため、北支那方面軍司令官の職を解かれ、帰京する時、多田中将は東京に直行せず、京都にいる石原莞爾に会って帰ると言い出した。

 随行していた方面軍参謀副長・有末精三大佐(陸士二九恩賜・陸大三六恩賜)は多田中将が軍状奏上前に、問題の人である石原中将に会うのはまずいと思って、止めたが、多田中将はきかなかった。

 有末大佐は多田、石原二人だけでの会談では、新聞記者に何をかかれるかわからないと思い、有末大佐も同席した。果たして会見場には新聞記者が群がっていた。

 有末大佐は会見後、記者会見を行い、あたりさわりのない話を交えて応対して記者達を撃退して乗り切った。

 多田中将は帰京して天皇に軍状奏上を終えた後、陸軍省に向った。陸軍省では局長以上が集合して報告会が開かれたが、その席上、多田中将は唯の一言も報告をしなかった。有末大佐は困り果てて、適当にお茶を濁して散会した。

 ところが、武藤章軍務局長と田中隆吉兵務局長は、この多田中将の無礼に怒って、有末大佐にあたりちらしたという。

 このほか、反東條派としては、石原莞爾中将(陸士二一・陸大三〇次席)は有名だが、そのほか、反東條派の軍高官は、いわゆる皇道派といわれた、真崎甚三郎大将(陸士九・陸大一九恩賜)、柳川平助中将(陸士一二・陸大二四恩賜)、小畑敏四郎中将(陸士一六・陸大二三恩賜)、山下奉文大将(陸士一八・陸大二八恩賜)の系列がある。

 また、篠塚義男中将(陸士一七・陸大二三恩賜)、前田為利(陸士一七・陸大二三恩賜)、阿南惟幾(陸士一八・陸大三〇)、酒井鍋次(陸士一八・陸大二四恩賜)、鈴木率道(陸士二二・陸大三〇恩賜)なども東條批判派である。

 皇族では秩父宮雍仁親王(陸士三四・陸大四三)、朝香宮鳩彦王(陸士二〇・陸大二六)、東久邇宮稔彦王(陸士二〇・陸大二六)などが東條を受け入れていなかった。

 東條英機と石原莞爾の不仲は、想像以上のものだった。この二人のけんかは、当ブログ「陸海軍けんか列伝」の「11.石原莞爾陸軍中将」のところで詳しく書いているので省略するが、ひとつだけ、辻政信のからみのシーンだけを述べてみたい。

 昭和十六年二月、佐藤賢了大佐が、南支方面軍参謀副長から陸軍省軍務課長に転任する途中、台北に在勤中の台湾軍研究部員・辻政信中佐に会った。

 そのとき辻中佐は、佐藤大佐に「あなたからぜひ石原将軍を、軍の要職につけるよう、東條陸相に進言していただきたい」と申し入れた。

 佐藤大佐が、辻中佐がうるさく言うことを逆らわずに聞いていると、辻中佐は東條陸相を罵倒し続けた。そして、もし、東條陸相が、石原将軍を要職につけず、従来の態度を是正しないなら、辻中佐は「断じて東條を刺し殺す」と言ったという。

 だが、それにもかかわらず、結局、石原莞爾中将は昭和十六年三月一日、京都師団長の職を解かれて、予備役に編入された。それほど東條陸相の決意は固かった。

182.東條英機陸軍大将(2) 総理大臣になんかなるからバカじゃ

2009年09月18日 | 東條英機陸軍大将
 当時、世間でよく言われた「二キ三スケ」とは、東條英機、星野直樹、松岡洋右、鮎川義介、岸信介のことだった。

 東條は政治家や官僚の仲間が全くいなかった。満州で関東軍参謀長時代に知り合ったこれらの人物以外にはいなかったのである。東條はこのような連中を私宅に引っ張ってきた。

 これらの連中は、山田中佐の仲間では至極評判の悪い連中だった。

 山田中佐は東條首相に「世間の評判を知っていますか。あんな連中を使って、将来ロクなことになりませんぞ」と言った。

 すると東條首相は「だまっとれ!子供になにが分かる」と落雷した。陸軍中佐をつかまえて、子供あつかいだった。そのあと東條首相は「嫁さんもらって、すぐ離縁できるか」と言ったという。

 昭和九年、東條は陸軍少将で陸軍士官学校の幹事だった。「東條英機・その昭和史」(楳本捨三・秀英書房)によると、東條の仕事に対する性格を示す話がある。

 幹事が士官学校生徒の講評をするのは当然のことだ。ところが東條少将はすこし違っていた。士官学校には馬が千五百頭余り飼われていた。

 東條少将は、生徒の講評だけでなく、いちいち検査して、馬の講評を下した。「生徒の講評は、教官、幹事の義務かも知れないが、馬の検査の講評をやったのは東條くらいのものであろう」と言われている。

 昭和九年八月に東條英機は歩兵第二十四旅団長に補されたが、これは明らかに左遷だった。皇道派の幕僚たちは、頭角を現してきた東條をなんとかして予備役に編入させようと画策していた。

 だが、その頃、演習において示した東條のすぐれた指揮能力のため、それもできず、当時、人事局長だった同期の後宮淳少将が、昭和十年九月二十一日付で、東條を関東軍憲兵隊司令官に栄転させた。

 東條が首にならず、最終的に総理大臣までに栄達させる機会を与えたのは後宮淳少将(終戦時大将)ということになる。

 だが、後年、後宮淳大将は、「総理大臣になんかなるからバカじゃ」と言ったという。それは東條に対する友情の言葉だった。

 太平洋戦争勃発前に、東條英機と山本五十六が、一番、対米戦争を回避したがっていたということは、今では誰もが知っている。貧乏くじを引いたのは東條英機だった。あの時点で、誰が総理大臣になっても、戦争を避けることは不可能だった。

 昭和十三年五月、東條英機中将は、板垣征四郎陸軍大臣(陸士一六・陸大二八)の陸軍次官に就任した。「東條秘書官機密日誌」(赤松貞雄・文藝春秋)によると、梅津美治郎次官(陸士一五首席・陸大二三首席)が東條中将を後任の次官に推挙したのだった。

 今回の陸軍大臣の異動は、杉山元陸相(陸士一二・陸大二二)が北支出張中に、近衛文麿首相が、陸相を急に罷免し、後任に板垣中将を指名したことによるものだった。ところが、陸軍大臣より、東條次官の発表のほうが早く行われたので、問題となった。

 東條中将が次官に就任して何日か経った頃、重臣の平沼騏一郎男爵が閣議後に板垣陸相に飯野吉三郎に機密費を出してやってくれと頼んだ。

 飯野吉三郎は平沼男爵が信用している男で、平素平沼男爵が援助を与えていた。板垣陸相は平沼男爵の申し出を承諾して、東條次官にこのことを申し付けた。陸軍における機密費の取り扱いは次官の仕事だった。

 だが、東條次官はこのようなことには大不賛成であった。しかし、陸相が一応承諾されているので、五万円を秘書官・赤松貞雄少佐(陸士三四・陸大四六恩賜)に渡し、「以後一切渡さぬことを飯野に言い渡すように」と付け加えた。

 元来は、板垣陸相も東條次官も同じ岩手県出身で、親しい間柄であった。だが、板垣大臣の寛容さと、東條次官の是々非々主義とが、そりが合わぬというか、日を経るに従って円滑を欠く場合が生じ始めた。

 この大臣と次官の不協和音の間に立ち、赤松秘書官と大臣秘書官・真田穣一郎中佐(陸士三一・陸大三九)は、度々困惑したことがあった。

 当時の参謀総長は閑院宮載仁(かんいんのみや・ことひと)親王元帥(フランス・サン・シール士官学校卒・フランス陸軍大学校卒)であったが、病気がちなので、参謀次長・多田駿中将(陸士一五・陸大二五)が統括していた。

 板垣陸相を挟んで、この東條次官と多田参謀次長の二人はやがて対立していった。その結果、東條次官の辞任へと発展していった。

181.東條英機陸軍大将(1)総理大臣にぶん殴られた陸軍少佐は、天下広しといえども俺くらいのものだ

2009年09月11日 | 東條英機陸軍大将
 「東條英機・その昭和史」(楳本捨三・秀英書房)によると、山田玉哉陸軍少佐は、夜遅く、東條英機首相から「すぐ来い」という命令を受けた。

 山田少佐は、東條英機の妹の子どもで、東條英機の甥である。山田少佐は何事であろうかと、いそいで軍服に着替え車を飛ばし、首相官邸に向った。

 首相官邸に着くと、深夜の閣議に出かける東條首相と玄関でバッタリ出会った。

 「何かご用でしょうか」と山田少佐は、伯父でも相手は総理大臣であるから、不動の姿勢で尋ねた。

 すると東條首相は何も言わず、「このバカ者め!」と叫ぶと、山田少佐の頬を吹き飛ぶほど強く殴った。

 山田少佐もこれにはおどろいた。

 「何事ですか! いやしくも、自分も陸軍少佐です。何もいわずにぶんなぐるとは」。いかに、総理、陸軍大臣でも、人をバカにしていると思った。

 すると東條首相は「なんだと? いやしくも陸軍少佐だ? このバカ者ッ! なぜなぐられたか、なぐられた理由も思い当たらぬほど、貴様はあほうかッ」と言った。

 山田少佐は、殴られる理由など思い当たらないので、「わかりませんッ」と言い返した。陸軍少尉だってこんな無法は許されていいはずはない。それに赤松秘書官らの前で殴られて陸軍少佐として恥ずかしかった。

 東條首相は「貴様、妹の家に行って何をやった」と言った。

 それを聞いて、山田少佐はシュンとなった。アレがばれたのだ。

 その二、三日前、東條首相の妹、山田少佐の伯母(佐藤満鉄理事の妻)の家を訪ねたところ、伯母は留守だった。

 山田少佐はいつもの例で、上り込むと、ビールとうなぎ丼をとらせて、一杯やりながら、女中の手をちょっと握った。それだけのことで、キス一つしたのではなかった。

 たまたま暇な時間に、女性に冗談を言ったり、手を握るくらいは、山田少佐は罪悪とは考えていなかった。だが東條首相は、女の手を握るとは何たる不謹慎、武士の風上にも置けぬ奴と思っていたのである。

 山田少佐は後に「総理大臣に首相官邸でぶん殴られた陸軍少佐は、天下広しといえども俺くらいのものだ」と述懐している。

 だが、山田少佐はなぐられた腹たち紛れか、あるいは伯父という気安さも手伝ってか、そのとき、「どの分ですか?」と反問したという。東条首相はますます激昂し怒り狂ったという。

 東條英機の子供は、長男は東條英隆、次男は輝雄、三男敏夫、長女光枝、次女満喜枝、三女幸枝、四女君枝がいる。

 山田少佐がまだ少尉の頃、東條は長男の英隆と山田少尉を、上野の精養軒へ洋食を食べに連れて行ってくれた。一流のレストランなので山田少尉は嬉しかった。

 ところが、さて、メニューがきて、何を食うか、何を飲むか、いっさいがっさい、東條はドイツ語でやり始めた。山田少尉はがっかりした。せめて飯を食う時くらい楽しく食べさせてくれ、と恨めしく思った。東條はドイツ語がどのくらい上達したかを試していたのだ。

 山田少佐が東條からもらったものは、後にも先にも、チョークの切れっぱし、たった一本だった。東條は肉親に物をやるのは、そいつを駄目にすると思っていた。

 山田少佐(後に中佐)によれば、東條は、「カミソリ東條」と呼ばれていたが、東條は「カミソリ」という言葉が大きらいだった。

 「俺はカミソリのように切れもせず、頭も良くはない。努力だ」と、いつも言っていた。「カミソリ」と言ったために、東條が怒って一生口をきかなくなった男もいたそうである。

<東條英機陸軍大将プロフィル>

明治十七年七月三十日、東京市青山生まれ。父東條英教(陸軍中将)と母千歳の三男。長男、次男は夭折しており、実質的に長男として扱われた。
明治三十二年(十六歳)九月東京陸軍幼年学校(第三期)入学。
明治三十五年(十九歳)九月陸軍中央幼年学校(第十七期)入学、卒業成績は最後から三番目と言われている。
明治三十七年(二十一歳)六月陸軍士官学校(第十七期)入学。
明治三十八年(二十二歳)三月陸軍士官学校(第十七期)卒業、卒業成績は三百六十人中十番。四月歩兵少尉、近衛歩兵大三連隊。
明治四十年(二十四歳)十二月歩兵中尉。
明治四十二年(二十六歳)四月伊藤勝子と結婚。
大正元年(二十九歳)十二月陸軍大学校(二十七期)入学。
大正四年(三十二歳)六月歩兵大尉、十二月陸軍大学校卒業、卒業成績は五十六名中十一番。
大正五年(三十三歳)八月陸軍兵器本廠附兼陸軍省副官。
大正八年(三十六歳)七月歩兵第四十八連隊、八月スイス派遣。
大正九年(三十七歳)八月歩兵少佐、ドイツ国駐在。
大正十一年(三十九歳)十一月陸軍大学校兵学教官。
大正十三年(四十一歳)八月歩兵中佐。
昭和三年(四十五歳)三月陸軍省整備局動員課長、八月歩兵大佐。
昭和四年(四十六歳)八月歩兵第一連隊長。
昭和六年(四十八歳)八月参謀本部第一課長。
昭和八年(五十歳)三月陸軍少将、十一月陸軍省軍事調査部長。
昭和九年(五十一歳)三月陸軍士官学校幹事、八月歩兵第二十四旅団長。
昭和十年(五十二歳)九月関東軍憲兵隊司令官。
昭和十一年(五十三歳)十二月陸軍中将。
昭和十二年(五十四歳)三月関東軍参謀長。
昭和十三年(五十五歳)五月陸軍次官、十二月陸軍航空総監。
昭和十五年(五十七歳)七月陸軍大臣。
昭和十六年(五十八歳)十月内閣総理大臣兼内務大臣・陸軍大臣、陸軍大将、現役復帰。
昭和十九年(五十九歳)二月兼参謀総長、七月内閣総理大臣辞職、予備役。
昭和二十年(六十歳)九月十一日世田谷区の自宅で拳銃自殺を図るが失敗。
昭和二十三年十一月十二日東京裁判でA級戦犯として絞首刑の判決を受ける。十二月二十三日巣鴨拘置所内で刑死、享年六十四歳。