陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

410.板倉光馬海軍少佐(10)おい幹事、ババアエスでもいいから探して来い。なにをボヤボヤしとるか

2014年01月31日 | 板倉光馬海軍少佐
 昭和十九年一月三十一日、板倉光馬少佐の指揮するイ四一潜はブーゲンビル島ブインに向けてラバウルを出港した。

 敵のレーダー、大型哨戒機、機雷原、魚雷艇の攻撃などを、かわして、まさに紙一重、決死的ともいえる突撃で、イ四一潜はブインに着き、輸送品を降ろした。

 すると、「艦長、艦長はおられませんか」と連絡参謀の岡本中佐が艦橋に駆け上がってきた。岡本中佐は板倉少佐の手を握り締めるなり、涙をボロボロ流し口もきけなかった。

 板倉少佐は「輸送が成功して、よかった」と心から思った。そして、用意していたウイスキーと煙草の小包と一通の封書を岡本中佐に渡し、「鮫島長官にお渡しください」と言った。

 封書には「八年前、長官を殴った一少尉が、潜水艦長としてブイン輸送の命を受けて参りました。往時を回想し感慨無量であります。小包の品は、私の寸志であります……」などと書かれていた。

 イ四一潜は二回目の輸送も成功し、ブインに着いた。そのとき、板倉少佐は岡本参謀から鮫島長官からの封書と七本のパイプを受け取った。

 封書には「決死の大任まことに御苦労……」と鮫島長官から感謝の文がかかれており、板倉少佐は読み進むうちに、涙を流した。

 七本のパイプは、鮫島長官が、椰子の実で作ったものだった。このパイプには鮫島長官の万斛の思いが込められているように思われた。板倉少佐への深い愛情と、玉砕を期する最高指揮官としてのひそかな覚悟が、このパイプに託されたのだ。

 そう思った板倉少佐は、このパイプを一本だけ自分のためにしまって、残りを艦の幹部に分けてやった。もし万一の場合、その中の一人でも内地に帰れたら、鮫島長官の形見としてご家族に渡せる。

 時は流れ、戦後の昭和三十二年、板倉光馬氏は、海上幕僚監部に非常勤嘱託として勤務していた。そのとき、人づてに、鮫島具重中将が病床に伏していることを聞き、目黒の自宅に見舞った。

 かつては華族に列し、顕職を極めながら、いまや脳溢血におかされ、手足の不自由はもとより、言語障害の体を、鮫島中将は、ひっそりと手狭な一間に横たえていた。

 板倉氏は、横浜の軍事法廷で鮫島中将と再会して以来の対面だった。往年の面影は見る影もなかったが、懐旧の情はひとしおだった。

 病床の鮫島中将は、不自由な体をよじるようにして、茶箪笥の上を指差した。そこには、サントリーの角瓶に白い山茶花が一輪活けられていた。付き添っていた夫人が次のように言った(要旨)。

 「主人がブーゲンビル島から着の身着のままで帰りましたとき、サントリーの空き瓶を後生大事に抱え持っていましたので、その訳を尋ねましたら、『これは板倉艦長が命がけでブインに持って来てくれたものだ。これだけは手離せなかった』と申しました」。

 その瞬間、鮫島中将の顔が微笑むのを見て、板倉氏はその場で、ワットばかり泣き伏した。自分を殴った一少尉の命乞いをしたばかりでなく、ささやかな贈り物を形見のように大事にする、その広大無辺な温情に、板倉氏は疼くように感激したのだ。

 時は戻り、昭和十年十月、板倉少尉は、鮫島艦長の温情と計らいで、重巡洋艦「最上」から、重巡洋艦「青葉」に着任した。

 重巡洋艦「青葉」の艦長、平岡粂一大佐は「わしの顔がわからなくなるほど、酒を飲むのではないぞ」と板倉少尉に釘をさした。

 昭和十一年七月、後期の訓練が始まる直前に、連合艦隊が佐世保に集結した。板倉少尉が上陸して水交社に行くと、七、八名の級友がとぐろを巻いていた。

 彼らは板倉少尉の顔を見ると、「いま、クラス会の相談をしていたところだ。貴様は遅れてきたから、幹事をやれ」と、否応なしに幹事を押し付け、“山”(万松楼)に繰り込むことになった。

 予約なしに飛び込んだため、エスはおろか部屋もなかった。ようやく仲居を拝み倒して、行燈部屋のような薄暗い六畳に通された。

 マグサとスルメで飲んでいるうちに、味気なくなったとみえて、「おい幹事、ババアエスでもいいから探して来い。なにをボヤボヤしとるか……」と級友たちが御託を並べ始めた。

 仕方がないので、板倉少尉は廊下トンビのエスを口説いたり、大部屋をのぞいたが、ケンもホロロ、猫の仔一匹ありつけなかった。

409.板倉光馬海軍少佐(9)板倉艦長。ブインでは鮫島中将がお待ちかねだよ

2014年01月24日 | 板倉光馬海軍少佐
 それに、軍籍を去る身ではあるが、板倉少尉は、栄えある海軍のために、帰着時刻を厳守してもらいたかった。それで、つい、かねがね抱いていた憤懣を鮫島艦長に打ち明けてしまった。

 「そうか! そうだったのか……」。それで納得がいったといわんばかりに、鮫島艦長は心なしか明るい表情で、やおら身を起すと、「なにぶんの指示があるまで、今まで通り艦務に服したまえ」と板倉少尉に告げた。

 三日後に艦隊は解散され、喜びをホームスピードに乗せて母港に急ぐ航海も、板倉少尉には針の蓆に座らされているようで、居たたまれなかった。

 だが、母港で板倉少尉を待っていたものは、重巡洋艦「青葉」(九〇〇〇トン)への転勤命令だった。夢ではないか、思わず熱い涙が板倉少尉の頬を伝わった。

 重巡洋艦「青葉」の艦長は、平岡粂一(ひらおか・くめいち)大佐(広島・海兵三九・重巡洋艦「青葉」艦長・戦艦「比叡」艦長・少将・横須賀防戦司令官・上海方面根拠地司令官・第九根拠地司令官・中将・予備役)だった。

 板倉少尉は艦長室に駆け込んだ。鮫島艦長は、相変わらず無表情のままで、一言、「青葉に着任したら、平岡粂一艦長によく指導してもらい給え」と言っただけだった。

 ただそれだけだったが、板倉少尉には、鮫島艦長の顔が、観世音菩薩のように仰がれ、嬉し涙がとどめもなくこみ上げて、お礼はおろか、口もきけなかった。

 それから数日後、「高級将校といえども帰艦時刻を厳守すべし」という意味の次官通達が全軍に布告された。

 当時の海軍次官は、カミソリ次官といわれた長谷川清(はせがわ・きよし)中将(福井・海兵三一・海大一二・人事局第一課長・在米大使館附武官・戦艦「長門」艦長・少将・参謀本部第五部長・呉工廠長・中将・ジュネーヴ会議全権・海軍次官・第三艦隊司令長官・横須賀鎮守府司令長官・大将・台湾総督・正三位・勲一等・功一級)だった。

 鮫島大佐は、長谷川次官を訪ねて、自分を殴った一少尉のために、あえて助命を嘆願したのであろう。板倉少尉には、そうとしか思えなかった。

 時は流れ、太平洋戦争末期の昭和十九年、ガダルカナル島を奪取した連合軍は、その余勢をかって、怒涛のごとくソロモン群島に殺到し、日本軍のラバウルの前衛線であるブーゲンビル島に向かった。

 ブーゲンビル島は、北のブカと南のブインに分断されて、日本軍は完全に孤立無援に陥り、ガダルカナル島さながらの命運が刻一刻と迫りつつあった。

 ブイン島には海軍の第八艦隊司令部があり、海軍部隊を統率していた。ブーゲンビル島守備隊の命運は、潜水艦輸送の成否にあるといってもよい状況だった。

 だが、ブーゲンビル島は連合軍が包囲しており、潜水艦輸送は至難の技で、まさに決死的な作戦だった。

 当時、板倉光馬は海軍少佐になっており、イ四一潜水艦の艦長だった。いろいろないきさつがあり、イ四一潜水艦はブインヘ輸送に行くことになった。

 ブインヘ出発する前、板倉艦長は南東方面艦隊司令部を訪れた。
 
 司令長官は草鹿任一(くさか・じんいち)中将(石川・海兵三七・海大一九・教育局第二課長・戦艦「扶桑」艦長・少将・砲術学校長・第一航空戦隊司令官・教育局長・中将・海軍兵学校長・第十一航空艦隊司令長官・勲一等)だった。

 司令部で、草鹿任一中将は、板倉少佐に、「板倉艦長。ブインでは鮫島中将がお待ちかねだよ。しっかり頼むぞ」と言った。

 板倉艦少佐は、ハッとして「鮫島中将と言われましたが……。あの鮫島具重閣下のことですか?」と聞き返した。

 すると、草鹿中将は「そうだよ。君が少尉のときに殴った、『最上』の艦長」だよ」と言った。板倉少佐は急に、万感が胸にせまって、目頭が熱くなった。

 板倉少佐は、うかつにも、今の今まで、ブーゲンビル島の海軍最高指揮官が、鮫島具重中将とは知らなかったのだ。

 己を殴った一少尉のために、わざわざ長谷川次官を訪ねて、助命の労をとってくれた、恩人が、敵に囲まれた離島で、糧食も尽きながら、日夜、死闘を続けていたのだ。

 公私を超えて、人間としての感動が、電流のように板倉少佐の身体を走った。目に見えない一本の糸が、運命の絆としてつながっていた。

 ブイン輸送はどんなことがあっても、成功させなければならないと板倉少佐は思った。

408.板倉光馬海軍少佐(8)どう考えても腑に落ちない。何か訳があってのことではないか……

2014年01月17日 | 板倉光馬海軍少佐
 艦長を殴ったとは……。事実ならば、理由の如何を問わず、由々しき問題だった。しかも令夫人や衆人環視の中で―。

 酔いも冷め果てて、板倉少尉は蒼くなった。弁明の余地は全くなかった。板倉少尉は心中ひそかに覚悟を決めた。

 帰艦するなり、私室で着替えをしていたとき、士官たちの従兵がドアをノックした。「航海士……副長がお呼びです」。すでに腹は決まっていた。

 服装を改めて出向くと、上海事変の功績で金鵄勲章功三級の武勲に輝く近藤憲一中佐が、待っていた。

 近 藤中佐は、険しい顔で睨みつけながら、右足でドスンと床を叩き、「艦長を殴るとはなにごとだッ!帝国海軍始まって以来の不祥事である。なにぶんの指示があるまで私室で謹慎していろ」と言った。

 返す言葉もなかった。たとえあったとしても、口にすべきではないと板倉少尉は思った。今までにずい分失敗をしたが、このときほど、自分に愛想が尽きたことはなかった。

 「私物と官給品を種分けしておけ」と、付け加えられ、板倉少尉は悄然として引き下がった。私室で書類や官品を整理して、夜更けの冷たいベッドに横たわったとき、ひとりでに涙が溢れてきた。

 まだ見たことのない軍法会議の法廷に立たされる自分。悄然として郷里の土を踏む惨めな姿。落胆する両親や兄弟の顔が瞼に浮かんだ。

 係りの従兵が、朝食の用意ができたことを知らせに来たが、板倉少尉はガンルームに顔を出す気になれず、私室にこもったまま、艦長あての詫び状に筆をとった。そして心底から詫びる一文をしたためた。

 その時、「板倉少尉、艦長がお呼びです」と知らせてきた。いずれ早晩脱ぐべき軍服だ。板倉少尉は背広に着替えてゆくことにしたが、さすがに足は重かった。

 ドアをノックして艦長室に入り、板倉少尉が一礼して顔をあげたところ、鮫島艦長の左頬が赤くはれ上がっていた。思わず目を伏せて、黙って詫び状を差し出した。

 鮫島艦長は無表情のまま、読み終わると、しばしの間、板倉少尉を見つめていたが、「板倉少尉は、酒をやめられないか……」と、思いがけない質問を、言葉優しくかけられた。

 板倉少尉は面食らって、ためらいもあったが、「はッ……昨夜来、禁酒を決意しましたが、恐らく、続かないと思います」と答えた。

 すると鮫島艦長は「そうか……では、酒の量を減らすことはできないか?」と重ねて質問した。

 板倉少尉はしばらく考えたが、すっかり観念していたので、あえて自分を偽ることはできなかった。今まで、禁酒や節酒を誓ったことは、二回や三回ではなかった。それが、ものの三日と続いたためしがなかった。

 「はッ……そのつもりでいますが、恐らく酒をやめるより難しいと思います」と、板倉少尉はつい本音で答えてしまった。

 鮫島艦長は、表情を変えずにしばらく考えていたが、「そうか……もうよろしい」と、ポツンと一言言った。

 取り返しのつかない悔いと、運命の定めを覚えながら、板倉少尉は艦長室のドアを後ろに閉めた。厳しい叱責を覚悟していただけに、いつもと変らぬ鮫島艦長の温容に接し、新たな感動を覚えた。

 あとは処断を待つだけだった。板倉少尉はせめて、最後は潔くしたいと思い、無精ひげを剃り、クラス会に脱退届けを書いていたとき、再度、鮫島艦長から呼ばれた。

 板倉少尉が覚悟を新たにして出向くと、鮫島艦長は相変わらず穏やかな口調で、「どう考えても腑に落ちない。何か訳があってのことではないか……」と尋ねた。

 「別にありません。ただただ、申し訳がないと思っております」と板倉少尉は答えた。いまさら言い訳がましいことは、口が裂けても言えるものではない、これ以上恥の上塗りはしたくなかったのだ。

 だが、鮫島艦長は両眼を閉じたまま、苦悩の色さえ浮かべていた。一少尉を処断するのに、しかも自分を殴った若輩なのに、鮫島艦長には、憎しみの情は片鱗もうかがえなかった。

 あまつさえ、「酒の上とは思えない」とつぶやいた、鮫島艦長の口調にはしみじみとした温かみすら感じられた。いつしか、板倉少尉のかたくなな気持ちがほぐれ始めた。

407.板倉光馬海軍少佐(7)正気に返った時、艦長を殴ったことを知らされて、愕然とした

2014年01月10日 | 板倉光馬海軍少佐
 格納庫がグルグル回りながら矢のように後ろに流れていった。板倉候補生は生きた心地もなかった。二、三回ジャンプして草むらに不時着した。

 全身の力が抜け、練習機から降りるなり、板倉候補生は教官からどやしつけられ、目から火が出るほど殴られた。飛行学生への夢は、これで、はかなくも吹っ飛んでしまった。
 
 昭和十年四月一日、板倉光馬候補生は海軍少尉に任官した。そして同日付けで戦艦「扶桑」(三〇六五〇トン)乗組を命じられた。

 板倉少尉はどうも戦艦勤務になじめなかった。飛行気乗りになれなかったこともあるが、多分に天の邪気的な発想によるものと思われる。

 戦艦「扶桑」勤務三ヶ月で、重巡洋艦「最上」(一二二〇〇トン)に転勤した。この重巡洋艦「最上」は、当時の最新鋭艦であり、士官は一流の人物が配員されていた。

 艦長は男爵・鮫島具重(さめじま・ともしげ)大佐(東京・祖父は岩倉具視・海兵三七・海大二一・男爵・皇族附武官・重巡洋艦「最上」艦長・戦艦「長門」艦長・少将・第十三戦隊司令官・第二航空戦隊司令官・中将・第四艦隊司令長官・第八艦隊司令長官)だった。

 板倉少尉はこれまで、ずいぶんアウトロー的な失敗を繰り返してきたが、海軍の制度や慣習に不満があったわけではなかった。

 むしろ、卓越した気風と、長年培われてきた伝統に、限りない愛着と誇りを抱いてきたのだが、ただ一つだけ、気に食わないことがあった。

 それは、士官に限り、帰艦時刻が守られないことだった。由来、海軍では五分前の精神が強調され、全ての作業や隊務が律せられてきた。

 ところが、こと帰艦時刻に限り、この特筆すべき美風が平然と無視され、無造作に破られながら、恬としてかえりみられなかった。

 しかも、この傾向は上級士官になるほどひどく、艦長迎えにいたっては、ときに朝まで待たされることがあった。当直将校から、「艦長迎え」の声がかかると、大急ぎで応急糧食を用意したものである。

 板倉少尉は海軍兵学校生徒のとき、「英国海軍」という本を読んだことがあった。そのなかに、強調すべき徳目として、「人は船を待つが、船は人を待たない」とあった。恐らく、英国の士官も帰艦にルーズだったのだろう。

 なお、艦長以上の高級士官が艦を出入りするとき、舷門の衛兵が、ピーヒョーと笛を吹く儀礼がある。これは、帆船時代に、艦長が泥酔して舷梯を登れないとき、モッコに入れて吊り上げたのだが、その際、作業員の合図に笛を吹いた名残だった。

 日本帝国海軍の諸令則には、帰艦時刻に遅れた場合の罰則が明記されており、戦時には逃亡罪が適用されるが、遺憾ながら、この罰則を適用されるのは下士官兵に限られていた。

 それだけに、帰艦時刻を守らない海軍士官の態度が苦々しく、絶えず、心のしこりとなって、板倉少尉の胸中深くくすぶり続けていた。

 未曾有ともいえる自然の猛威に叩きのめされて、東京湾に入港したときは蘇生の思いだった。その翌日、朝から上陸が許されたので、酒に目のない板倉少尉は、懐中無一文になるまで飲みまわった。

 それでも、一七三〇陸発の定期便を気にしながら芝浦の桟橋に急いだ。暮れやすい秋の日は釣瓶落としに日がかげり、ごったがえしている埠頭には、早くも夕闇がただよっていた。その中にケップガン山本中尉の顔も見られた。

 桟橋は各艦の舟艇が織るように着いては離れ、そのあとに上陸員や見学者を満載したランチがすべりこんでくる。

 だが、「最上」の定期便は待てど暮らせどいっこうに姿を見せなかった。予定の時刻はとっくに過ぎていた。首を長くして、腕時計をのぞきこんでいるのは、「最上」の乗組員だけだった。

 板倉少尉の胸中には、だいぶ前から、黒い憤怒がむらむらと鎌首を持ち上げていた。その矢先に、ケップガンが、「今日は艦長のお客さんが多いので、定期便が遅れたのであろう」と、こともなげに、つぶやいた。

 男爵である艦長が、大勢の華族を招待したのであろうことはうなずける。それならば、乗艇の時間を早めるとか、別便を仕立てるとか、手段はいくらでもあると板倉少尉は思った。

 定期便は公便である。とすれば、公私の別は、時と場所を選ぶべきものではない。一艦の士気と軍紀は、ガンルーム士官の双肩にあるといわれている。

 公便が三十分以上も遅れているのに、平然と容認するケップガンの態度が憤怒に油を注いだ。酒の勢いも手伝って、板倉少尉は怒りにブルブルふるえた。

 ちょうどその時、「最上」のランチが着いた。その途端に、何かわめきながら突進したことは、板倉少尉は覚えていた。

 板倉少尉が気が付いたとき、二、三人の士官に両腕を取られたまま、ランチに連れ込まれていた。しばらくは、何がなにやらさっぱり分からなかったが、正気に返った時、艦長を殴ったことを知らされて、愕然とした。





















406.板倉光馬海軍少佐(6)後ろを振り向いた教官の顔は物凄い形相だった

2014年01月03日 | 板倉光馬海軍少佐
 遠洋航海を終わって、板倉候補生が重巡洋艦「足柄」(一四〇〇〇トン)の乗組みを命じられたのは昭和九年七月三十日だった。配置は砲術士だった。

 「伊号潜水艦」(板倉光馬・光人社名作戦記)によると、重巡洋艦「足柄」を退艦後、候補生最後の仕上げとして、術科学校を駆け足で回った。最後の霞ヶ浦航空隊でも約一ヶ月の実習が行われた。

 この間に素質や適性がテストされる。当時は同期生の半数以上がパイロットを熱望していた。板倉光馬候補生は、躍動する黒鉄の美しさに魅せられて、海軍兵学校に入ったのだが、いつしか、飛行機乗りに憧れて、戦闘機パイロットを夢見ていた。

 当時、パイロットになるには、厳重な身体検査、緻密な心理適性検査のあと、学課と実習の総合成績で合否が決まった。競争率も激しかった。

 板倉候補生は座学もまずまずの成績をおさめ、あらゆるテストに好成績をおさめた。やがて、自分でスティックを握る日がやってきた。

 飛行服を着、飛行帽をかぶり、飛行靴をはき、革手袋を手にして鏡に向かうと、格好だけはあっぱれな一人前の飛行将校が微笑みかけた。

 飛行実習のわずか七回か八回目には、はやくもスロットルバルブの操作を許され、板倉候補生は得意の絶頂にあった。

 航空隊では、隊内食が支給されるので食費がいらない。しかも、たっぷりあってうまい。おまけに搭乗手当てがつくので、横須賀や田浦のときのように、みみっちい気持ちはない。衣食たって礼節を知ったわけだ。

 板倉候補生は、ときには、気の合った連中と土浦に出かけて飲んだ。有り金をはたき、夜道を軍歌を歌いながら帰ると、酔いが回って、学生舎に着くなり、二段ベッドを片っ端から揺り動かし、寝ているものを叩き起こした。これは昔からのしきたりで、時たまではあるが、教官に襲われることもあった。

 飛行適性の最終試験の日がやってきた。板倉候補生は自信満々で臨んだ。筑波山と富士山を結ぶ線上で、直線飛行と宙返りを見事にやってのけた。教官が振り向いて大きくうなずいた。

 あとはバーチカルターン(垂直旋回・バンク角45度以上)が上手く行けば合格間違いなしだったので、板倉候補生は胸がときめき、心が爽やかにおどった。

 天気は上々で、眼下には大利根の流れがゆうゆうとして銀色に光っていた。練習機の高度は三〇〇〇メートルだった。あれほど広い飛行場が猫の額のように小さく見えた。

 教官の命令で板倉候補生はスロットルバルブを全開して、増速しながらスティックを左に倒すとともに。左足を思いっきり踏み出した。

 機体はグーと傾きながら左に急旋回をはじめた。遠心力で体は操縦席に押し付けられ、つぶれそうだった。関東平野がグルリと回って水平方向に見え、鮮やかにバーチカルターンに入った。

 その瞬間、機体はグラリと機首を落とした。見る間にゆっくりと木の葉が舞うように緩転錐揉みに入ってしまった。

 「しまった!」。板倉候補生はあわてて、スティックを一杯に引いて機首を起そうとしたが、手ごたえがなかった。水平線がグルグルと回って目が回りそうになった。

 そのうち、前席の教官が「スティック放せ、放せ!」と伝声管で、怒鳴っているのにやっと気が付いた。だが、板倉候補生は「ここで放したら百年目だ! いままでの夢が水の泡になる」とばかり、必死になってスティックを握り締めたまま胸元に引き付けて放さなかった。

 高度計の針がグングン下がっていった。前席から伝わる教官の声も必死だった。後ろを振り向いた教官の顔は物凄い形相だった。それで、板倉候補生はついに断念してスティックを放した。高度は六〇〇メートルだった。

 教官は背を丸めるようにして、スティックを前に倒し、いったん急降下の姿勢に入った。練習機の赤トンボは、ようやく錐揉みから抜け出して機首を地上に向けたが、そのまま大地に突き刺さるように突っ込んでいった。

 地表が吸い上げられるようにぐんぐん迫ってきて、「もう駄目だ」と思った瞬間、教官はグーと腹をよじるようにしてスティックを引いた。

 練習機はパラパラと松の木の枝を払いながら、地上すれすれで、かろうじて水平飛行に戻った。真っ赤に塗った救急車がサイレンを鳴らしながら走ってきた。

405.板倉光馬海軍少佐(5)二人は殴られ、マスト登りで掌が破れ、鮮血がしたたった

2013年12月26日 | 板倉光馬海軍少佐
 アレクサンドリアに入港したのは、五月二十七日だが、その前夜、板倉候補生は、航海中にとんでもないハプニングを演じてしまった。

 天測を終わった奥山候補生と二人で、つれづれなるままに、ありし日の日本海海戦を偲んでいるうちに、どちらからともなく、「祝杯をあげようじゃないか」ということになった。

 肝胆あい照らす刎頚の友は、是非善悪を問わずに意気投合するものである。さっそく、格別の場所を物色した。

 なにしろ前科数犯、厳しい監視下に置かれている身である。人目を避けなければならなかった。そして着目したのが、前艦橋直下のシェルターデッキである。灯台もと暗し、これほど安全な場所はなかった。

 地中海は鏡のように静かで、中天の月を映していた。時折、頭上で操舵号令が聞こえ、先行する「浅間」の艦尾灯を測る副距手の声が伝声管を流れた。

 マルセイユで仕入れたワインに舌鼓を打ちながら、往時を回想しているうちに、ボトルが空になった。ここで幕にすればよかったのだが、追想は尽きない。いや、ワインに未練が残った。

 またぞろ、人目を避けてワインを運んだのが運のつき、天網は恢々、粗にして漏らさなかった。口当たりのよいワインに気を許しているうちに、二人は睡魔のとりこになってしまった。

 早朝、甲板洗いの海水で目が覚めた。しまった!臍を噛んだが、すでに遅かった。指導官付の憤怒に燃える目が、デッキに転がっている空き瓶を睨みつけていた。

 二人は殴られ、マスト登りで掌が破れ、鮮血がしたたったくらいで許される問題ではなかった。「内地帰投まで上陸止めだッ!」。いわば閉門蟄居である。いずれ、切腹のご沙汰が下るだろうと思った。

 身から出た錆とはいえ、板倉候補生はアレキサンドリアだけは上陸したかった。紀元前の文化が現存するカイロ博物館、永遠の謎を秘めたスフィンクスやピラミッドの夢がうたかたのごとく消え去ったのである。

 ところが、思いがけないことに、副長の草鹿龍之介(くさか・りゅうのすけ)中佐(東京・海兵四一・海大二四・空母「風翔」艦長・軍令部第一課長・空母「赤城」艦長・少将・第三艦隊参謀長・横須賀空司令・連合艦隊参謀長・中将・第五航空艦隊司令長官)のとりなしで、不問に付せられることになった。

 さらに、「磐手」が旗艦でなかったことが幸いした。旗艦だったら、たとえ副長、いや艦長が嘆願しても、二人の首は吹っ飛んでいた。

 練習艦隊司令官・松下元(まつした・はじめ)中将(福岡・海兵三一・海大一二・人事局第一課長・戦艦「金剛」艦長・少将・人事局長・第三潜水戦隊司令官・海軍兵学校長・中将・練習艦隊司令官・舞鶴要塞部司令官・第四艦隊司令長官・佐世保鎮守府司令長官)は峻厳そのものだった。

 「磐手」に将旗を移したのは、アレキサンドリア入港の直後だった。副長の草鹿中佐は北辰一刀流の達人で、千年、ドイツの硬式飛行船「ツエェペリン号」で太平洋を飛翔して一躍有名になり、候補生のアイドルだった。

 だが、板倉候補生ら二人が助命され、首がつながったのは次のことに関係していた。

 板倉候補生が、甲板候補生をしていた時、航海中に防火訓練が行われた。いざ放水という時になって、消火栓を開いたが海水が出なかった。

 「浅間」では、海面に向かって数条の抛物線を描いているというのに、「磐手」の消防隊員は右往左往するばかりで、原因が分からなかった。

 入港後、原因を調査するということで、訓練は中止されたが、ふだん、大きな顔をしていた甲板士官は、青菜に塩さながらで、悄然としていた。

 板倉候補生は、原因の調査が打ち切られた後も、丹念に海水管系統をたどり、二重底までもぐりこんだ。

 幸い、三番炭庫が空だったから、は入れたが、悪ガスの危険があるので見過ごしたのだろう。そして、海水管の弁を開閉する連動桿継手のピンが腐食して、空回りしているのを板倉候補生はつきとめた。

 草鹿中佐は、手あき総員を後甲板に集めて、次のように訓示して、板倉候補生を褒めた。

 「本日は、防火訓練のとき、放水できなかった。訓練だったから事なきを得たが、実際に火災が発生していたら重大な結果を招いていたと思われる」

 「しかも、その原因を、乗艦して日の浅い板倉候補生が、二重底にもぐってつきとめた。もって範とすべきである」

 「本艦は、老朽艦であるが、重大な使命を帯びて行動している。こと保安に関しては、各部の点検を厳にして、万が一にも、任務に支障をきたさないよう整備してもらいたい」。

404.板倉光馬海軍少佐(4)始末書の書き方は板倉候補生に聞け

2013年12月18日 | 板倉光馬海軍少佐
 板倉候補生の席は候補生室の入口に一番近く、扉を背にしていたため、上衣を着ける暇がなかった。ガンルーム(士官次室・帆船時代、中・少尉の部屋に武器を格納したことに由来)に連行され、さんざん油を絞られたあげく、始末書を書かされる羽目になった。

 板倉候補生は遠洋航海中に始末書を八枚も書き、あまつさえ「始末書の書き方は板倉候補生に聞け」とまで言われて、勇名?をはせたのであるが、その創刊号が夜食のうどんだった。

 約二週間かかってインド洋を横断し、アラビア半島の南端、紅海の入口をやくするアデンに入港した。イギリス海軍の補給基地だった。

 四月四日スエズ運河に入った。四月十八日芸術の街、ギリシアのアテネ着。四月二十三日イタリアのナポリ入港。翌日ローマ見学。

 豊富な大理石を駆使した彫刻と、いたるところにある噴水は目を楽しませてくれた。だが、一歩裏通りに足を入れると、「シガレ、シガレ……」と煙草をせがむ浮浪児や乞食のむれに、板倉候補生は目をそむけたくなった。

 海軍兵学校のあるリボルノを経て、マルセイユに入港したのは五月一日だった。マルセイユでは、司令官の公式訪問や交歓行事が多く、十日あまり在泊したが、候補生のパリ見学はわずか二日間に過ぎなかった。

 車中で一夜を明かし、板倉候補生らがモンパルナスの駅に着いたのは午後七時過ぎだった。駅の食堂で軽い朝食をとり、最初に観光バスを停めたのはルーブル美術館だった。

 五月の明るい日差しがさんさんと降り注ぎ、マロニエの甘酸っぱい香りが鼻孔をくすぐった。蔦がまとわりついた古色蒼然たる建物の中に、古今東西の名画や彫刻が展示されているかと思うと、板倉候補生は早くも胸の高まりを覚えた。

 しかし、見学時間はわずかな時間だった。このあと、エッフェル塔、ヴェルサイユ宮殿と、分刻みのスケジュールが組まれていた。板倉候補生は、このときほど、司令部職員の石頭ぶりがうらめしく思われたことはなかった。

 その矢先に、思いがけない救世主が現れた。クラスメートの奥山正一(後に海軍パイロット、殉職)だった。板倉候補生はミレーの「晩鐘」の複写は何回も見たが、実物を鑑賞するのは初めてだった。

 ミレーは敬虔なカトリック信者であり、農民の出身だけに、現実が生気を失わぬまま抽象に転換する筆致には、ひきずりこまれるような迫力があった。

 板倉候補生は画面に釘づけされたまま立ち去りかねていたとき、次に予定されているエッフェル塔に向かうべく、集合の合図が伝えられた。

 その時、奥山が、「パリの屋根を見てもつまらん」と言って、板倉候補生を便所に連れ込み、候補生のバスを見送った。それから、閉館を告げる鐘の音がセーヌ河畔にこだまするまで、二度と見ることがないであろう名画や彫刻を、二人は心ゆくまで鑑賞した。

 さて、それから、見学のあとは、大使の招宴が予定されていたが、パリの夜は、未知の世界を求める旅人の心をあおる、妖しい魅惑に満ちていた。

 ゆきがかりとはいえ、「パリに遊ぶものはムーランルージュへ……」のキャッチフレーズにひかれた。板倉候補生と奥山候補生は、シャンゼリゼ通りのキャッフェで腹ごしらえをしてから、ボーイに、ムーランルージュへの道順をたずねたところ、両手を広げ、肩をすくめて立ち去った。

 フランスでは英語が通じないことにもよるが、チップをやらなかったからだった。あとで、気が付いたが、駅員やお巡りさんまでがチップを出さないとそっぽを向くには驚いた。

 なにはともあれ、通行手形を払いながら、目的地にたどり着いたのは夜も更けてからだった。ムーランルージュがどんなところか、おおよその見当はつけていたが、一歩踏み込んだ瞬間、二人はあっと驚いた。

 まるで、女護島に漂着したロビンソン・クルーソーの現代版だった。むらがる美女は一糸もまとっていなかった。さらに、彼女たちが演ずる秘戯は浅草の花電車など足元にも及ばなかった。

 宿舎のドーニャホテルに二人が帰着したのは、門限をとっくに過ぎていた。ホテルでときならぬ騒動がもちあがっているとはつゆしらず……。

 「直ちにパリ警察に捜索願を出すべきだ……」「とんでもない。それこそ帝国海軍の恥辱である……」けんけんがくがくの議論が沸騰しているさなかに帰ったから、目も当てられなかった。

 二人は木っ端微塵にぶん殴られた挙句、始末書を書かされた。

403.板倉光馬海軍少佐(3)では伺いますが、試験官は西郷隆盛を軽蔑されますか?

2013年12月12日 | 板倉光馬海軍少佐
 午前のメンタルテストは、変てこな問題ばかりで、板倉はてんで歯が立たなかった。さらに、午後の口頭試問で馬脚をあらわした。

 「尊敬する人物は……」ときかれ、まごついた。読書に縁がなかったこともあって、とっさに口をついて出てこなかった。尊敬する人物なんて考えてもいなかったので、苦し紛れに「西郷隆盛」と口走った。

 ところが、「西郷は、維新の大業をなした功労者であるが、私情にかられて西南の役を起こし、賊名をきせられた。そのような人物を尊敬するか?」と試験官に言われた。

 返す言葉がなかったので、板倉はえェままよ、とばかり、逆に食ってかかった。「では伺いますが、試験官は西郷隆盛を軽蔑されますか?」。

 苦笑した試験官は、矛先をかわすように、「兵学校を志望した動機はなにか?」と質問した。メンタルテストで失敗し、さらに口頭試問でとちった以上、もはやこれまでと、板倉は観念し、関門海峡を通過する連合艦隊の躍動する美しさに魅せられたことから、宮崎の高等農林を勧められたいきさつまで、洗いざらい打ち明けてしまった。

 板倉はその日のうちに福岡を立ったが、帰る足取りは鉛のように重かった。二度と博多の土を踏むことはあるまいと思い、安国寺の碧海老師に礼を述べたが、「いい薬になったようじゃのおー。来年またおいで」と言って、大きな握り飯の包みを渡されたときは、無性に涙が溢れてきた。

 それから一ヶ月後、一通の電報を受け取った。「カイグンヘイガッコウセイトニサイヨウヨテイ イインチョウ」。板倉は夢ではないかと狂喜した。

 そして、このときほど嬉しそうに、「よかった! よかったねぇ……」と、涙を流して喜んでくれた母の顔を、いまだかって見たことがなかった。

 昭和五年四月一日、第六十一期生として板倉光馬は江田島の海軍兵学校に入校した。暖冬の年で、校庭の桜花は爛漫と咲き誇っていた。

 入校時の校長は、部内の声望を一身に集めた永野修身(ながの・おさみ)中将(高知・海兵二八次席・海大八・米国ハーバード大学留学・大佐・人事局第一課長・巡洋艦「平戸」艦長・在米国大使館附武官・少将・第一遣外艦隊司令官・練習艦隊司令官・中将・海軍兵学校長・軍令部次長・ジュネーヴ会議全権・横須賀鎮守府司令長官・大将・ロンドン会議全権・海軍大臣・連合艦隊司令長官・軍令部総長・元帥・戦犯・獄中で死去・正三位・勲一等・功五級)だった。

 永野校長は、自啓自発をモットーとするダルトン・プランを唱道し、さらに教育学、心理学、論理学、哲学から美学まで取り入れた。それで、在校期間が八ヶ月延長されて、海軍兵学校は四学年制になった。

 兵学校の鉄拳制裁の是非について、問題がなかったわけではない。度が過ぎると弊害を伴うことも事実だった。

 鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)中将(大阪・海兵一四・海大一・大佐・海軍水雷学校長・少将・第二艦隊司令官・人事局長・海軍次官・中将・練習艦隊司令官・海軍兵学校長・第二艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・連合艦隊司令長官・海軍軍令部長・予備役・侍従長・枢密顧問官・2.26事件で重症・枢密院議長・首相・枢密院議長・従一位・勲一等・功三級・男爵)が校長のとき、鉄拳制裁を厳禁した。

 だが、いつしか復活して、板倉光馬が生徒のときが鉄拳制裁の最盛期だった。なにごとによらず要領が悪く動作が鈍かった板倉はよく殴られた。

 昭和八年十一月十八日板倉光馬は、奇しくも二十二歳の誕生日に、海軍兵学校(六一期)を卒業し、少尉候補生に任命された。

 昭和九年二月十五日、横須賀港を、練習艦「浅間」「磐手」(一等巡洋艦)に分乗し遠洋航海に出発した。板倉候補生は「磐手」に乗組んだ。

 シンガポールを出港し、マラッカ海峡を抜けてインド洋に入ると、すでにモンスーンの季節で、偏西風が赤道直下の高温多湿を運び、ウネリが高く動揺が激しいので、舷窓を閉じた候補生室は蒸し風呂のように暑苦しかった。

 しかもその日の夜食が熱いうどんだった。内地を発つ前に厳しく躾けられたテーブルマナーなどかまっていられなかった。

 上衣や下着を脱ぎ、上半身は裸のままうどんをすすっていた最中に、急にざわつき始めた。おやっと思った直後、「裸で夜食をとるとは何事だ!」。頭上から指導官の怒声が降ってきた。

402.板倉光馬海軍少佐(2)君の成績では、宮崎の高等農林が分相応というものだ

2013年12月05日 | 板倉光馬海軍少佐
 その翌年、学年の担当である杉田宇内先生宅を訪ねて、板倉が相談したところ、「なに海軍兵学校? 君が海兵を志望するなんて……まさか、本気ではないだろうねェ」と言った。

 板倉が「本気です」と答えると、「本気だと!」と唖然としながらも、憐れむように「君の成績では、宮崎の高等農林が分相応というものだ。高望みもほどほどにしたまえ」と言った。

 杉田先生は図画の主任で、板倉の絵の素質を知っていて、以前は上野の美術学校の受験を勧めてくれたことがあったが、父の反対で駄目になったことがあった。

 だが、杉田先生は、今回は板倉の熱意に押されて、しぶしぶながらも、海軍兵学校受験の手続きを引き受けてくれた。

 それからというものは、板倉は死に物狂いで勉強した。海軍兵学校の試験は一月なかばだった。あと五ヶ月足らずだった。父は海兵受験に反対しなかった。

 放課後は閉館するまで図書館に入り浸り、家では食事もそこそこにして、夜を徹することも珍しくなかった。父は筑豊の炭坑に手を出して、ほとんど家に帰らなかったので、家でも勉強ができたのだ。

 相次ぐ事業の不振で、板倉の家は赤貧洗うが如き有様だった。そのため母は針仕事や実家からの仕送りで家計をやりくりしていたが、愚痴一つこぼさなかったばかりか、暗い顔を見せたことがなかった。

 生血が滴るような四ヶ月が過ぎて、苦闘の成果を試みる日が近づいたある夜、例年になく厳しい寒中、密かに水垢離(みずごり=水行)をとる母の姿を垣間見て、板倉は思わず合掌した。

 板倉は子を思う母親の愛情が切ないほどに感じられ、たとえ石に齧(かじ)り付いても試験に合格しなければならないと心に決めた。

 試験の前日、夜半に家を出た。何がしの金を押し付ける母の手をかたくなに拒み、筆記用具と握り飯を抱えて夜道を急いだ。

 小倉から福岡までの六十余キロ、玄界灘から吹き付ける北風が、いやが上にも闘志をかき立てた。宿は寺と決めていた。別に当てはなかったが、博多の材木町は寺が多いと聞いていた。

 懐中無一文だった。最初に目についた山門に「安国寺」と墨書した扁額がかかっていた。庭の白砂は鮮やかに掃き清められ、うっそうと茂る松の喬木が由緒ありげに見受けられた。

 玄関先で案内を乞うと、荒法師のような伴僧から、にべもなく断られた。「頼む」「帰れ」と押し問答をしているところに、眉雪の老僧が現れ、乞われるままに事情を話したところ、しばしの間、鋭い眼光で見つめられえたが、「お泊めしよう」といって、客室をあてがわれた。

 さすがに板倉も、このときばかりは、地獄で仏にあったように嬉しかった。安国寺は九州の末寺を統べる名刹だったのである。

 試験場の福岡師範学校に集まった海軍兵学校の受験者は二百名を越えていた。いずれも秀才らしく、自身ありげだった。

 初日の身体検査で三分の一近くがふるいにかけられた。学科試験も一科目ごとにはねられ、二日目の数学と英語で、大量の失格者が出た。

 今年の試験科目は英語、数学、国漢、歴史に絞られ、暗記ものが省かれた代わりに、作文が加えられた。

 三日目、控え室に貼り出された受験者の氏名は、あらかた赤線が引かれ、不要となった写真がうず高く積まれていた。試験場はまるで閑古鳥が鳴きそうだった。

 板倉は苦手の作文が気がかりであったが、「我国体の清華と吾人の覚悟」という題名を見て、案じたよりも筆が軽かった。

 何とか板倉は最終日まで残ることができたが、午前のメンタルテストで、九仞の功を一簣に欠いてしまった。

 「九仞の功を一簣に欠(虧)く」は、「きゅうじんのこうをいっきにかく」と読み、「高い山を築くのに、最後のもっこ一杯の土を盛らないために、山が完成しない」という意味。長い間の苦労や努力も、最後の僅かな失敗から不成功に終わること。中国の「書経」にあることわざ。

 仞(じん)は中国古代の長さの単位で、九仞は高さが非常に高いこと。一簣(いっき)はもっこに一杯の分量のことで、僅かな量のたとえ。

401.板倉光馬海軍少佐(1)板倉は父の反対を押し切ってでも画家で身を立てようと思っていた

2013年11月29日 | 板倉光馬海軍少佐
 「どん亀艦長青春記」(板倉光馬・光人社)によると、板倉光馬の出身校小倉中学は、北九州でも屈指の名門校で、一高や三高に進むものが少なくなかった。

 また、かつて第十二師団司令部の所在地だったこともあって、陸軍士官学校の受験者は多かったが、どういうわけか、海軍兵学校の受験者は少なかった。

 板倉光馬は当時軍人になろうとは考えてもいなかった。小倉中学の成績もかんばしくなく、たえず中の下あたりをうろついていた。

 ただし、図画だけは得意で、板倉の水彩画は、教員室の廊下や校長室に飾られていた。そんなことから、板倉は父の反対を押し切ってでも画家で身を立てようと思っていた。

 建築業の父は気性が激しく、家族にも厳しかった。三人兄弟のうち、一人だけは中学校にやって跡目を継がせようとした。兄は学問が嫌いで、器用な手先を生かすことを望んだ。いきおい、次男の光馬にお鉢が回ってきた訳だった。

 こうして小倉中学に入学したが、父は家での勉強を一切許さなかった。その理由は「塙保己一は、一度聴いたことは生涯忘れなかったという。学校から帰ってまで勉強しなければならぬようでは、末が思いやられる」というものだった。

 塙保己一(はなわ・ほきいち)は埼玉県出身の江戸時代の国学者で、「群書類従」(史書、文学作品1273種所収)、「続群書類従」の編纂者。七歳で失明したが、盲官の最高位・総検校(そうけんぎょう)まで昇進した。正四位。

 塙保己一は書を見ることができないので、人が音読したものを暗記して学問を進め、偉大な学者になった。「群書類従」は、英国のケンブリッジ大学、ドイツの博物館、ベルギーの図書館、アメリカの大学等にも所蔵されえている。

 板倉光馬は、そのような理由で、家で勉強する事はおろか、参考書のたぐいは一切買ってもらえなかった。

 昭和四年八月、父が門司の北端にある和布刈神社の修築を請け負ったため、光馬は夏休み中、毎日のように手伝わされた。

 昼過ぎに社務所のわきで休んでいた時、どよめきが起きた。光馬が振り向いてみると、眼下の関門海峡を連合艦隊が通航していた。

 戦艦部隊を先頭に、航空母艦、巡洋艦部隊が続き、駆逐艦、潜水艦の一群が、長蛇のごとく海峡を圧していた。壮観で堂々たる威風は、そのままが海国日本のシンボルだった。

 その躍動する黒鉄の美しさは、とうてい絵筆で表せるものではなかった。光馬は、全身を貫く稲妻のような感動に震えながら、艦影が千珠、満珠の彼方に消え去った時、初めて我に帰った。

 その瞬間、「よーし、海軍にゆこう」と光馬は思った。躍動する連合艦隊に魅せられて、板倉光馬の夢は、急転直下、飛躍した。

<板倉光馬(いたくら・みつま)海軍少佐プロフィル>
大正元年十一月十八日、福岡県小倉市(現・北九州市)生まれ。板倉九十馬(建築業)の次男。
昭和五年(十九歳)三月旧制福岡県立小倉中学校卒。四月一日海軍兵学校入校。
昭和八年(二十二歳)十一月十八日海軍兵学校(六十一期)卒。卒業席次は百十六名中七位。
昭和九年(二十三歳)二月十五日少尉候補生として練習艦「磐手」で地中海方面へ遠洋航海。七月三十日重巡洋艦「足柄」砲術士。
昭和十年(二十四歳)四月一日海軍少尉。戦艦「扶桑」乗組み。七月重巡洋艦「最上」乗組み、重巡洋艦「青葉」乗組み。
昭和十一年(二十五歳)十二月一日海軍中尉、「イ68潜」通信長。
昭和十二年(二十六歳)十二月一日空母「加賀」乗組み。
昭和十三年(二十七歳)三月十五日駆逐艦「如月」航海長。七月一日練習艦「八雲」主任指導官付。十一月海軍大尉。
昭和十四年(二十八歳)一月第八潜水隊付「イ5潜」乗組み。二月物産会社経営者・池田勲旭の一人娘、池田恭子と結婚。十月「イ54潜」航海長。十一月水雷学校高等科学生。
昭和十五年(二十九歳)五月水雷学校高等科学生(首席)卒業、「ロ34潜」航海長。九月潜水学校乙種学生。十二月「イ169潜」水雷長。
昭和十六年(三十歳)十二月八日真珠湾攻撃に参加。
昭和十七年(三十一歳)十一月潜水学校甲種学生。
昭和十八年(三十二歳)三月「イ176潜」艦長。四月「イ2潜」艦長。六月海軍少佐。十二月「イ41潜」艦長。
昭和十九年(三十三歳)四月竜巻作戦命令に反対する。八月特攻戦隊参謀兼指揮官(回天隊)。
昭和二十年(三十四歳)三月大津島突撃隊司令。八月終戦。復員局で戦後処理。
昭和二十一年(三十五歳)東亜産業株式会社入社。
昭和三十一年(四十五歳)食料品店経営。
昭和三十二年(四十六歳)海上自衛隊幕僚統監部非常勤嘱託。
昭和三十五年(四十九歳)三菱重工業株式会社神戸造船所勤務。
昭和五十年(六十四歳)同社退職。以後、著述、ボランティア活動などに従事。
平成十七年十月二十四日死去。享年九十四歳。

 主要著書に「どん亀艦長青春記」(光人社)、「不滅のネイビーブルー」(光人社NF文庫)、「伊号潜水艦」(光人社名作戦記)、「あゝ伊号潜水艦」(光人社NF文庫)、「続・あゝ伊号潜水艦」(光人社NF文庫)などがある。