昭和四十七年二月に刊行された「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)の永田鉄山刊行会のメンバーは、綾部橘樹元陸軍中将、有末清三元陸軍中将、片倉衷元陸軍少将、重安穐之助元陸軍少将、景山誠一元陸軍主計大佐らが名を連ねている。
彼らは、まえがきに、「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」というタイトルをつけて、生前の永田鉄山陸軍少将という人物を讃えている。その人物像を賞賛する象徴的記述は次のようなものである。
「このような歴史の転換期に国民が求めるのは何か、それはいつの世にも強力なる指導者でなければならぬ。国民をグイグイ引っ張って明確にその進路を指し示す荒海の中の灯台のような存在、正にこうした存在こそは国民と軍との連帯のキーポイントを握る軍務局長永田鉄山その人であった」。
さらに、「もし永田ありせば、大東亜戦争は起こらなかったであろう」とまで、述べている。だが、人物評というものは、実像と虚像が表裏一体となって伝わっているのが大勢である。ここでは、できるだけその真の人物像を掘り起こしながら実像に迫ってみる。
「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)所収、第三部「人間永田鉄山」・第七章「永田鉄山小伝」の中に、元陸軍少将・高嶋辰彦氏が「日本を動かした永田事件」と題して寄稿している。
高嶋辰彦氏は、陸軍幼年学校(首席)、陸士三〇期首席、陸大三七期首席で、将来の陸軍大臣、参謀総長と期待された人物だった。
昭和四年後半から昭和七年後半まで、高嶋大尉は、ドイツ駐在し、ベルリン大学やキール大学で修学・研究を行った。
昭和七年末にドイツから帰国した高嶋大尉は、中央各部に帰朝挨拶を行なった。その時のことを「日本を動かした永田事件」で、次のように述べている。
「中央で帰朝挨拶の際、参謀本部第三部長の小畑敏四郎少将に『ヨーロッパから観た日本の満州政策についての所見』を求められた」
「そこで私は『ソ満国境付近の軍備充実第一主義よりも、満州国の中央政治の充実確立、民生の安定第一主義の方が、よいように感ずる』旨を答えたところ、それまでの対談姿勢から突然回転椅子を机の方に回して聴取を打ち切られた」
「何故か判らなかったが強縮して退室した後に、永田第二部長に挨拶に行って、拙見が偶然にも第二部長の主張に近く、しかもこの問題が小畑、永田両部長の主張対立の中心点であったことを知った」。
以上のような高嶋氏の記述にあるように、当時の永田少将と小畑少将は、いわば犬猿の仲だった。
大正十年十月二十七日、ヨーロッパ出張中の岡村寧次少佐、スイス公使館附武官・永田鉄山少佐、ロシア大使館附武官・小畑敏四郎少佐の陸軍士官学校一六期の同期生三人が、南ドイツの温泉保養地バーデン・バーデンで軍の近代化など陸軍改革を誓い合った。
これが「バーデン・バーデンの密約」で、以後、永田鉄山と小畑敏四郎は帰国後も会合を行い、同志的結束で心情的にも固く強い絆で結ばれていた。
だが、この固く強い絆は二人が大佐に進級した頃から、次第に途切れていき、最後には思想的相違から、ついに妥協を許さないほどに対立したのである。
<永田鉄山(ながた・てつざん)陸軍中将プロフィル>
明治十七年一月十四日生まれ。長野県諏訪市出身。父・永田志解理(郡立高島病院院長)、母・順子の四男。永田家は代々医を業とした由緒ある家柄だった。
明治二十三年(六歳)四月高島高等小学校(上諏訪町)入校。
明治二十八年(十一歳)十月東京市牛込区の愛日高等小学校へ転校。
明治三十一年(十四歳)九月東京地方幼年学校入校。
明治三十四年(十七歳)七月東京地方幼年学校(恩賜)卒業、九月陸軍中央幼年学校入校。
明治三十六年(十九歳)五月陸軍中央幼年学校(次席)卒業、士官候補生として歩兵第三連隊に入隊、十二月陸軍士官学校入校。
明治三十七年(二十歳)十月二十四日陸軍士官学校(一六・首席)卒業、見習士官、歩兵第三連隊附、十一月一日歩兵少尉、歩兵第三連隊補充大隊附、十二月正八位。
明治三十九年(二十二歳)一月十八日歩兵第五八連隊附(朝鮮守備として平壌駐屯)、四月日露戦役の功により勲六等瑞宝章及び金二百円を下賜、戦役従軍記章授与)。
明治四十年(二十三歳)三月内地帰還(越後高田)、十二月二十一日歩兵中尉。
明治四十一年(二十四歳)三月従七位、十二月陸軍大学校入校。
明治四十二年(二十五歳)鉄山の母・順子(旧姓は轟)の弟、轟亨の娘、轟文子(二十歳)と結婚。従兄妹同士の結婚だった。媒酌人は、真崎甚三郎少佐(軍務局軍事課)。
明治四十四年(二十七歳)十一月二十九日陸軍大学校(二三期)卒業、卒業成績は次席(首席は梅津美治郎)、歩兵第五八連隊附。
明治四十五年(二十八歳)五月二十九日教育総監部第一課勤務。
大正二年(二十九歳)五月正七位、八月歩兵大尉、歩兵第五八連隊中隊長、十月十九日軍事研究のためドイツ駐在、十一月勲五等瑞宝章。
大正三年(三十歳)八月二十三日教育総監部附(日独国交断絶のため帰国)、九月二十四日母・順子死去、十一月九日東京着。
大正四年(三十一歳)三月俘虜情報局御用掛、六月二十四日軍事研究のためデンマーク駐在、十一月スェーデン駐在、大正三年・四年の戦役(第一次世界大戦)の功により勲四等旭日小綬章及び金四百円下賜、従軍記章、大礼記念章授与。
大正六年(三十三歳)九月十三日帰国、教育総監部附、十一月三日臨時軍事調査委員。
大正七年(三十四歳)七月従六位、十月特別大演習東軍参謀。
大正八年(三十五歳)四月十五日歩兵少佐。
大正九年(三十六歳)六月十八日欧州出張、十一月大正四年・九年の戦役(第一次世界大戦)の功により金千四百五十円下賜、従軍記章、戦捷紀章授与。
大正十年(三十七歳)六月十三日スイス在勤帝国公使館附武官、十月バーデン・バーデンの密約。
大正十二年(三十九歳)二月五日参謀本部附、三月十七日補教育総監部課員、四月スイスより帰国、八月六日歩兵中佐、正六位、作戦資材整備会議幹事、九月八日関東戒厳司令部附、陸軍震災救護委員(横浜配給所)、勲三等瑞宝章、十月兼陸軍大学校兵学教官(参謀要務教育担当)。
大正十三年(四十歳)八月歩兵第五八連隊附(松本)、十二月陸軍技術本部附兼陸軍省軍務局軍事課高級課員兼陸軍大学校兵学教官。
大正十四年(四十一歳)二月陸軍省軍事課課員、五月徴兵令改正審議委員幹事、六月国本社評議員嘱託。
大正十五年(四十二歳)三月二日陸軍兵器本廠附(作戦資材整備会議専務)、十月一日陸軍省整備局動員課長。
昭和二年(四十三歳)三月五日歩兵大佐、四月従五位。
昭和三年(四十四歳)三月八日歩兵第三連隊長。
昭和五年(四十六歳)四月二十五日妻・文子死去、八月一日陸軍省軍務局軍事課長兼陸軍通信学校研究部員、九月長野県人中央会名誉会員、十月支那へ出張。
昭和六年(四十七歳)三月三月事件、四月兼陸軍自動車学校研究部員、国際連盟軍縮会議準備委員会幹事。六月十二日第一師団長・真崎甚三郎中将の仲人で宮内省大膳職・有川作次郎の娘、有川重(二十九歳)と再婚。十月「十月事件」起こる。
昭和七年(四十八歳)四月十一日少将、参謀本部第二部長、五月上海へ出張、正五位、十月満州山海関、天津、済南、青島へ出張。
昭和八年(四十九歳)六月「対支一撃論」の永田鉄山第二部長と「対ソ戦準備論」の小畑敏四郎第三部長が対立、八月一日歩兵第一旅団長。
昭和九年(五十歳)二月勲二等瑞宝章、三月陸軍省軍務局長兼軍事参議院幹事長、陸軍高等軍法会議判士、四月二十九日昭和六年・九年事変の功により勲二等旭日重光章及び金二千五百円を下賜・従軍記章授与、十月陸軍パンフレット事件、十一月士官学校事件。
昭和十年(五十一歳)五月関東州及び満州国へ出張、七月十五日真崎甚三郎教育総監更迭、七月十九日相沢三郎中佐と面会、八月十二日相沢三郎中佐に斬殺される(相沢事件)、中将進級、従四位、正四位、勲一等瑞宝章、享年五十一歳、墓所は東京都港区青山霊園附属立山墓地。
彼らは、まえがきに、「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」というタイトルをつけて、生前の永田鉄山陸軍少将という人物を讃えている。その人物像を賞賛する象徴的記述は次のようなものである。
「このような歴史の転換期に国民が求めるのは何か、それはいつの世にも強力なる指導者でなければならぬ。国民をグイグイ引っ張って明確にその進路を指し示す荒海の中の灯台のような存在、正にこうした存在こそは国民と軍との連帯のキーポイントを握る軍務局長永田鉄山その人であった」。
さらに、「もし永田ありせば、大東亜戦争は起こらなかったであろう」とまで、述べている。だが、人物評というものは、実像と虚像が表裏一体となって伝わっているのが大勢である。ここでは、できるだけその真の人物像を掘り起こしながら実像に迫ってみる。
「秘録・永田鉄山」(永田鉄山刊行会・芙蓉書房)所収、第三部「人間永田鉄山」・第七章「永田鉄山小伝」の中に、元陸軍少将・高嶋辰彦氏が「日本を動かした永田事件」と題して寄稿している。
高嶋辰彦氏は、陸軍幼年学校(首席)、陸士三〇期首席、陸大三七期首席で、将来の陸軍大臣、参謀総長と期待された人物だった。
昭和四年後半から昭和七年後半まで、高嶋大尉は、ドイツ駐在し、ベルリン大学やキール大学で修学・研究を行った。
昭和七年末にドイツから帰国した高嶋大尉は、中央各部に帰朝挨拶を行なった。その時のことを「日本を動かした永田事件」で、次のように述べている。
「中央で帰朝挨拶の際、参謀本部第三部長の小畑敏四郎少将に『ヨーロッパから観た日本の満州政策についての所見』を求められた」
「そこで私は『ソ満国境付近の軍備充実第一主義よりも、満州国の中央政治の充実確立、民生の安定第一主義の方が、よいように感ずる』旨を答えたところ、それまでの対談姿勢から突然回転椅子を机の方に回して聴取を打ち切られた」
「何故か判らなかったが強縮して退室した後に、永田第二部長に挨拶に行って、拙見が偶然にも第二部長の主張に近く、しかもこの問題が小畑、永田両部長の主張対立の中心点であったことを知った」。
以上のような高嶋氏の記述にあるように、当時の永田少将と小畑少将は、いわば犬猿の仲だった。
大正十年十月二十七日、ヨーロッパ出張中の岡村寧次少佐、スイス公使館附武官・永田鉄山少佐、ロシア大使館附武官・小畑敏四郎少佐の陸軍士官学校一六期の同期生三人が、南ドイツの温泉保養地バーデン・バーデンで軍の近代化など陸軍改革を誓い合った。
これが「バーデン・バーデンの密約」で、以後、永田鉄山と小畑敏四郎は帰国後も会合を行い、同志的結束で心情的にも固く強い絆で結ばれていた。
だが、この固く強い絆は二人が大佐に進級した頃から、次第に途切れていき、最後には思想的相違から、ついに妥協を許さないほどに対立したのである。
<永田鉄山(ながた・てつざん)陸軍中将プロフィル>
明治十七年一月十四日生まれ。長野県諏訪市出身。父・永田志解理(郡立高島病院院長)、母・順子の四男。永田家は代々医を業とした由緒ある家柄だった。
明治二十三年(六歳)四月高島高等小学校(上諏訪町)入校。
明治二十八年(十一歳)十月東京市牛込区の愛日高等小学校へ転校。
明治三十一年(十四歳)九月東京地方幼年学校入校。
明治三十四年(十七歳)七月東京地方幼年学校(恩賜)卒業、九月陸軍中央幼年学校入校。
明治三十六年(十九歳)五月陸軍中央幼年学校(次席)卒業、士官候補生として歩兵第三連隊に入隊、十二月陸軍士官学校入校。
明治三十七年(二十歳)十月二十四日陸軍士官学校(一六・首席)卒業、見習士官、歩兵第三連隊附、十一月一日歩兵少尉、歩兵第三連隊補充大隊附、十二月正八位。
明治三十九年(二十二歳)一月十八日歩兵第五八連隊附(朝鮮守備として平壌駐屯)、四月日露戦役の功により勲六等瑞宝章及び金二百円を下賜、戦役従軍記章授与)。
明治四十年(二十三歳)三月内地帰還(越後高田)、十二月二十一日歩兵中尉。
明治四十一年(二十四歳)三月従七位、十二月陸軍大学校入校。
明治四十二年(二十五歳)鉄山の母・順子(旧姓は轟)の弟、轟亨の娘、轟文子(二十歳)と結婚。従兄妹同士の結婚だった。媒酌人は、真崎甚三郎少佐(軍務局軍事課)。
明治四十四年(二十七歳)十一月二十九日陸軍大学校(二三期)卒業、卒業成績は次席(首席は梅津美治郎)、歩兵第五八連隊附。
明治四十五年(二十八歳)五月二十九日教育総監部第一課勤務。
大正二年(二十九歳)五月正七位、八月歩兵大尉、歩兵第五八連隊中隊長、十月十九日軍事研究のためドイツ駐在、十一月勲五等瑞宝章。
大正三年(三十歳)八月二十三日教育総監部附(日独国交断絶のため帰国)、九月二十四日母・順子死去、十一月九日東京着。
大正四年(三十一歳)三月俘虜情報局御用掛、六月二十四日軍事研究のためデンマーク駐在、十一月スェーデン駐在、大正三年・四年の戦役(第一次世界大戦)の功により勲四等旭日小綬章及び金四百円下賜、従軍記章、大礼記念章授与。
大正六年(三十三歳)九月十三日帰国、教育総監部附、十一月三日臨時軍事調査委員。
大正七年(三十四歳)七月従六位、十月特別大演習東軍参謀。
大正八年(三十五歳)四月十五日歩兵少佐。
大正九年(三十六歳)六月十八日欧州出張、十一月大正四年・九年の戦役(第一次世界大戦)の功により金千四百五十円下賜、従軍記章、戦捷紀章授与。
大正十年(三十七歳)六月十三日スイス在勤帝国公使館附武官、十月バーデン・バーデンの密約。
大正十二年(三十九歳)二月五日参謀本部附、三月十七日補教育総監部課員、四月スイスより帰国、八月六日歩兵中佐、正六位、作戦資材整備会議幹事、九月八日関東戒厳司令部附、陸軍震災救護委員(横浜配給所)、勲三等瑞宝章、十月兼陸軍大学校兵学教官(参謀要務教育担当)。
大正十三年(四十歳)八月歩兵第五八連隊附(松本)、十二月陸軍技術本部附兼陸軍省軍務局軍事課高級課員兼陸軍大学校兵学教官。
大正十四年(四十一歳)二月陸軍省軍事課課員、五月徴兵令改正審議委員幹事、六月国本社評議員嘱託。
大正十五年(四十二歳)三月二日陸軍兵器本廠附(作戦資材整備会議専務)、十月一日陸軍省整備局動員課長。
昭和二年(四十三歳)三月五日歩兵大佐、四月従五位。
昭和三年(四十四歳)三月八日歩兵第三連隊長。
昭和五年(四十六歳)四月二十五日妻・文子死去、八月一日陸軍省軍務局軍事課長兼陸軍通信学校研究部員、九月長野県人中央会名誉会員、十月支那へ出張。
昭和六年(四十七歳)三月三月事件、四月兼陸軍自動車学校研究部員、国際連盟軍縮会議準備委員会幹事。六月十二日第一師団長・真崎甚三郎中将の仲人で宮内省大膳職・有川作次郎の娘、有川重(二十九歳)と再婚。十月「十月事件」起こる。
昭和七年(四十八歳)四月十一日少将、参謀本部第二部長、五月上海へ出張、正五位、十月満州山海関、天津、済南、青島へ出張。
昭和八年(四十九歳)六月「対支一撃論」の永田鉄山第二部長と「対ソ戦準備論」の小畑敏四郎第三部長が対立、八月一日歩兵第一旅団長。
昭和九年(五十歳)二月勲二等瑞宝章、三月陸軍省軍務局長兼軍事参議院幹事長、陸軍高等軍法会議判士、四月二十九日昭和六年・九年事変の功により勲二等旭日重光章及び金二千五百円を下賜・従軍記章授与、十月陸軍パンフレット事件、十一月士官学校事件。
昭和十年(五十一歳)五月関東州及び満州国へ出張、七月十五日真崎甚三郎教育総監更迭、七月十九日相沢三郎中佐と面会、八月十二日相沢三郎中佐に斬殺される(相沢事件)、中将進級、従四位、正四位、勲一等瑞宝章、享年五十一歳、墓所は東京都港区青山霊園附属立山墓地。