陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

512.永田鉄山陸軍中将(12)この頃から小畑大佐と永田大佐の亀裂はますます広がっていった

2016年01月15日 | 永田鉄山陸軍中将
 だが、この「一夕会」結成に対して、小畑大佐は反対していた。小畑大佐は「永田大佐は、二葉会結成当初の目標や理想の実現が遠くにあることにしびれを切らし、木曜会の若い将校等も仲間に入れて、自分達の栄達を実現しようとしている」と、永田大佐らに批判的な思いを持っていた。

 永田大佐の強い政治的能力により、さすがの小畑大佐も結局、「一夕会」結成に動かざるを得なかった。だが、この頃から小畑大佐と永田大佐の亀裂はますます広がっていった。

 一方、昭和六年九月、「桜会」が結成された。「桜会」は、次の二人が中心になって主導した。

 参謀本部ロシア班長・橋本欣五郎(はしもと・きんごろう)中佐(岡山・陸士二三・砲工高等二一・陸大三二・トルコ公使館附武官・参謀本部ロシア班長・中佐・「桜会」結成・陸軍大学校教官・「十月事件」で謹慎処分・野重砲兵第二連隊附・大佐・野重砲兵第二連隊長・予備役・召集・野重砲兵第一三連隊長・衆議院議員)。

 参謀本部支那課・長勇(ちょう・いさむ)少佐(福岡・陸士二八・陸大四〇・歩兵第七四連隊長・大佐・第二六師団参謀著・第二五軍参謀副長・少将・第一〇歩兵団長・第三二軍参謀長・中将・沖縄で自決)。

 「桜会」は陸軍省や参謀本部の中佐以下の中堅幕僚二十名余りが参加した。翌昭和七年五月頃には一〇〇余名まで増えた。彼らは、反米、反中で、政党内閣を廃し、軍事政権を樹立するという国家改造構想を持っていた。

 昭和五年八月永田大佐は中央に戻り、軍務局軍事課長に補された。軍事課長に就任した永田大佐は、実務は非常に優秀で、突発事項が発生しても、激することも無く、水が流れる如く、淡々と事務処理をこなしていったといわれている。

 また永田軍事課長は、経済の動向にも眼を配る一方で、新鋭の官僚や財界人と積極的に親交していった。時には一緒になって、羽目を外して遊興することもあった。

 こんな軍人は珍しいと評価される反面、経済不況が続く暗い時代の中で、政党政治が行き詰まり、政治家は無力となり、不正が暴かれテロ事件まで発生している時、政・官・財界人と親しくするとは何事だという中傷や非難の声が出た。

 だが、この時期の永田軍事課長の実績の一つとして、欧米にはるかに遅れていた国産自動車の生産に、陸軍が積極的に協力するようにしたことがある。

 昭和六年九月十八日柳条湖事件が起き、満州事変が勃発したが、永田大佐の軍事課長としての仕事ぶりは、冷静沈着、物に動ぜず、常に余裕しゃくしゃくで、実にしっかりした腹の持ち主であったと言われている。

 満州事変勃発の翌日、陸軍省内は上を下への大騒動であった。そのような時、永田課長は課員を兵務課長のところへ差し向け、かねてよりの問題であった青年将校の檄文に対する処置の件を督促させた。

 当時の兵務課長は、永田大佐と陸士同期の、安藤利吉(あんどう・りきち)大佐(宮城県仙台市・陸士一六・陸大二六恩賜・歩兵第一三連隊長・第五師団参謀長・陸軍省兵務課長・英国大使館附武官・少将・歩兵第一旅団長・陸軍戸山学校長・中将・教育総監部本部長・第五師団長・南支那方面軍司令官・予備役・台湾軍司令官・大将・第一〇方面軍司令官・兼台湾総督・服毒自決・正三位・勲一等・功二級)だった。

 安藤大佐は、永田課長が差し向けた軍事課員の「青年将校の檄文に対する処置」の話を聞き終えると、「永田は、今時、そんな余裕があるのか!!」と反問したという。

 これは、永田大佐が軍事課長としての事務処理を、綿密周到に行い、このような大事件の時でも、それを省略することはしなかったという例である。

 時は前後するが、永田鉄山大佐が軍事課長在任中に三月事件(陸軍中堅幕僚によるクーデター未遂事件)が起きた。

 昭和六年三月、参謀本部の高級幕僚と陸軍省高官の一部が宇垣一成を担いで(首相とする)クーデター計画を実行に移そうとしたが、中止された。これが三月事件である。