陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

389.真崎甚三郎陸軍大将(9)尊敬しあった真崎大将と永田少将の関係が決定的瞬間を迎える

2013年09月06日 | 真崎甚三郎陸軍大将
 このような思想の中央幕僚の当面の障害物は、「北進論」に拠る部内の皇道派だった。皇道派の追放作戦は活発化した。

 国家総動員体制を確立するためには、極度に全体主義体制を拒否することがはっきりと予想される皇道派の統領、真崎大将を排斥することから始めなければいけなかった。

 ここに、これまで互いに信頼し尊敬しあった真崎大将と永田少将の関係が決定的瞬間を迎えるのだった。それは、国家の運命の明暗をわける体制の選択という岐路に立つ厳粛な課題であるべきはずだった。

 さわやかであるべきはずの政策論争が、いつしかそれぞれの周辺の圧力によって、陰湿な派閥抗争、権力闘争に変質して、どす黒い諸々の事件へと連動していった。

 まず、昭和十年に入り、美濃部達吉博士の天皇機関説と呼ばれる憲法学説を政府が禁止した事件が起こり、全国的な波紋を投じた。

 だが、皮肉なことに、天皇自身は、もっともこの機関説の同調者として高く評価され、陸軍の皇道派、特に全軍に機関説反対の訓示を布達した教育総監・真崎大将は、超タカ派であると論難された。

 日本全土が天皇機関説問題で揺り動かされていた昭和十年七月十六日の夕刊は、陸軍の人事について特別の報道をした。

 「陸軍大異動断行 先ず教育総監を更迭 後任には渡辺大将」。これがトップ記事の見出しだった。

 真崎教育総監は、八月の定期異動に先立つ七月十五日、石もて追われる如く、突如罷免されたのだった。このような事態に至る経過は次のようなものだった。

 「叛乱・上」(立野信之・ペリカン社)によると、統制派の中央一部幕僚らにとって、真崎甚三郎大将を教育総監から逐い出すことは、取りも直さず陸軍部内から皇道派を一掃することであった。

 その目標の最も大きなものは、真崎大将の次に、かつて憲兵司令官として皇道派のゲー・ペー・ウー的存在であった第二師団長・秦真次中将(待命)だった。

 また、次の目標は第一師団長・柳川平助中将(予備役編入)であり、整備局長・山岡重厚少将(第九師団長)、軍事調査部長・山下奉文少将(朝鮮軍旅団長)、作戦課長・鈴木率道大佐(すずき・よりみち・広島・陸士二二・陸大三〇首席・陸大教官・参謀本部作戦課長・砲兵大佐・支那駐屯砲兵連隊長・少将・陸軍航空本部総務部長・中将・第二航空軍司令官・予備役・死去)(参謀本部付)らだった。

 一方、参謀次長に建川美次、航空本部長に小磯国昭、植田謙吉を軍事参議官にして杉山元を朝鮮軍司令官に出すことが考慮された。また、久留米の旅団長・東條英機少将を中央に戻すことにした。

 これらの将官級の異動の原案は人事局長・今井清中将(いまい・きよし・愛知・陸士一五・陸大二六恩賜・スウェーデン駐在・デンマーク駐在・陸大教官・歩兵第八〇連隊長・参謀本部作戦課長・少将・歩兵第三〇旅団長・陸大幹事・中将・参謀本部第一部長・陸軍省人事局長・軍務局長・第四師団長・参謀次長・陸大校長・病没)が立案した。

 この原案に陸軍次官・橋本虎之助中将(はしもと・とらのすけ・愛知・陸士一四・陸大二二・ロシア駐在武官・大佐・騎兵第二五連隊長・参謀本部欧米課長・少将・参謀本部第二部長・関東軍参謀長・関東憲兵隊司令官・参謀本部総務部長・中将・陸軍次官・近衛師団長・二二六事件後予備役・満州国祭祀府総裁)が意見を加えた。

 それから陸軍大臣・林銑十郎大将に提出された。永田軍務局長には林陸軍大臣の許に提出されたものを見せて意見を徴した。

 従来異動に際しては、人事局長案が出れば、すぐ教育総監と相談をし、内定を見てから、参謀総長に見せる仕組みになっていた。

 参謀総長は閑院宮で、陸軍部内における皇道派と統制派の対角線上の中心として、いわばその緩和剤として選任されていた。