丸2月号別冊・戦争と人物「連合艦隊司令長官」(潮書房)の巻頭の写真がある。昭和12年7月1日、海軍大臣官邸におけるフランス極東艦隊司令長官以下歓迎晩餐会記念撮影とある。
この写真に米内光政、山本五十六、豊田副武ら海軍首脳とともに佐藤市郎が写っている。
昭和12年といえば佐藤市郎は海軍少将で海軍航空本部教育部長、海軍技術会議委員の職にある。
この写真を見ると兄弟宰相岸信介と佐藤栄作を合わせたような顔である。二人の宰相の長兄であるから当然といえば当然であるが、それにしても、興味深い顔つきである。若い中佐の時の写真は、全然違う顔のように思えるのだが。まるで大学教授のような顔つきである。
長男の信太郎氏は「父、佐藤市郎が書き遺した軍縮会議秘録」(文芸社)のプロフィルで、「彼(父)の最大の趣味は読書であった。読書は広い範囲に及んでいた。彼の死後特製の本棚二脚にぎっしりの蔵書が残された。蔵書の範囲は各分野にわたった」と書いている。
また、「1917年、練習艦隊参謀として北米西海岸方面回航の節、鈴木貫太郎司令官のテーブルスピーチの通訳を行い、彼の地の人々の大喝采を博した。彼の英語は聴衆に解りやすかったようである」とも記してある。
英国の海軍関係月刊誌「NAVY」が1916年のユトランド沖海戦記念号に日本海軍の見解として佐藤市郎の英文の論文が掲載されている。語学に堪能な、探究心の旺盛な学者肌の一面を見ることができる。
佐藤は昭和13年11月に海軍中将に昇任し、旅順要港部司令官に補されている。そして15年4月に予備役に編入された。
海軍大学を首席で卒業し、ジュネーブ、ロンドンの軍縮会議で命がけで働いた佐藤を、海軍中将の職として、要港部司令官に任命した。海軍中央の要職につけることを帝国海軍はしなかった。
佐藤ほどの頭脳明晰で海軍部内でも大いに期待されていた秀才が大将に進級することなく中将で予備役に編入されたのは、艦隊派に、にらまれ左遷されたからであるという説もある。
ロンドン軍縮会議全権委員の若棋槻禮次郎元首相の著「古風庵回顧録」には次のように記されている。
「軍縮会議の犠牲。はじめ海軍省内では、大部分のものがこの条約に反対だったと聞く。当時省内の要職にあった人たちは、条約に同意したという理由かどうか知らないが、後にみんな外に出され予備に回され海軍では用いられなかった。軍縮会議で働いたとかの理由で、海軍がその人たちを冷遇したと聞く私は、心中不愉快にたえなかった」。
また、「父、佐藤市郎が書き遺した軍縮会議秘録」(文芸社)の巻末のプロフィルには、尊敬していた有名な上司からの手紙に「余りの秀才は世間からうとまれるのではないかと思われる」と書かれていた。有名な上司が誰なのかは記されていない。
(「佐藤市郎海軍中将」は終わりです。次回からは「石原莞爾陸軍中将」です)
この写真に米内光政、山本五十六、豊田副武ら海軍首脳とともに佐藤市郎が写っている。
昭和12年といえば佐藤市郎は海軍少将で海軍航空本部教育部長、海軍技術会議委員の職にある。
この写真を見ると兄弟宰相岸信介と佐藤栄作を合わせたような顔である。二人の宰相の長兄であるから当然といえば当然であるが、それにしても、興味深い顔つきである。若い中佐の時の写真は、全然違う顔のように思えるのだが。まるで大学教授のような顔つきである。
長男の信太郎氏は「父、佐藤市郎が書き遺した軍縮会議秘録」(文芸社)のプロフィルで、「彼(父)の最大の趣味は読書であった。読書は広い範囲に及んでいた。彼の死後特製の本棚二脚にぎっしりの蔵書が残された。蔵書の範囲は各分野にわたった」と書いている。
また、「1917年、練習艦隊参謀として北米西海岸方面回航の節、鈴木貫太郎司令官のテーブルスピーチの通訳を行い、彼の地の人々の大喝采を博した。彼の英語は聴衆に解りやすかったようである」とも記してある。
英国の海軍関係月刊誌「NAVY」が1916年のユトランド沖海戦記念号に日本海軍の見解として佐藤市郎の英文の論文が掲載されている。語学に堪能な、探究心の旺盛な学者肌の一面を見ることができる。
佐藤は昭和13年11月に海軍中将に昇任し、旅順要港部司令官に補されている。そして15年4月に予備役に編入された。
海軍大学を首席で卒業し、ジュネーブ、ロンドンの軍縮会議で命がけで働いた佐藤を、海軍中将の職として、要港部司令官に任命した。海軍中央の要職につけることを帝国海軍はしなかった。
佐藤ほどの頭脳明晰で海軍部内でも大いに期待されていた秀才が大将に進級することなく中将で予備役に編入されたのは、艦隊派に、にらまれ左遷されたからであるという説もある。
ロンドン軍縮会議全権委員の若棋槻禮次郎元首相の著「古風庵回顧録」には次のように記されている。
「軍縮会議の犠牲。はじめ海軍省内では、大部分のものがこの条約に反対だったと聞く。当時省内の要職にあった人たちは、条約に同意したという理由かどうか知らないが、後にみんな外に出され予備に回され海軍では用いられなかった。軍縮会議で働いたとかの理由で、海軍がその人たちを冷遇したと聞く私は、心中不愉快にたえなかった」。
また、「父、佐藤市郎が書き遺した軍縮会議秘録」(文芸社)の巻末のプロフィルには、尊敬していた有名な上司からの手紙に「余りの秀才は世間からうとまれるのではないかと思われる」と書かれていた。有名な上司が誰なのかは記されていない。
(「佐藤市郎海軍中将」は終わりです。次回からは「石原莞爾陸軍中将」です)