陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

504.永田鉄山陸軍中将(4)「ペンなら書く、筆では書かぬ」と、絶対に筆をとらなかった

2015年11月20日 | 永田鉄山陸軍中将
 それによると、永田候補生は、学科、術科、操行もみな一番であるが、惜しいことに、字だけが拙いとあった。幼年学校の考課にもこの事が記されてあった。

 全てに優秀な永田鉄山であったが、字だけは下手であった。後日、永田が地位を得て、揮毫を頼まれると、「ペンなら書く、筆では書かぬ」と、絶対に筆をとらなかった。

 従って、今日、永田鉄山中将の筆による揮毫は少なく、ただ一つ、永田が郷里の在郷軍人会・分会の班旗にその班名を書いたのがあるのみである。

 軍曹の袖章に星章を付けた襟の軍服を着た士官候補生、永田鉄山は、明治三十六年十二月一日、市ヶ谷台の陸軍士官学校に入校した。

 士官学校時代の永田生徒は、文武両道共に成績優秀だった。また、どんな時でも、どんな事があろうとも、常に余裕綽々たる態度であった。

 また、試験前には永田の机の前には次から次へと同期生の質問者が押し寄せてきて、永田自身の勉強ができないほどであったが、これを嫌がることなく、親切にこれら同輩に教えてやった。

 この約十一か月間の士官学校時代、元来あまり頑強ではなかった永田は、持前の負けじ魂で、押し通したが、そのため卒業を前にして遂に健康を害して、約二週間の転地療養を余儀なくするに至った。

 その療養から帰校し数日後に卒業試験を受けねばならなかった。だがその結果は、なんと、全科の首席は永田だった。

 卒業式当日、明治天皇の御臨幸を受け、首席の永田は御前講演の栄に浴し、恩賜の時計を拝受し、観兵式には中隊の先頭小隊長を勤めた。

 明治三十七年十月二十四日永田鉄山は陸軍士官学校(一六期)を首席で卒業した。永田ら八名は、歩兵第三連隊附となり、見習士官を一週間務めたあと、十一月一日歩兵少尉に任官した。永田鉄山少尉は、歩兵第三連隊補充大隊の第一中隊に配属された。

 補充大隊は大隊長・嵯坂七五郎少佐(後の退役大佐)の下に、六個中隊から編制されていたが、現役の中隊長は二名、士官学校出身の中隊附き士官はわずかに二名だった。士官学校卒業の永田少尉ら八名の帰隊が、どれほど期待されていたか言うまでもなかった。

 永田少尉は、補充兵教育に当たり、入隊した一年志願兵の教官に任命された。志願兵たちは、はちきれそうな元気いっぱいの永田少尉を、「金時少尉」と呼んだ。

 「軍人の最期」(升本喜年・光人社)によると、当時の永田鉄山少尉は、真面目で知性的で、現実的な合理主義の一面があり、馴れ合いの徒党を組むことを嫌い、孤高の感じもあったが、その一方、酒も好き、女も好きで、器の大きさを感じさせたという。

 任官翌年の春のある日、当時の東京衛戍総督・佐久間左馬太(さくま・さまた)大将(山口県萩市・奇兵隊・長州藩諸隊亀山隊大隊長・戊辰戦争・維新後陸軍大尉・熊本鎮台参謀長・西南戦争では歩兵第六連隊長・少将・歩兵第一〇旅団長・中将・男爵・第二師団長・子爵・近衛師団長・中部都督・大将・東京衛戍総督・台湾総督・伯爵・正三位・勲一等)が突然、歩兵第三連隊の補充大隊を巡視した。

 その時、永田少尉は志願兵の小隊教練教育に当たっていた。永田少尉は志願兵相互の小隊指揮演練の猛訓練を二十分間行った後、「演習終わり、解散!」と命令して、そのまま何のこだわりもなく、颯爽と営門を出ていった。

 佐久間大将の巡視というので、他の中隊では中隊長以下総出で、必死で長時間に渡って演習が続けられたにもかかわらず、永田教官のこのあまりにも淡泊なやり方に志願兵たちは不審を抱いた。

 志願兵の一人が翌日、「少尉殿!昨日は他の中隊では平日以上に長く演習していましたのね、私達ばかりどうしてあんなに早く演習を終わったのですか?」と質問した。

 すると、ニコッと笑った教官の永田少尉は、「ナアーニ、誰がいようと、どんな偉い人が見ていようと、自分に満足が出来れば、わずか十分でも五分間でも好いのだ。あながち長時間の教練が良いというわけのものじゃないさ……」と事もなげに答えた。

 明治三十九年一月、歩兵第五十八連隊附として、永田鉄山少尉は韓国守備の任務に就いた。着任当時の連隊長は渡辺祺十郎(わたなべ・きじゅうろう)大佐(福島・歩兵第一二連隊長・陸軍戸山学校長・歩兵第二連隊長・歩兵第五五連隊長・歩兵第五八連隊長・少将・歩兵第三一旅団長・歩兵第三四旅団長)だった。