市政をひらく安中市民の会・市民オンブズマン群馬

1995年に群馬県安中市で起きた51億円詐欺横領事件に敢然と取組む市民団体と保守王国群馬県のオンブズマン組織の活動記録

海外食べある記・・・台湾/台北/欣葉101「食芸軒」

2012-08-22 00:12:00 | 国内外からのトピックス
■世界中には実にさまざまな食材とそれを加工し調理する方法があり、その成果品である料理は、それぞれのお国柄を示して、大変興味深いものが有ります。今回は、最近、食べ歩いた中からいくつかご紹介したいとおもいます。最初は、まず台湾のタイペイから。


 台北にある、かつて世界で一番高かった時期もある台北101ビルの85階にレストランが2軒あります。その1軒として、台湾で最も名の知られる台湾料理店の老舗に数えられる「欣葉(Shinyeh)」が陣取っています。

 かつて、1980年代には、台湾料理(台菜)といえば、「青葉」や「梅子」が有名で、もちろん今でも有名ですが、1977年創業の「欣葉」は、やや後発でした。しかし、その後、欣葉も評判となり、いまでは老舗の「台菜」として知られています。台湾には11店鋪(台湾料理店以外を含む)をチェーン展開しており、日本にも九州の小倉に1店鋪あります。

 台北101の85階に2007年4月オープンした欣葉101「食芸軒」は、東、北、西の三面全てが窓になっている眺望レストランです。伝統に磨かれ、かつ、洗練された台湾料理の真髄をキープしつつ創作的にアレンジされた料理を、特別な空間で味わうのは何とも言えない幸せな時間です。


 というわけで、値段的にも決してお安くない店ですが、オープン以来いつも満席状態のため、必ず予約が必要です。今年の3月に当会取材班が台湾の結婚式を取材するために訪れた際、現地受入側から昼食に招かれた際に、同店を取材したので報告します。

 現地スタッフらと総勢10名でいただいたのは、昼食(午餐)のコース料理でした。価格は現地側に確認していませんが、後でネットでチェックすると1卓10名分で、1万6000NTドル=約6万円程度のようです。

■とにかく値段を気にせず、高さ396メートルの空間でいただく台湾料理は誠に素晴らしいものでした。メニューに沿って写真でそれぞれの料理をご賞味下さい。


↑珊瑚龍蝦盞
Chilled lobster on tomato and sweet taro paste


↑上に見える前菜が珍瓏三彩拼/Appetizer Combination Plate


↑孔雀烏魚子、翡翠海蜇、椒塩杏鮑●(草かんむりに姑)
Roasted mullet roe – tossed jelly fish in sesame oil – Stir-fried oyster mushroom


↑佛跳牆魚翅
Taiwanese signature soup with taro, pork, sparerib, shark's fin and chicken


↑葱油石斑魚
Steamed sea garoupa with scallion and soya sauce


↑雀巣淮山蝦球
Wok seared king prawn with Chinese yam nested in shredded taro



↑見た目はただの饅頭のようだが、中を割ってみると・・・皇朝焼餅
Sesame cakes stuffed with minced pork


↑いわゆるうな重・・・蒲焼鰻魚飯
Teriyaki eel on glutinous rice


↑冬蟲花燉湯
Braised chicken soup with Dong Chong mushroom


↑季節鮮水菓
Seasonal fresh fruit


↑香烤鳳梨酥
Pineapple cake


↑季節甜湯
Seasonal sweets soups

【ひらく会・海外食文化調査班】

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これ以上外国で恥をかかないように最低限の国際ルールとマナーを学校で子どもと学びたい韓国政府

2012-08-21 21:19:00 | 国内外からのトピックス
■今年の春、台湾に取材に行ったとき、成田空港から中華航空機で出発しました。機内の座席前にある画面を操作すると、飛行機の飛行ルートが現れました。それを見ると、東シナ海が「東海」と現されています。

連日大勢の日本人旅客で賑わう中華航空の成田発台北(桃園)行きの搭乗風景。

機内の飛行ナビ画面(中国語バージョン)。

 台湾(中華民国)でも、中国大陸(中華人民共和国)でも、東シナ海を「東海」と呼んで、そのように現しています。しかし、英語名では、East China Sea(東シナ海)と表記しています。韓国はたびたび文句をいっていますが、台湾や中国では、東シナ海を「東海」と呼ぶことが慣わしとなっており、日本海のことは「日本海」と呼んで、国際的な呼称にしたがっています。

機内の飛行ナビ画面(英語バージョン)。

 韓国は、世界が「日本海」を「東海」と呼んでくれないのはけしからん、などと怒っていますが、「南海」が「東シナ海」と呼ばれていることに対しては、文句を言いません。また、「西海」を世界が「黄海」と呼んでいることについても、何も言いません。「日本海」だけが、気に入らないようです。

■こうした、韓国の国際オンチについては、これまでも当会のブログで触れてきましたが、現在、韓国が勝手に不法占拠して「独島」などと不法に名前を付けて騒いでいる竹島問題のほかにも、日本海呼称問題があります。これは、国際的に「日本海」或いは、その同義語で呼ばれている日本海の呼称を、韓国(北朝鮮もこの件では便乗。反日のコンプレックスだけは共有している)が変更するように求めている呼称問題です。

 日本海呼称問題が始めて取り沙汰されたのは、韓国と北朝鮮が1991年に国連に同時加盟した後のことです。それまでは、何の問題もなく、日本海という名称は長年にわたり、世界で通用していました。

 韓国のなかでは、反日の国民性から、日本海という呼称を嫌って使わず、朝鮮半島を中心として、東側の日本海を「東海」、南側の済州島や対馬周辺海域を「南海」、西側の黄海を「西海」と呼んでいます。

 日本でも、地震の起こる区域によって、日本周辺の海域を便宜的に「東海」地震だとか、「南海」地震などと呼んだり、北に位置する島を「北海」道と呼んだり、長崎県の西側にあるまちや公園を「西海」市とか「西海」国立公園と呼んだりして、そうした名称を使うことがありますが、それを国際的に「太平洋の一部海域をそのように正式名称として採用しろ」などとは、誰も言いません。ヨーロッパの北部海域に「北海」という名称が付けられていますが、これは欧州各国にとって、北側にある海であることが共通認識されており、誰も異論を唱えるものがおらず、古くから「北海」と呼ばれてきています。

■ところが、韓国は、なにを思ったのか、国連に加盟後、国際水路機関(IHO)の「大洋と海の境界(S-23)」の改訂に関する会議や、国際連合地名標準化会議などに便乗し、日本海の名称変更及び変更にいたるまでの間の併記を要求する運動を行っているのです。そもそも、これらの国際会議はその分野の専門家が技術的な立場で議論する場です。個別の地理的名称の妥当性というような政治的な問題を議論する会議ではありません。しかし、韓国の場合、政治の影響を排除したオリンピックの神聖な会場内であっても、平気で竹島問題のプラカードを掲げて、こぞって得意満面になりたがる国民性を持っているため、こうした国際ルールがまるで分かっていないのです。

 台湾や中国が東シナ海のことを、中国語で「東海」といい、英語で「East China Sea」と国際的な呼称で使い分けているですから、韓国が日本海のことを韓国語で「東海」というのであればまだしも、英語で「East Sea」というふうに、国際的な呼称に修正しろ、というのは、むちゃくちゃな論理です。

■まずは、韓国政府が取るべき措置は、学校で最低限の国際ルールやマナーを子どもたちに教えているでしょうから、現職大統領を始め主要閣僚も机を並べて、子どもたちと一緒に勉強させることだと思われます。

【ひらく会情報部】

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これでいいのか群馬県環境行政…3つ目のゴミ最終処分場の申請が出た安中市岩野谷の大谷地区

2012-08-20 23:57:00 | 全国のサンパイ業者が注目!
■またもや安中市岩野谷の大谷地区にサンパイ場設置計画が浮上しました。平成24年6月29日付で、株式会社アーバン環境サービス(安中市岩井606、代表取締役後藤秀樹)が一般廃棄物・産業廃棄物最終処分場(管理型)の廃棄物処理施設設置等事前協議書を群馬県知事宛に提出したことが明らかになったのです。

新たに大谷地区長坂で浮上したアーバン環境サービスのサンパイ場計画の位置図。
 もともと、この場所(安中市大谷字長坂1200-1ほか)には、エム・ケイ・エス(株)という怪しげな事業者が、平成16年2月4日に一般廃棄物(焼却灰)と産業廃棄物(燃え殼、汚泥、廃プラスチック類、紙くず、木くず、繊維くず、動植物性残さ、ゴムくず、金属くず、ガラスくず・コンクリー卜くず及び陶磁器くず、鉱さい、がれき類、ぱいじん、13号廃棄物)を埋め立てる管理型処分場の事前協議を群馬県に提出していました。いつのまにか、設置計画が新しい業者にバトンタッチされていたわけです。

 これで、大谷地区では、岩井川の上流から順に4つの廃棄物処理にかかわる施設がズラリと並ぶおそれが高まりました。

■一番奥の新山・出雲地内では、㈱環境資源が管理型の一般廃棄物(焼却残渣・不燃性廃棄物)・産業廃棄物(燃えがら、汚泥、廃プラスチック類、紙くず、木くず、ゴムくず、金属くず、ガラスくず及び陶磁器くず、鉱さい、ばいじん、がれき類、13号廃棄物(猛毒ないし有毒な化学物質を溶かしてコンクリートで固めたもの))最終処分場(施設面積約9ha、埋立容量644,924㎡)設置のための事前協議がほぼ終了目前です。

左手のくぼ地の方向が環境資源のサンパイ場予定地。

 そのすぐ東側には、大和建設㈱(高崎市寺尾町1777、代表取締役萩原正弘)の産業廃棄物中間処理(ガラスくず、コンクリートくず及び陶磁器くず(廃石膏ボード)の破砕:20t/日(2.5t/時)、木くずの破砕:290.9t/日(36.36t/時間)、廃プラスチック類、紙くず、木くず、繊維くず、ゴムくず、金属くず、ガラスくず、コンクリートくず及び陶磁器くず、がれき類の選別破砕:121.5t/日、廃プラスチック類の溶解:0.6t/日、がれき類、ガラスくず・コンクリートくず及び陶磁器くずの破砕:416t/日(52t/時間)、廃プラスチック類の破砕:30.7t/日(3.84t/時))及び一般廃棄物(木くずの破砕:290.9t/日(36.63t/時))最終処分施設が平成16年7月から稼動開始しています。

ヤマト建設安中事業所。

■上記の2施設はいずれも、大谷地区を流れる岩井川の水源地帯に位置しており、それらから集められた雨水は、灌漑用の新山貯水池に注ぐことになります。その貯水池から岩井川が大谷地区の集落と田圃にそって、北の方向に流れ下りますが、大谷の上組の、岩井川の西岸の長谷津の一番奥の、同じ岩野谷の東野殿に接したところに、平成19年1月1日から稼動しているサイボウ環境㈱(安中市大谷1900番地1、代表取締役社長高山和之)の管理型一般廃棄物(焼却灰・不燃ごみ)最終処分場(処分場面積32,298㎡、埋立面積18,988㎡、埋立容積274,388㎥(内訳:廃棄物207,042㎥、覆土67,346㎥)があります。



 サイボウ処分場は当会のブログでも報告している通り、サイボウが違法の限りを尽して偽造した申請書を、群馬県に提出し、地元住民らが警察に告発しましたが、群馬県は県警と密談し、偽造書類の作成を測量委託業者のせいにして起訴し、サイボウは無罪とされてしまったのでした。

 そして、岩井川が流れ込む碓氷川に面した野殿丘陵の北側斜面にある東邦亜鉛㈱でも、自社用と称して、既に平成22年4月に完成させた安定型の産業廃棄物(廃プラスチック類(石綿含有産業廃棄物含む)、ゴムくず、金属くず、ガラスくず・コンクリートくず。陶磁器くず(石綿含有産業廃棄物含む)、がれき類(石綿含有産業廃棄物含む))最終処分場(埋立面積2,083.59㎡、埋立容量12,747.65㎥)が、群馬県の施設検査の完了を待つだけ、という状態になっています。


東邦亜鉛のサンパイ場「廃棄物の坑外埋立場」。2010年12月18日撮影。

 こうした中で、地元住民が懸念していたことが、現実となってしまったのです。それは冒頭で述べたとおり、岩野谷で5つ目の廃棄物処理施設、大谷地区に限れば、4つ目の廃棄物処理施設の事前協議書が平成24年6月29日に群馬県に提出されたことがわかったからです。

■当会の調査によれば、設置場所は群馬県安中市字長坂1200-1外20筆で、設置場所全体の面積は32,743㎡、持ち込まれる廃棄物は一般廃棄物として焼却灰、産業廃棄物として燃え殻、汚泥、廃プラスチック類、紙くず、木くず、繊維くず、動植物残さ、ゴムくず、金属くず、ガラス・陶器くず、鉱さい、がれき類、煤塵、施行令第1条13号廃棄物となっています。これは現在、事前協議が最終段階の大谷の新山・出雲地内の㈱環境資源の処分場と同様の廃棄物の種類です。また、埋立容量は520,000㎥(うち覆土110,000㎥)とされており、サイボウ環境の処分場の約2倍、環境資源が計画中の処分場の規模の約8割という大きな施設のようです。

 廃棄物の搬入は、高崎市側の尾根を走る県道藤木・高崎線から施設に持ち込み、管理事務所前のトラックスケールで重量を測った後、埋立場所に堆積し、廃棄物の高さが3mになったら50cmの覆土をする、いわゆる層状のサンドイッチ方式の埋立をするようです。覆土は、計画地内の残土他で確保し、搬入路入り口の南側に堆積保管するとあります。

新たなサンパイ場の予定地。

■計画予定地の地番は、すべて大谷字長坂の1200-1、1200-3 、1203、1204、1187-1、1199-1、1198、1197、1196-1、1192、1193-1、1195-2(以上の地目は山林)、1188-1(原野)、1201-3、1201-1、1201-4、1191、1190、1189(以上は水田)、1193-2(畑)の合計21筆から構成されています。この場所は、農振法に指定されている農用地区域です。ただ、耕作放棄地が大半を占めているため、所有者は売却したがっている可能性があります。

 また、施設の敷地協会から20mの範囲の土地の筆数は30筆あり、うち3筆は高崎市に属しています。こられの地権者は18人程度いるとみられます。このうち12人程度は、業者による事前協議書の提出について確認書を業者に出している模様です。

埋立完了後の跡地利用として果樹園を想定。


 さらに、予定地周辺の住民の状況は、50m以内には誰も居らず、50m~100mに5戸、100m~200mに21戸、200m~300mに11戸の合計37戸が300m以内に居住しています。施設の敷地境界から最も近い住民の家までは60mです。長坂集会所までは200m、稼働中の大和建設のサンパイ中間処理施設まで350mの距離になります。

 また敷地境界から500m以内の地下水及び湧水の利用状況は皆無となっていますが、本当にそうなのかは定かではありません。

 処分場施設からの排水ルートは、施設内の雨水調整池から大谷の長坂の集落を通る県道吉井・安中線の脇の水路に放流され、その水路を経由して岩井川に注ぎ込まれます。当然、長坂の集落から下流の水田には影響が及ぶものと思われます。

排水は県道脇の水路をとおって岩井川へ。

排水処理施設の予定位置は県道吉井・安中線のすぐ脇。

■協議者の㈱アーバン環境サービスは、平成13年4月5日に東京都新宿区西新宿4-29-2で法人登記され、平成24年6月18日に群馬県安中市岩井に移転登記しました。資本金は9600万円。代表取締役は後藤秀樹、取締役は井上勝、浜田政人、石川徹、矢内正行、大沢龍樹、監査役は田中秀美となっています。

 施設設置に要する資金総額は、18億6000万円で、内訳は用地費3億円、造成費7億円、建物費3000万円、工作物費4億円、機械装置費2億5000万円、重機備品費1億5000万円、その他3000万円が見込まれていますが、サイボウ環境の処分場(34億4000万円)や、環境資源の処分場計画(約38億円)に比べると、非常に投資額が小さくなっています。

 おそらく、廃棄物処理業者は、情報共有化により、群馬県の岩野谷地区周辺では処分場の申請手続きが容易で、群馬県は積極的に許認可を与えるということを知っていると思われます。サイボウの処分場申請手続で実効成果をあげ、現在、環境資源の処分場で活躍中の群馬県の職員OBの存在も、新たな廃棄物最終処分場計画に関して、全く無縁とは思えません。

■当会が平成2年から懸念してきたように、最終処分場は1ヵ所でも作られてしまうと、全国のサンパイ業者の間に「あの地域はサンパイ場が造りやすい場所だ」として、次々と計画が持ち込まれます。当会の知る限り、このほかに大谷にはあと3箇所、岩井にも1箇所の処分場の計画が過去に浮上したことがあります。一旦、計画が立ち消えになったと思って安心することは禁物です。いつまた、今回のように、焼けボックイに火がつくかもしれないからです。

 今回、新たに群馬県に出された事前協議の対象となるアーバン環境サービスの処分場の設置予定場所は非常に民家に近いことから、今後、住民説明会の動きにあわせて、業者からさらに詳しい情報が流されていくとともに、関係住民の間から計画についてのいろいろな意見が出されていくものと見られます。しかし、民家に近いからといって、計画実施が難しくなるということにはなりません。

 なぜなら、サイボウ環境の処分場設置申請手続きの時も、半径300m以内に35軒もの地元住民の家が存在しましたが、業者の切り崩し工作は熾烈を極め、最終的には、“5分の4以上が賛成”という書類がでっちあげられて群馬県に提出され、15年かかって処分場が完成してしまったからです。引き続き、本件の今後の成り行きには注意が必要です。

【ひらく会情報部】

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これでいいのか群馬県環境行政…職員OBを役員に迎え県土サンパイ化に盤石を期す業者とそれを支える群馬県

2012-08-17 13:59:00 | 全国のサンパイ業者が注目!
■安中市の東南にあり、高崎市と富岡市に接する岩野谷地区では、20年前から廃棄物処分場計画が目白押しですが、現在、同地区において4つ目(*)の廃棄物処理施設設置計画が進んでおり、現時点では、まだ事前協議の完了通知は群馬県から発出されてはいないようですが、事前協議の最終段階にあります。

(*)4つ目とは、①サイボウ環境㈱一般廃棄物管理型最終処分場、②大和建設㈱産業廃棄物中間処理施設、③東邦亜鉛㈱産業廃棄物安定型最終処分場に続く④㈱環境資源一般・産業廃棄物管理型最終処分場のことです。

 この4つ目の処理施設は、㈱環境資源が岩野谷地区を流れる岩井川の源流地域となる大谷の新山・出雲地内に設置を計画している大規模一般及び産業廃棄物最終処分場で、平成18年7月7日に群馬県に事前協議申請書が出され、以来、業者と行政との間で申請手続きが進められているものです。

 また、この最終処分場は面積が9ヘクタールと広いため、群馬県の大規模条例の手続も必要とされ、平成21年12月17日に群馬県土地・水対策室に事前協議書が提出され、平成23年12月19日までに群馬県庁の22の審査会における手続を全部終えたとされています。

■このことについて、平成24年3月10日の岩野谷公民館で開催された出前講座で、㈱環境資源に群馬県の職員OBが役員として名前を連ねていること、また、平成24年4月14日に大谷の長坂公会堂で開かれた業者による地元住民説明会で、当会から本件事業に関する資金面での担保について質問したところ、㈱環境資源には資金面で事業のバックアップをするオーナーが存在していること、そのオーナーが環境資源の株式の52%を保有していること、銀行団の協調融資として総額38億8000万円の融資証明が群馬県に提出されて確認済みであるとの情報が分かりました。

 このため、平成24年7月24日付で、次のとおり2件の公文書開示請求を群馬県知事に対して行いました。

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<開示を請求された公文書の内容又は件名>
安中市岩野谷の大谷地区で事前協議の最終段階にある㈱環境資源が計画中の関東有数の大規模サンパイ処分場計画に関連して、次の項目にかかる一切の情報。
(1)平成24年3月10日(土)午後7時から地元の岩野谷公民館で開催された当該処分場の出前講座で、地元住民から「環境資源という会社でしたっけ?その役員の中には県のOBもいらっしゃると聞きましたがどうですか?」という質問に対して、県の環境リサイクル課の担当職員は「退職者がいるということは聞いています」と回答した。この退職者に関する県職員として勤務していた当時の、退職前10年間の所属先、職位、氏名、退職時期、退職理由等、本人に関わる情報。
(2)土地水対策室に提出された分も含めて、当該計画で業者から県に出された融資証明或いは資金証明に関する情報。
***********

■このことについて、平成24年8月6日に部分開示決定通知があり、同16日に部分開示がありました。

 まず、㈱環境資源の役員として名前を連ねているのは、林務部長を最後に平成11年3月末で退職された職員OBであることが判明しました。

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ふりがな    なかじま のぶよし
氏  名    中 島  信 義     (略 歴)
             ■■■■■■■■■■■■■■■■■■
現 住 所  ■■■■■■■■■■■■■■■■■■
学   歴  ■■■■■■■■■■■■■■    ■■■■■■■■■■■■
職   歴
   昭和36. 5   総務部広報文書課
     50. 4   企画部企画課開発第二係長
     52. 4   商工労働部観光課振興係長
     56. 4   〃    商政課団体係長
     57. 4   国体事務局総務課参事(ヨット担当)
     59. 4   農政部畜産課参事(馬事公苑担当)
     60. 4   商工労働部観光課参事
     61. 4   企画部部長室課長補佐(計画担当)
     62. 4   県立女子大学管理部長
   平成 元. 4   監査委員事務局管理課長
      3. 4   衛生環境部公害課長
      4. 4   総務部管財課長
      6. 4   衛生環境部環境局長
      9. 4   林務部長
     11. 3   退 職
**********

 同氏について当会が独自に追加調査したところ、前橋市総社町に在住し、昭和32年3月に高崎高校を卒業、法政大学を出たあと、県庁に奉職し、上表のとおり平成11年3月末で県庁を退職。同氏はその後、平成18年1月23日にはNPO法人 日本BDF推進機構(高崎市中里町619-1、電話027-370-7037、FAX027-370-7047)を立ち上げ、理事長に就任しました。BDFというのは廃食用油を回収して作ったバイオ・ディーゼル燃料(BDF)のことです。

 同氏は現在、社団法人群馬県測量設計業協会(前橋市総社町3-1-10、電話027-251-0730、FAX027-253-1339、E-mail info@gunsokkyo.or.jp)の監事を務めており、さらには、群馬県セーリング連盟(前橋市鳥取町830-7岡本方、電話027-269-5194、FAX027-269-51494、E-mail satio@meilgoo.ne.jp)の会長も務めており、群馬県教育委員会にも顔が利くようです。

 そのため、教育分野に関して、2007年(平成19年)当時、明和学園短期大学、明和県央高等学校、明和幼稚園を経営する学校法人平方学園の副理事長として、明和学園短大の副学長も兼務していました。中島氏が現在も引き続き同法人の要職にあるのかどうかは未確認です。

 このほか、同氏は、2007年(平成19年)6月13日にはNPO法人森の会(前橋市元総社町73-5、電話027-255-3450、FAX027-255-3450、E-mail info@morinokai.org )アマゾン群馬の森利活用委員会の理事長として、桐生高校の生徒らがバザーで得た収益金を地球環境に役立ててほしいと寄付金の申入れがあり、直接14万2067円を手渡されたこともあります。ただし、同氏が現時点で、依然として森の会の理事長に就任しているのかどうかは未確認です。

 さらに、同氏は、平成3年11月20日には、群馬県衛生環境部公害課長として、公益社団法人群馬県環境資源保全協会(前橋市紅雲町1-7-12住宅公社ビル3F、電話027243-8111、FAX027-243-4911)主催の研究発表会で「群馬県環境白書について」と題する講演を行っています。

 このように、㈱環境資源の役員にも名を連ねている中島信義氏は、平成11年3月末で退職後も、群馬県とのつながりが極めて深いことがわかります。とくに、平成3年4月から1年間衛生環境部公害課長として、また平成6年4月から3年間衛生環境部環境局長として、群馬県の環境行政のトップとして活躍しており、サンパイ処分場を設置しようとする業者としては、こうした人物が役員として名を連ねてくれれば、サンパイ処分場設置許可申請において、「鬼に金棒」ともいうべき千人力の助っ人だと認識するはずです。

■事実、平成24年3月10日の岩野谷公民館で開かれた県の出前講座で、突然地元住民から「環境資源という会社でしたっけ?その役員のなかには県のOBもいらっしゃると聞きましたがどうですか?」と出席した県の環境リサイクル課の職員に質問したところ、同職員は「あの、退職者いるということは聞いていますけど、それがなにか関係あるとは聞いていませんが」と一瞬躊躇を見せながらも、即答しました。

 当会はこのときの模様を後任の県庁職員に伝え、あわせて情報開示された上記の中島信義氏の履歴を見せたところ、後任者は、「(出前講座で即答した)前任者は中島信義氏が県庁在職時代、面識は無いはず」とコメントしました。しかし、前任者が、住民から単に「環境資源に県職員OBがいるのか?」と質問されたのに、「いる」と即答した背景には、群馬県の環境行政に携わっている職員らが、全員、このことを知っているということを如実に物語っていることになります。

 実際、後任者も「中島信義氏とは面識が無い」といいながらも、中島氏が県の大物OBであることは、知っているそぶりでした。このことは、重大な問題を包含していると言えるでしょう。すなわち、インサイダー疑惑です。

■群馬県では、退職者の退職後の就労状況について、最近HPで平成22年度分から一部公表を始めています。http://www.pref.gunma.jp/07/a1600024.html

 この趣旨は「団体等からの具体的な推薦依頼に基づき、県が団体等に推薦し就労した場合の状況について、公正で透明な再就職管理を進めることを目的として公表するものです」とされていて、公表対象者は「平成23年3月31日に、部局長又は本庁課長の職で定年退職した者」で、職員の氏名、退職時職名、就労先団体等の名称、役職名、就労月日(県において嘱託等として採用した場合を含む)が公表されています。

 県職員の大物OBが、あろうことかサンパイ業者の役員として事業に関与していることに関連して、総務部人事課人事係の担当者に質問してみました。

当会「林務部長を最後に退職されたかたが、業者側にいるということについて、内規として、李下に冠を正さず、襟を正すという観点から、問題は無いのでしょうか?」

県人事担当「今、お尋ねのあった内規の関係だが、退職後2年間は、密接関係のあったような民間企業の役員や顧問には就いていけないということで話をしているが、中島さんはちょっと古いので、そういった扱いには該当してこないと思っている。」

当会「古いというのは?」

県人事担当「退職後2年なので、現行の、また、その要領自体のできたのは平成17年だが…」

当会「その要領というのは、なんという名前ですか?

県人事担当「“職員の退職後の社会貢献に関する取扱要領”ということで、いわゆる民間企業というか団体のほうで、社会貢献として、それまで培った経験などを活用したいので、退職した職員に来てもらえないか、ということで相談を受けた場合、社会貢献ということで紹介をしている。」

当会「それは部長局長以上ですか?それともヒラ職員の退職者でも同じですか?」

県人事担当「それは課長級以上であった職員となる。その時の、2年間の扱いについて対象となる。」

当会「ヒラは関係ないのですか?」

県人事担当「課長級以上だから、ヒラは関係ないことになる。」

当会「ヒラは、それなりに影響力が無いと見なしているのですか?」

県人事担当「そういうことになる。中島さんの場合には、いわゆる自己開拓。ご自分で仕事を見つけられて、行かれたということになる。」

当会「全くモラルもへったくれもないですね。我々から言わせると。“自分で開拓した”というか、自分が勤務していた権限を行使していたカテゴリ、エリアのなかで“開拓”ということにはならないし、そういう考えは安直過ぎると思います。一般の人は、クビになればワローワークで必死に職探しを余儀なくされます。今回、“開拓”と言っても、この事業が海のものとも山のもとのもわからない状態で、これから行政の手続のゴーサインを得るということが最大のファクターになるわけで、そのところで、要するに、それを自分で開拓努力したというふうに思っているのかもしれませんが、受け入れる業者側としては、そのOBの過去を重用して“来てください”と考えているのに決まっているのではないでしょうか?。自己努力の次元の話ではないと思います。襟を正すというのは、全く関係の無いNPOのボランティアであればともかく。このような行政の許認可をこれからやるというところで、業者と席を同じくするというのは問題だと思います。最も重要なのは、公僕として永年勤め上げられて、その職歴で、社会貢献をしようとするのであれば、自分自身でモラルとしてきちんと考えておかないといけないはず。それまで税金で俸禄を食んでいたわけで、もし、今回のようなことが前例となると、後に続く職員らが、“あっ、中島さんって、良い思いをしているなあ”、“2年で全部リセットできるのか”と考えることになり、また業者側もその点を矯めていると思います。インサイダーの疑惑を持たれかねないので、至急善処してもらいたい。」

 このあと、実施機関である環境リサイクル課にも同様な意見を伝えましたが、対応した職員の様子では、事の重要性をどこまで認識してもらっているのか、あまり問題視している風情は感じられませんでした。

 それにしても、㈱環境資源は、すごい大物の県職員OBを引っ張り込んだものです。このOBが業者側についているだけで、実際に本人が県庁の窓口に来なくても、その威光は県庁内にひろく深く浸透しているに違いありません。とくに、この大物OBの職歴をみると、現役職員がビックリするくらい、あちこちの部署を巡り歩いていることです。

 環境リサイクル課では、「(中島OBが)環境行政分野に携わったのは、平成3年と、平成6~9年だけのようだ」とコメントしていましたが、当会に言わせれば「その時期が、サイボウ環境の最終処分場設置申請許可手続きと重なっており、サイボウの手続を進めた張本人です」ということになります。

■さて、(2)番目の開示請求である「土地水対策室に提出された分も含めて、当該計画で業者から県に出された融資証明或いは資金証明に関する情報。」については、次の17項目の資料開示が期待されました。ところが、部分開示という表現で開示されたものは、ことごとく墨が塗られており、情報として全く役に立たないものでした。

①資金明細書
②事業参加表明書
③印鑑証明書(特定法人)
④印鑑登録証明書(特定個人)
⑤現在事項全部証明書
⑥決算報告書の表紙
⑦貸借対照表
⑧損益計算書、販売費及び一般管理費
⑨株主資本等変動計算書
⑩個別注記表
⑪法人税申告書
⑫たな卸資産の計算内訳(2期分のみ)
⑬臨時取締役会議事録
⑭銀行預金残高明細
⑮残高証明書
⑯株式・債券明細
⑰取引残高報告書

 墨塗りの理由としては、次の条項が該当するとされています。
●情報公開条例第14条第2号該当
事業者の資金調達に関わる特定の個人に関する情報であるため
●情報公開条例第14条第3号イ該当
事業者の資金調達に関する通常一般に入手できない情報であり、公にすることで、当該事業者の競走上の地位その他正当な利益を害するおそれがあるため

■やはり、㈱環境資源の戦略は正鵠を射抜いているといえます。つまり、県の環境行政をはじめ、関連部署にコネがある大物職員OBを役員に組み入れることで、許認可権を持つ群馬県に対して暗黙の睨みを行使できるからです。

 一方、自分たち住むふるさとがサンパイ銀座になろうとしている現実を目の当たりにして、それを食い止めるために、地元住民側としては、せめて行政と業者と同じ土俵に立つためには、行事役の行政が得ている事業情報と同レベルの情報を入手して、分析、検討し、対策を講ずる必要がありますが、そのために、住民側としてルールに則って情報開示請求をしても、上記のように“事業者の円滑な事務事業に支障をきたす”という理由で、正確な情報を得られない仕組みになっているのです。

 この構図は、平成19年4月に稼動を開始したサイボウ環境㈱による一般廃棄物最終処分場の設置申請手続でも、周辺住民として一生懸命情報入手に務めようと、情報開示請求を行政に対して行っても、肝心の情報は黒塗りにされたり、非開示にされたりした経緯と同じです。つまり、群馬県の環境行政は、この20年、全く進歩していないことがわかります。

 他方、サンパイ業者側としては、サイボウ環境㈱で培った経験とノウハウと前例主義により、行政へのアプローチの方策を最大限追及して、今回の環境資源でも、その成果が遺憾なく発揮されていると言えます。

■群馬県の環境行政に携わった大物職員OBを起用できた㈱環境資源の戦略は、今後、群馬県でサンパイ処分場を設置しようと虎視眈々と狙っている後続業者にしてみれば、非常によい手本となっており、県の環境行政に携わる職員や関係者にとっても、おいしい利権に預かれるチャンスとして、捉えられているに相違ないでしょう。

【ひらく会情報部】


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67年前終戦が決められず国民に犠牲を強いたこの国の指導者が原発事故でまたも繰返した情報オンチ

2012-08-16 16:59:00 | 国内外からのトピックス
■敗戦から67年を経過した昨日の終戦記念日の午後7時30分から8時43分迄、NHKスペシャルで放送された「終戦 なぜ早く決められなかったのか」を見た人も多いと思います。NHKがいつもこのくらいのレベルの内容の番組を制作するのであれば、受信料の支払いも苦になりません。

ソ連の対日参戦は不意打ちではなく、事前に、4か月前に日本は情報を得ていた。ならば、1945年6月22日の御前会議で戦争終結を決断していたら、原爆投下もシベリア抑留も北方領土問題も中国残留孤児問題もあり得なかった。現代史を揺るがす真実に納沙布公園にある「四島のかけはし」のモニュメントは今、何を思う。2007年12月26日撮影。

 驚きました。1945年2月4日から11日にかけてクリミア半島のヤルタで行われた米国のルーズベルト、英国のチャーチル、ソ連のスターリンによる首脳会議で、ソ連がドイツ降伏の3カ月後に対日参戦するというという密約が交わされたことについて、同年の4月に英国に駐在していた日本の海軍武官が東京に伝えていたことを示す暗号解読文書が、英国の公文書資料館に存在するというのです。

 確かにナチスドイツは1945年5月8日にフランスのランスで降伏文書に調印し、翌5月9日に首都ベルリンで批准手続きとなる降伏文書調印を行った事により降伏しました。したがって、ヤルタ会談の密約に基づいて、その90日後の8月10日にソ連は対日参戦したことになります。

 しかも、ヤルタ会談でソ連参戦が決まったという情報は、欧州に駐在していた他の武官らからも1945年4月以降も、5月、6月と東京に重ねて伝えられていたというのです。

■番組では、このことについて、現代史の歴史研究家や外交専門家らが、日本の現代歴史観を変える重要な証拠書類の発見だとして、なぜ我が国は、ドイツ敗戦後も本土決戦と称して、国民を無駄死にさせたのか、なぜ我が国は戦争をもっと早い時期に止められなかったのかについて、当時の軍部や外務省などの生前の証言資料なども交えて検証しつつ、いろいろな観点から評価や分析が加えられ、討議されました。

 既に本土が連日猛空襲に襲われ、沖縄に米軍が上陸し、ドイツが降伏したにも関わらず、重大情報は共有化されないまま、貴重な時間を浪費してしまったのか、戦争終結の機会がせっかく到来しながら、知り得た情報が生かされず、会議の中で、あるいは天皇の前で、なぜ本音をぶつけ合って意見が言えなかったのか。無能な指導者に加えて、外務官僚や、やはり官僚である参謀らの弱気な対応が、敗戦までの4ヶ月間に60万人以上の日本人の命を失わせ、戦後のシベリア抑留や北方領土問題など、現在に至るまで日本国民に与え続けている艱難辛苦は、そうした亡国の指導者や官僚らによって作り出されたことが浮き彫りにされました。

ウラジオストクの要塞博物館に展示してあるソ連の1945年8月9日の対日参戦直後からミズーリ艦上での同年9月2日の降伏文書調印までの3週間におけるソ連軍の作戦行動ルートを示した地図。2010年8月22日撮影。

■さらに、驚くべきことは、ソ連の対日参戦を知りながら、当時の官僚は、戦後も一貫して「対日参戦については知らなかった」とシラを切り、「ソ連の参戦は、ソ連が一方的に中立条約を破り、不意打ち的に攻め込んできた」として、自分たちの責任を終戦後もずっと棚上げしてきたことです。そして、北方領土問題に多くのエネルギーを割いているのです。

 1945年2月に米英ソ三国の首脳により行われたヤルタ会談は、第2次大戦が終幕に入る中、ソ連の対日参戦、国際連合の設立について協議されたほか、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定し、東西冷戦の端緒ともなった会談で、ヤルタ体制とも呼ばれています。

 時期的には1945年1月にポーランドを占領したソ連軍(赤軍)がベルリン付近に達しつつあり、西部戦線においてはアメリカ・イギリス等の連合軍がライン川に迫っていました。

 ヤルタ会談の直前の1945年1月30日~2月3日には、ヤルタ会談の事前打ち合わせとして米英二国の首脳がマルタ島で会談しています。こちらはマルタ会談と呼ばれるものです。

■ヤルタ会談の結果、第二次世界大戦後の処理についてヤルタ協定が結ばれ、米英仏ソ四カ国によるドイツの分割統治、ポーランドの国境策定、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理が取り決められました。

 併せて米ソの間でヤルタ秘密協定が締結され、ドイツ敗戦後90日後のソ連の対日参戦および千島列島、樺太などの日本領土の処遇も決定し、現在も続く北方領土問題の端緒となりました。米国が北方四島問題について全く関心がないのは、この時、ソ連と密約していたためです。

 また、戦後の発足が議論されていた国際連合の投票方式について、後の国際連合常任理事国となる米英仏中ソ五カ国の拒否権を認めたのもこの会談でした。

 米国としては、ドイツ敗戦後も日本が徹底抗戦を続けることが予想されたため、太平洋戦争での自国の損失を抑えるべく、日本と日ソ中立条約を結んでいたソ連に対して、条約破棄と対日参戦を促すことに比重を置いた会談でした。

■しかし、日本はヤルタ会談の密約で決まったソ連の対日参戦を、ヤルタ会談の2カ月後には英国駐在武官からの暗号による報告文書で知り得ていたのに、ぐずぐずと降伏決定を先送りにしてしまいました。そして、1945年8月9日にソ連に宣戦布告を許すという最悪の結末に直面して、ようやく、その翌日の8月10日にポツダム宣言に示された無条件降伏の受諾を連合国側に通告したのでした。

 結果的にソ連は、東京湾でのミズーリ艦上で行われた降伏文書調印をもって戦争が正式に手続的に終結するまでの僅か1カ月足らずという非常に短期間に、日露戦争で日本の占領地となっていた南樺太と千島列島を北方四島もおまけに付けて、効率よく奪還できたのでした。

■もちろんソ連は米国の要請によって対日参戦をしたわけではなく、ソ連自身も、対ドイツ戦で優位にたった時点で、日露戦争で奪われた南樺太と千島列島(北方四島以外の)の奪還を目的に、1944年の後半には、米国にその意思を伝えていたとされています。

 ソ連がドイツ戦に優位な立場に立てたのは、日ソ中立条約のためではありません。疑り深いソ連が、たとえ中立条約(1941年4月13日署名、同25日発効)を日本と結んだとしても、満州の関東軍がいつまたノモンハンの時のように攻めてくるか疑心暗鬼だったからです。

 実際に、当初、ソ連は日本の提案に応じませんでした。1940年9月27日に日独伊三国同盟が締結されていたからです。しかし、その後、ソ連は、ドイツの対ソ侵攻計画を予見したことから日本の提案を受諾し、1941年4月13日調印しました。

■そして、同年11月には、ソ連は極東に配備していた部隊を西部へ移送し、同年12月のモスクワ防衛戦に投入しました。ドイツ軍は、シベリアで厳冬での戦い方を知り尽くした極東部隊の支援を受けたソ連軍の反撃により、モスクワ前面で100マイル近く押し戻され、1941年中にソ連崩壊を狙ったヒトラーの作戦は、失敗に終わりました。

 さらに1942年6月28日から- 1943年2月2日にドイツとソ連が戦ったスターリングラードの攻防戦でも、シベリアの兵力を援軍として投入できたソ連が圧勝し、欧州戦線の戦況を大きく転換さたのでした。

■極東で対峙していた日本の関東軍の動きについてソ連が抱いてきた疑心暗鬼を払しょくしたのは、日本にいたソ連のスパイが1930年代から1941年9月まで8年間に亘り、もたらした情報によるものでした。

 とくに、1941年9月、御前会議で日本軍の南進政策が決定されたことを知ったソ連が、上述の通り、シベリア兵力を西部戦線に安心して投入できたことが、欧州での戦局を大きく転換したのでした

 このスパイ事件は、リヒャルト・ゾルゲを頭とするソ連のスパイ組織が日本国内で1930年代から諜報と謀略活動を行ない、1941年9月から1942年4月にかけて、そのゾルゲをはじめメンバーが逮捕されたもので、中には、近衛内閣のブレーンとして日中戦争を推進した元朝日新聞記者の尾崎秀実らもいました。

ゾルゲの出身地のアゼルバイジャン首都バクー市内にあるゾルゲ公園の記念モニュメント。ゾルゲの顔の特徴をデザインし、さしずめ「壁に耳あり、障子に目あり」という戒めを表している。2004年1月19日撮影。

■ゾルゲ事件の詳細やゾルゲの生立ちは、この記事の最後に参考として記載してありますが、昨晩のNHKスペシャルで報じた、ヤルタ会談のソ連参戦の密約について、ソ連の台頭を懸念した米英が、それとなく情報をリークし、日本に早期戦争終結を促したという背景があることも含め、1945年4月に日本の駐英武官が東京にヤルタ会談でのソ連参戦の密約内容を東京に伝えていた事実が有ったことが分かったことは、大変な驚きです。

 しかもヤルタ会談での密約に基づき、1945年4月5日にソ連は、翌年期限切れとなる日ソ中立条約をソ連は延長しないことを、駐ソ連の日本大使を通じて日本に通達していました。この時の通達では、1946年4月5日まで条約の残存期間は残ることになっていましたが、在外の駐英武官の東京へのソ連対日参戦情報は、これとほぼ同時期に伝えられていたことになります。

ウラジオストク市内アムール湾を望む丘の上にある要塞博物館は、日露戦争前に作られた要塞をそのまま博物館として利用。お昼には時刻を知らせる「正午の空砲」を鳴り響かせるのがこの移動式カノン砲。

■ヤルタ会談の密約で対日宣戦布告が約束されていたソ連は、日本がまだ降伏しないことを幸いに、1945年7月17日から8月2日までベルリン郊外のポツダムに米英ソ三国首脳が集まり行われたポツダム会談で、日ソ中立条約の残存期間中であることを理由に、米国とその他連合国がソ連政府に対日参戦の要請文書を出すことを求めたのでした。

 こうして、1945年7月26日にポツダムで日本に向けて発せられた無条件降伏に関する宣言に至っても、日本はまだ無用な戦争をやめることができず、8月6日のヒロシマ、同9日のナガサキへの原爆投下、同じく8月9日のソ連対日宣戦布告を経て、8月10日になり、ようやくポツダム宣言を受諾する旨連合国側に通知したのでした。

日本軍から押収した武器も展示してある。

■このように、現代史観に大きな影響を与える新たな事実が判明しました。すなわち、ソ連が終戦末期に参戦することについて日本は事前に知り得ていたという事、日本政府は「降伏」という言葉を使わずに結果的に「終戦」という形で、外圧に翻弄されるまま、最後まで自主的に戦争終結を決断できなかったことが明らかになったのでした。

 筆者はシベリアを訪問した際に、たくさんのロシア人から質問を受けました。「なぜ、日本は第2次大戦でドイツと組んだのか?」と。第2次大戦におけるロシア人の戦死者・犠牲者は、日本人が約310万人と言われているのに比べると、一桁大きい数字となっています。その大半は、ドイツとの戦争で失われました。ロシア人にしてみれば、なぜ日本はロシアを挟んでドイツと手を結んだのか、という思いがよほど強いのでしょう。

 一方、日本としては、広大な太平洋での米軍との洋上戦闘や、広大な中国での地上戦で手一杯で、とてもソ連と対峙していられない事情があり、5年間の有効期間としてソ連と結んだ中立条約を、突然ソ連の裏切りで破棄されて宣戦布告されたのは理不尽で有り、ソ連の不意打ちを突いたやり方は国際ルール違反だと戦後、教えられてきまました。しかし、どうやらこの国の指導者や官僚の失政を隠すためにそのように教え込まれてきたのが真実のようです。

 今回の番組で視聴者が認識したことは、1945年4月以降、同6月までに駐英武官をはじめ複数の欧州駐在武官からソ連の対日参戦情報が東京に伝えられ、1945年6月22日の天皇主催の会議でも、そうした連合国側の情報が上奏されないまま、この国の民が、悲劇の結末に突き進まされていたという真相でした。


対空機銃に乗って遊ぶ現地の子どもたち。

■以上のように、昨日の終戦記念日に放送されたNHKスペシャルでは、1945年の4月、駐英武官から暗号文書でソ連対日参戦の情報が東京に伝えられた時、戦争の帰趨はとっくに決まっていたのに、なぜもっと早く戦争を終えることができなかったのか?ということを掘り下げた、質の高い内容の番組でした。

 英国の公文書館などから最近見つかった膨大な資料を根拠にして、日本はソ連の対日参戦を早い時期から察知しながら、ソ連に接近し、講和の仲介を頼もうとしていたこと。また、強硬に戦争継続を訴えていた軍が、内心では米軍との本土決戦能力を不十分と認識し、戦争の早期終結の道を探ろうとしていたこと、が判明しました。1人でも多く無用な犠牲者を出さないように、戦いの幕引きの素地は充分に出そろっていながら、そのチャンスはみすみすつぶされてしまったのでした。

 この番組では、戦後に収録されながら内容が公開されてこなかった戦争当事者らの肉声証言なども有効に交えて、厚みのある構成となっていました。

大人たちだって乗って遊んでいる。

■戦争末期の日本の指導者らの行動を検証し、重要な情報が誰から誰に伝えられ、誰には伝えられなかったのかを分析し、国家存亡の危機を前にしながらも、自己の権限の中に逃避し、決定責任を回避しあっていた指導者らの実態が生々しく浮き彫りにされたのでした。。

 一連のこの歴史検証を見て、現在、我が国の抱えている状況、特に原発事故の対応を巡る情報非公開体質と、緊急対応の出来ない我が国指導者らの体質が、寝深いものであることに考えされられたのは、筆者だけではないと思いました。


冷戦時代のソ連版巡航ミサイルBasalt(射程距離550km、速度超音速)も展示。

■ゾルゲ事件といい、情報共有化の欠如といい、国の存亡より自己保身の重視といい、日本の情報管理能力は誠にお粗末でした。日露戦争ではあれほど情報の価値を肝に銘じていたはずなのに、この国の指導者たちは、わずか30年余りですっかり別人となっていました。

 そして、国家的な岐路における重要な決定をめぐる課題について、昨年の3.11でも、この国の指導者らは、情報開示の原則を忘れ、国民に必要な情報を与えないまま、大勢の国民や国土を被曝させたままにしてしまったのです。

納沙布岬から沖合いに見える海上灯台とその向こうの歯舞諸島。

 この責任は、当時の指導者や官僚が追うべきものですが、戦後67年を経過した現在となっては、関係者の多くは既に鬼籍に入ってしまい、貴重な証言はどんどん失われています。今回、英国の公文書館で貴重な情報が発見されなかったら、我々国民は、外務省のいうとおり、ソ連の騙しうちに怒りを覚え続けていたことでしょう。しかし、怒りをぶつける相手は、実際には我が国の指導者や官僚だったのです。

根室市内から国後島の雪を頂いた山々が見渡せる。

 やはり、日本人として、理不尽だと思ったことはきちんと批判し、間違いを質していくという対応をしっかりと身につけたいと思います。

昨年まで墓参団や青少年活動等で使われていた北方四島交流船ロサルゴサ号。

【ひらく会・情報部】

※参考資料http://www.nntt.jac.go.jp/season/pdf/otto-1.pdf 
【ゾルゲ事件とは】
 1941 年10月、国際的な情報諜報団検挙事件として、リヒャルト・ゾルゲ、尾崎秀実らが逮捕されたのが、いわゆるゾルゲ事件である。
 ソ連共産党中央委員会および赤軍第四本部に直属して諜報活動に従事していたゾルゲは、ナチス党員の肩書きとともにドイツの新聞記者を装って来日、東京の駐日ドイツ大使館などで情報を収集していた。当時、近衛文麿内閣のブレーンの一人であり満鉄の嘱託だった尾崎秀実からも情報を得たゾルゲは、対ソ戦での日本の方針や、ナチス=ドイツのソ連攻撃情報を収集・分析してソ連共産党最高指導部に報告していた。
 ソビエト政府への情報漏洩は実に8 年にもおよぶ。ゾルゲ諜報団は、各国からのコミンテルン・メンバーに加え、国際共産主義運動の実現をめざす日本人活動家たちによって組織されていた。その中でもゾルゲが最も厚い信頼を寄せていたのが尾崎秀実である。近衛内閣嘱託の立場を利用して、決死の覚悟で尾崎は国家機密をゾルゲに提供した。報告され
た主な内容は、日独防共協定、大本営設置事情、ノモンハン事件、日独伊軍事同盟をめぐる問題、さらには最高国家機密である御前会議の内容にまでおよぶ。
              ◆
 1939 年、ドイツ軍のポーランド侵攻をきっかけに第二次世界大戦が勃発する。ゾルゲはモスクワからの緊急指令として独ソ戦に関する日本軍の動向を探る任を受ける。ゾルゲと尾崎は、さまざまな情報ルートを用いて日本の対ソ戦回避を画策した。1941年9月、御前会議で日本軍の南進政策が決定。その知らせを受けたソ連軍はスターリングラードの戦いに兵力を集中させドイツ軍に圧勝する。任務を完遂して安堵していたゾルゲと尾崎だったが、翌月の10月にこれらの活動が発覚し、ゾルゲのグループは「国際諜報団事件」として日本人の検挙者は35 名、うち18 名が治安維持法、国防保安法、軍機保護法などの違反容疑で起訴された。
 ゾルゲ事件は日本政府ばかりか、内外に大きな衝撃的を与えたが、日本警察当局はその事実に驚愕し、発表を半年以上遅らせた。
 検挙者は獄死したり、取り調べ中の拷問で死んだりしたが、3 年間の取調べと獄中生活の後、1944年11月7日、奇しくもロシア革命記念日に尾崎秀実とゾルゲは処刑された。
 1964 年、ゾルゲはソ連から「最高ソ連英雄勲章」を贈られた。英雄の称号を得るまで、ゾルゲ没後20 年の時が必要とされた。1930年代当時、ソ連最高指導者スターリンはゾルゲを二重スパイではないかと疑い、ゾルゲが命がけで提供した情報も全面的に信用してはいなかったのである。
【ゾルゲの生い立ち】
ゾルゲは、1895年にロシア帝国の領土アゼルバイジャンの油田の町バクーで生まれた。ドイツ人の父とロシア人の母をもち、3歳で家族とともにドイツに移住。18歳の時、第一次世界大戦でドイツ志願兵として戦場に赴き、3度の負傷。3度目の負傷で除隊となるが、この時の後遺症で生涯片足が不自由になってしまった。
 1919年、ドイツ共産党に入党。国際共産世界の実現を夢見てコミュニストになった。その後、ロシア共産党に移り、共産党の国際組織であるコミンテルンの一員となった。1929年にソ連赤軍第四本部に移り、1930年1月、ドイツの新聞記者の肩書きをもって上海へ。その目的は、中国国民政府と中国をめぐる資本主義列強の動向を調査するためだった。ここ上海でアメリカ人女性ジャーナリスト、アグネス・スメドレーを介して尾崎秀実と出会うことになる。

戦後、アゼルバイジャンには、シベリアに抑留された日本人兵士と同様、たくさんのドイツ人兵士が抑留され、インフラ整備に駆り出されました。ただし、温暖な気候も手伝って、ドイツ人の犠牲者は皆無で、作業が終わればワインも飲め、帰国せずにそのままアゼルバイジャンに留まった者も少なくなかったそうです。当時、ドイツ人により建設された火力発電所は戦後半世紀以上を経過して老朽化したため、2003年ごろから我が国の円借款でコンバインド型ガスタービン発電設備が建設されるようになりました。ゾルゲ公園の夜間照明用の電気にも日本製の発電設備が生み出した電力が混じっています。
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