私の情報はテレビかパソコン。
多分テレビの日曜美術館だったかな?
「うっ?」っと思った言葉があった。
それが「シュールレアリズム」
ネットで調べたら、以下のようであった。
シュールとは、「現実離れしたさま」、「普通の理屈では説明できないさま」、「難解で奇抜なさま」、「幻想的なさま」、「意外なさま」など、非日常的なものを指す言葉。語源は、20世紀前半の前衛芸術運動であるシュルレアリスム(シュールレアリズム)から。
シュールレアリズムは長年に渡りナンセンスと混同され続け、現在ではほぼ同義として捉えられるのが普通になっており、以下の解説においても留意されたい。
また、実際のシュールは以下に述べるように和製フランス語なので、他国語に訳することはできない。使用される状況に合わせて適宜「奇抜」「不条理」「不可解」などに言い換えて訳し分ける必要がある。
しかし
この世は言葉が複雑で
というより
カタカナ語が多くて分からんことが多い。
ネットがなかったら
ちんぷんかんぷん
テレビを見るのもつまらなくなって(疎外感が起きて)
この世からのさよならの意識がにょきにょきと大きくなるか、山川好みの自然志向になるか
どうなることかと思ったりする。
「シュール」ってなかなか音の響きがいい。
カッコよく聞こえる、のは、私だけかな?
最近老婆の私はシュールになりつつあると感じる。
今までが作られた自分、偽りの自分、嫌いな自分と認識することが多く
いつの間にか
シュールになって、
えっ?これ自分?って思うこともあり・・・。
そんな自分を発見すると、なんか安堵感があり、
これでいいじゃんと思ったりする。
いままであまり他人を意識しすぎてきたのか?
他人の思いに添ってきたのか?
自分でなくなっていた自分に気づく。
だからと言って自分ってなに?ってとわれてもな~と思うけれど
まあ、気楽に時間を使うことで安堵しているのかな?
人は認められたいと思う
褒めてまでは貰わなくても、否定はされたくない。
この婆の人生においても
存在を否定されて心痛かったことがないとはいえない。
そんな時の対処に、「いいじゃん、人がどう思おうと」「自分がOKならいいじゃん」なんて思ってきた。
夫が死した時も、自分を慰めるとき、
「いいじゃん、よくやったよ」と自分をOKした。
なんかそれがいつもの自分ではなくて、奇異なる存在
シュールな存在
かのような気がする。
人が死んで「いいじゃん」と思うことが奇異なのかな?
でも、人の死に臨んで残されたものは、
もっと、世話してあげればよかったとか、
もっと、優しくしてやればよかったとか必ず、大なり小なり思う
そして、そんなに責めることないよねと自分を慰める。
そして「いいじゃん」と思う。
「奇異」で「いいじゃん」
最近そんな風に自分をOKしている自分がいる。
奇異でない人間なんていないよね
シュールな芸術品を作成する芸術家をOKする自分がいることにやや驚く自分がいる。
多分テレビの日曜美術館だったかな?
「うっ?」っと思った言葉があった。
それが「シュールレアリズム」
ネットで調べたら、以下のようであった。
シュールとは、「現実離れしたさま」、「普通の理屈では説明できないさま」、「難解で奇抜なさま」、「幻想的なさま」、「意外なさま」など、非日常的なものを指す言葉。語源は、20世紀前半の前衛芸術運動であるシュルレアリスム(シュールレアリズム)から。
シュールレアリズムは長年に渡りナンセンスと混同され続け、現在ではほぼ同義として捉えられるのが普通になっており、以下の解説においても留意されたい。
また、実際のシュールは以下に述べるように和製フランス語なので、他国語に訳することはできない。使用される状況に合わせて適宜「奇抜」「不条理」「不可解」などに言い換えて訳し分ける必要がある。
しかし
この世は言葉が複雑で
というより
カタカナ語が多くて分からんことが多い。
ネットがなかったら
ちんぷんかんぷん
テレビを見るのもつまらなくなって(疎外感が起きて)
この世からのさよならの意識がにょきにょきと大きくなるか、山川好みの自然志向になるか
どうなることかと思ったりする。
「シュール」ってなかなか音の響きがいい。
カッコよく聞こえる、のは、私だけかな?
最近老婆の私はシュールになりつつあると感じる。
今までが作られた自分、偽りの自分、嫌いな自分と認識することが多く
いつの間にか
シュールになって、
えっ?これ自分?って思うこともあり・・・。
そんな自分を発見すると、なんか安堵感があり、
これでいいじゃんと思ったりする。
いままであまり他人を意識しすぎてきたのか?
他人の思いに添ってきたのか?
自分でなくなっていた自分に気づく。
だからと言って自分ってなに?ってとわれてもな~と思うけれど
まあ、気楽に時間を使うことで安堵しているのかな?
人は認められたいと思う
褒めてまでは貰わなくても、否定はされたくない。
この婆の人生においても
存在を否定されて心痛かったことがないとはいえない。
そんな時の対処に、「いいじゃん、人がどう思おうと」「自分がOKならいいじゃん」なんて思ってきた。
夫が死した時も、自分を慰めるとき、
「いいじゃん、よくやったよ」と自分をOKした。
なんかそれがいつもの自分ではなくて、奇異なる存在
シュールな存在
かのような気がする。
人が死んで「いいじゃん」と思うことが奇異なのかな?
でも、人の死に臨んで残されたものは、
もっと、世話してあげればよかったとか、
もっと、優しくしてやればよかったとか必ず、大なり小なり思う
そして、そんなに責めることないよねと自分を慰める。
そして「いいじゃん」と思う。
「奇異」で「いいじゃん」
最近そんな風に自分をOKしている自分がいる。
奇異でない人間なんていないよね
シュールな芸術品を作成する芸術家をOKする自分がいることにやや驚く自分がいる。