大きなかぶ農園だより

北海道マオイの丘にある大きなかぶ農園からのお便り・・
※写真はsatosi  

心臓をつかまれたい。。。。

2018-08-27 | 日記
トンボの群れが家の電線に隙間なく並んでとまっている。
そうして、顔にぶつかる程宙を舞う。蝉がうるさいほど鳴き、、、
青々としていたイタドリに白い花が咲く。葉は黄色になってきた。
刈っても刈っても勢いよく伸びてくるミントにもピンクの花が咲いた。
大泡立ち草が黄色の花を咲かせたのを目安に、その後から咲きだす
せいたかあわだちそうの収穫時期が気になりはじめる。
ビワの葉の薬効にも匹敵するうま葡萄の実はまだ小さい。
蛍は今年どこでどうしていたんだろうか、、、逢えなかったな。

新しい号が出ると思わず買って、ちょっと全体をながめて、さほど読まずに置きっぱなしになっている
「暮らしの手帖」を丁寧に読み返してみたい欲求がきた。
20代のころから定期購読していたが、ここ30年は仕事ばかりしていて「暮らし」からはほど遠く。。
本棚に並んだ暮らしの手帖を開く時間はほとんどなくなっていた。
暮らしの手帖の料理担当の女性が料理家に作ってもらった料理を、実際に何度も試作を重ねた上で
ようやく掲載されるのだということを最近知った。
普通の家庭のどんな台所でも〇〇先生や□□シェフの料理が誰にでも再現されるように、
という思いで若い担当者が奮闘している姿は、その後ろに亡き花森安治を感じた。
ここでこの仕事をしていることが彼女の生涯の宝になってゆくことを想像して胸が熱くなる。
それらの料理を自分が作り食すというよりその記事に隠れる彼女の日々の仕事ぶりが何よりのご馳走。
料理が気分転換で、毎晩宴会のような食卓だった若い頃が、今ならウソのように質素になり
毎日の食卓はたいてい15分以内で食べられるメニューばかりだ。
今なら納豆、とうふ、卵かけご飯、もち、そうめん、生野菜。
冬なら鍋、毎日鍋、基本動作のワン・ツー・スリー、
①鍋にお湯が沸く間に材料を切る。
②食卓に塩・醤油・酢・ごま油などの調味料を食器と共に置く。
③沸騰した湯に材料を入れ火を通し、鍋ごと食卓に運ぶ。 所要時間約10分。
一日30品目もへったくれもなく、身体の欲するままに食べる。
毎日同じでも苦もなく苦情もなく、生きるために食べる。なんだか、カッコイイな。。。
台所に立つ時間が短くなり、身体を休める時間が増えた。年取るとエコだ。エゴがエコに原子転換。
それでもまだ日々に追われてくると、だれかに、なにかに、心を震わせ心臓を掴まれたくなる。。。
その心の隙間を満たしてくれるのが時間を逆戻りするような「暮らしの手帖」の存在だ。
花森安治が大切にしていたものが読者の投稿欄からも、カラー写真満載の特集記事にも、小さなコラムにも、隅々に散りばめられている。
暮らしの中にある真実、普通の人々の当たり前の真実、その尊さ愛おしさを再確認する。
納豆ごはんで身体を養い、花森安治で精神を養って今日生きる力を生み出す。






豆畑のおかげで、、

2018-08-13 | 食生活
雨が降り、豆畑の草が一段と元気に伸びて豆を追い抜きそうだ。
「機械で刈る」と夫が言うので待っていたらこうなった。。。。。。
体重が4kg増えた。ガムシャラに動くのを止めたらこうなった。。。。。
ギスギス骨ばっていた身体にちょっと肉がつき、みすぼらしさが緩和。
しかし、体力は低下。豆畑を一回りしたらけっこうヘトヘト。
毎日しっかり歩く習慣のついている5歳も年上のTちゃんは疲れ知らず。
(これじゃあだめだ。。)しかし、ただ歩くだけのことが出来ない。
夫がすると言っているのだから余計なことはするまい、、と思っていたが
豆畑の力を借りよう、と、長い柄のついた草削りを持って草取りをすると決心。
伸びた草の真上から根を切るようにトンと刃をおとして取った草を豆の根元に寄せていく。
最初の日は朝の涼しい時間に1時間だけ、2、30m位の短いスパンで5、6列やって終わる。
数百メートル歩いて豆畑に来た時より、帰り道の方が身体が軽い。
心の満足感が足取りをさらに軽くする。
(やっぱり、動かないとだめだな。。。)
次の朝腕が筋肉痛で痛い。無理しないで止めようか、と思うが、、ほんの一時間だ、やろう。
涼しい日で結構はかどり、町のスピーカーで9時の時報が流れるまでやるか、と決める。
ちょっと疲れてきた(まだか9時は、、)待てども待てども9時の時報聞こえてこず。。。。
切り上げて家に戻ると11時半だった。 筋肉痛は消えていた。地道に体力回復へ。。。。 

夏休み子ども電話相談室

2018-08-05 | 日記
土曜日はあれだけ騒いでいた暑さがスッと引き、寒い。
秋の気配だ。もみじがもう色づき始めた。

ラジオの『夏休みこども電話相談室』を聴いている。
子どもから「え!?」というような質問。「うふふ」というようなもの、
純粋にその子の中から出てきたと思うもの、親にけしかけられたのか?
というのが見え隠れするような質問、さまざまだ。
しかし、それを受ける大人、世間では専門家と認識されている人たち
の応え方があまりにも残念!!と、ついそこばかりに注意がいってしまう自分。
その子に向き合う姿勢が乏しい。難しい言葉をあえて使う。あきらかに小ばかにしたような口ぶりさえ。。。
言葉にすればつたなくて、平凡で、子ども自身もラジオにでるのが嬉しいぐらいの子もいるかもしれない。
だからって、その応え方は違うだろう。。。。。聴きながら腹の中で静かな反論ひるがえす。
相手が子どもであろうが天皇陛下であろうが、その質問に全力で向き合い、持っている専門知識と
今この瞬間を共有しているという一体感をおしみなく出し切る。一期一会だ。
大人になってしまった自分目線で一方的に専門知識だけ駆使してもますます混乱ホールに入っていく。
子どもからの質問を、自分の中に在る子どもの自分に対して反芻し、(なんで?)と純粋に問い返す、
子どもと向き合うということは良くも悪くも自分自身の生き方をさらけ出すことだ。まして「お仕事」なら。。。
だから、へとへとになる。センセイたち、すこしもヘトヘト感がない。たまにヘトヘトの人がいて安心する。
そして、「〇〇ちゃん分かったかな?」 「、、、はい、、、」と子どもは受話器を置く。
自分の耳が自分の云ってること聞いて、なんとなくへこんでいるセンセイもいて、正常っておもう。
子どもが大人を育てる。大人はお礼に子供のお世話をさせていただく。。。。と、気づく、、、