大きなかぶ農園だより

北海道マオイの丘にある大きなかぶ農園からのお便り・・
※写真はsatosi  

スイス旅行顛末記 その3 ”スイスで手作り味噌”

2014-03-22 | 食生活
スイスの国はちようど九州と同じ面積だそうだ。
チューリッヒから車で4時間走ると、ドイツ・フランス・イタリア等に行けるのだという。
せっかくヨーロッパにやってきたんだもの、この際、あの国にもこの国にも行ってみたい、かどうか、、、
といえば、そんな気は湧いて来ず。ただただ娘の暮らす街で日常の生活を満喫してみたい。
日本にいても観光名所には知識も関心も無く、あえて行ったことが無いし。。。。
だから、「くれぐれも母さんのことを思ってあちこち連れまわす計画を立てないでほしい」とくぎを刺す。
それよりなにより、近所のパン屋さんやお気に入りのカフェのお姉さんと友達になりたい。
いつも娘がかかわる人たちに会って話がしてみたい、と思っていたら、「クニさん家にお土産届けるから一緒に行こう」
と、着いてひと眠りしたあとすぐに、歩いて15分ほどのところに住む クニさんに会いに行く。
石造りの3階建てのアパートの大きな木の扉の横に並んでいるクニさんの名前のブザーを押すと、オートロックの鍵が開いた。
八王子が実家のクニさんは62歳。30年前スイス人の男性と結婚し、今は一人で絵を教えたりしながら暮らしている。
スイスには弓道場があちこちにあるらしく、高校で弓道部だった娘は早速通い始め、そこで知り合ったのだという。
娘は週に1度クニさんに絵を習っている。「お母さんも一緒に描きませんか?」と言ってもらい、
社交辞令かな?とも思わず、居る間に毎週通って、すっかり楽しませてもらった。
その日にクニさんが用意してくれるリンゴやオレンジや家にある植物の鉢などを自分が描きたいように並べて描く。
鉛筆でデッサンして色鉛筆で色づけして、その上を筆に水をつけてなぞると水彩画となる。へーー!初体験。
りんごをじっと観察しながら描くと想像もしていなかった色や線゛が見えてきて、それを紙に表すと、リンゴになった。
画家たちが、「観ないと描けない」という言葉を使うが、その意味の奥を(あっ、、)と垣間見たような気がした。
その後、近くの美術館で絵を観たら、自分好みの色使いとか、タッチとかという今までの観方範囲を脱して
1枚1枚の絵が、『その人の観た、その対象のその瞬間の光と影の表現』 という角度から観ている新しい自分に出会った。、
  娘がパスタマシンでラーメンをどっさり仕込んだ時、クニさんが食べに来てくれた。
メニューは、ラーメン、春巻き、焼売、娘がテキパキ動いている。 (なんだ、やる気になればやれるんだ・・)
暮れに送った小豆が棚に有って、デザートはお汁粉。 ワイン飲みながら夜遅くまでおしゃべり。。。。
その日は長沼から運んできた、大豆、麹、なずなの塩でビニール袋仕込の簡単味噌作りを婿さん、クニさんみんなでする。
口で喋りながら、手はビニール袋の豆をむにゅむにゅ潰す。4人でむにゅむにゅムニュムニュ10~20分位。
200gの豆と麹と90gの塩の割合で一袋約800gが5袋できた。そのまま15℃以上の常温で3ヶ月寝かせると味噌になる。
手が汚れずにいつでも仕込める。これを娘に伝えたかった。  クニさんが仕込んだⅠ袋はクニさんへプレゼント。
それぞれの袋に「スイス・デ・ミソコ」母、「味の麹まろまろ」娘、「関麹治」婿の関健治、と命名。
果たして、どの味噌がどんな味に仕上がるのか?







羊のメリー親子

2014-03-22 | 
羊のメリー親子


山羊のレモンは 今年産んだ子どもたちを3匹亡くしました。

  羊のメリーの子どもたちを見て、何を想っているのでしょうか
  じっと 子どもたちを見つめ、メリーと頭突きして何かを解消しようとしているのか?

スイス旅行顛末記 その2 ”麺食らう”

2014-03-20 | 旅行
日本を発って36時間、チューリッヒ時間で10日朝9時すぎ、ようやく娘の家にたどり着く。
そして、やれやれと3人でお茶を飲んだような飲まないような、、その時のことは覚えておらず、、
カアチャンちょっと一眠り。。と2-3時間眠って起きたら婿さんは出勤した後。元気だな。。
「母さんお腹すいてない?」と娘が湯を沸かし、スイスでの初食は、日清の”どんべい”だった。
明るくて広くて洗練されたキッチンの白い大扉を開けたそこには、ヨリドリミドリのインスタント麺が
キッチーンとぎっしり並んでいる。 その、あまりのギャップに面食らいながら麺を喰らう。 
娘の麺好きを知る日本から出張に来る会社のめんめんが、手土産に持ってきてくれるのは麺。
うどん、そうめん、佃煮にお茶漬けの素、味付け海苔、きのこご飯の素、江戸歌舞伎揚げ、、、、
台所の棚の中は日本語で溢れていた。 毎日この麺ならゴメンだな・・と思いながらその日の夜何食べたか覚えておらず、、、
翌朝6時ころ目が覚めてキッチンにいたら.シャワーを浴びて会社に行く支度をした婿さんが入ってきた。
真っ白な壁に組み込まれていた大型冷蔵庫(こんな所にあったのか!)からヨーグルトと牛乳を出して一人で手際よく摂取し、
「毎朝じぶんで適当にやってます。じゃあ、いってきます。」とニコニコと出かけて行った。娘はまだ起きてこない。
ここに来た目的は、やはり飯炊きおばばか・・・・・そんなことだろうとは思っていたが、、腕が鳴る、ぶんぶんぶん♪
しかし、一応この家の主婦である娘の領域に無遠慮に踏み込んでは角が立つ。けんかしたら逃げ場が無いし。
くれぐれも説教めいた余計なことは言わぬようにと自分に言い聞かし、注意深く暮らし始める。
が、朝早く目が覚めてしまうので、いつだれが食べてもいいように、みそ汁とおにぎりを握って置いておくようにした。
やがて起きてくる娘と婿さんが二人そろって幸せそうに味噌汁をすすっている姿をみるのが母にとっては何よりのご馳走だ。
そのあと自分はパンとコーヒーでゆっくり朝食。こちらのパンはほんとうに美味しくてパン好きにはたまらない。
婿さんがおにぎりを弁当に持っていくようになる。会社の近くでランチをすると2000円かかるという。
娘は日中何しているのかと思えば、絵をかいたり、粘土遊びしたり、紙工作したり、、、まるで夏休みの小学生だ。
母は山になった洗濯物、ワイシャツのアイロンかけ、、、、いくらでもやることが見えてしまい、せずにいられない。
「あ、かあさんやってくれたの~~ありがとー」と言われると、さらに何かないかと探してはせっせとやる。
やることが山のようにあって一日中退屈知らず。面白くて仕方ない。
おしゃれな家具や調度品付きの部屋には、ちょっと不似合いなほど使い込まれたアイロン台が洗濯室の前に置かれていた。
この部屋の持ち主の奥さんもアイロンかけ大好きだったのかな。。。と想像する。
こんなに遠く離れた国でも、衣服を洗い、アイロンで仕上げ、食事するために食器を使い、その食器を水で洗い、、、、
スーパーには野菜があふれ、あらゆる食品や調味料、パック詰めのお惣菜、海苔巻、生寿司までが並んでいる。
毎日毎日繰り返される衣食住の生活は世界中どこにいても同じなのか。。。
食事は悲しいことがあった時少しだけ食べる法律の国とか、嬉しい時にはお腹がすかない人種とか、、、いないのだろうな。
 なのに、言葉と文字だけがどうしてこんなにちがうのかな・・・・


ボルシチ料理

2014-03-16 | 食生活
赤いビーツがきれいな 
 野菜たっぷりのロシアのスープ
 ボルシチ
   <材料> A. じゃがいも 1個、玉ねぎ 1/2個、ニンジン 1/3本、牛肉 150g 全て2㎝角に切る
      ビーツ 100g(皮を剥いてせん切り)、 植物油 大さじ1+小さじ1、水 2カップ、レモン搾り汁 小さじ1と1/2
      キャベツ 1/8 (3㎝角に切る)、塩 小さじ1、こしょう 少々、サワークルーム 適量。
   <作り方> ①鍋に油大さじ1を熱し、Aを軽く炒める。水を加、沸騰したらアクをとり、中火にして野菜が
             柔らかくなるまで煮る。
       ②フライパンに油小さじ1を熱し、ビーツを炒める。①の汁を玉杓子2杯ほど加えて汁気がなくなるまで
        煮詰め、レモンの絞り汁を加え、①の鍋に加える。
       ③キャベツを加えて柔らかくなるまで煮る。蓋をすると赤い色が濁るので蓋をしない。最後に塩、胡椒で
        味を調えて火を止める。
       ④器に盛り、サワークリームを添え、混ぜて頂く。



冬景色

    

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夕張市の今


                    

     

スイス旅行顛末記 その1

2014-03-16 | 旅行
ただいまーーー!! (急だったので”行って来ます”もありませんでしたが・・)
娘婿の赴任先のスイス・チューリッヒで3週間過ごしてきました。
「2月の初め東京に行く」と連絡が来ていたので「ならホテルに米送るから持って帰って」
となっていたのが、「母さん一緒に行かない?」婿さんが飛行機代出してくれるという。
「行く行く、それなら行くーー!」と2つ返事。善は急げ。ありがたや。一生分の米と相殺ね。
 2/9、関東大雪・大混乱真っただ中の成田空港に予定通り到着し、娘と婿さんが
乗り換え出口で待っているとばかり思いきや、都内のホテルからのバスが運休。電車もだめ、
タクシーで向っているが、フランクフルト行の便には間に合いそうもないと連絡が来た。
(あ、そう・・・)と、千歳で預けたらあとはチューリッヒまで自動的に運んでもらうはずだった荷物を引き取る。
米7k、麹、大豆、塩各1k、餅2k他を詰め込んだカバンは片手では持てず、
ガラガラのついてない普通の小さなバックだから、カートに載せたら隙間から落ちそうだ。
空港の通路は毛布を巻いて横になっている人、人、人、、、、成田市内のホテルは2日前から満杯らしく。。。
娘たちの到着をベンチに座って待っていたら、「食堂やレストランも、もう食材が尽きているみたい」という話が
耳に入ってくる。今日はここで夜明かしか、、とタクシーで空港に向かう娘に食料調達を発令する。
1時間ほど待ってようやく3人合流し婿さんがANAのカウンターに行くと、なんと出たはずのフランクフルト行は
機材はあるが、機材を動かす人の到着が遅れて出発できずにいた。 あっはっはーと大笑い。
そして、悠々とチェックインを済ませ、ゆっくりコーヒータイムしながら4時間遅れで成田空港を飛び立った。
飛行時間12時間、時差がー7時間。予定通り昼の12時に成田を出ればフランクフルトに夕方4時着、
チューリッヒには夜の7時過ぎに到着するはずだったが、フランクフルト空港には夜の9時着となり、
ANAの計らいで思いがけずドイツのホテルで一泊することとなる。
私たちの様にここで乗り継ぐ人が20人くらいいたが、荷物を受け取った人から順番にANAの担当の男の人の
誘導でホテルに向かうバス乗り場に急いでいる。私たちの荷物はいくら待ってもなかなか出てこず、
ドイツ人らしいANAの女性が「イシイサン、イシイサン、、モシモシ」とトランシーバーで彼を呼び続けている。
あのひとイシイサンなのか。イシイサンの仕事も大変だな。イシイサン段取り悪そうだな。と勝手なこと思う。
「ねえ、もしわたし一人で来ても、イシイサンがいてくれたらなんとかなるかな?」と婿さんに聞いたら
「ならないと思います」とはっきり言われた。
こんなに至れり尽くせりは日本だけらしい。他国の航空会社ならホッタラカシにされて当たり前らしい。
ようやく米と麹と豆と塩と餅の入った小さなカバンが再び手元に戻された。
「まるで鉄アレイのようですね、お母さん」と婿が呆れ顔で自分のスーツケースの上に載せてガラガラ引いてくれる。
最後に残った日本人5-6人を乗せたバスがホテルにむかって走りだした。夜の10時を過ぎていた。
一寸先に何が待っているのか想像もつかないことの連続。
すべてを放して天に任せて今の一瞬を味わう。

赤血球が細胞になる

2014-03-10 | からだ
  お腹を大切にする
  理由は、血液は小腸で造られるから。
  サラサラ血液の真実を知りたくなる お話満載。
    小腸じゅうもう造血説の提唱者  「千島喜久男」の伝えたい事
   千島学説
   ①「赤血球分化説」 血液(赤血球)は、からだの組織に変化する


 「生物は卵から生まれる。人間も受精卵という一個の卵から生まれる。
 微生物レベルであるその単細胞が、一つが二つになり、二つが四つになりというふうに分裂して増えつづけて、
 新生児として生まれる。誕生後も、細胞数が増えつづけ、人間のおとなの細胞数はおよそ六十兆だと言われている。」
  この細胞分裂説が世界中の学者たちに信じられ、生物学の根本をなすのですが、そんな中にあって、「細胞は
 分裂によって増えるのではなく、体のなかを流れる赤血球が日々細胞に変化し、この肉体をかたちづくっていく」
 という新設を千島先生は発表しました。六十年以上も前のことです。
  「血球は血球である。細胞は細胞である。血球と細胞は別のものだ。その血球が細胞になるなどというのは、
 たとえてみれば、犬が一晩で人間に変わるといっているようなものだ。」と批判されるのにたいして、
 「生物は卵から生まれる。人間も受精卵という1個の卵から生まれる。
 「犬が一晩で人間に変わるなどと私は言っていない。ニワトリの卵の黄身(卵黄球)が血球に変わり、その核のない
 核のある白血球やリンパ球になり、やがて細胞に移行していく姿を、私は顕微鏡で見た。その事実を言っている
 のだ。」と反論。
  しかしながら異端説としていまだに公には認められていません。その後も新設をより確固たるものにしていくため
 に実験を重ねながら、さらに新設を発表して行かれました。血液(赤血球)は各組織、細胞に栄養を送るだけでは
 なく、組織、細胞そのものに変わるのですから、血液の質を良い状態に保つことが健康には必要不可欠ではない
 でしょうか。
   (カギ括弧内は、『よみがえる千島学説』よりそのまま記載させて頂きました) 




臨死体験その後 その二

2014-03-09 | 日記
ヒラメキに従っていのち輝くとき
 思い返せば、あの、初めアトピーの相談に来た女性との出会いは胸のチャクラが
開いた頃でした。アトピーと言う言葉すら知らない中で話を聞くうちにパッと
ヒラメイタのです。循環農法の完成で、畑に化学肥料は絶対入れてはいけない
ことが分かっていましたから、化学調味料など石油化学合成製品は口に入れない
こと、クスリは農薬に値するから使ってはいけないとヒラメイキ、なずなの食材
とおふくろ手作りの味噌、梅干、漬物といった食事を勧めたところ、三ヶ月で
美女に生まれ変わったのです。そのことが口コミで広がって、相談に来る人が増え、年中無休の
人生に変わり、古希を過ぎても忙しい毎日を送っております。120歳まで生きて、地球と人のために働けと尻を
叩かれています。

エネルギーはどこからやってくるのか
 病院で治らない病気や子どもの出来ない人達に12年間、食事指導してわかった答えは簡単でした。
大自然が作り出してくれた旬の食物と海塩で作った発酵食品があれば健康で生きられるということです。
化学肥料、農薬を使っていない食物には「氣」超エネルギーがいっぱいですから元気になれるのです。
そうでないものをオーリングテストで見ると答えがはっきり出ます。「氣」のないものをいくら食べても元気には
なりません。悲しいことですが、農作物が金儲けの手段になったことで、安全で美味しく、「氣」に満ちた作物
はほとんどなくなっています。人の命を守る食べ物が、反対に人の命を脅かすものになっているのですが、
その事を知る人はあまりにもすくないのです。農薬や化学肥料がないとできないと思い込まされている農家
の人が殆どです。

間に合います。農薬、化学肥料のない世界
 皆さん一人一人が何が大切かに気付いて下さり、循環農法の実践者が増え、地球上から農薬や化学肥料が
無くなれば、2~3年で大地は蘇ってきます。今ならまだ間に合います。この事を伝えるために臨死体験させれ
たのではないでしょうか。あのことがなければ、あの光に包まれる体験をしなければ、金儲けにはしり、何も
気が付くこともなく化学肥料、農薬漬けの農作物を作り続け、青果市場、農協へ出荷し続けていただろうと
想うと、恐ろしくて身震いがします。
 あの光の中に身を置いて、こちらへ帰って来れた、いえ返されたのかもしれませんが、人の肉体のいのちを
守る作物の大切さを伝えるためには、百姓でなければ出来ない事だったのですね。その為に、生き返らせ
られ、いろんな力を与えられたのかと想うと、身の引き締まる想いです。唯々感謝あるのみです。
一日一生、毎日死んで毎日生き帰り、働きます。
                                   なずなの会 2月会報 巻頭文より 一部抜粋  完

臨死体験その後 その一

2014-03-02 | 日記
ニンジンから宇宙へ
 昭和58年の5月のある日、爽やかな豊後の恋風がそよ吹く中で一人楽しくニンジンの間引き
をしていました。間引いた一本のニンジンをじっと見つめていると、無意識状態になってあの光
(臨死体験の時に見た光)の中にいました。ハッとした瞬間、全ての謎が解けたのです。
「全てのものは循環している」。そしてこの時からそれまで体験させられてきた霊視、霊感、
霊聴がその瞬間から消えて、あの光の中で体験した安らぎと、今まで体験したことのない
穏やかな日々へと変わったのです。
山川紘矢、亜希子夫妻との出会い
 おふくろと一緒に仕事をしながらこの話をすると、そんな話は狂ったと思われるから人に話すなと言われ、以後話さな
くなったのです。それでもこの体験がどういうことなのか知りたくて本やに出かけ、目に入ったのが山川紘矢、亜希子
訳の「アウト・オブ・ア・リム」という本で、内容に感激してすぐに山川夫妻に手紙を書きました。山川さん達はそれから
霊的な内容の本を訳すたびに送って下さいました。他の人が訳した霊的な本も手当たり次第に読みました。思えば
なぜか外国人著者の訳本ばかりでした。
 死後の世界を体験したことを書いてある内容と重なるような映像を体験としてたくさん見ていたので、あれが臨死
体験だということがわかりました。もう一人の自分がいるということは、あれがきっと死後の世界だったのだと確信した
のです。そして死んでも死なないし、肉体をあじめ地球上にあるもので自分のものなど一つもないことを、心と体で
自覚できたのです。自分の心の中を覗いてみると、欲しいものなんて何もなくなっているではありませんか。
この世で生きるために必要なものは、全て大自然から与えられているではないか、なんでお金儲けのために借金して
自然の流れから外れたビニールハウスを立て続けたりしたのだろう。お金に何の価値もなかった事に気付いてみる
と、どうしてあんな馬鹿な事をしたのかと反省しきりで、おかげで借金を返すのに27年もかかってしまいました。
 臨死体験をした人達は、人生観や価値観が全く変わり、自身の体調が良くなったり、人の身体を手当で治すことが
できるようになっていたりします。そして、本当に大切なものは何かということに気付いているのです。光、水、大自然
がいかに大切か、自分たちは生きているのではなく生かされているのだと気づかされています。
ですから、その後の人生はやさしい人になれるのでしょう。
高梁信次師との出会い
 多くの本を貪り読む中で、日本人で霊的なことを書かれた本に出会いました。高橋信次師の本です。師の書かれた
15冊の本を繰り返し読む中で、お釈迦様の悟りの基本は八正道であることを知ってからは、夜休む前に、八正道に
照らして反省する日々を続けました。そうすると人には宇宙の氣が入る七つのチャクラがあるそうですが、そのチャクラ
が3ケ月から半年くらいで次々に開いたと思える実感がありました。
 胸のチャクラが開いた頃から病気治しが出来るようになり、第五のチャクラが開いて人の想いが伝わったり、文章ら
しきものが書けるようになり、第六のチャクラが開いて20年以上になりますが、第七のチャクラは開きません。
まだまだ現世に未練が残っていて、心の奥深くで開くことを嫌がっているのかもしれません