横浜田舎物語

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京都紀行 (本当の目的)

2008-04-28 | 変形性股関節症
2週間も過ぎていまさらですが
今回の京都旅行にはまったく別の本当の目的がありまして

5年前に入院していた大阪の病院”関西医科大附属病院”へ定期検診です。

「大阪の病院に入院してたのよ」というと間違いなく全員が
「なぜ?横浜にだって東京にだって病院はたくさんあるのに」といいます。

私だって、病院を紹介されたとき、えぇ!!となりましたよ

病名は[変形股関節症・臼蓋形成不全]難しい名前ですが
生まれつき股関節の屋根がない、そのために体を支えるべき
股関節に負担がかかり、関節の間にある軟骨が磨り減って痛みが出てきます。

実際手術前には最寄り駅から5分ほどの我が家に帰るのに2,3度は
立ち止まらないと前には進めないという状態でした。

<今こんなことでこの先どうなってしまうんだろう>不安で胸が締め付けられ
こんなことじゃいけない、私じゃなくなっちゃう

小さいときからとにかく落ち着きがなくいつも飛び回っていました
スポーツも得意でした
中、高の6年間、バレーボールをやってました。
地区予選を突破して県大会へは常連校でしたから、練習も半端ではなく
学校にはバレーボールをやりに行ってるような毎日でした

今の家に越した翌年、地域にママさんバレーのチームができたので
何も考えずに一員になり、23年間、大きな怪我をすることもなく
病気の心配もなく楽しんできました。

そんな自分がまさか先天的にこんな病気をもっていようとは
最初に思ったのは<これでバレーができなくなる>でした。
それほど私にとってバレーボールは生きがいでもあり、趣味とはいえない
ものだったのです。
仲間の中でも一番元気な私の発病は衝撃的だったらしく
「あなただけはそんな病気にならないと思った」と言われたくらい

我が家は娘二人ですが、長女は生後3ヶ月の検診で、いわゆる”股関節脱臼”と
診断され、約1年通院、治療でたいへんな思いをしました

<いままで気づかなかったけど、もしかして遺伝?>
長女に対してすまない気持ちでいっぱいになりました。
これについては後に主治医に尋ねたところ、あまり関係ないとの
ことでしたが、いまだに気になっています

痛みが出だしてから普通の整形外科に行きました。
そこで言われるのは決まって「体重を落としなさい、筋力を付けなさい」です。

そんなことを繰り返しているうちにどんどん悪化していき、我慢も限界となり
インターネットから[茅ヶ崎徳洲会病院]に股関節専門医が東京女子医大から
月2回きて診察してもらえるという情報を得ました。

家族からも別ルートでの専門医紹介の話がありましたが、いろいろ調べた結果
やはり茅ヶ崎が自分の中でふくらみ、ここに決定
これが大阪につながる第一歩でした。

インターネットの普及のせいか、クチコミなのか、患者さんは全国から
藁をもつかむ思いでやってきます。

専門医に行って初めて、こんなにも自分と同じような病気の人がいるんだと
知り、勇気も出てきました。
特殊な病気は必ず専門医に診てもらわなければだめだということも
このとき強く感じました。

でも、まさか初診で手術の話が出るとは
土方先生は女性です。しかしその判断と対応はいままで何人もの医師に
かかりましたが誰も及ばないほどの強い確信を感じました。
「症状としてはまだ初期だけど、出来れば手術をお薦めします」と、
確信を持って言われると、驚きながらも<やはりやらなきゃだめなんだろうな>
不思議なことに恐怖感みたいなものはまったく出てきません
多分、先生の迫力に圧倒されたのだと思うけど

「手術をしないからって死ぬわけじゃないからどっちでもいいのよ。
ただ、年齢的にも人工関節を入れるには早すぎるし、そのままにして
そのときを待つのか、今、まったく違う方法で手術するのか、
自分で決めることです。ただし、あなたの症状では私の手術は適応しないから
病院を紹介しますけど」
「どちらですか?」 「大阪ですけど」「はあ はああ
なんか突き放された感じでした。

「今日は即答できませんが、家族と相談してお返事します」と言うのが
その場では精一杯
でも、心の中は、即手術のほうに大きく傾いていました。

医者はその系列というか、つながりがあるものなんですね
それは、たとえ東京ー大阪であっても関係なく、なんで~と思っても
しかたのないことです。

私のみかけ倒しの気の小ささは例の胃カメラ騒ぎで実証されてますが
このときは違いましたね、不思議ですけど

手術後たくさんの人から訊ねられました。
「友人にかなり進んでそうな人がいるけど、どう言ってやればいいかしら、
手術怖がってるみたいだし」とか
「怖くなかった?」とか
人によって捉え方は違います。
おそるおそる、毎日をおとなしく過ごしていればすぐ手術しなくても
よかったかもしれない。いつ出るかわからない痛みと闘いながら
でも、そんな毎日のどこが楽しいの?
人生は楽しむためにあるのに、バレーができなくてもサザンのライブに行く
地上は歩けなくてもプールでは思いっきり動く、
なにより怖がって生きてくなんて、少しでも今より楽しい毎日が送れるのなら
手術なんてどうってことないさ

とにかく大阪に行きました。付き添った夫は「先生に東京の病院を聞く」と
言ってましたが、関西医大の教授でもある整形外科部長の飯田先生に
会ったとたんそれは愚問でした。
まず、私が先生のことをすっかり気に入ってしまい、
<絶対この先生の手術を受けたい>と思ってしまったのです。

それから約1ヵ月半、真夏の大阪に向かいました
そして手術、2ヶ月の入院生活、順調に回復していきました

2ヶ月の入院生活、エッセーにして出したいくらいおもしろいこと
腹の立つこと、etc...
そのうち書き込むときもあるかもしれません
信じられない医師の実態とか・・

今回の検診結果も順調でした。50代としては驚異的な回復力だとも
言われました。もちろん自転車もO.Kお墨付きをもらったので
ますます張り切って乗り回そうと思います。

残念なことにこの病気は完治ということはなく、今後の状況によって
いつ悪化するかを計ることはできません。
でも、立ち仕事をしなくていい、プールでしっかり筋トレができる等
非常に恵まれた環境にいられることに感謝して、大切に持たせなければと
思います。

大阪は遠い町でした。
でも、入院友達もできましたし(今回も会えました)思い出いっぱいの
町になりました。

大阪のおばちゃん大好きだし、性格的に合ってるのかも

やっぱり大阪の病院に決まったことも運命だったのかなあ
コメント (6)
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