・・・新聞の評論を読んでいて、その文章中の「死の哲学」と云う文字にひかれた。
その評論は、言わんとするところは、私には難しいので、文章を理解、把握を十分にできなかったが、それなりに自分の心に訴えるものがあった。
文章中で理解できた内容を書き出すと、下記のようになる。
死については答えもないし、延命の方法はあっても、間違いなく、死が近づいてくる。
世の中が、如何、進歩しようが、人は老い、活力を失い、病に伏し、死に接近していくと云う事実は変わらない。
人の心を救うべき仏教の教えを考えると、「生きるということは死ぬことの準備であり、死を意識して人生を送るべき」という理解もある。
そして、この評論の、最後の文章では、「死」はあくまでも個人的な問題であり、「死の一般論」はない、
自分なりの「死の哲学」を模索するしかない、と書き終えていた。
そして、筆者の友人で最近、自らの意志で亡くなられた評論家の西部邁さんの事を紹介されていた。
西部邁さんはサンデー毎日の記事によると、1月21日、東京都大田区の多摩川で入水し亡くなった、享年78。西部さんが死の2カ月前に書き終え、3月に発売予定の最後の著作『保守の遺言』(仮題)には死への思いがつづられていた、・・・・から始まる、と書いてあった。
これは先ほど、紹介した新聞の評論の「死の哲学」で云いたかったこと、即ち「死」はあくまでも個人的な問題であり、「死の一般論」はない、自分なりの「死の哲学」を模索するしかない、で、言いたかったことの帰結なのだろうと、私なりに受けとめた。