・・・日本の古代史の主題である「邪馬台国」については世の中に歴史書としては最も多い題名の本ではないかと思う。
・・・現在は、この主題に対する確たる結論は出ていない、 九州説であったり、畿内説であったりの考え方がある。
しかしながら、日本の古代史を考える上で、昔ほど、その議論は重要でなくなってきている。
その理由は、最近の考古学の進歩から、史料に書かれている部分の裏付けが出来たり、史料では判らない部分がかなり明らかになってきて居るからである。
・・・邪馬台国の時代の頃については最近の考古学的の成果として、かなりの量の発見があり、その時代のことが明らかになりつつある。
それによると、北九州では弥生時代の中期まで、、盛んであった玄界灘に面したクニが衰退していき、弥生時代の後期になると、畿内の巻向遺跡が突然、現われ、倭国の中心になっていき、その地に日本独特の古墳が発達して、古墳は大形になって、倭国の中心になっていく。
そして、吉備、出雲、丹後などのクニに、そのクニ独特の墳墓が作られ、それらが連合して畿内の奈良盆地に連合国の中心がおかれることになっていく。
・・・邪馬台国は九州にあっても、機内にあっても、その時代にその地方にあるクニの名前が邪馬台国であっただけで、邪馬台国がどこにあるかで、その時代の倭国の状況に影響を与える訳でない。
弥生時代末期に国の形態が出来始めて、九州から関東までのクニに影響を支配する大王が現れる。
倭国はその時代以降、奈良盆地の東南の地に古墳が築かれ、四世紀以降の古墳時代の幕開けが始まる。
・・・弥生時代の中期以降、古墳時代の初期までの考古学的事績の整理と中国の史記屋金石文の整理をすることが今の私の趣味です。
・・・この時代は、史記では不明な時代なので、勉強するのに一番楽しい楽しい時代です。